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喜びカタツムリの歩み

2017-05-29

2017年パウロ会、その5

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2017年パウロ会、その5
足立キリスト教会で幼児祝福式、両親泰二・典子の曾孫である朝陽君と鈴乃ちゃんを、三男三郎牧師が祝福。ペテロ1:15.

2017-05-28

聖書をメガネに 中嶋聡著『うつ病休職』著者からの贈呈・その1 宮村武夫

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聖書をメガネに 中嶋聡著『うつ病休職』著者からの贈呈・その1 宮村武夫


中嶋聡著『うつ病休職』(2017年5月、新潮新書)
著者の中嶋聡兄と私は沖縄時代、二重の関係で固く結ばれていました。
牧師と信徒・教会役員
主治医と患者・牧場の羊の1頭
中嶋兄は、私の著作集1巻の帯に以下のように書き、エールを送ってくれました。
「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています」
沖縄時代、主日礼拝に出席する方々の半分前後は、各種の医療従事者でした。教会員以外で交流のある医療従事者も数少なくありませんでした。そのような背景の中で、中嶋兄との主にある交わりは、以下のように深く豊かなものでした。
中嶋兄との出会い、1枚のはがき
1990年に受け取った1枚のはがきが、中嶋兄との出会いのため、大切な役割を果たしてくれました。
「頌主 いろいろな資料をお送りくださり、ありがとうございます。このところ超多忙で、十分に学びや思考作業ができず、あせっています。中嶋先生は、高田牧師からも同じく首里の教会を勧められ、住所も近いので、そこに出席するつもりでおられるようです。住所は、左記の通り、七月に移ると聞いたように記憶しております・・・」
当時八王子キリスト福音教会の牧師であった荒井隆志先生からのはがきです。荒井先生とは、八王子と青梅の近隣牧師同士として、親しい交わりを重ねていました。特に、荒井先生の著書『病気の時にどう祈るか』の出版をめぐっては、私たちの間には忘れ難い思い出があります。
以上の契機から、中嶋ご夫妻と沖縄に実際に移住なさったのは、私のそううつの状態がかなり重くなった最初の頃でした。中嶋兄と私たち夫婦は個人的に面談し、勤務病院で診察を受ける決心をしたのです。
しかし、実際は心理的な壁を、妻君代の支えでやっとの思いで乗り越えての診察でした。こうして中嶋兄は、私の主治医になったのです。
やがて私たちの関係に1つの節目が訪れました。「なかまクリニック」を中嶋兄が開院することになったのです。その出発に当たって、その後私たちの心に残り続ける言葉のやりとりをしました。
自死したある青年の納骨式のために、首里福音教会の教会墓地の前に一同が集まっていた際です。
「なかまクリニック、そこで中嶋先生は先生の牧会をなさいます。私は、その牧場の羊の1頭・1人であることを、誇りに思っています」
もう1つの節目は、2007年と08年と、続けて2冊の著書を中嶋兄が出版されたことをめぐってです。最初の著書は、『ブルマーはなぜ消えたのか』と、ちょっと風変わりな題名の本です。その本の項目「おわりに」において、中嶋兄は記しています。
「・・・関西学院大学社会学部教授・宮原浩二郎氏には、社会学の立場から諸々の点についてご教示いただいた。またとくに『第四章性同一性障害をめぐって』の執筆にあたっては、首里福音教会名誉牧師・宮村武夫氏より貴重なご教示をいただいた。両氏に深く感謝する」
宮村の教示について、上記の文の直前で中嶋兄は示唆しています。
「・・・また『性同一性障害』は、聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場から論述している。これはクリスチャン以外の人には共有されない立場だと思うが、この立場を含めての主張が私の論旨なので、それを共有しない方にはその立場を批判的に読んでいただければいいと考えた」
そうです。「聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場」こそ、毎週の主日礼拝の宣教を中心に宮村が中嶋兄に伝達し、中嶋兄がしっかりと受け止めた恵みです。創造者の説明書である聖書をメガネとして、創造された万物、当然人間・私を直視するのです。沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む道です。
同書の書評を、地元の新聞・琉球新報に載せていただきました。
書評 中嶋聡著『ブルマーはなぜ消えたのか』
諦めから立ち上がる、一臨床医の提言
著者は、1955年生まれ、那覇市にて「なかまクリニック」を開業する臨床精神科医。女子のブルマー姿を見て、ドキドキした中学生・高校生の頃の体験を持つ。ところが、こともあろうに、1995年ごろを境に、あのブルマーが急激に少なくなり、ついに消え果ててしまう。
時代が変わったのだ、仕方がないと著者は、諦めの境地に陥っていた。しかし、臨床医に徹する著者は、「なぜ」と内なる問いに促され、ブルマーの消滅とそれに関連する社会現象をじっくり診察し、独自の治療方法を提示する。
診察内容は、「王様は裸だ」と叫んだアンデルセンの童話『はだかの王さま』の少年を思い出させる。自分の目で、人権と偏見、性同一性障害、セクハラ、タバコと禁煙運動、インフォームド・コンセントなど、生の現実・社会現象を見定め、レッテル時代の風潮に流されない。何よりもイデオロギーに逃げ込み、現実から目をそらして、あることをないかのように、ないものをあるかのようにする知的誘惑と戦いつつ、著者は診察をなし続けていく。
著者の治療だが、「辺縁」という見方・考え方を用いて提示している。「中心的で主なる場ではないが無視できないような場が存在」(93ページ)する事実に著者は注意を払う。そして、中心的・本質的な意味や性質ではない、そのような場や味わいを一般に「辺縁」と呼ぶ。この視点から、セクハラ、タバコと禁煙運動、インフォームド・コンセントなど、具体的な社会現象について、精神的健康や健康的な社会生活を送るために役立つ微妙な側面を切り捨てない道を指し示している。そのためには、誤解を恐れずに強者の論理とも思える表現(例えば「被害者帝国主義」)さえ用いて。
この「辺縁」に注目し続け、「人間の生の、生き生きとしたありかたを尊重する社会」(201ページ)を維持し、積極的・意志的に作っていこうと著者は本音で呼び掛けている。治療を受ける者も、医療従事者も、同じ人間「なかま」だとの強い確信に基盤を置くクリニックでしなやかな実践を続けながら。
2冊目は、『「心の傷」は言ったもん勝ち』。新潮新書の1冊、それも話題作として版を重ねました。私ども夫婦が特に興味深かったのは、最後の7章「精神力を鍛えよう」の項目の1つ、「精神力を鍛える七つのポイント」です。以下のポイントを挙げ、それぞれに読者の立場に立ち、中嶋兄は的確な勧めをなしているのです。
1. 何事も人のせいにしない。
2. おおざっぱでよいとする。
3. 「忘れる」能力を身につける。
4. つらいときでも相手の立場に立つ。
5. 不可能と決めつけない。
6. 自分を超える価値のために生きる。
7. 時にあって、全力を尽くす。
妻君代の言葉に私も同意しました。これらのポイントは、その言い回しと内容を含めて、1986年4月以来、首里福音教会の主日礼拝で宣教されてきたメッセージの響きを伝えている、特にその伝道的面と深いところで一致していると、私たち2人は受け止めたのです。
そこで、私は説教とその関係について、以下のように見定めるのです。
中嶋兄は、なかまクリニックで牧会を日々続けている。それに加えて、著書を通して、伝道説教をより広い範囲でなしている、優れた牧会者の働きもなしていると。そして、コロサイ4章14節に見る、「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています」に登場する、ルカについての古くから広まっている伝承に引き付けられるのです。
その伝承とは、こうです。この「愛する医者ルカ」こそ、ルカの福音書1章3節と使徒の働き1章1節に見る、当時の高官・テオピロに書を書き上げ、差し上げている人物だとの言い伝えです。
「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿」(ルカ1章3節)
「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました」(使徒の働き1章1、2節)
上記に見る「私」はルカであり、テオピロは実在した人物。これこそ、私にとり一番納得しやすい説です。ここに浮かび上がってくるのは、この1人のためなら、ルカの福音書と使徒の働き、こんな綿密な書を2冊も書くことを厭(いと)わない、ルカの姿です。
そして、まったく同じ心を持って生き、1人の患者、いや人間に面と向かっている中嶋兄の姿、私のような小さきテオピロに対する中嶋兄の生活・生涯です。パウロと共に、「愛する」と力を込めざるを得ないのです。
1人の実在の人物・テオビロに徹底して関わるとき、そこに恵みの波紋が広がるのです。テオピロも、注がれた愛に応答します。自分に差し出された書を大切に保存し、個人的に活用しただけではないのです。
一冊一冊と写す写本の作成に、地位と財力を注ぐのです。こうして今日、私たちの手元にまで届く、まさに恵みの波紋、恵みの展開です。小さきテオピロ・私でも、「一寸の虫にも五分の魂」です。クリスチャントゥデイでの働きは、それなりの応答です、感謝。
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◇1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長、17年4月から同論説主幹。

