俳人の金子兜太さん死去 命の尊さ詠み続けた生涯 - 毎日新聞(2018年2月22日)

https://mainichi.jp/articles/20180222/ddm/005/070/145000c
http://archive.today/2018.02.22-005224/https://mainichi.jp/articles/20180222/ddm/005/070/145000c

戦争の悲惨を胸に、命の尊さや、戦後日本への危機意識を俳句に詠み続けた生涯だった。
社会的な題材を取り入れ、俳句の革新運動をリードした金子兜太さんが亡くなった。金子さんには、創作の原点となった体験がある。
東京帝国大を卒業後に入った日本銀行を辞め、志願して赴いたミクロネシアのトラック島で、仲間の死を目の当たりにした。「豊かになるなら戦争も悪いことだけじゃない」と血気盛んだった自分が嫌になった。
戦争の罪滅ぼしがしたい。俳句への思いさえ失いかけたが、捕虜生活の中でも句は次々に浮かんできたと金子さんは述懐している。

<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>

引き揚げの艦上から万感の思いを込めて詠んだ代表句である。だが、地元民に建設を託した墓碑は心の中の風景だった。彼らの食料を奪った日本人は恨まれてもいたのだ。

戦後70年の2015年夏、戦争と俳句をテーマにした雑誌の対談で、金子さんは次のように述べている。
「戦争のことを語るのが俺の唯一の使命だと思っています。もっとリアルに、もっと厳しいもんだということを皆さんに伝えておきたい」
この年、安全保障関連法に反対するデモが広がった。参加者が手にした「アベ政治を許さない」のスローガンは金子さんの揮毫(きごう)だった。
戦後の俳壇で伝統的な表現や情趣の革新を提唱した。復職した日銀では労働組合で活躍した後、10年間、地方の支店を転々とした。
それでも、定年退職の際には地方を巡ったおかげで、俳句の種を随分養えたと言い放つような豪放な人柄だった。人間くさく、飾らない金子さんを慕う人の輪は絶えなかった。

みどりごのちんぼこつまむ夏の父>

俳人坪内稔典さんは本紙コラムに、金子さんのこの句を選んだことがある。下品と言われそうでためらったが、「『つまむ』に父の微妙な思いがあるかも」と評した。父親の姿が初々しく、自分の命をつまんでいるように感じられたのだという。
金子さんは「命の大切さに理屈などない」と戦争の愚かさを訴えた。ダイナミックな文体に込めたのは、人間の本能的な思いだった。

金子兜太氏死去 平和の俳句たたえつつ - 東京新聞(2018年2月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018022202000182.html
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俳人金子兜太さんは平和の尊さを訴え続けた人だ。貫いた反戦には自らの戦争体験がある。戦後七十年の二〇一五年から本紙「平和の俳句」の選者であったのも、危うい世相への抵抗であろう。

<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>

一九四四年に海軍主計中尉として西太平洋のトラック島(現在のチューク諸島)に派遣され、終戦を迎えた。捕虜になり、四六年に復員する。島を去るときに詠んだのが冒頭の句である。
旧制水戸高校時代から本格的に俳句を始め、東大時代に加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。四三年に日本銀行に入行するも、直後に海軍へと。「炎天の墓碑」とは、何とも虚(むな)しい光景であることか。
金子さんのそれまでの人生が軍国主義の時代の中であることは間違いない。たとえ詩歌の世界であっても、安易に国家や軍を批判することはできなかった。
日本国憲法ができ、戦後社会はがらりと変わった。その最大の動力となったのは「表現の自由」である。文学はもとより、社会科学や自然科学の世界も自由の力で、戦後日本は躍進を遂げ、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のにぎわいをみせたのだ。
金子さんもまた、戦後の俳句改革運動の中心になった。「社会性俳句」「造形俳句」を提案、前衛俳句運動をリードし、理論的支柱となった。社会性や抽象性に富んだ無季の句を提唱したのだ。
見逃せないのが、平和運動に尽力したことだ。四七年に日銀に復職し、被爆地の長崎で勤務したこともある。

<彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン

日銀時代に詠んだ句である。長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「体を張って権力に対抗する人という印象を持っていた」と共同通信に答えている。
確かに戦後日本のありようが変わりつつある。特定秘密保護法集団的自衛権閣議決定、安全保障法制、憲法改正への動き…。
三年間で十三万句以上が集まった「平和の俳句」は、あたかも“軍事”へと向かう権力への庶民の対抗だったと思う。その意味でも選者の金子さんはまさしく「権力に対抗する人」だった。最後に寄せた自身の句は

<東西南北若々しき平和あれよかし 白寿兜太>

戦争を知らず平和を鼻で笑う政治家が跋扈(ばっこ)する世の中だ。「若々しき平和」を詠む俳人の死は高齢といえどあまりに惜しい。

(筆洗)俳人の金子兜太さんが亡くなった- 東京新聞(2018年2月22日)

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座禅ではなく、立ったままの「立禅」がその人の日課だったそうだ。ただ立っていては雑念でいっぱいになる。心を集中させるため、亡くなった友人、知人の名をあげていく。百数十人。約三十分。「死んだ人たちといっしょにいる気持ちになる」
その日課は「いのち」との語らいだったか。死を人間にとって自然なものと受け止める儀式だったか。戦後の俳壇をリードした、俳人金子兜太さんが亡くなった。九十八歳。

<長寿の母うんこのように我を産みぬ>

どの句を引くか迷ったが、生きものとしての人間をありのままに描いている骨太にして、滑稽にも富んだ、この句を選ぶとする。季語のない無季句である。
季語は大切だが、季語さえあれば、自然をとらえられるという考え方を強く否定していた。季語はなくとも、この句に描かれた人間の、生きもの全体をめぐる「自然」の大きさや神々しさはどうか。その俳人によれば人は母親からうんこのように生まれ、やがて、土へと帰る。
「いのち」にこだわり続けた。酷(ひど)い戦争体験。生きもの同士がいたわり、信じ合えば、戦争はない。平和や、好んで使った、「蹴戦(しゅうせん)」(戦争を蹴飛ばす)を叫ぶのは、いのちの俳人には、当然のことだった。

<おおかみに螢(ほたる)が一つ付いていた>

故郷の秩父の山におおかみが帰っていった。眼鏡をかけた優しいおおかみに螢がとまる。

金子兜太さん死去 「人間への洞察 私たちを導く」 - 東京新聞(2018年2月22日)

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二十日に九十八歳で亡くなった俳人金子兜太(とうた)さんに、ともに本紙「平和の俳句」(二〇一五〜一七年末)で選者を務めた作家いとうせいこうさん(56)が追悼文を寄せた。
いつかこの日が来ると思い、会う度に苦しかった。大好きな人だった。訃報は休暇で出かけたハワイ・マウイ島に着いたあと、電子メールを開くと届いていた。機内では何も知らずに真珠湾の記事を読み、空港で日系移民の展示を見て第二次大戦のことを考えていた。その時間にはもう、あの巨人は旅立たれていたのだ。私が時差を飛び越えているうちに、海の向こうに隠れてしまった。数日前に死亡記事が通信社の誤報で流れたことも、我々のショックをやわらげるための兜太さんの優しい冗談だった気がしてくる。
自分にとって大きな山のような、どこまでもひたすら懐かしい親戚のような人であった。兜太さん自身も、今年初め埼玉県熊谷市のご自宅へ会いに出かけた折だったか、「いくら言いあいをしようが殴りあおうが、大切な友人であることは変わらない。それがあんただ」と言ってくれた。私にはそれが遺言だ。
幸いにも二十数年前「伊藤園お〜いお茶新俳句大賞」の選者として知りあって以来、対談集(『他流試合』講談社+α文庫)まで出していただき、晩年には「平和の俳句」選者として二年八カ月、毎月、東京新聞で会って話した。選句を生で見ることが、自分には何にも勝る勉強であった。よく出来た句には「つまらん」と言った。破天荒な句には「素直だ」と言った。どれほど体調がすぐれなくても、選句だけは早かった。
現代俳句における偉大な業績はもちろんのこと、社会に関わる筋の通った活動にも目覚ましいものがあった。文学者として、また戦争体験者としての世界、そして人間への深い洞察はいつまでも私たちを導くだろう。

