木走日記

場末の時事評論

小テキストの結語の意味〜ホテルルワンダ論争のパンフから少し考えてみる

kibashiri2006-03-05


 今、映画『ホテルルワンダ』がアツク議論されているようです。



●「アフリカのシンドラー」と呼ばれたルワンダホテルの副支配人ポール・ルセサバギナ氏を、実話に従い描いた映画

映画「ホテル・ルワンダ」公式サイト
http://www.hotelrwanda.jp/

 で、INTRODUCTIONはこんなかんじ・・・

INTRODUCTION
「愛する家族を守りたい。」ただ1つの強い思いが、1200人の命を救った・・・。


 1994年、アフリカのルワンダで長年続いていた民族間の諍いが大虐殺に発展し、100日で100万もの罪なき人々が惨殺された。アメリカ、ヨーロッパ、そして国連までもが「第三世界の出来事」としてこの悲劇を黙殺する中、ひとりの男性の良心と勇気が、殺されゆく運命にあった1200人の命を救う。

 「アフリカのシンドラー」と呼ばれたこの男性は、ルワンダの高級ホテルに勤めていたポール・ルセサバギナ。命を狙われていたツチ族の妻をもつ彼の当初の目的は、なんとか家族だけでも救うことだった。しかし、彼を頼りに集まってきた人々、そして親を殺されて孤児になった子供たちを見ているうちにポールの中で何かが変わり、たったひとりで虐殺者たちに立ち向かうことを決意。行き場所のない人々をホテルにかくまい、ホテルマンとして培った話術と機転だけを頼りに、虐殺者たちを懐柔し、翻弄し、そして時には脅しながら、1200人もの命を守り抜いた。本作は、家族4人を救うことを心に決めたひとりの父親が、ヒーローへと飛翔する奇蹟の過程を描いた実話である。

 2004年12月、米国の劇場数館で公開された『ホテル・ルワンダ』はまたたく間に評判となり、翌月には2300館で拡大公開される大ヒット作品となり、『アビエイター』『ミリオンダラー・ベイビー』などと並び2004年度アカデミー賞の主要3部門(脚本賞、主演男優賞、助演女優賞)にノミネートされる快挙をなしとげる。

 公開のめどが立っていなかった日本にもその興奮は飛び火。「この作品を日本でも観たい!」と20代の若者たちが立ち上がり、インターネットで署名運動を展開。4000通を超える署名をわずか3ヶ月で集め、その熱意でここに緊急公開が実現した。(詳しくは、「ホテル・ルワンダ」日本公開を応援する会にて)

 主人公のポールを演じるのは、スティーヴン・ソダーバーグ監督作品の常連である実力派ドン・チードル。本作でアカデミー賞に初ノミネートされ、名実共にハリウッドのトップ俳優の仲間入りを果たす。ポールの妻タチアナ役には『堕天使のパスポート』のソフィー・オコネドー。そのほか、ハリウッドのベテラン演技派俳優ニック・ノルティと、今一番勢いのある若手俳優ホアキン・フェニックスががっちりと脇を固めている。

 メガホンを取るのは『父の祈りを』でアカデミー賞にノミネートされた気鋭の脚本家テリー・ジョージ。ポールの話を知り「この映画を撮る以上に大切なことはない」と脚本、監督、そして製作を自ら手がけた。『JFK』『7月4日に生まれて』『プラトーン』など、良質社会派映画を数多く手がけてきたベテランプロデューサーのA・キットマン・ホーが製作を担当、奇蹟の物語の映画化に成功した。

http://www.hotelrwanda.jp/intro/index.html

 興味深い映画ですね。

 上映館が少ない(東京では渋谷だけ)ようなので、なかなか見ることが難しいのかも知れませんが、是非映画館で見てみたいと思います。

 ・・・

 虐殺映画といえば、昔見た84年の作品「キリングフィールド」を思い出します。

1949年、シアヌークを元首としてフランスからの独立を果たしたカンボジア。1970年3月、シアヌークの訪ソの隙に乗じて、親米派ロン・ノルがクーデタをおこした。折からのベトナム戦争を有利に進めたいアメリカはこれをチャンスと見て、ロン ・ノル政権を支援すべくカンボジアに侵攻した。これに対し、シアヌークは中国にあって祖国の解放闘争を指導し、激しい内戦が展開された。1975年4月17日、ポル ・ポト率いる共産党勢力、赤いクメール(クメール・ルージュ)はロン・ノル政権をついに打倒し、民主カンボジア政府の樹立を宣言した。しかし、プノンペン解放後、ポル ・ポト政権は、極端な共産主義政策を押し進め、住民の強 制移住や大量虐殺を行った。カンボジアはまさに“killing fields”(虐殺の野)と化したのである。

