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思い出しておこう−イメージと言語と身体と歴史と Twitter

2018-05-16 百人一首抄(宗祇抄)から堀河院御時百首和歌へ

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』で参照してきた『百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院(1969)』に対してほぼ50年ぶりに別系統の影印本が出たので比較してみた。

予想通り、両書の仮名遣いが異なる。というのは笠間書院のは印刷本だから江戸時代初期の用字の規範をふまえているはずだと考えたからである。例示すると以下

書名  元和寛永本古活字版(17世紀中期)  姉小路基綱筆 (1441〜1504)
出版物  吉田幸一編 1969 笠間書院  小川剛生編 2018年 三弥井書店
題名  小倉山  小椋山
冒頭  をくらやま  小倉山
2行目  ゑらひ  えらひ
3行目  おさめ  おさめ
3番    
5番  於く山  奥山
10番  これやこ能  古連やこの
25番  名にしおハ々  名にし於ハ々
26番  をくらやま  小倉山
99番  ひともをし  人も於し

上のような作業をしていくうちに序文(要約)をきちんと読んでみたくなり、webをのぞくと以下がpdfで入手できた。

翻刻「百人一首抄」(応永3年(/1306年)奥付)注と索引を付す;1978

吉田究;大阪産業大学産業研究所所報第2号

http://www.osaka-sandai.ac.jp/file/rs/research/archive/2/02-13.pdf

な、なんと、定家は新古今集が、とくに後鳥羽院があとあとまで手を入れたことが不満で後堀川院のときの新勅撰(1374首)を手本としてこの百首をえらんだとある。この新勅撰和歌集は鎌倉幕府への配慮で、「承久の乱」で流刑に処された後鳥羽院と順徳院の歌を除外しているというから、百人秀歌を髣髴させる。そして定家存命中は口伝にしておいたのはいろいろはばかりがあったからで、為家卿の時代になって流布するようになったとある。この理屈は新井白石が死後数年は記録を公開するなと遺言したとか、現代でも公文書の公開は後刻になるのだから当然といえる。

宗祇抄の序文にもどると、具体的には「十分のうち実六七分、花三四分たるべき」を理想としているという。文体から見て、これを記述しているのは定家自身ではないから、類書の註釈から「東常縁の考え」という蓋然性が高いが百人秀歌のような対句構成だけでなく、歌番連をもとにした内的連関を持つ百人一首の性質が「実」に相当すると考える事ができる。

ところが堀河院(1079-1107年)御時百首和歌堀というのが日文研のwebにあるのだが、6部建てで1601首ある。16人撰ということだから一人100首で最後に1首を加えたことになる。ところがこの数1600というのは上掲の拙著p185で取り出した「表32;万葉集・古今和歌集新古今和歌集の歌数の一貫性」にでてくる新古今和歌集の全数1979のうちの基数1600に相当し、残余が379であるから360+19、あるいは19*19+18を導くことができ、六曜を強く示唆すると拙著では結論づけたが、1601との差は378(=27*7*2)だから数19の目はきえる。

堀河百首(堀河院御時百首和歌) 

(長治二年五月-長治三年三月)((1105年6月頃-1106年4月頃))

堀河百首 春  320首

堀河百首 夏  240首

堀河百首 秋  320首

堀河百首 冬  240首

堀河百首 恋  160首

堀河百首 雑  321首

合計       1601首    

堀河百首 異同歌 ー


こうなると百首で歌100であるべきなのか、101であるべきなのかの考え方も苦しくなる。そうなると百人秀歌の前に置かれてあるべき序文(要約)を是非とも閲覧したくなる。もしも序文(要約)が欠けていれば、単なる障子紙への散らし書きにすぎず編纂意図をもつ歌集とは認めがたいとなる。神奈川のopacでリクエストしたが、手元にくるのは来週になるだろうから週末の旅行明けに検討しよう。

2018-05-09 未通女と處女

拙著『狂歌絵師 北斎とよむ古事記万葉集』で「處女・未通娘」の語義解を行っている(p174、180)が 私が若かったころの女性の初潮とひきつづく月経について風俗に変化が起きているようでいて起きていないようでもあるので、『生理用品の社会史;田中ひかる;2013;ミネルヴァ書房』からメモをとっておく。