◆平和の俳句 戦後72年
東西南北若々しき平和あれよかし  白寿兜太(とうた)
この句は、「平和の俳句」の最終日となった戦後72年の昨年12月31日、本紙に掲載した句の再掲。金子兜太さんの句に、いとうせいこうさんが句評を添えた

◆平和の俳句選者 
金子兜太氏(かねこ・とうた=俳人現代俳句協会名誉会長)20日午後11時47分、急性呼吸促迫症候群のため埼玉県熊谷市の病院で死去、98歳。埼玉県出身。自宅は熊谷市。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男真土(まつち)氏。

東京大(当時は東京帝大)経済学部卒。日本銀行に入行後、海軍主計中尉として南洋のトラック島に赴任。戦後は俳句に社会性や時代性、思想を取り込む革新をもたらし、俳誌「海程」を創刊するなど、戦後の俳句改革運動をリードした。

56年現代俳句協会賞。83年から同会長を務め、俳句を通じた国際交流にも力を注いだ。日本芸術院会員。文化功労者。代表的な句に<湾曲し火傷し爆心地のマラソン>など。主な句集に「少年」「両神「日常」、著書に「小林一茶」など。

「俳句弾圧不忘の碑」 故金子兜太さんが呼び掛け - 東京新聞(2018年2月22日)

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第二次世界大戦中、反戦の句を詠んだ俳人らが検挙・投獄された「新興俳句弾圧事件」を語り継ぐ石碑が長野県上田市に完成し、二十五日に除幕式がある。建立の筆頭呼び掛け人は、二十日に九十八歳で亡くなった金子兜太さん。戦争を身をもって体験し、国家が「表現の自由」を奪う恐ろしさを訴え続けた俳人の“忘れ形見”だ。 (川原田喜子)
碑は、戦没した画学生らの絵を展示する「無言館」の敷地内に立つ。「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑 兜太」と、力強い金子さんの字が刻まれた。その建立へ金子さんと尽力したのが、フランス出身の俳人マブソン青眼(本名マブソン・ローラン)さん(49)=長野市=だ。
来日して俳句を研究していた二十年前に金子さんと知り会い、すぐ金子さん主宰の俳誌『海程』の同人になった。二〇一五年に対談した時に俳句弾圧事件が話題となり、「有志で記念碑を建てよう」と決めた。
全国の俳人ら五百七十一人から三百万円あまりが集まり、碑とともに、弾圧を受けた俳人の作品などを展示する「檻(おり)の俳句館」と、訪れた人が投句できるポストも併せて設けた。「無言館」の館主で作家の窪島誠一郎さん(76)も金子さんと親交があり、マブソンさんが建立場所として提案すると、金子さんは「無言館なら大賛成だ」と喜んだという。
昨夏に体調を崩しても「除幕式は絶対に出ます」と言い続けた金子さん。マブソンさんと窪島さんは、車いすで参加できるようスロープを設けて待った。
金子さんが今日の世相を「表現の自由が弾圧された戦前と似ている」と嘆いていたのを忘れないマブソンさん。「その思いを碑と一緒に引き継いで訴えていきたい。ここが金子先生とつながることができる場所になってほしい」と願う。
除幕式は二十五日午後一時から。申し込み不要で参加できる。「檻の俳句館」も同日開館する。

<新興俳句弾圧事件> 戦時中の1940〜43年、戦争や軍国主義を批判・風刺し、反体制的な句を作った俳人ら44人が、治安維持法違反容疑で検挙され、13人が懲役刑となった。対象とされた句では「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)などが名高い。

◆「平和を希求、心ひとつ」
金子兜太さんの死去を受け、日本文学研究者のドナルド・キーンさん(95)が21日、コメントを寄せた。コメントは次の通り。
金子兜太さんの訃報を知った時、とてもさみしく感じました。私は、金子さんの人柄と業績を心から尊敬していました。
金子さんは、俳人として、長い俳句の歴史の中で新しい道を切り開き、大きな業績を残しました。初めて会ったのは30年以上前でしたが、その時から親しみを感じました。私たちは、敵と味方でしたが、同じ時期に戦争を体験しました。金子さんの体験は実にひどいものでした。私たちは戦争がいかに無意味なものであるかを語り合い、平和を希求することにおいて心はひとつでした。