喜びカタツムリの便り 第2 期38 号

喜びカタツムリの便り 第2 期38 号
発行者 宮村武夫
郵便番号133-0051
東京都江戸川区北小岩2−8−8−402
メ−ル・アドレス:miyamura@send.jp
携帯番号:090 -3323 -2206
電話・ファックス 03 -5876-8660
http://d.hatena.ne.jp/kimiyom/
振替口座番号 00240‐0‐82660
2017 年5 月27 日

イザヤ書46 章3、4 節
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべ
ての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う 。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」
マタイ11 章28、30 節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさ
い。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくび
きを負って 、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびき
は負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

[1] 序
2017 年5 月の日々、論説主幹としての働き、主の奇しい導きの中で根源を導かれてきました。4 月からの新編集長の場合同様、鍵となる方を、主ご自身が招集してくださった思いです。

そうした中で、クリスチャントゥデイの働きのアキレス腱と見える、経済的支えの課題との直面です。まさに、創造主のみを礼拝する道(黙示録22:8,9)です。苦悩と喜びは両立する事実を、一段と深く実感しています。
さらに5 月の歩みに続き、6 月を展望する時、二本の柱を確認します。

[2] 5 月の論説主幹としての働きの根源における一歩
5 月の歩みの中で、論説主幹としての働きの根源的な一歩が導かれました。
その恵みを目に見える形で提示するのが、この説教集と添え書きの写真です。
http://f.hatena.ne.jp/kimiyom/20170518090600
主の奇しい導きを心より感謝しております。
3 月まで、聖学院大学で大任を担われてきた阿久戸光晴先生が、今回、論説委員としてクリスチャントゥデイの働きに加わって下さる決断をなしてくださいました。
その背後には、私の高校の後輩である阿久戸先生との、クリスチャントゥデイの事務所を会場とするペンケン祈祷会での祈りの交わりの継続がありました。
今、「主にある同労」の言葉を心にしっかりと刻み、クリスチャントゥデイの論説委員の人選に備えて行く歩みを進めたいのです。
幾つもの欠如を承知する中で、今まで通り、さらに今後も祈りつつ一歩一歩前進したいのです。
「聖書をメガネに」の営みを個人的にもなお継続しながら、聖書の読みを深めまた広め、報道記事の神学根拠思索し続ける営みを担う人材が集結する体制、編集部門と論説部門の美しい融合を目指して一歩一歩と願っています。

[3] 6 月を展望する時、二本の柱を確認
6 月の歩みの中で、特に二つの柱を意識します。
(1)6 月13 日(火)、14 日(水)日本メノナイトブラザレン教団牧師研修会における4回にわたる集会の講師を担当します。
この働きのため、接点となったのは、クリスチャントゥデイの記事、「日本メノナイトブラザレン、教団協議会で信仰告白の全面改定を決議」(2016 年3 月31 日掲載)でした。
また、全面改定を決議した、審議委員長の武田信嗣牧師(武庫川キリスト教会)は、私の神学校時代の教え子であり友人です。

(2)6 月10 日(土)、立教大学池袋キャンパス12 号館
第三二回内村鑑三研究セミナー
私にとって、制約のある中で、「ジャーナリストとしての内村鑑三」の課題は、なお忍耐と希望(ローマ8:25)をもって受け止めるべき課題です。

〔4〕祈りと協力のお願い
(1)2017 年4 月以降主日礼拝を中心に。
主日礼拝の宣教、講演会担当などご連絡いただければ、うれしいです。

主日礼拝
★6 月 4 日 小岩栄光キリスト教会
11 日 ちいろば聖書集会
18 日 グレース宣教会・東京チャペル
25 日 宇都宮キリスト集会主日礼拝、午後聖書神学教室
★7 月 2 日 日本福音キリスト教会連合 足立キリスト教会主日礼拝出席
9 日 ちいろば聖書集会
16 日 グレース宣教会・東京チャペル
23 日 千葉酒々井三上宅主日礼拝
30 日 未定
★8 月 6 日 宇都宮キリスト集会 夏季特別子供礼拝
13 日 ちいろば聖書集会
20 日 グレース宣教会・東京チャペル
27 日 未定
★9 月 3 日 未定
10 日 ちいろば聖書集会 召天者記念礼拝
17 日 グレース宣教会・東京チャペル
25 日 日本福音キリスト教会連合 大泉聖書教会主日礼拝
★10 月1日 小岩栄光キリスト教会主日礼拝出席
8、9 日 宇都宮キリスト集会・ちいろば聖書集会合同聖会(オリーブの里)
15 日 グレース宣教会・東京チャペル
22 日 交渉中
29 日 ちいろば聖書集会

(2)著作・執筆活動を中心に
ゝ楝蕊霽著作全8巻
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=908357242637656&set=a.508715392601845.
1073741826.100003901676704&type=3&theater¬if_t=like¬if_id=1489832952094916
既刊6巻の購入希望の方は、宮村にご連絡ください。
残りの2巻『コリント人への手紙 第一』と4巻『テサロニケ人への手紙他』の刊行実現のため助けになります。
支援のためには、198-0042 青梅市東青梅6−11−8鮫島茂宅 宮村武夫著作刊行会0150−2−290448をご利用ください。

◆悵ゲ旅峅鮴盒 ―哀歌をともに― 』、2013年11月発行、700円、品切
『ルカの福音書 味読・身読の手引き』1、2、3、2014 年2 月、4 月、6 月発行、各700 円購入希望の方、宮村に連絡ください。
続いて、『使徒の働き 味読・身読の手引き』4 分冊など今後の出版を願っています。