キリング・フィールド
http://www.actv.ne.jp/~yappi/eiga/EE-01killing%20field.html

 私事で恐縮ですが、84年といえば当時学生だった私には、つき合いだしたばかりの彼女がいて、お馬鹿な不肖・木走は、最初に彼女を連れていった映画がこの年9年ぶりにリメイクされた「ゴジラ」(爆)でありまして、彼女に少し呆れられ、2番目につれていったのが、このカンボジアポルポト派(クメール・ルージュ)による大虐殺を描いた「キリングフィールド」で、彼女に思いっきり冷たく引かれた経験があるのであります。

 「ゴジラ」に「キリングフィールド」というデートにあるまじきとんでもない鑑賞作品の流れは、3作目にホラー・コメディ「バタリアン」を見たところで、彼女からの強い要望で打ちきられるのでありました(苦笑

 彼女には「ロマンチックのかけらもない。作品の選び方があまりにもセンスがない」と徹底批判されました。まあ、その彼女が後の私の奥さんになる人なのですが(大汗

 ・・・



●激論を招いている映画評論家・町山智浩氏が書いた「ホテルルワンダ」パンフレット上のコラム

 で、既知の読者も多いと思いますが、現在ネット上でちょっとした論争を招いているのはこの映画そのものではなくて、この映画のパンフレットの内容なのであります。

 きっかけはあるブログが、この町山智浩氏が書いた「ホテルルワンダ」のパンフレットにあるコラムについて、かなり過激に批判するエントリーをしたことから始まっているようです。

 失礼して部分引用させていただきます。

 (前略)

 それはさておき、映画鑑賞後にパンフレットを購入。
 ルワンダの歴史の説明など、役に立つ部分もあったのですが、コラムニスト(なのか?)の町山智浩という在日韓国人帰化済み)の寄稿した文章を読んで、寒気がした。
 殆どは映画の解説なのだが最後の一行にこうあった。

 「日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」

 へ??なんで、こんな文章が「ホテル・ルワンダ」のパンフレットに出てこなければならないの?

 (後略)

■ホテルルワンダをみて
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.html

 で、これに対し、映画評論家・町山智浩自身がご自分のブログで反論エントリ−を書かれました。

 失礼してこちらも部分引用させていただきます。

(前略)

僕は『ホテル・ルワンダ』を日本で公開してもらうために、いろいろ尽力してきましたが、あの映画を観た後でも、こんなことを書く人がいるのを見ると、絶望的な気持ちになります。

この人は、僕が『ルワンダ』のパンフに関東大震災朝鮮人虐殺事件について書いた意味がわからないようなので、もう一度書きます。

このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。

虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、

私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、

ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。
ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

このような人がルワンダと同じような状況に置かれた時、虐殺を止める側に回るとは非常に考えにくいです。映画を観てもこれだから。

というか、この人は、自分がやってることは、ツチ族虐殺を煽っていたルワンダのラジオと同じなのに、まるで気づいていない。

 (後略)

■『ホテルルワンダ』なんてまるで役に立たない!
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225

 ・・・

 で、このやり取りもあってネット上いろいろなブロガーさん達がこのコラムに関して議論されているわけであります。

 で、コラム自身は以下のところで公開されています。


町山智浩氏のパンフ所収文章を全文転載します

http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831

愛・蔵太の気ままな日記
■[時事]お前らどうせ映画『ホテル・ルワンダ』のパンフレットなんて読まないで何か言ってるんだろうから、俺が町山智浩のテキストを全文アップしてやるぜ。あとその感想。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060308#p1

