天正小牧山合戦とも。1584年(天正12年)。
織田信雄・徳川家康連合軍VS羽柴秀吉軍。
清洲会議後、秀吉に対する反発を強めた織田信雄を家康が担ぎ、秀吉包囲網の形成につとめる。家康は長宗我部元親や根来衆を引き込むことに成功する。
3月13日に信雄軍と合流した家康軍3万(公称)は小牧山に本陣を置き、3倍以上の大軍である秀吉本軍(公称10万)と対峙する。
対陣に先にしびれを切らしたのは秀吉軍の方だった。4月7日、羽柴秀次を総大将とする別働隊で三河攻撃を企てる。が、家康はこの動きを見抜いて逆に別働隊を挟撃、池田恒興・元助父子、森長可らを討ち死にさせる大勝を得る。
その後、戦況は再び膠着状態に陥るが、5月1日に秀吉本軍は撤退、7月には家康も帰国している。11月に信雄と秀吉の講和が成立、家康も12月に息子(のちの結城秀康)を人質に差し出して和議を結んでいる。