(3)宮村夫妻支援方法
宮村夫妻の宣教活動を祈り支援くださり深い励ましです、感謝します。
経済的支援は、郵便振替 振替口座番号 00240‐0‐82660
ゆうちょ銀行 普通預金 店番018 口座番号2092174 をご利用ください。

(4)クリスチャントゥデイについて
事務所 〒101-0032 東京都千代田区岩本町2-13-6 ミツボシ第3 ビル4 階
03−5829−4627、来訪歓迎。宮村は、原則水曜と金曜事務所に出かけます。

(5)自己紹介
宮村武夫
1939年1月21日 東京深川生まれ、開成高校時代 キリスト信仰へ導かれる。埼玉寄居、東京青梅、沖縄首里の教会牧会。その間、3神学教育機関と1大学で教育に従事
現在、宇都宮キリスト集会・ちいろば聖書集会牧師クリスチャントゥデイ論説主幹、名護チャペル協力宣教師。宮村武夫牧師の5 分間メッセージ、毎日ブログ、Facebook とYoutube で。

2017-05-27

今回もジャズコンサートヘ、その3 「宮村は言葉で説教するが、石森は音楽で説教する」

今回もジャズコンサートヘ、その3
「宮村は言葉で説教するが、石森は音楽で説教する」

 会食の集いで隣の席だった、同期のN君の言葉から、今回ゲスト出演した20代のトロンボーン奏者駒野逸美さんから大切なメッセージを学びました。
 駒野さんと、コンサート後言葉を交わせたばかりでなく、フェイスブックをとして、以下のような彼女の感想を読み、その態度に感動を覚えました。
「今日は大御所の方々に混じっての演奏、緊張したけどとっても楽しかったです。
五十嵐さんの一音は魂がこもってるし、杉原さんのフレーズは湯水の如く湧き出てくるし、原田さんは隣でいつもクリエイティブなアイディアをぶつけてきてくださり…しかも3人がお互いを高め合っていました。本当に凄いです。今日は日本が誇るサックス奏者3人と一緒に共演できて、本当に贅沢な経験をさせて頂きました!
そしてリズム隊の本田さん、ジャンボさん、木村さん、強烈にスウィングしフロントを優しく包み込んでくださいます。いつも思いますが私はリズム隊の方には頭が上がりません。そしてナオミグレースさんは明るく誠実、歌はもちろん素敵で素晴らしい女性でした。
精一杯楽しんで写真撮るの忘れてありません。。今日の経験を絶対に今後に生かしてもっともっともっと勉強したいです」。
 コンサートにおいても、孫との共演との言葉が繰り返されました。そうした年齢や経験をの差を越えてのハーモニーの見事さ、まさに多様性と統一性の一致の見本です。

 私の方からの、「すごく良かった。ごく自然ιに。祝福が豊かにありますように。」とコメント。
 さらに孫との演奏ならぬ対話、「昨夜は聞いていただきまして、本当にありがとうございました!
あたたかいお言葉をいただきまして感謝です。これからもがんばります。ありがとうございます!」。

過去は変わる、深まる 今回もジャズコンサートヘ、その2

過去は変わる、深まる 今回もジャズコンサートヘ、その2
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同期の石森安英君は、ハーモニースクエア管理の経営者として、ジャズコンサートのための理想的なハーモニーホールを備え運営。春秋、プロジュース杉原淳による、春秋のコンサートを20年継続してきたのです。
 2011年に、25年振りに沖縄から関東に戻るまで、そんなことをまるで知りませんでした。
 ただ彼は、ある同窓会での再会以来、沖縄の私たちの様子を同窓の友人たちに伝達する役割を果たしてくれていました。

 今回の会食の席で、石森君が、私の記憶にないことを話し出しました。「自分がまだ悪ガキの側面が残っていた頃、宮村に相談したところ、それでいいんだと受け止めてくれた。それを恩に受け止めている」と。

 過去は固定し動かないものではない。新しい意味を知ると共に、その深さ広さを明らかにし続ける。
 沖縄時代、続けていた伊江島中高キャンプの関係で、開成時代の意味を集中的に考察し、開成が新しい意味を持つようになりました。以下報告します。

開成と伊江島主僕キャンプ 再録
宮村武夫

1.沖縄に移って
1986年4月1日、東京の青梅キリスト教会から首里福音教会へ家族と共に移り、今日まで沖縄で生活を続けています。
1957年(昭和32年)開成卒、しかも同じ二組だった柳生雅英君は、私より何年も先に来沖。糸満で歯科医として活躍する柳生君に、本当に久し振りに再会してから、すでに十数年が経過したことになります。同級生と沖縄で21世紀を迎えるなどとは、まさに夢のような話です。
昨年11月、私たち二人が沖縄にいることもあって、1957年卒同期会の「卒業45周年記念沖縄旅行」が14日から二泊三日で実現しました。その最終日には、学友一同が私の首里福音教会を訪問してくれました。その時、私は、在学当時の曾禰武校長が優れた科学者であるばかりでなく、戦前からの熱心なキリスト者である事実を伝え、曾禰先生が戦前に書かれたものの中から、「聖書と文学」と「二大科学者の信仰と生活――ファラデーとマクスウェル」の二本の論文を紹介しました。
また1963年卒で、キリスト新聞社で活躍していた、榎本昌弘君の労作、『開成とキリスト教』(榎本事務所、1996年)を一行に手渡すことができたのも、幸いな思い出です。


2.伊江島主僕キャンプ
沖縄での働きの中で、大切なものの一つと理解し、私なりに力を注いできたのは、中・高生を対象とする「伊江島主僕キャンプ」です。
本部半島北西、東シナ海に浮かぶ伊江島。1993年春休みの期間に、第一回春の中・高生キャンプをテントで行ないました。しかし、小雨だったこともあり、いくら沖縄でも3月にテントではということで、翌年からは春は民宿を借り、夏は村営のキャンプ場にテントをいくつも張って、恵まれた自然環境の中で聖書を学び、スポーツを楽しんできたのです。
その後、春のキャンプは民宿からリゾートホテルYYYへと場所を移しました。春のキャンプの特徴は、社会の現場でキリスト信仰を身をもって証ししている様々な職業の方々を講師に迎えていることです。たとえば、畳職人の教会役員が『キリスト者職人としての喜びと祝福』との題で話をしてくれました。またオリブ山病院の院長は『院で働く人々――こんな仕事も病院で――』、さらにある弁護士は『神の律法、日本の法律――面白いよ司法の仕事――』などと、それぞれの主題で中・高生にわかるように、しかし程度を下げることなく真剣に語ってくれました。
数年前には、私の開成中学1年の時の同級生大竹堅固君が、日本経済新聞記者・編集者としての経験から、聖書を一冊の本と見る視点から、興味深い話をしてくれました。
夏のキャンプはテントで継続してきましたが、昨年は集中豪雨に遭い、大変な経験をしたこともあって、春と同じくYYYで行なうことを考慮しています。
伊江島主僕キャンプは、それなりの志を与えられ、歩みを継続しています。生活・生涯のただ中で聖書に傾聴、聖書で人生、宇宙・万物を読む道を、中高生に全力を注いで伝えたいとの志です。教会は本来、現在の病院、ホテル、学校、食堂、農場などの役割を含む、全人格的で豊かな交わりの場であったはずです。この原点を見定めて、伊江島主僕キャンプでは、一つ一つのこと、ひとりびとりとの関わりに、心を込める営みをなし続けていきたいと願っています。