 煙さんは直接町山氏から転載許可をもらって掲載されています。

 愛さんはわざわざおそらく劇場まで行ってパンフレットを購入されてきたようです。

 乙でございます。貴重な情報提供ありがとうございます。



●映画は見ていないのでパンフレットの内容についての所感だけ・・・

 さて、上記文章をお読みいただいた前提で話を進めさせていただきますが、ここからは私・木走の個人的所感であります。

 どうも私は現時点で映画本体を観ていませんので、この映画に関する深い本質的な議論はできそうもありません。

 ですので批判派・肯定派いずれの議論でもないことを前置きしておきます。

 そこで、公開されたパンフを読んだ限りの、パンフの文章に対する所感に限定して語りたいと思います。

■所感1:この文章はまったく問題ないでしょう〜そもそも商業用映画のパンフに表現の規制がある必要はない

 おそらく多くの論客達も同意のことであると思いますが、この内容のコラムをその映画のパンフに載せること自体は、まったく問題ないと思いました。

 映画そのものが創作作品であり、かつその創作作品に関する個人的映画評論は、完全に個人の感性に委ねられているものでありますから、他者が干渉すべき性質の文章ではないと思います。

 町山智浩氏は今回の映画の日本公開にはだいぶ尽力されていたようですし、個人的思い入れのある文章をパンフに載せたとしても何の問題がありましょう。

 パンフに載せること自体、当然制作側の校正も受けてのことでしょうし、そもそも映画のパンフはその映画の宣伝用グッズにすぎない(失礼)わけでかつ映画を見てなおかつ600円払って購入しようとする奇特な購読者層を対象にしているわけです。

 一般に映画パンフに載っている映画評論家の意見は、当然ですが映画の内容には全面的に賞賛しているものを載せるわけでして、さらに言わしていただければ映画評論なんてもの(失礼)は、誰もそこに客観性・公平性など期待していないわけで、そうではなくその評論家の個人的感性による文章を味わい、「なるほどなそういう深い見方もあるのか」とか「ちょっとこの評論は自分とは感性が違うなあ」と、映画を見終えた人たちが映画に対して再考するきっかけのようなものでしょう。

 私はあるB級映画のパンフで映画そのものより名文の評論が載っており、映画ではなくその評論に感動して涙したこともありますです(苦笑)

■所感2:実はこの文章はほぼ100%普通の映画評論でしょう

 「彼でなければダメだった----テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードルというタイトルのこの文章ですが冒頭の出だしはこうです。

ドン・チードルでなきゃダメなんだ」

テリー・ジョージ監督はそう訴えた。『ホテル・ルワンダ』への出資を検討したハリウッドのメジャーな映画会社は、主演をデンゼル・ワシントンかウィル・スミス、またはウェズリー・スナイプスのようなスーパー・スターに演じさせたがった。もちろん客を呼ぶためだ。しかしジョージ監督はこれまで主演映画が一本もないドン・チードルにこだわった。

「シナリオの時点でドンを想定していた」監督は言う。「『青いドレスの女』からずっと彼に注目してきたんだよ」『青いドレスの女』(95年)のドン・チードルは、謎の美女を追う主人公デンゼル・ワシントンの弟分。テキサスから来たガンマンで、バカでっかい銃をやたらめったら撃ちまくり、酔っ払うと仲間のデンゼルですら撃とうとするので敵よりも始末に悪い狂犬のようなキャラクターで強烈な印象を残した。

「ドンはカメレオンだ」ジョージ監督は言う。「役柄に完全に一体化してしまうんだ」

 この文章は全編、この映画の主役が何故「ドン・チードルでなきゃダメ」だったのかを、米国在住の映画評論家ならではの知見を混ぜながら解説しています。

テリー・ジョージ監督は、そんな平凡なチードルが『ホテル・ルワンダ』に欲しかったのだ。もし、デンゼル・ワシントンだったら頼りがいがありすぎて、彼が画面に出てくるだけで観客は安心してしまう。ウィル・スミスだったらどんな苦しい状況でもギャグを飛ばし続けるだろうし、ウェズリー・スナイプスだったら最後にはクンフー民兵の二、三人やっつけてしまうかもしれない。彼らはヒーローだから、何の躊躇もせずに正義の戦いを始める。そのほうが確かに客は入るだろうが、映画館を出たらみんなルワンダの悲劇など忘れてしまうだろう。

実は、モデルとなったポール・ルセサバギナ氏はどちらかといえばヒーロー・タイプだった。体格はたくましく、政府の要人や軍人と互角につきあうほど押し出しは強い。一流大学を出て、ヨーロッパで教育を受け、ケニヤルワンダ語、フランス語、英語を操るインテリ。バリバリのエリート。常に服装と態度を乱すことのない、並外れた強い意志の男である。しかし、テリー・ジョージ監督とドン・チードルは独自のポール像を作り上げた。