文末の年表も過不足なく網羅されていて良書だが、タンパックス・タンポンの消長については踏み込んでもらいたかった。年表からひろうと。

・大正時代;アメリカで普及していたタンポンの輸入・国産化開始

・1930;ロール式脱脂綿「白ぼたん」発売

・戦時下

・1947年;労働法に産前産後休暇・生理休暇(申告制)が明記される

・1948年;厚生省、タンポンを医療用具(現在は医療機器)に指定

・1951年;脱脂綿の配給制が解除になって丁字帯と脱脂綿による処置が主流になる

・1961年;アンネナプキン発売(初潮を肯定的に受け止める「アンネの日記」から採用p118)

・1964年;エーザイがスティック式タンポンを発売

・1968年;中央物産が「タンパックス・タンポン」の輸入販売を開始

・1978年;花王から高吸性ポリマーを用いた薄型ナプキンが発売される

・70年代後半;アメリカでタンポン使用者がTSSを発症

    p151;原因は特定され、特定の黄色ブドウ状球菌とタンポンの吸水率の相乗因とされ解決すみ 

・1980年;アンネ社、ライオンに吸収合併

   ・1990年代;欧米で月経前症候群(PMS)の報告が増える(p65)

・2013年;ユニ・チャームがタンポンを「ソフィ」ブランドに統一

要はアメリカでは第二次大戦以前から普及していた挿入型「タンポン」が日本市場では事実上排除されてきたということなのである。

今回、年表を眺めていて、2013年にようやくユニ・チャームがブランドを統一したことを知って唖然とした。

現在でも店頭の目立つところ、販促のためのディスカウント棚で見かけることはない。

本文をさがしていくと以下の記述がみつかる。

1、手淫防止

p23〜25;1916年から1979年にかけて「タンポンは手淫と結びつきやすい」という医師の肩書を持つ人の文を例示

p41;東京女子大創設者吉岡弥生(1871年〜1959年);女の神聖なところに男以外の物を入れるとは何言ぞ

2、もちろん、それとは別に「処女膜信仰」がある

これは江戸時代の遊郭で少女を高く売るために開発されたセールス法で、小説では2回でも3回でも通用するとも言われているが、これが一般の女子にある種の刷り込みを行っていったのであろう。なんせ、江戸時代は女性が嬉々として宮中女御の真似をして鉄漿(おはぐろ)をして、清音妄想で「あさくさはし」などと姦しくしていたそうだから。

このためであろうが、アンネがタンポン市場に参入するにあたっては、それまでのほんわかアプローチにかえて科学的に明晰なコピーを採用せざるをえなかったらしい。P148には「処女膜はマクではなくヒダ」という文字がみえる。

3、現在の市場

著者は現在の大手メーカーの「多い日の夜用」だとか「多い日の外出用」だとかの市場細分化の販売宣伝戦略を肯定しているが、私は女性を愚弄しているとおもう。敵を攻略するには隘路で迎え撃つのが上策である以上タンポンにまさる武器はないはず。もっと簡単に「多い日はタンポン」「少ない日はナプキン」で十分ではないだろうか。女性も研究開発要員ももっと本当に価値のある女性用商品を目指してほしい。

4、辞書世界

さらにこういう点で国語辞典も大変に遅れている。日本国語辞典で「タンポン」をみると医療用と音楽用の2項目しか出ていない。だが、ランダムハウス英和では「tampon」では3項目をたてて、2番目に生理用タンポンを明記している。ジーニアスでは「生理用」の項目一つである。

5、血穢の発生

p69;成清弘和;在地の民俗世界に「女性の穢れ」の観念が現れるのは12世紀前後であろう

    死穢;大化の改新(645年)

    産穢;弘仁式(820年)

    血穢;貞観式、延喜式(871、927年)

p70;神道の「服忌令」や仏教の「血盆経」によって一般社会に月経禁忌が広まる


6、古事記における「月たちぬ」

有名なヤマトタケルとミヤズヒメの故事は月経がはじまっていたけど、二人は交わったのだから、月穢はなかったことになる。(p66)