3. 開成で学んだことが・・・
上記のような思いで伊江島主僕キャンプの働きを継続しながら、自分の中に、開成で学んだことが深く影響を与えていると認めるようになりました。たとえば、以下の二つのことです。
(1) 中・高生に焦点を絞る
 開成の長い伝統は、まさに中高生に焦点を絞る教育であったことは、万人が認めるところです。中高の上に大学設置など決して考えず、ただひたすら中・高生の教育に当たる。その結果、数多くの優れた大学教授や学長を生み出し、それぞれの大学教育の場で豊かな実を結んでいる事実を誰も否定できません。
中・高生時代が人の一生にとって、どれ程大切な根の営みの日々であるか、私なりに経験してきました。開成高校時代にキリスト信仰に導かれ、その道を歩み続け、今、沖縄で伊江島主僕キャンプに思いを注いでいる事実を見るとき、その背後に開成で中高生に焦点を絞る方針を身をもって学んだことが、確かに力になっていると認めざるをえないのです。
(2) 本物の人物との出会い
 大野晋先輩の『日本語と私』(朝日新聞社、1999年)を繰り返し読んでいます。「国語学者が綴る自伝的エッセイ」と紹介されているこの貴重な本の中に、「中学校の先生」という項目があります。その文頭は、「開成中学の二人の国語の先生を思い出す。その一人は板谷菊男先生。私が生徒だった昭和一桁の終りごろ、先生は三十歳代の後半、まだ四十歳にとどいておいでではなかったろう」と書き出され、感動的な文章が続きます。大野先輩から二十年後、私も板谷先生から授業を受ける特権にあずかりました。大野先輩とは比較にならないレベルではありますが、私は私なりに板谷先生という本物の人物との出会いにより、他の学友と同様、自分の存在の奥深いところで影響を受け続けてきたと改めて気付かされます。
 そして心を定めるのです。伊江島主僕キャンプで、本物の人物を中・高生に紹介し続けたいと。

4.結び
 今回、亀山君の労で、沖縄で生活する開成の卒業生の名簿が編まれること、心より感謝しています。開成の善き伝統が様々な形で、沖縄の地においてもさらに実を結んでいくために、この労が豊かに用いられるよう期待したいのです。
   『汝(なんじ)の少(わか)き日に汝の造(つくり)主(ぬし)を記(おぼ)えよ』(文語訳聖書、伝道之書12章1節)

過去は変わる、深まる その1

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過去は変わる、深まる 今回もジャズコンサートヘ、その1

 今年も、高校の同期生・石森君の招待で、中野坂上のハーモニーホールのジャズコンサートヘ行ってきました。
 春と秋、年2回のコンサート、この数回は、コンサートだけで、その後の会食の交わりには、参加せずに帰宅していました。
 今回は、午後計画を立てず、休息をとるようにして会食の交わりにも参加しました。その席で、二人の二つの言葉が心に残りました。
 私の隣の席だった、N君は、高校卒業後カトリックになったとのこと。なんと金婚式の記念にローマに行き、フランシスコ教皇の祝福を受けたと詔書の写真を見せてくれました。
 その彼が、「宮村は言葉で説教するが、石森は音楽で説教する」と明言。年2回のコンサートを実に20年継続。今回は、21年目41回と。
 確かに初めはよくわからなかった私にも、80歳を越える演奏家たちと今回の20代の客演者との驚くべきハーモニーが伝えるメッセージは確かに伝わりました。感謝。

「主にある同労」

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「主にある同労」

5月の私の論説主幹としての働きの中で、根源的な一歩が導かれました。
その恵みを目に見える形で提示するのが、この説教集と添え書きの写真です。

 主の奇しい導きを心より感謝しております。
3月まで、聖学院大学で大任を担われてきた阿久戸光晴先生が、今回、論説委員としてクリスチャントゥデイ働きに加わって下さる決断をなしてくださったのです。
 その背後には、私の高校の後輩である阿久戸先生との、クリスチャントゥデイの事務所を会場とするペンケン祈祷会での祈りの交わりの継続がありました。

 今、「主にある同労」の言葉を心にしっかりと刻み、クリスチャントゥデイの論説委員の人選に備えて行く歩みを進めたいのです。
 幾つもの欠如を承知する中で、今まで通り、今後も祈りつつ一歩一歩前進したいのです。

2017年パウロ会、その4 奥多摩と妹嶋崎恵美子 再録

2017年パウロ会、その4
奥多摩と妹嶋崎恵美子 再録

2011年12月18日(日)、日本福音キリスト教会連合 奥多摩福音キリスト教会で、久しぶりで宣教を担当しました。同年秋9月30日に、『三十周年記念誌』を受け取り、以下のファックスを送ったことが直接の切っ掛けです。
「頌主。
本日は、貴重な記念誌を恵送−しかも速達で−くださり、心より感謝します。
ハルム宣教師ご夫妻、大通ご家族との交わりやあの当時の恵みを共に感謝すべく、大通俊雄・静子ご夫妻を訪問したく願っています。制約の中にありますが。・・・」

前日12月17日(土)から、君代と二人で奥多摩福音の家に宿泊をとお招きを受けていました。
しかしその17日の朝に、虎ノ門病院で長く入院していた妹嶋崎恵美子が63歳で召天しました。
君代は、10年前に父親も同じく肺がんで亡くしている二人の姪を、終始一緒にいて支える必要があり、私と一緒に17日から奥多摩に来ることが出来なくなりました。
そこで、IT関係の仕事で多忙な末子・新に無理を言って、奥多摩まで同伴してもらったのです。17日の夜は、新と久しぶりで話し合え感謝でした。

12月18日、実に恵み一杯の主日礼拝でした。
聖霊ご自身の導きを実感しながら宣教を続ける私の心には、幾つもの思い出が満ちてきました。青梅に住居を構え、奥多摩の福音の家の働きの基盤を据えていかれたハルム宣教師ご夫妻との幸いな交わり。子供たちは、青梅キリスト教会付属のもみの木幼児園に入園してくれました。
とき満ちて1981年9月27日、福音の家の一室で、奥多摩福音キリスト教会の教会設立礼拝が持たれ、青梅キリスト教会からも4名が参加、感謝な出発でした。
同年12月19日、特別伝道集会で私は宣教。1986年4月1日に沖縄へ移住する直前の2月9日にも、信徒修養会で宣教する機会などなど。

この30年の恵みを目に見える姿で体現する、大通ご家族ご一同。そしてそれぞれの時に、各自に即した主の恵みのお取り扱いを受け、群れに加えられた出席者の一人ひとり。
12月18日奥多摩福音キリスト教会主日礼拝を中心に主の交わりが深められました。

しかしそればかりでなく、福音の家に避難しておられる福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師、佐藤副牧師などと交わりは大きく広められました。
 君代の母教会・岩手県北上聖書バプテスト教会の開拓者あのホレチック宣教師ご夫妻は、北上の前に、福島第一聖書バプテスト教会の開拓をなさったのです。
 佐藤先生から貴重な三冊の著書とCD頂き、なお熟読中応答の手紙を差し上げました。