 この辺りの説明は映画を見ていない私でも頷く(苦笑)ような説得力のある解説だと思います。

 読めば一目瞭然ですが、実はこの文章はほぼ100%普通の映画評論でしょう。

所感3:結語の意味

 で、議論になっている文章の結語部分です。

ルワンダの虐殺は現実なので、ハリウッド映画のようにわかりやすい悪役はいない。戦って敵をやっつければOKというわけではない。チードル演じるポールの敵は自分の内側にある「自分だけ助かればいい」という弱さだ。ポールを観客に近い人物として描くことで、『ホテル・ルワンダ』は「彼だって戦えたのだからあなたにもできるはず」と、観客を励ますと共に、逃げ場をなくす厳しい映画になった。ポール・ルセサバギナ氏は『ホテル・ルワンダ』の米版DVD収録のコメントでこう問いかけている。

ルワンダと同じような状況になったとき、あなたは隣人を守れますか?」

日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。

 うーん、ここですよね、みなさんの解釈が分かれている部分は。

 このような字数の限られたテキストを作成する書き手の立場から検証させてもらうと、やはり小テキストの作成テクの常道を、この文章は踏んでいると思いました。

 全ての小テキストは、それを書く目的があり主張があり、そして一人でも多くの人に飽きられないで読んでもらい、できれば読後に読んだ人間の心に印象強く残るように工夫がされるものであります。

 みなさんも考えていただければ理解いただけると思うのですが、まず「一人でも多くの人に飽きられないで読んでもらう」工夫としては、言うまでもなく「タイトル」とあと冒頭の文頭の入り方です。

 落語で言えばお題とマクラ話にあたります。

 この文章では、「彼でなければダメだった----テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードル」という断定的なタイトルで読者を引きつけ、文章の始まりは「ドン・チードルでなきゃダメなんだ」というテリー・ジョージ監督の叫びから始まっています。

 お見事なテクニックだと思います。

 で、「できれば読後に読んだ人間の心に印象強く残るように工夫」したいわけですが、これはもう文章の余韻を残す役割は最後の文章、いわゆる文の結語にかかっているわけです。

 落語で言えばオチですね。

 マクラも面白く途中の話の展開も絶妙などんなに秀逸の落語でも、オチがさえないと全体の印象が薄まってしまいますし、下手なオチを用意すると作品そのものを台無しにしてしまうこともあります。

 同様に映画評論のような小テキストでもどう文章を結ぶのかによって、読者にどのような読後感を持たせるのかが決定することが多いわけです。

 人間の頭などおバカですから、当たり前ですが最後の文章が一番強く印象に残り、しばらく余韻のような効果を与えるのであります。

 さて、

ルワンダと同じような状況になったとき、あなたは隣人を守れますか?」

日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。

 これは、文章テクとしては見事な結語ですね。



●おおいに議論していいじゃないですか〜町山智浩氏のプロとしてのテキストの見事な果実

 直前の文章で、この映画を「観客を励ますと共に、逃げ場をなくす厳しい映画」と絞り込んだ上で、読者を挑発するがごとくのポール・ルセサバギナ氏の問い「ルワンダと同じような状況になったとき、あなたは隣人を守れますか?」をぶつけてきます。

 そして「日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。」で結ぶのです。

 お見事なテクニックだと思います。

 善し悪しは別としてですが、このくらいの文章を用意できないようでは評論家業は成り立たないでしょう。

 不肖・木走としてはテクとしてまったく問題はないと思います。

 ・・・

 ただ、一部ネット上の議論の中で、この評論自体は純粋に映画評論になっていて関東大震災の記述はさらっと1行だけしかしていないという指摘もあるようですが、私はこのような小テキストの最後の一行の持つ意味はとてもさらっとふれているだけとは解釈できません。

 この最後の一行にそれなりの想いを込めていることは著者である町山智浩氏自身が一番ご理解していることでしょう。

 ですから今ネット上で起こっている賛否両論の議論も、ある意味で町山智浩氏のプロとしてのテキストの見事な結果・果実なのであり、この議論そのものを否定することはまったく無いと思います。

 おおいに議論していいじゃないですか。

 実際、多くの人に注目されたわけだし、私だって見に行きたくなりましたし。
 ・・・

 今日は、ホテルルワンダ論争のパンフから、小テキストにおける結語の役割とかを少し考えてみました。



(木走まさみず)