一方で、これは民草に女性の生理周期が月齢と関連することをも教えていることになり、一種の理科教育という意味を持っていた。

これに近代の避妊法の土台である「基礎体温」の考え方をふまえて解釈するならば、月経期は一般的には受胎不可能なのであるから、世継ぎを目的とする交合には不向きということになる。当時の人々にもそのような経験則が知られてなかったと結論するのは難しいだろし、近世になればそのような経験則は一定の知識層には知られていたと考える事もそれほど突飛とはいえない。

2018-05-07 ロムルス数とヌマ数とユリウス数

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』の論考の土台となった数章であるロムルス暦とヌマ暦についてwikiで混乱があるようなので執筆時に参照した国立天文台の現在の記述をコピーしておく。

ロムルス暦

ロムルスはローマを建国したとされる伝説の王です。

1年はMartiusから始まる10か月 (304日=8日/週×38週) からなり、残りは冬の期間として数えないという変則的なこよみだったとされています。

月の名前や日数に今も名残が見られます。

ヌマ暦(共和国暦)

ヌマはロムルスに続く古代ローマの王です。

ヌマ暦ではロムルス暦にIanuariusとFebruariusを加えて、12か月となりました。

合計日数は355日、うるう月 (mensis interclaris) を用いて平均日数を太陽年に近づける点で、太陰太陽暦に似ています。

しかし、うるう月は2年に1回22日か23日増やすというものであり、月の満ち欠けにマッチするものではありません。

うるう月の挿入がうまくいかず混乱を招いた後、紀元前45年からはユリウス暦が導入されました。

ユリウス暦

ユリウス暦は、ローマの英雄ユリウス・カエサル (英語名ジュリアス・シーザー) によって紀元前45年から導入された太陽暦です。

ユリウス暦の1年は、通常は365日、4年に1回366日のうるう年を挿入します。

1年の長さは平均、(365+365+365+366)÷4=365.25日となります。

紀元8年以降については、4で割り切れる数字の年がうるう年です。

それ以前については、4年に1回のはずのうるう年が3年に1回挿入されるという混乱がありました。

2018-04-29 小倉百人一首・百人一首抄(宗祇抄)・百人秀歌

拙著『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集』ので参照してきた『百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院(1969)』について、本文での記述を編集の過程で削除した結果、参考文献にも掲載し忘れたのであるが、三弥井書店から別系統の伝本の影印と解説『百人一首宗祇抄 姉小路基綱筆』が上梓されたので、割愛してしまった部分を公開しておく。原典は上掲本の第二部に相当する部分からのもので、その後第一部の「葛飾北斎の「百人一首姥がゑとき」をよむ」の部分を拡充した、結果第二部の原稿をかなり割愛して刊行したものである。

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  『御所本 百人秀歌』(久曽神昇「解題」 宮内庁書陵部蔵 笠間影印叢刊 1971年)の刊行があって以来、従前、知られていた「百人一首」との違いが考察されてきている。これにより「カルタ百人一首」に矮小化されて、歌同士のつながりが軽視されてきた状況に変化が起きた。この結果を知る好書として以下の三つを参照してきた。

・百首通見 安東次男 集英社 (1973)

・絢爛たる暗号−百人一首の謎をとく 織田正吉 集英社     (1978)

小倉百人一首 田辺聖子 角川文庫   (1989)

   しかし、どれも百人一首の編者が定家であるという前提で書かれており、「宗祇抄」が伝来してきたものとは成立年代の認識が異なる。本書(注;拙著刊行以前の原稿で刊行時には割愛した部分)は「宗祇抄」は応仁の乱で京都が焼け野原になって以降の成立という予断で考えてきた。

・百人一首抄(宗祇抄) 吉田幸一編 笠間書院 (1969)

  

  宗祇か定家かという問いの立て方自体無謀ではあるが、有力な根拠は『百首通見』にある、鎌倉幕府を慮(おもんばか)れば取り上げることの難しかった後鳥羽院・順徳院の諡号が定家の死後確定したものである事が第一。加えて、ここでは排列を重視する立場から考察する。

  とりあえず指摘しておきたいのは宗祇抄100首と百人秀歌101首の違いで、類書がこの点に関心を示していないのは残念。数100は平方数で、伊勢物語の100段では「しのぶ草・忘れ草」のような固有名の語釈のむずかしさを取り上げている。101段は藤原氏の権門振りを皮肉っている。だから、両者は編集の意図が異なることを明章する。