奥多摩で恵みが展開している同じ時に、妹嶋崎恵美子の葬りの備えが進められて行きました。
彼女の遺言に従い、弟三郎牧師が牧会する足立キリスト教会で式を執り行うことになりました。
まず12月19日(月)は、三郎牧師の司式で前夜式。汽灰螢鵐13章13節に基づく、「信仰、希望、愛」の題で説教。母が50代で病死する中で、年の差が少ない姉恵美子と深い絆で結ばれ歩んできた三郎牧師でなければ語れない感動的な説教でした。

12月20日(火)は、三郎牧師が透析を変更できないため、兄の私がピンチヒッターとしで告別式の司式。聖書は、出エジプト20章12節から、「あなたの父と母を敬え」の題で確信に満ち宣教。
 式場に置かれた、気性のはっきりした恵美子の良さを表わす写真について言及しました。
それは、2010年3月17日、次女恵利華の東京女子大学卒業式直後に取られたものです。
長女英恵の早稲田大学卒業に続き、夫亡き後の責任を果たし得た清々しさがにじみ出ている写真で、式場のピンク系の花々に調和した明るい笑顔が印象的です。

 恵美子が卒業式当日聴いたメッセージを、湊晶子学長は、以下のように語り出されています。
「・・・2002年に学長に就任し、2期8年を全力で走り抜き、今日が最後の卒業式となりました。
 また今年は私が大学の仕事に就いて、ちょうど50年という記念すべき年でもあります。
 長い人生経験を踏まえて、次の半世紀を担ってくださる皆さまに心からのお祝いのメッセージを送りたいと思います」(湊晶子、『卒業したあなたへ入学したあなたへ』、39頁)。

 奥多摩と妹恵美子の結びについて、もう一つのことを覚えます。
それは、青梅線で奥多摩福音の家へ行く手前、青梅市沢井の奥多摩キャンプ場(現奥多摩バイブルシャレー)の第一回中学生キャンプのことです。今から50年も前の話です。
 中学生だった恵美子がキャンプに参加したのです。確か男女別で、女子中学キャンプの講師は、日本クリスチャン・カッレジで教えておられたチョング房江先生でした。当時日本名槙を用いておられ、30代の中ごろではなかったでしょうか。
 キャンプから戻ってきた恵美子が、興奮気味で母親に向かい、「槙先生が、槙先生が・・・」と報告していた、江東区大島7丁目、広い貯炭場の一角に父が新築した住居での様を、昨日のように思い出します。さらに槙先生を通してのメッセージが恵美子の潜在意識の奥深く刻まれ、生涯影響を与えたと推察します。

 チョング房江先生からは、私自身も決定的な影響を受けました。
日本クリスチャン・カッレジ1年生の時、心理学を担当してくださいました。そのときの私のレポートは、「ヨハネによる福音書14章26節の理解」で、生涯を貫く聖霊ご自身と記憶の関係についての考察の出発点となりました。
 2年生の時は、教育学。レポートは、「教育者としての内村鑑三」、これまたです。
両レポートとも、宮村武夫著作機悵Δ龍箸箸靴討寮盒機拊罎痢崑萋麌日本クリスチャン・カッレジに学んで」に含まれています。

若くして召天なさったチョング房江先生に、その後一度だけお会いしたことがあります。1966年から1967年、佐藤之信・勝子夫妻と私たち日本クリスチャン・カッレジの同窓生4人が、マサチューセッツのケンブリッジで同じアパートに住んでいた時のことです。
隣のメイン州の州立大学教授であるご主人と一緒にご夫妻で私どもを訪問して下さいました。
残念ながら、そのときの会話の内容を全部は思い出せません。しかし一つ鮮明に覚えている像・場面があります。色鮮やかな緑色のベレー帽が、苦難の道を切り開き前進し続けたに違いない先生にとってもよく似合っていたことです。

そうです。チョング先生は、若くして召天なさいました。
今妹恵美子も、63歳で召天しました。しかし不思議に私は全く淋しくないのです。二人の奥多摩での出会いの故でしょうか。

2017-05-26

2017年パウロ会、その3 いのちのバトンタッチを垣間見てー母典子、妹恵美子と姪英恵、三人の長女の長女出産ー

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2017年パウロ会、その3

いのちのバトンタッチを垣間見てー母典子、妹恵美子と姪英恵、三人の長女の長女出産ー
 今年のパウロ会では、私たちの両親の曾孫鈴乃ちゃんのパウロ会デビュー、特別の恵みです。
 足立キリスト教会を会場とした集いの冒頭で、同教会の末弟三郎牧師の司式による幼児祝福式が予定されています。この恵みの時を前に、三人の長女の長女出産の事実を思いめぐらすのです。
(1)1948年3月、母典子、長女恵美子を出産
 当時私たち家族は、福島県現在のいわき市成沢鉱泉の地区にあった、父が経営していた成沢炭鉱に住んでいました。
 4月から、東京江戸川区小岩の祖母と住み、小岩小学校へ転校するため、私は成沢を離れたのです。
 その際、平の病院で妹恵美子を出産した母のところに寄り、妹に初めて会いました。今にして思えば、両親が私の中学受験を考えた計画だったのですが、私は十分事態を理解しておらず、初めてあった恵美子がやけに小さいなとの印象だけをもって、数時間後東京へ向かいました。
 その時、母の両親・代官山に在所山梨県都留から移り住んだ、市川の祖父母は、すでに何年も前に死去していました。

(2)1982年秋、妹恵美子が長女英恵を出産後、福岡で面会
 当時義弟嶋崎英康さんは、営業部門のバリバリの働き手、広く九州全体を担当する営業マンで、嶋崎夫妻は福岡に住んでおりました。
 私は、東京から沖縄へ帰る途中福岡へ寄り、嶋崎ご家族を訪問したのです。
その時の一場面を忘れることが出来ません。そうです。マンションの部屋の真ん中で、ちいさな姪英恵ちゃんを湯浴びさせていたのです。側に恵美子がじっと見つめてはいましたが、会社で活躍する嶋崎さんからは、ちょっと想像しがたい細やかな配慮で、英恵ちゃんを。
 数時間後、沖縄へ向かいました。あの東京へ向かった時と同じく、両親を亡くした長女が、長女を出産。私の中では、妹恵美子と姪英恵が、完全に重なり合いました。

(3)2016年12月、姪英恵が長女鈴乃を出産
 深い、深い喜びでした。
義弟嶋崎さんは、働き盛りの年代で、ごく短期間の闘病の後に死去。そのような中で、残された家族のために行き届いた配慮を払っておられました。その守りの中で、娘二人の大学卒業の責任を果たした妹恵美子も、嶋崎さんの10年後、同じ病気で召天
 このような現実の中で、北海道出身の後藤君と姪英恵さんの出会い。後藤夫妻の存在は、パウロ会にとり新しい息吹となりました。
 その上にです。鈴乃ちゃんのパウロ会デビュー!
それぞれ、両親の死去の中で、ー母典子、妹恵美子と姪英恵と三人の長女の長女出産ー
 いのちのバトンタッチです、感謝。
 


 

