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一切余計 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-06-05 奈良カッターの歴史は古い。

xevra先生のいつものあれについてちょっと考えてみた。

「昔、本は紙だったんだよ」「え〜嘘ばっかり」「読書家は紙面を取り込む技を競い合っていたんだ」「馬鹿みたい」「紙に印刷し取り込む事が読書に欠かせない神聖な儀式だったのさ」「なるほど、読書は宗教だったのね

っていうxevra先生のいつものブコメを見てて、

ってtweetしたら、xevra先生が、

未来人は鼻をかむのにデジタルガジェットかめという事ですか?(´ω`*) 贈答品は何で包むの?お菓子の箱もデジタルですか?(*´∀`*)それはそれで楽しそうか

って言って来たのでちょっと考えてみようかと。ちなみに、xevra先生最初のtweetしかブクマしてないし二個目の方知らないんじゃないかと思うけど、まあいっかってなもんで。

で、俺としては紙の本の存在が信じられなくなるぐらいなんだから、かなり遠未来なんじゃないかと思ったんだけど、xevra先生の口ぶりだとそうでもなさそう。

それはそれでいいんだけど、ちり紙とか贈答品とか菓子の箱とか、紙がそんなに身近にあるんなら、存在が信じられないっていうレベルまで達するんかいなって思ったんすよ。

どういうことかってえと、例えば、竹簡なんてものがあるじゃないですか(羊皮紙はあんま身近にないだろうから置いておくとして)。

これだと、

「昔は紙じゃなくて竹とかに書いてたんだよ」

「え〜、嘘ばっかり」

ってなりそうな気がすんですよ。

身近にはあるけれども、字を書いたりする機会はあんまないかと思うので、信じられないということにもなるかなあと。竹と紙だと形状が違いすぎるってのが大きいような気もしますけど。

これが竹簡じゃなくて木簡だと、今でも、寿司屋看板とかお品書きが板だったりするんで、イメージしやすくて、

「昔は紙じゃなくて、木の板とかに書いてたんだよ」

「ああー、お寿司屋さんの壁にかかってたりするよねー」

ってなる可能性も否定出来ないかと思うので、一概に、

「嘘ばっかり」

になるとは言いきれないかなーと。

でまあ、考えるんですけど、ちり紙はともかくとして贈答品包むのって伊藤ハムとか日本ハムとかなんとかハムとかお歳暮とかお中元とか書いてあったり、お菓子の箱にしても、いろいろ書いてあったりするじゃないですか。

そうするとそういうのが身近にあるなら、紙に何かを記述する、紙が記録媒体になりうるってのも知ってることになるわけで、

「嘘ばっかり」

というところまで行くのか疑問をさしはさむ余地がないではないように思います。


しかしよくよく考えてみると、紙の本の存在が信じられないほど電子化が進行しているのなら、本は本ではなく、単なるデータとして捉えられているのではないか、本という概念自体あやふやになっているのではないだろうか。とかそんな気もします。

大体電子書籍ファイルとか見ても、本が一冊あるとか二冊あるとかじゃなくて、ファイルが一個あるとか二個あるとかそういう感覚で、本って感じが希薄な気がするんですよ。

今でさえそうなんだから、そんだけ電子化すすんでりゃ「本って何?」になってもおかしくないようにも思うんですけど、本の存在自体は別に疑問視してないんですよね。

となると、「嘘ばっかり」と言っている方は、実は紙の本の存在を知っているのではないかという可能性が出て来る。

つまり、「嘘ばっかり」=「信じられない」という前提自体が間違っていたのではないか。

そう思ってよく見てみると、妙なことがある。

「嘘ばっかり」とまで言っているくせに、納得するのがやけに早い。

例えば上で挙げた竹簡の存在を知らない人に納得させようと思ったら、

「昔は竹とかに書いてたんだよ」

「え〜嘘ばっかり」

「紙が発明される前は、そういうのしかなかったんだよ」

とか、それくらいの説明は必要になるのではないかと思うが、そういうものは一切ない。

そうすると、やはり、

「え〜(ry」

と言っている方は、紙の本の存在を知っているのではないだろうか。

つまりこの「嘘ばっかり」は、信じられないというのではなく、

「ウッソー」

とか、

「ヤバーイ」

などといった、感動詞の一種なのではないか。

もっと言えば、この会話は、

「昔本は紙だったんだよ」「(知ってるけど合わせてやるか……)嘘ばっかり〜」

ということなのではないか。

さては、いつもこんな具合に女の子と会話して仲良くなってんだな!

