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喜びカタツムリの歩み

2017-07-24

2017-07-23

クリスチャントゥデイをめぐる私の立場

クリスチャントゥデイをめぐる私の立場

 私が、2014年4月、クリスチャントゥデイの働きに参加する前後から、私が直接受けたクリスチャントゥデイに対する少数の証言は、グレイだというものです。
 黒だと断言せず、グレイと言っている限り、その方は最終的に責任を取る必要がない、安全地帯にいるわけです。
 黒だと断言しているのは、私の知る限り一人の方です。

 私自身がが決断したのは、
「ミイラ取りがミイラになる」可能性を覚悟して、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の道を進む捨て身です。
 
 私は、日々提供されている、実際のクリスチャントゥデイの記事やコラムと言う虎子を得たと理解しています。
 この場合も、「木は実で判断する」のが、制約のある私たちに許さている方法ではないか。

旧約聖書と私 

旧約聖書と私 
 
 私の小さな歩みな中で、今でも確かな良き影響を与えている二つの経験を報告させて頂きます。
 一つは、一九七〇年四月から一九八六年三月まで、その一員として歩みをなすことを許された、青梅キリスト教会での経験です。
 毎週水曜日の聖書研究会・祈祷会において、モーセ五書の一章ずつを読み続けたのです。申命記の終わりに至ると創世記の始めに戻り、新しく読み始める方法を取りました。平凡に見える一地域教会の営みにも、十数年の間には、それなりの山あり谷ありと言い表したい事態に直面する中で、とにかく毎週モーセ五書を読み続けることは、大きな恵みでした。この経験を通して、群れの各自にとって旧約聖書が親しみやすいものになったのは確かです。少なくとも私にとっては、そうでした。
 それと同時に、旧約聖書を前にして、互いの旧約聖書についての知識の欠如を痛感し、旧約聖書を専門的に研究する方々の労を感謝しました。また小さな群れであっても、将来子供達の中から、地域教会にあって生き続ける人々の生活を意識し続けながら、旧約聖書を徹底的に学ぶ者が起こされるように、何回か皆で共に祈りました。
 
 もう一つのことは、一九七八年四月から一九八六年三月まで、日本女子大学の英文科の学生を主に対象として、『聖書』という講座を担当した経験です。週に1時間半と少しの時間を用い、一年の間に、創世記からヨハネの黙示録までを大きく見て、何が、いかに書かれているか聖書の構造を伝えることを目指す。何故著者は、この内容を、このように表現しているのか、著者の意図は一体何か。
 聖書の主題とその展開を求めて、学生の方々と聖書を読み進めて行く時、モーセ五書が聖書の土台であることを強く感じました。モーセ五書、さらには、創世記、特にその一章から三章までが、聖書全体の出発点、土台として大切と強調せざるを得ませんでした。
 創世記一、二、三章において、何がいかに書かれているのか。何がと言えば、神、宇宙、人間と、その視野の大きさに圧倒されます。いかにと言えば、その複合的視点が印象的です。三章が出発点ではなく、その前に一、二が位置している意味。本来の人間(創造)、現実の人間(罪)、希望の人間(救い)と複合的視点から人間の姿を描き、本来の人間、人間らしい人間への道を示している。このように見て、主イエス・キリストこそ、聖書の中心である意味。そうです、私自身が恩師渡邊公平先生から学んだ基盤を、渡邊先生から継承した授業で伝達出来たのです。

 この二つの軸を中心とした旧約聖書と私の結びつきは、その後沖縄での沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む沖縄での25年間の営み、さらには沖縄から関東へ戻り、クリスチャントゥデイでの「聖書をメガネに」と書き続ける働きに行かされていると自覚します。
 挫折の連続に見える歩みを、なおも一貫して導き給うお方の御名を崇めます、感謝。

2017-07-22

この場所は

この場所は

この場所は、動画集録の場、祈祷会の場、来訪者を迎える場、そうです、楽しいエリム、感謝。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10154716753867124&set=np.1500731850526798.100003901676704&type=3&theater&notif_t=photo_tag&notif_id=1500731850526798

7月22日(土)ヨハネ6章の味い、その42 午後、主にある3代の交わりの恵みにある家族を迎える予定

7月22日(土)ヨハネ6章の味い、その42
午後、主にある3代の交わりの恵みにある家族を迎える予定

ヨハネ6:47,48
ヨハネ6:47「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
       信じる者は永遠のいのちを持ちます」。
ヨハネ6:48「わたしはいのちのパンです」。

(1)明確な宣言、「まことに、まことに、このわたし自身があなたがたに告   げます」。
   宣言の中核は、「わたしを信じる者は、永遠のいのちを持ちまっす」

(2)わたし自身・エゴーエイミイへの集中。
   「わたしはいのちのパンです」と、その集中からの驚くべき豊かな展    開、その豊かさ。
  
☆よろしければ
動画11「シャボン玉とんだ」
http://www.youtube.com/watch?v=ANreEZnhtKg

聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その4 なぜ、著者の意図・心 宮村武夫

聖書をメガネに 『仰瞻・沖縄・無教会』への応答・その4 なぜ、著者の意図・心 宮村武夫


『仰瞻・沖縄・無教会』への応答 宮村武夫
(2)無教会はどこへ行くのか
なぜ、著者の意図・心
本論考を、著者島崎先生はこの主題で、このような展開で記述している。なぜか、その意図は何か。1つの大切な手掛かりがあります。
82ページ、1行目と2行目、前半「以上私は、沖縄内村鑑三先生記念キリスト教講演会について述べた」と、後半「沖縄以外の全国各地で行われている講演会はどうなのかを私は知らない」との結び、さらに、83ページの4行目、「さて講演の翌日」(83ページ)に注意したいのです。
つまり、82ページの2行目から83ページの3行目までの箇所は、講演会から、その翌日へと続く沖縄謝罪の旅の報告としては、直接関係のない内容なのです。その部分を取り除いても、話の筋道は通る。そのような構造で全体が組み立てられています。