ニューイングランドの母校から、卒業式関連の報告

ニューイングランドの母校から、卒業式関連の報告

Commencement
“This Is a Battle of Ideas”
by Sophia Nguyen
5.25.17

Mark Zuckerberg

Attendance at the afternoon portion of Harvard’s 366th Commencement Day was thinner than usual, thanks to bad weather and live-streaming. Puddles formed on the empty chairs. The plastic cups of beer from the Yard’s refreshments tent ran over with spring rain. A typical, plaintive exchange: “Do you think it’s dry there?” “I don’t think it’s dry anywhere.” But still, intrepid graduates, friends, and family members determined to clap actual eyes on the featured speakers gathered in Tercentenary Theatre. They swathed themselves in plastic ponchos. High heels bored holes in the sod. One young man taking shelter under the awning of Widener Library had a plan: “I’m going to go to the front when Zuck gets here.”
Setting a tone for the event, Facebook CEO and co-founder Mark Zuckerberg, a newly minted Doctor of Laws, had days earlier live-streamed a visit to his former Kirkland House suite. “This is literally where I sat,” he told the (virtual) audience, his phone panning to take it in. “This is where I programmed Facebook.” And it looked just the same, he declared, “minus the poster in the background [for the movie Ferris Bueller’s Day Off]. That’s not my poster.” But the House was slated for renovations. He’d never see it like this again. What did he have to say to that?
“If there’s one thing about Harvard, they’re very confident about getting rid of old relics, because they know they’re always going to be making new history,” he said, with an assurance almost divine. “That’s the amazing thing about Harvard. There aren’t that many institutions in the world that can be that confident that, going forward, there’s going to be so much awesome stuff happening here.” 
But if anyone sensed an incongruity between the pomp surrounding the continuity of old traditions, and the young tech titan’s relentlessly forward-looking view, this afternoon flooded it with festive spirit and school pride. 

Faust on Freedom of Speech
If at prior Commencement and Convocation addresses President Faust stumped for free inquiry in broad terms, this afternoon she homed in on free speech. There were dangers to “silencing ideas and basking in intellectual orthodoxy,” she admonished. “We can see here at Harvard how our inattentiveness to the power and appeal of conservative voices left much of our community astonished—blindsided by the outcome of last fall’s election.”
Still, campus conflicts about free speech principles “are hardly new,” she added, citing how in 1939 the Corporation canceled a campus appearance by the head of the American Communist Party, and in 1940 came to stalemate over the controversial appointment of philosopher Bertrand Russell. What has changed, she said, is the demographic makeup of campus. “Many of our students struggle to feel full members of this community—a community in which people like them have so recently arrived.”
While expressing sympathy for these students, Faust maintained that their courage—including the willingness to face insult—was necessary for open debate:
The price of our commitment to freedom of speech is paid disproportionately by these students. For them, free speech has not infrequently included enduring a questioning of their abilities, their humanity, their morality—their very legitimacy here. Our values and our theory of education rest on the assumption that members of our community will take the risk of speaking and will actively compete in our wild rumpus of argument and ideas. It requires them as well to be fearless in face of argument or challenge or even verbal insult. And it expects that fearlessness even when the challenge is directed to the very identity—race, religion, gender, ethnicity, sexual orientation, nationality—that may have made them uncertain about their right to be here in the first place. Demonstrating such fearlessness is hard; no one should be mocked as a snowflake for finding it so. Hard, but important and attainable. 

The president went on to frame free speech as a value that needs cultivation, not just defense:
Free speech doesn’t just happen and require intervention when it is impeded. It is not about the freedom to outshout others while everyone has their fingers in their ears. For free speech to flourish, we must build an environment where everyone takes responsibility for the right not just to speak—but to hear and be heard, where everyone assumes the responsibility to treat others with dignity and respect. It requires not just speakers, but in the words of James Ryan, dean of our Graduate School of Education, generous listeners. Amidst the current soul searching about free speech, we need to devote more attention to establishing the conditions in which everyone’s speech is encouraged and taken seriously.
Ensuring freedom of speech is not just about allowing speech. It is about actively creating a community where everyone can contribute and flourish, a community where argument is relished, not feared. Freedom of speech is not just freedom from censorship; it is freedom to actively join the debate as a full participant. It is about creating a context in which genuine debate can happen.
Faust is not the only one seeking to clear the air on this topic. Deep within The Harvard Crimson’s special Commencement issue, the editorial board worked through their own definition of free speech as it pertains to campus protest, invited speakers, and discussions within the student body. “To preserve and protect free speech requires effort and care,” the article concluded. “To cultivate rich and educational discourse demands still more consideration. It is up to the members of this community—Harvard’s students, faculty, administrators, staff, and alumni—to work to build the conditions that will encourage thoughtful and productive conversations in pursuit of truth.”
“Everyone has a sense of purpose”
Zipping ‘round a NASCAR track, dropping by a family beef farm, stopping at a Ford plant outside Detroit: Mark Zuckerberg has come to look for America. Whatever’s said by the media (or in unsealed court filings), the Facebook co-founder and CEO has insisted that his 50-state tour isn’t just a prelude to a run for elected office. This latest leg of the trip went from Mount Katahdin and a shut-down paper mill in Millinocket, Maine, all the way down memory lane, as he and his wife, Priscilla Chan ’07, returned to old haunts in the Boston area: his favorite pizza joint; her old high school. Final destination: Harvard, for his Commencement address and honorary degree, and her tenth reunion.
Michigan must seem like a dream to him now. But snippets of that experience made it into his speech to Harvard graduates, as he charged them to create a world where, he said, “Everyone has a sense of purpose”:
When our parents graduated, that sense of purpose reliably came from your job, your church, your community, but today, technology and automation are eliminating many jobs. Membership in a lot of communities has been declining, and a lot of people are feeling disconnected and depressed, and are trying to fill a void in their lives. As I've traveled around, I've sat with children in juvenile detention and opioid addicts who told me that maybe their lives would have turned out differently if they just had something to do—an after-school program, or somewhere to go. I met factory workers who know their old jobs aren't coming back, and are just trying to find their paths ahead. For our society to keep moving forward, we have a generational challenge. To not only create new jobs, but to create a renewed sense of purpose. 
He offered three ways that the new graduates’ generation could approach this. The first was to take on “big, meaningful projects,” and in doing so, to be unafraid of uncertainty or making mistakes. "Anyone taking on a complex problem is going to get blamed for not fully understanding it, even though it's impossible to know everything up front,” he advised the audience. “Anyone taking initiative will always get criticized for moving too fast, because there's always someone who wants to slow you down."
Zuckerberg also had some suggestions for possible projects. “How about stopping climate change before we destroy the planet, and getting millions of people involved in manufacturing and installing solar panels? How about curing all diseases, and getting people involved by asking volunteers to share their health data, crack their health data, and share their genomes?” he continued, warming to his theme. “You know, today, our society spends more than 50 times treating people who are sick as we invest in finding cures so that people don't get sick in the first place! That makes no sense! We can fix this! How about modernizing democracy so that everyone can vote online? And how about personalizing education so that everyone can learn?”
Then came his second idea: redefining equality, giving people enough security so that they can pursue their purpose. "It is time for our generation to define a new social contract," Zuckerberg said: 
We should have a society that measures progress not just by economic measures like GDP, but by how many of us have a role we find meaningful. We should explore ideas like universal basic income to make sure that everyone has a cushion to find new ideas. We’re all going to change jobs and roles every time, so we need affordable childcare to get to work, and healthcare that's not tied to just one employer. And we’re all going to make mistakes, so we need a society that’s less focused on locking us up and stigmatizing us when we do. And as our technology keeps on evolving, we need a society that is more focused on providing continuous education through our lives.
 But, he added, “Purpose doesn't only come from work. The third way we can create a sense of purpose for everyone is by building community. And in our generation, when we say everyone, we mean everyone in the world.…This is the struggle of our time: the forces of freedom, openness, and global community against the forces of authoritarianism, isolationism, and nationalism, forces that forward the flow of knowledge, trade, and immigration against those who would slow them down. This is not a battle of nations. This is a battle of ideas.” 