「俺は死なない」言ってたのに… 金子兜太さん死去で悼む声:埼玉 - 東京新聞(2018年2月22日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201802/CK2018022202000151.html
http://archive.today/2018.02.21-071545/https://www.asahi.com/articles/ASL2P3GQ6L2PUCFI001.html

98歳で亡くなった俳人金子兜太さんは、幼少期を皆野町で過ごし、後半生は熊谷市で暮らした。故郷を愛し、俳句の選評や講演でしばしば各地を訪れ、句碑も多く残された。ざっくばらんで飾らない性格が愛され、太平洋戦争で出征した経験から、講演では平和の尊さを頑固に訴えた。 (花井勝規、出来田敬司)
金子さんの熊谷市内の自宅には二十一日早朝から俳人仲間やゆかりの深い人々が次々と弔問に訪れた。
半世紀以上熊谷市に住んできた金子さんは市の名誉市民。市役所は半旗にし、弔意を表した。市役所ロビーには在りし日の金子さんの写真とともに記帳所を設置。二〇一六年に市内四カ所に設置した金子さんの句碑の前にもそれぞれ献花台が設けられた。
市役所近くの中央公園の句碑に刻まれた句は「利根川と荒川の間雷(あいらい)遊ぶ」。
日銀に勤務していた時期の一九六七年、東京都内から熊谷に転居して間もないころ目にした光景を詠んだ。「どこよりも広い熊谷の空を駆け巡る雷鳴が強烈な印象に残った。その後何度か書き直してはいるけど気に入っている自信作だ」と話していた。
金子さんと四十年来の親交があった工務店経営の時田芳文さん(69)は「金子さんは普段から口癖のように『俺は死なない』と言っていたのに…」とショックを隠さない。
昨年十二月中旬、金子さんと対談した熊谷市立江南文化財センターの職員山下祐樹さん(35)は「金子さんは自身の戦争体験を基に、『背負っている運命を大切にしながら自由に表現していくことが大事だ』と話していた。熊谷の文化の海外発信にも意欲を示してくれていただけに残念」と語った。

「アベ政治を許さない」金子兜太さんが文字に込めた怒り - 朝日新聞(2018年2月21日)

https://www.asahi.com/articles/ASL2P3GQ6L2PUCFI001.html
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自らの戦争体験に基づく反戦の思いから、金子兜太さんが書き上げた「アベ政治を許さない」という文字が印刷されたプラカードは、2015年の安全保障関連法案への抗議デモなどで掲げられた。
元SEALDsメンバーで明治大大学院生の千葉泰真(やすまさ)さん(26)は、国会前での抗議活動で日に日にプラカードが増える様子を目の当たりにした。「力強い文字は市民の怒りを可視化させる役目を果たしていた。シンプルな言葉のなかに全てが込められていた」。その後、シンポジウムなどで金子さんと何度か一緒になった。「5分以上立っているのはきついとおっしゃっていたが、とても力強く話していたのが印象深かった」と振り返った。

成年後見の「欠格条項」 社会参加へ矛盾の解消を - 毎日新聞(2018年2月22日)

https://mainichi.jp/articles/20180222/ddm/005/070/147000c
http://archive.today/2018.02.22-005801/https://mainichi.jp/articles/20180222/ddm/005/070/147000c