汚いな流石xevra先生汚い。

というところにまで到達したところで、俺は満足して考えるのをやめたのであった。


それでは今日はこの辺で。


※なお以上の内容は、全て俺の妄想であり、実際のxevra先生やその考えとは異なる場合があります。あしからず、ご了承下さい。

BGM:「ふたりきもちのほんとのひみつ」 やすなとソーニャ(cv:赤崎千夏田村睦心)

2012-04-24 いつものことながら適当更新。

ガンダムAGEの小説版、一巻と二巻を読んだでござるの巻。

はいどうも。

皆さんこんにちは

相変わらず何かつけて手が遅い男、mimizuku004でございます。

このたび、ようやく、AGEの小説版の二巻を読んだので、今年の一月に書いた、

ガンダムAGEの時系列問題について。 - 一切余計

という記事の続きをば。

でまあ、僕としてはAGEの時系列について、上記のような推測をしたんですけど、その部分が小説版でどうなっていたかというと……。

ラクトがドン葬式するとかいう話がばっさりカットされてて、フツーにミンスリーに到着してましたね。

まあ、マッドーナのおやっさんについては、ミンスリーに着く前から合流する手はずになっていたっていうことになったみたいですけど。


ところで、それはそれとして、今現在、僕はこの小説に大いに注目する部分があったりします。

何て言うんですかね。狙ってやってるんでしょうけど、この小説、節々から猛烈な富野臭がするんですよ。

それが最も色濃く出てるのが、一巻と二巻の冒頭ではないかと思います。

地球人類が、重力くびきを離れて宇宙に進出してから、数百年の時が流れた。

真空の宇宙であっても、人がそこで世代を重ね、スペースコロニー人口の大地の上で生きていくことができるのは、人類の持つポテンシャルのたまものであろう。

数え切れず繰り返された戦乱は、幾億の人々の命を虚空に散らせ、モビルスーツという人型をした異形の兵器を生み出す契機ともなったが、そのことが人類に紛争を根絶しようという意志をもたせたのも、そのポテンシャルの副産物といえよう。

が、そのような歴史を積み重ねながらも、平和というぬるま湯の中で、武器を捨てる高貴さ、魂のノーブルとも言うべきものを摩耗させてしまうのは、人の愚かさなのだろうか?

そうではない、と信じたい。

そうでなければ、人が類人猿から進化して、道具を手にした知恵というものは、空しいものである、と感じるからだ。

そして、“ガンダム”という名のモビルスーツを駆る少年たちの健やかな魂が、我々の前に道を示してくれよ、と祈るのみである。

太刀右京著 「ガンダムAGE」1 スタンド・アップ P14

引用すんの一巻の冒頭だけにしときますけど、こんな具合ですよ。

この『人類の持つポテンシャル』とか『魂のノーブル』とか、物凄く富野っぽいような気がするのは俺だけでしょうか。

で、思ったんですよ。最初に読んだ時。

「こりゃァ、ここまでやるんなら、あとがきはベナレスで書かなきゃ嘘だな」って。

一巻にも二巻にもあとがきってなかったんですけど、流石に最終巻にはあるでしょうし、もうそこに大注目ですよ。マジで

本編よりあとがきのほうが気になって来てる。いや、無茶振りなのは分かってんですけど。

まあ、何にしても、この部分はチェックしていきたいなあと思ったりしています。

それでは、今日はこの辺で。