郭嘉

正直なところ、郭嘉のどこがどうすごいのかまったく分からない。

たとえば郭嘉は、孫策が許の襲撃を企てていると聞いて「孫策は護衛を連れず一人歩きすることが多いので刺客に殺されるだろう」と言ったそうだが、裴松之も指摘するように、いずれ孫策が死ぬにしてもそれが許の襲撃以前とは限らないし、『集解』に引く姚範の説では、刺客のせいで死んだことも偶然の域をでないとさえ言っている。さらに付け加えれば、そもそも孫策の許襲撃をいかにして防ぐかが問題になっているというのに、孫策の死因を予測してみせるなど、まともに問答がかみ合っていない。

また呂布を包囲したとき、二ヶ月ほどの長陣により自軍の兵士が疲れ切っていたため曹操が撤退しようとするのを荀攸とともに押しとどめ、そのおかげで一ヶ月余りで陥落させることができたという。しかしこんなものは慧眼でもなんでもない。包囲を続けてさえいれば当然いつかは陥落するのだ。問題は、疲弊しきった兵士たちにそれ以上の辛苦を強いる価値があるかどうかだ。もしこのまま撤退したならば呂布はこれだけの損害をこちらに与えるだろうから、たとい兵士どもの恨みを買ってでも強行した方がましだ、といった計算があったのなら分からないでもないのだが、そうした発言は史書に残されていない。もしかしたら、彼自身の知力の不足を、兵士の努力でカバーしようとしたのかとさえ思えてくる。

ほとんど失策に近いと思える発言さえある。曹操が黎陽を攻撃して袁譚袁尚兄弟の激しい抵抗に遭ったとき、郭嘉は、南方へ引き返して荊州劉表を討つふりをせよ、そうこうするうちに袁兄弟も仲違いするだろうと述べている。そして実際、曹操が西平入りすると袁兄弟は仲違いした。さすがに的確な予測だったといえる。しかし軍を動かすにも莫大な費用がかかるものなのだ。荊州では一つの城も手に入れられなかったし、袁兄弟の仲違いを誘うにしてももっとうまいやり方があったのではないか。それになによりこの大規模な移動によって兵士たちの味わった苦労は計り知れない。

もっとひどいのは柳城遠征だろう。郭嘉は、輜重部隊を後方に残し、軽装の騎兵で急行して敵の不意を突けと説いた。しかし実際のところどうなったか。敵の不意を突くどころか、予期せぬ遭遇戦によって武装兵の少ない曹操軍の方が恐慌状態に陥った。張遼が従軍していたからなんとか助かったものの、下手すると曹操を討死させたかもしれない危地に陥れたのだ。とんでもない愚策だ。

それ以外の献策についても孫策の死因を予測したのと同様、あまりに曖昧模糊としていて、程昱や賈詡らの策略が、ああすればこうなるだろうから、そうなったらこうすべきだ、という具合に考えの筋道をトレースできるほどはっきりしているのに対し、郭嘉の場合はまるで雲をつかむようなもので、こうかもしれないな、だったらああなのかな、そうすればどうだろうな、といった具合、てんで具体性や現実味というものがない。

さらに、郭嘉の功績を誉めたたえる『傅子』という書があるのだが、これがまたどうも著者傅玄の都合によって作り話をしているような痕跡がそこかしこに見られるのだ。たとえば曹操の資質が袁紹に十勝するとの説は、荀彧の四勝説を剽窃し希釈したものとしか思えないし、劉備誅殺を勧めたおりの劉備らに対する評価、とくに関羽張飛を「万人の敵」と呼ぶのは程昱の言葉をそのまま使っているくらいだ。あちこちの賢人の発言を切り張りしてありもせぬ郭嘉像を作り上げているように思われる。

以上、根拠のあやふやな予測、兵士に犠牲を強いる強引さ、曹操を危地に陥れた失策、『傅子』による作り話などなど、これらをさっぴくと、もうこの人物を肯定的に評価できる要素がほとんど残りそうもない。一体、彼のなにを評価すればいいのだろうか。