伊勢物語 和歌の道 百人一首
100段;忘れ草・忍ぶ草 固有名という言語理論の中核の深化 宗祇抄100首
101段;ありしに勝る藤のかげ 藤原権門周縁の人々の屈折した人生   百人秀歌101

2018-01-03 西洋修辞学でいう交差配語法について


「説文解字・六書」の解読法;http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20171230」の続き

 

日本語ネイティブではない日本文学研究者の和歌観を知りたいと思って『心づくしの和歌;ツベタナ・クリステワ;2011』を手に取ってみたが、題名の通り日本人読者の期待を裏切らない構成であまり面白くなかった。だが、参考文献に『一般修辞学(一般レトリック学);大修館;1981』があってこちらは読みごたえがあった。といってもすでにレトリック論は日本語でもいくつか読むことができるわけで、一番目興味深かったのは「両義法―交差配語法―異義復用法」であった。

というのは、これが幼稚な言葉遊びや語呂合わせと隣りあっているからである。つまり二つの同音語がことなる語義を持つのかどうかは、ながながとした説明によっては説得できにくいから、古来言葉遊びのなかで援用されてきた。例文は三つ上がっている。

1;ローマは我らの陣営にあり、我らの陣営はローマにあった。(交差配語法)

2;心情は理性(la raison)が知ることのできない独自の理由(ses raisons)を持っている。(異義復用法/自家撞着)

3;(彼らは)またあなたのことを語る。灰をかきまぜながら彼らの炉と彼らの心の灰を(両義法)

このうちの交差配語法に関心をもつのは日本でも多くの慣用句になっているうえに折口信夫阪倉篤義らによって「逆語序」という問題意識になって定着しているからで、白川静の論考と合わせて議論したことがある。
古今和歌集・仮名序」を読み解く; http://d.hatena.ne.jp/midoka1/20130518

 

それでは1の例文を子細に見てみよう。

1;ローマは我らの陣営にあり、我らの陣営はローマにあった。

ローマと陣営が逆序において成立しているということは数学用語でいう「合同」ということだが、現実にはありえない。だが、冒頭のローマを実際の都市ではなく「心のふるさと」と考えれば十分に成立する文となる。日本語では有名な「色即是空」がこの形式をとって与えられる。学校では前半の四字熟語しか習わないが、本文では逆語序の「空即是色」がくっついて四字熟語対として与えられる。他には「一切即全」も「逆も真なり」を示すためにこの形式をとる。これが論理の世界。

 

それに対して現実世界では「逆も真なり」は成立しない。「犬は動物だが、動物は犬とは限らない」。このような概念を論理ではなく類従、あるいは類聚という。

西洋哲学ではこれについても逆語序で陳述する。これが対偶ということで「犬は動物。動物でないものは犬ではない」となる。もちろんこの説明で十分なのだが、日本語話者の間でこういう文型が広まることはなかった。

なぜならば日本語では類聚概念は姓名によって代表され、対助辞「ハ・ノ」で識別することになっていたからで、「対偶」なんてものを持ち出さなくでも下々でも理解は容易だった。

・花子田中内だ  ・田中内花子だ

・犬動物内だ   ・動物内犬だ

この対助辞「ハ・ノ」を導入したのは大伴家持で、現実に日常会話においては助辞「モ」も大変便利であることは論をまたない。

4175   霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流〃日安良米也 

毛能波三箇辞闕之

 

・犬クジラ動物内だ。   ・動物内犬、クジラだ。

 

さらに和歌世界では重要な規範が交差配語法によって示されている。それが古今和歌集・仮名序の「人まろは赤人が上にたたむ事かたく、赤人は人まろが下にたたむ事かたくなむある」なのである。類書でもその意図については不明のままになっている。単純化すれば「人まろは赤人の上ではない。赤人は人まろの下ではない」ということだから同格だといっていることになる。だが、その直前に「正三位」とされた「人まろ」と無冠の赤人が同格だというのは当時の宮廷世界においては許されない判断だったのであろう。近世から江戸期にかけては「人まろ」「ひとり」を尊崇する気風が和歌世界を席巻していく。