Though this era’s greatest challenges require global solutions, said Zuckerberg, that in turn requires local action: building community, and giving money and time. In his case, this came in the form of teaching an after-school class on entrepreneurship at a local Boys and Girls Club. He choked up as he described one of those students, who is undocumented:
Here is a young guy who has every reason to be cynical. He wasn’t sure if the country he calls home, the only one he’s known, was going to deny him his dream of going to college. But he wasn’t feeling sorry for himself. He wasn’t even thinking of himself. He has a greater sense of purpose, and he is going to bring people along with him. It says something about our situation today that I can’t even say his name, because I don’t want to put him at risk. But if a high-school senior who doesn’t know what the future holds for him can do his part to move the world forward, then we owe it to the world to do our part, too.

The Annual Meeting
Afternoon exercises are officially the annual meeting of the Harvard Alumni Association (HAA). Before the two main addresses, HAA president Marty Grasso ’78 announced his successor, Susan Morris Novick ’85, as well as the results of the elections for the HAA board of directors and Harvard’s Board of Overseers.
President Drew Faust also presented three Harvard Medals, which honor extraordinary service to the University, to longtime HAA volunteer and Crimson athletic memorabilia curator Warren Masters “Renny” Little ’55; former adviser to multiple Harvard presidents A. Clayton Spencer, A.M. ’82; and architect Henry N. Cobb ’47, M.Arch. ’49, a former professor and department chair at the Graduate School of Design.

クリスチャントゥデイにおける、沖縄関係の記事・コメント

クリスチャントゥデイにおける、沖縄関係の記事・コメント

 私にとって、クリスチャントゥデイにおける、沖縄関係の記事・コメント掲載は、やはり素朴に喜びです。今回も。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/23796/20170521/102yo-woman-baptized-by-her-daughter.htm

新書版の役割

新書版の役割

 インターネットの底知れない側面を、聖霊論的恵みと日々受け止めています。同時に紙の本による働きを、労多く制約のある受肉論的働き、そうです、神の驚くべき恵みの道具と実感しています。
 両者をどう結ぶか課題です。その一つとして、ある方々が活用なさっておられる新書版の役割を覚えます。

2017-05-25

2017年パウロ会、その2

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2017年パウロ会、その2

★父に洗礼を授けてくださった、故鈴木勉司祭は、私の開成の先輩であり、
父が大好きな浅草、そこの串カツさんのママであった鈴木司祭の姉上に客として出会い導かれて、遠いい青梅キリスト教会ではなく、冬木町の聖救主教会に出席するようになったのです。
 父ばかりでなく、私たち家族、特に末弟三郎牧師が鈴木司祭の指導と影響を受けました。
 鈴木司祭の以下の証言が伝えられています。

私の十五年戦争

  •  『平和を祈る夕べ』 証 言 -

司祭 鈴木 勉

 1945年3月10日、それは私が最も強烈に、そして直接的に15年戦争を体験した日でした。

1945年は大変寒く雪の多い日でした。
3月9日から10日にかけての東京大空襲は、一晩で十万の死者を出したと言われています。
当時中学校入試直前であった私は、一応それなりの受験準備の勉強をしていましたので、夜中に警戒警報が鳴っても、母は最後のぎりぎりまで私の勉強をさまたげないようにしてくれました。
空襲警報が一時解除され、今晩の空襲は大したことはないと布団に入ろうとした瞬間に、
ラジオから
 「房総半島沖合に多数B29を発見」
という東部軍管区情報が鳴り響きました。

当時の子どもたちの誰もがそうであったように、普段の訓練どおり暗闇の中で衣料を着用し身支度を整え、家族はそれぞれ部署につきました。
といっても私は六年生の子どもですから何の役割もなく、玄関の地下に掘られた防空壕に受験関係の資料を持って入ることでした。

その頃になると、もうすでに米軍機の爆撃は始まっていました。
焼夷弾は、最終的に地上に落下する時には直径15センチメートル、長さ40センチメートル位の六角形の筒となり、地上で炸裂するのですが、B29から投下される段階では、それは何十本とまとめられ、円筒形の大きな爆弾のような形態で投下されるのです。
それが空中で一本一本に分かれるのですが、防空壕で聞いていると、遠来の雷のように、またトタン板を叩く豪雨のようにザーッと大音響を伴って、一面に降ってくるのです。

地上に落下した瞬間は3〜5メートル位はね返って、それは見事な花火のようで、少し離れて見ている限りはきれいな見物でした。
それを眺めてどのくらい時間がたったのでしょうか。
私は玄関を飛びだして、広い道路の四つ角の真ん中に落ちた焼夷弾を一生懸命消していました。

そこへ父親の大きな叱声が響きました。
 「勉、馬鹿者、道路の真ん中には他に燃える物はないのだから消さなくていいんだ、家に戻って来い。」
すぐ裏に間借りしていた義兄は、自分が間借りしている建物に落ちた焼夷弾を、必死で消していたと思いますが、もう既に連絡は取れませんでした。
すぐ上の姉は三階のベランダに出て、屋根に落ちたり隣家との間に落ちた焼夷弾を、知らせたり消したりしていました。
そして彼女も自分でいつ退避するかの判断を委ねられていました。
ただ避難所はラシャ場の西側の原っぱと申し合わされていました。
父は玄関から母を階下に呼び下ろしました。
母は何としたことか、買い置きでまっさらの座敷箒をかかえて降りてきました。
又父の馬鹿者が炸裂しました。
 「家が焼けてなくなるのに座敷箒を持って逃げてどうする。」
誰もが無我夢中でした。
父は玄関で母と私に
 「先に逃げろ。ラシャ場の西側でなく、千住大橋を越えて足立区宮本町の正和自動車の樽沢のところへ逃げろ」
と言いました。
何故ならばラシャ場の方へ向かう千住間道は既に火が回っていて、千住大橋方面は風下で火の気がなかったからです。
この時母が猛然と反対しました。
 「駄目です。風上に逃げなくちゃ。」
おそらく父も、この時非難の鉄則を忘れ、動転していたにちがいありません。
もし風下に逃げていれば、樽沢邸はもとより北千住一帯はその後火の海になったことを考えると、無事に千住大橋を越えられたかどうか疑問に思います。
千住間道に逃げる前に、鎖に繋いであった秋田犬のタロを解放しました。
 「また戻ってこいよ。」

母と私は布団をかぶって12、3メートル幅の千住間道の片側の二階長屋が焼けて崩れ落ちるような状況の中を、道路の反対側に寄りそって少しでも熱を避けるようにしながら避難しました。
それでも、途中で布団を外側から抑えている手が、軍手の中で燃えるように熱くなったので、その熱を避けてその布団を内側から支えるようにしなければならないほどでした。
その布団もラシャ場の原っぱに着く頃には表面が燃えはじめようとしていました。

