神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田国男邸を逃げ出した岡正雄


   僕は昭和3年の9月まで先生のところにおったのです。もうとて
   も先生と朝夕、顔を合わせることに堪えられなくなり、先生の方
   も僕に我慢ならなくなったことと思います。それで先生に何度か
   ここを出たいとお願いしたのだが、うんといわない。あるときは、
   柳田は岡さえも傍におけなかったと人がいうじゃないか、といわ
   れたのです。随分勝手なことをいわれるもんだと思いましたね。
   (中略)それで、先生が朝日から帰ってこられてきてまた気が変
   わられちゃ困ると思ってすぐ運送屋を呼んで、僕は、たーっと逃
   げるようにして引越してしまったのです。
   (「柳田国男との出会い」:初出 季刊「柳田国男研究」創刊号 
   昭和48年)


(参考)岡は、昭和2年9月から、柳田に請われ、新築の砧村(現在の成城)
    の柳田文庫に移り住み、野沢虎雄と共に文庫を預かっていた。

「一将功なって万骨枯る」


   これらの研究会あるいは談話会では、研究報告というより
   も、採訪報告というような性質のものが多かったですね。
   さきにも述べましたが、先生は雑誌への報告寄稿の取捨は
   きわめてきびしかったのですが、こうした会合での報告で
   も、生のままの資料を好まれ、雑誌寄稿は直接採集資料で
   あること、これに手を加えたり、整理したり、解釈や意見
   を加えたりしたものはだめなのです。ときどき報告者を気
   の毒に思ったことがありました。それはともかくとして、
   柳田学の基礎資料は多くの有名、無名の報告者の報告なの
   です。無名の報告者の報告の上に立っている学問なのです。
   ずっと後になって、先生に対する僕の悪口の一つが、柳田
   学は「一将功なって万骨枯るの学問」だということです。
   お前たちは報告だけしろ、まとめるのはおれがやる。僕も
   いつも何か割りきれない気持で見ていました。民俗学にも
   無名戦士、常民があったことを忘れることはできません。
   しかし、先生のこの資料に対するきびしさがあったがため
   に、フォクロアは科学的客観的資料として信憑性を獲得し、
   民俗学が戦後学会における市民権を確立することができた
   のだと思います。(初出同上)


(参考)岡正雄の「一将功なって万骨枯る」という悪口は人口に膾炙
    しているが、「しかし」以下の文章とセットであることを忘
    れてはいけないだろう。


    かつて、書物奉行さんは、「一館長功なって万骨枯る」と喝破
    した。
    えっ、「そんなこと言ってないよ!」って・・・(汗

佐野学も読んじゃうフレイザー


   話は飛びますが、フォクロアの専門家でなくて、フレイザー
   の本をよく読んでいた人に、意外な人がいるんです。佐野学
   さんが、フレイザーの本をほとんどそろえてもっていました。
   当時の丸善の二階の隅にフレイザーの本がどっしりといつも
   並んでいて、欲しくても僕の乏しい小遣いでは買うこともで
   きない。佐野さんからときどきお借りしたが、佐野さんはよ
   く読んでいるんですね。赤いアンダーラインがあちこちに引
   いてあった。(初出同上)

国策プロパガンダ雑誌「FRONT」顧問としての岡正雄


   これは戦争中、岡田桑三、林達三、中島健蔵木村伊兵衛
   原弘氏らを中心として出版していた「フロント」という写真
   雑誌−これには私や岩村忍君も顧問として関係していました− 
   の経営面を担当していた山本房次郎さんという方があり、この
   山本氏がもと軍の糧抹省にいた陸軍少佐の人と共に、椎茸の
   菌の生産を計画して、この事業化について私に相談をもちこ
   まれたのです。(中略)
   私はまた渋沢さんにこの計画をもちこんだのです。渋沢さん
   は今度は翡翠の時とちがって、相当本気に考えてくださって、
   渋沢さんの肝入りで会社がつくられることになりました。
   (「パージ時代の渋沢さんの思い出」:初出「民間伝承」第
   28号4号 昭和39年)
   


岡正雄東方社の「FRONT」で具体的には何をしていたのだろうか?

ちなみに、先日の「プリンティング・オデッセイ2000−2005−
印刷博物館コレクション展」(前期)では、
同誌の「1・2合併号 海軍号」(昭和17年)、「3・4合併号 
陸軍号」(昭和17年)、「7号 落下傘部隊号」(昭和18年)
が展示された。(現在は後期開催中)

「FRONT」との関係もさることながら、もっとおもしろい雑誌にも関係して
いたみたいだ。巻末の「岡正雄年譜」によると、


  昭和24年(1949)51歳
   1月、友人の発行する漫画雑誌「スーパーマン」の顧問として参加。
   のち専務取締役として、経営、金策に苦心したが、秋廃刊。スーパー
   マン誌の負債のため、家計は困窮を極める。


「スーパーマン」って雑誌は知らないが、民俗学者岡が関係するとは愉快
なり。   

岡正雄、ヒトラーのオーストリア併合を目撃


   ところで、日本学研究所として私に与えられた研究室という
   のは、それまで精神分析学の研究室だったところなんですよ。
   フロイトがやはりナチスの侵入によって亡命したために、そ
   の研究室が空いて、その部屋が私に当てがわれたわけ。
   (中略)
   ヒトラーが入ってきたのは三月ですけど、すでにオーストリア
   首相のドルフスはナチスに射殺されており、ラバックという放
   送局も、ナチスに占領されていたんです。(中略)
   それからその日の午後は、英雄広場でヒトラーが市民への呼び
   かけをやったんですね。そのときの演説はいまでも耳にのこって
   ますけど、
   「この併合はヒトラー個人の力ではない、もちろんドイツの力で
   もない、これはオーストラリア人[ママ]の力によるものである」
   というわけです。うまいもんだったですよ。
   (「民族学との出会い」:初出「歴史公論」4巻10、11、
   12号 昭和53年)