しかし問題は、一見横道と見える箇所の内容であり、この内容が、この箇所、この文脈に挿入される故に発揮する機能です。その機能を目指す著者の意図です。
まず、「沖縄以外の全国各地で行われている講演会はどうなのかを私は知らない」(82ページ)とある点です。もちろん、単純な意味で、「私は知らない」わけではないのは明らかです。本論考、2行目以下、「内村鑑三記念講演会について日頃思っていること」(67ページ)が、並みの内容でないのは、すでに確認した通りです。

では、「私は知らない」とは、どういう意味か。1つには、1996年6月16日の沖縄の講演会で貴重な経験をし、喜びの出会いをしたような深い意味で「私は知った」と表現するレベルから見れば、「どうなのかを私は知らない」という意味に理解できます。

もう1つは、「私は知らない」の直後に、「しかし」と続け、「内村鑑三記念講演会と無教会キリスト教全国集会の二つを精力的に行いつづけるいまの無教会集団に対」(82ページ)する高橋三郎先生の警告を引用している事実に注意することにより、手掛かりを与えられます。この文脈での「私は知らない」は、明らかに、自らを低く、小さく無にして、「無教会の再生を祈る預言者の叫び」(83ページ)に聴従せんとの覚悟の表明です。

高橋三郎先生の警告は、「十字架の言」377号、つまり1996年8月号所載のものです。本論考は、元来、1996年9月号の「証言」所載のものなのですから、島崎先生が高橋先生の警告に、いつも、いかに注意深く耳を傾けているかを見ます。月ごとに送られてくる「十字架の言」を読みつつ思索し、自分の日常の生活・経験のただ中で、「十字架の言」を読み続けているさまを垣間見ます。

高橋先生の警告の内容は、本論考全体の主題と展開、その意図と深く結ばれ、挿入部分を取り除いても話の筋が通る文脈の中に、割り込むように挿入されているため、警告の内容が力強く、本論考全体にその影響を及ぼす効果を発揮しています(参照:ローマ8章18〜25節の位置、役割)。

さらに、高橋先生の1996年8月号での警告は、時の経過の中で深められ、1997年4月号の「十字架の言」にその新しい姿を現し、今また、本書において、本書の内容と構成が示すごとく、新しい文脈においてメッセージを伝えているのです。本論考において、引用という形で全体の一部として内に含まれていた警告が、本書においては、表面にはっきり姿を現し、第一論考として、本書全体の基盤となっています。
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◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。

2017-07-21

7月21日(金)ヨハネ6章の味い、その41 クリスチャントゥデイ事務所へ、阿久戸論説委員歓迎会、二人の来客

7月21日(金)ヨハネ6章の味い、その41
クリスチャントゥデイ事務所へ、阿久戸論説委員歓迎会、二人の来客

ヨハネ6:46
「だれでも神を見た者はありません。
 ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです」。

(1)冷徹に、否定すべき事実を見、断言。
 「だれでも神を見た者はありません」。

(2)同時に、驚くべき事実を肯定的宣言
 屬燭澄ΑΑΔ世院廖⇒0貔を直視。
◆屬海亮圈廚函⊆らを客観的に見つめ、最も確かな事実として宣言
「ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです」。

☆よろしければ
動画10「七つの子」
http://www.youtube.com/watch?v=sjIcquPjAqQ

7月21日(金)ヨハネ6章の味い、その41 クリスチャントゥデイ事務所へ、阿久戸論説委員歓迎会、二人の来客

7月21日(金)ヨハネ6章の味い、その41
クリスチャントゥデイ事務所へ、阿久戸論説委員歓迎会、二人の来客

ヨハネ6:46
「だれでも神を見た者はありません。
 ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです」。

(1)冷徹に、否定すべき事実を見、断言。
 「だれでも神を見た者はありません」。

(2)同時に、驚くべき事実を肯定的宣言
 屬燭澄ΑΑΔ世院廖⇒0貔を直視。
◆屬海亮圈廚函⊆らを客観的に見つめ、最も確かな事実として宣言
「ただ神から出た者、すなわち、この者だけが父を見たのです」。

☆よろしければ
動画10「七つの子」
http://www.youtube.com/watch?v=sjIcquPjAqQ

2017-07-20

7月20日(木)ヨハネ6章の味い、その40 在宅、リハビリの日、そして手紙書き

7月20日(木)ヨハネ6章の味い、その40
在宅、リハビリの日、そして手紙書き

ヨハネ6:45
「預言者の書に、
『そして、彼らはみな神によって教えられると。』と書かれていますが、
 父から聞いて学んだものはみな、わたしのところに来ます」。

信仰は、まさに神ご自身からの賜りもの
(1)イザヤやエレミヤなど預言者の証言通り、
 聖霊ご自身の導きによる心の内面への照明。

(2)主イエスのところに来る者は、父なる神から学んだ者。
 主イエスと父なる神との厳密な結びつきを明示。

☆よろしければ
動画8「うさぎ その1」 
http://www.youtube.com/watch?v=qzphJX7aXS4

動画9「うさぎ その2」 
http://www.youtube.com/watch?v=3o9ylOUrT6E