当日使われた焼夷弾の種類は油脂焼夷弾避難の途中の道端の防空壕を覆っているそのものが青白い炎を立てて燃えているのが印象的でした。
母と二人はラシャ場の原っぱにやっと逃げおおせました。
風が出てきました。
東京の下町を焼きつくす紅蓮の炎を映すその煙の合間から、突如響くB29の爆音とその傲岸な機影に、朝まで不安な時を過ごしました。
その原っぱには大勢の人が避難してきていました。
父や姉や義兄の情報を多くの人に求めました。
結局、全員が再会し無事を確認できたのは翌日の夕方でした。
今は跡形もなく焼け落ちてしまっているけれども、焚き火の残り火のように燃えくすぶっているわが家の焼け跡に家族がそろって戻った時、そこにタロはいませんでした。

とりあえず姉が代用教員をしていた舎人国民学校の教え子のご家庭に家族全員が一週間ほどお世話になり、足立区内に小さな家を借りて、妹も集団疎開先から一足先に帰京させ、他の焼け出された家族と同居で住まうことが出来るようになりました。

義兄は焼け出されてから旬日を出ずして召集令状を受け、直ちに島根県浜田の連隊に入隊し、義兄のお世話になっていた姉は、とりあえず足立区は安全だというので母子ともに義兄と入れ代わりに東京に戻りました。
しかし結局足立区も安全でなくなり、父を除いて一家全員が島根県に行くことになり、困難な輸送事情のもと一世帯の荷物をまとめ出発した日が皮肉にも敗戦の日、8月15日でした。

2017年パウロ会 その1

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2017年パウロ会、その1
 両親を記念し、新しい世代のために祈る。また現に今与えれれている交わりを楽しみつつ会食する集いを毎年続けています。
 パウロ会の名称は、東京深川聖公会聖救主教会で故鈴木勉司祭から洗礼を受け父のパウロ泰二に因む。

国吉守先生への感謝と祈り

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国吉守先生への感謝と祈り

 今回、国吉先生による「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」を、クリスチャントゥデイに掲載できました。
 国吉先生の常にバランスのとれた生き方に基づくものです。しかも、内に燃える思いと、何者にも何事にも打ち消されない一貫性に貫かれたキリスト信仰から記述された、沖縄の教会の戦後史の素描です。国吉先生は、そのただ中を生き抜かれたのです。

 確かに「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」としては、直接的な将来への提言が欠けているように判断されます。しかし、聖書の中で典型的な次世代への提言である申命記全体は、過去の歩みの回顧と将来への展望とが一体となっています。過去の歩みはそのただ中を歩んだモーセ自身の生き方と切り離すことのできないものです。
 今回掲載されている講演部分は、まさに沖縄の戦後を舞台に展開されている歴史の回顧です。しかも、申命記の場合と同様、歴史のただ中を歩んだ国吉ご自身による記述です。

 では、申命記の将来への展望に当たる部分は、国吉先生の講演においてどのように記述されているのでしょうか。一見して直接的な記述が欠けているとの判断もなされる可能性があります。しかし、申命記の場合と同様に、過去の回顧は、単なる歴史の事実を並べているだけではないのです。なぜ、この事実をこのように記述しているのか、その意図・神学が重要であり、鍵です。
、国吉先生の申命記的精神で記述されたレジメを読むとき、沖縄宣教へのあつき思いを、年を重ねるに従い、ますますたぎらす国吉先生の「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」が、静かに伝わってくるのではないでしょうか。
 今回のコラムは、やがて国吉先生が語り、国吉先生の後任・城倉翼牧師がパソコンに口述を打ち込む共作『国吉守牧師自伝―銃口も消し去り得ない恵みの生涯―』の先駆けとなるよう心から期待し、祈ります。

国吉守先生への感謝と祈り

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国吉守先生への感謝と祈り

 最近、国吉先生による「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」をクリスチャントゥデイに掲載する機会が与えられうれしかったです。
それは、国吉先生の常にバランスのとれた生き方に基づくものです。しかも、内に燃える思いと、何者にも何事にも打ち消されない一貫性に貫かれたキリスト信仰から記述された、沖縄の教会の戦後史の素描です。国吉先生は、そのただ中を生き抜かれたのです。
 確かに「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」としては、直接的な将来への提言が欠けているように判断されます。しかし、聖書の中で典型的な次世代への提言である申命記全体は、過去の歩みの回顧と将来への展望とが一体となっています。そして過去の歩みはそのただ中を歩んだモーセ自身の生き方と切り離すことのできないものです。
 今回掲載されている講演部分は、まさに沖縄の戦後を舞台に展開されている歴史の回顧です。しかも、申命記の場合と同様、歴史のただ中を歩んだご自身による記述です。
 では、申命記の将来への展望に当たる部分は、国吉先生の講演においてどのように記述されているのでしょうか。一見して直接的な記述が欠けているとの判断もなされる可能性があります。しかし、申命記の場合と同様に、過去の回顧は、単なる歴史の事実を並べているだけではないのです。なぜ、この事実をこのように記述しているのか、その意図・神学が重要であり、鍵です。
申命記を読んでいるとき、そこにはこの事をこのように記したモーセ自身のやむにやまれぬ将来への展望の思いがにじみ出ている事実に気付かされます。そのような気付きを与えられ、真に回顧する者が、将来を展望する認識を自らのものとする訓練を同時に受けることになります。
そのような訓練を受けながら、国吉先生の申命記的精神で記述されたレジメを読むとき、沖縄宣教へのあつき思いを、年を重ねるに従い、ますますたぎらす国吉先生の「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」が、静かに伝わってくるのではないでしょうか。
 今回のコラムは、やがて国吉先生が語り、国吉先生の後任・城倉翼牧師がパソコンに口述を打ち込む共作『国吉守牧師自伝―銃口も消し去り得ない恵みの生涯―』の先駆けとなるよう心から期待します。そこには、より徹底的に回顧がなされ、将来への提言が明示されると期待します。その時を待ち望みつつ。

キリ神の授業で出会った同病の友とのやり取り

キリ神の授業で出会った同病の友とのやり取り

 1969年、TCCで授業を始めた時、私は埼玉の寄居から八高線で国立へ、、そう、ローカル線で。
 私の授業は、ローカル線。ゆっくり、休んだり、まった進んだり。
 新幹線に乗りたい方は、TCCでなく、神学舎でも、キリ神にでもどうぞ。
 ローカル線からは、窓の外の草一本一本見える、いや見なくちゃいけないの心意気でした。
 あ、そうだ、先生とは、キリ神の授業での出会いでしたね。
 私のキリ神での存在理由は、語学が苦手でも、それでもそれなりに聖書を読める実証。またウエストミンスンスターでも、キリ神の卒業生でなくとも、組織神学的思考は出来るとの実証。
 
 後年、那覇バプテスト教会の一老姉妹は、そうウツの私が脳梗塞を発症、3個月の入院から、国吉先生の言葉で言えば復活の実証のように、礼拝の生活を再開した時、「先生、病気して良かったね」と。

讃美集CD慈しみ深きに加え、絵葉書

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聴いて、見て読んで慰め。