成年後見認知症や知的障害のある人の財産や権利を守る制度だ。政府は利用促進に取り組んでいる。
ところが、この制度を利用すると公務員や警備員の仕事ができなくなり、医師や介護士の資格を失う。
被後見人の職業や資格を制限する「欠格条項」が、各省庁の所管する法律や政令に規定されているためだ。法律だけで180を超える。権利擁護の制度が、逆に就労や社会参加の機会を奪ってきたわけだ。
政府は成年後見に関する欠格条項の全廃を決め、今国会に関連法案を提出する。遅きに失したとはいえ、各省庁は制度の矛盾解消に向け、取り組みを徹底すべきだ。
成年後見は現在約20万人が利用している。程度が重い順に後見、保佐、補助の3類型があり、後見と保佐が全体の9割以上を占める。欠格条項はその2類型を対象にしている。
その結果、介護士社会福祉士など多くの資格が取得できず、会社の役員や各種法人の理事にも就けなくなっている。
地方公務員として公園の管理や清掃をし、高齢者施設で働く障害者は増えている。ところが、後見制度を利用するとこうした仕事も失う。
実際、親族から金銭搾取の被害を受けた障害者が後見人を付けたところ、仕事を失ったという例が各地であり、訴訟にもなっている。
財産や権利侵害を防ぐ力が弱いからといって、介護や警備の仕事をする能力がないわけではない。それぞれの状況を考慮することなく、自動的に仕事を奪ってしまう現行制度は理不尽と言わざるを得ない。
家庭裁判所が後見人を選任する際、障害者や高齢者に欠格条項について説明することはほとんどない。制度のデメリットを知らされないまま、不意打ちのように仕事や資格を失う利用者も少なくない。
欠格条項には以前から批判が強く、政府は2001年に計63の仕事や資格について法改正をした。だが、見直しが不徹底だったため、新しい法律ができると自動的に欠格条項が組み込まれ、以前より多くの法律に規定されるようになった。
今回はそうした不備がないよう、徹底して制度を改める必要がある。地方自治体の条例の中にある欠格条項についても廃止すべきだろう。

憲法70年 教育は政権の道具か - 朝日新聞(2018年2月22日)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13370588.html
http://archive.today/2018.02.22-005933/https://www.asahi.com/articles/DA3S13370588.html

自民党憲法改正推進本部がきのう、改憲素案のうち教育に関する部分を大筋で了承した。
教育を受ける権利を定めた現行26条に、「国は教育環境の整備に努めなければならない」とする努力義務規定と、「経済的理由によって教育上差別されない」という趣旨の文言を付け加えるという。
だが、どちらも今の憲法教育基本法に既に織り込まれているものだ。憲法を改めなければ実現できないものでもない。
26条は、教育制度や学校などの環境を整える義務を国に負わせている。このことはさまざまな憲法の教科書に書かれ、異論なく定着している解釈だ。
そして26条は「その能力に応じて、ひとしく」教育を受ける権利、つまり機会均等をうたっている。これを受けて教育基本法4条は、人種や信条、性別などと並べて、経済的地位によっても「教育上差別されない」と明記している。素案はこれをなぞったにすぎない。
政府は昨年、大学や専門学校の学費負担を減らすため年8千億円を支出する方針を打ち出した。それでも対象は進学者の2割程度にとどまるとみられる。「教育の機会均等」の前に立ちはだかるのは財政難であり、憲法をいじっても解決しない。
政権がなすべきは、いまの憲法にのっとり、授業料の減免や奨学金制度の充実などに地道にとり組むことだ。
教育無償化をめぐる改憲論議は、昨年5月に安倍首相が急に強調しはじめて本格化した。「全ての教育の無償化」を唱える日本維新の会を意識したもので、今回の素案も、同会が2年前に発表した改憲案文の一部を改変し、取り込んでいる。
改憲勢力に維新の会をつなぎとめ、自民党にとっての「本丸」である9条改憲への道を探る。そんな思惑が先に立った作業であるのは明らかだ。
教育を大切に思うのなら、その教育を改憲の道具や口実に使うのはやめてもらいたい。
もうひとつ、見過ごせない点がある。素案は、教育が「国の未来を切り拓(ひら)く上で極めて重要な役割を担う」から、国は環境の整備に努めるべきだ、という筋立てになっている。
この考えは危うい。個人の人格の形成という教育の本来の目的を後景に追いやり、国の介入を強める根拠になり得る。産業の発展や競争力強化に役立つかどうかで、学問や研究を選別することにも通じかねない。
個々の学ぶ権利を社会全体で支える。この原点に立つ現行憲法の簡潔な条文が、最も良い。