李参平と「民族」「国家」

僕がいちばんいやなのが、現在の都合で過去を書きかえることだ。
李参平さんが秀吉の朝鮮戦争中に一族で日本へ帰化したのは事実だが、彼に民族への固執などあったのだろうか?どうも李参平はもともと修行に出かけた中国で最新技術を取得して、すでに最新式の窯業が始まっていた有田へ移住したというのが真相らしい。意欲ある技術者にとっては才能を生かすことが最優先の希望だったのだろう。その後彼は陶祖とあがめられるほどの活躍をし、子孫の金ヶ江家は今日に至るも隆盛を誇っている。めでたしめでたしである。赤の他人の現代の韓国人が李の歴史を改竄する権利があろうはずもない。
ちなみに朝鮮窯なるものが発足するのは秀吉朝鮮戦争の200年も後である。中国にいけば修行できたのに後継がでなかったというのは、結局朝鮮にやる気がなかったのである。そしてそれが李が日本移住を決意した理由じゃなかろうか。

日本・有田町の歪曲碑文、内容修正へ

 忠清(チュンチョン)南道・公州(コンジュ)市によると、キム・ヨンソ日本・福岡総領事が20日、公州市に電文を送り、「25日、滋賀県知事をはじめ、政・官・財界および文化界の関係者らが出席する中、既存に建てられた碑文の隣に修正された内容の補助碑文を建てることにした」と伝えた。

 日本・九州・滋賀県・有田町に建てられている碑文の内容のうち、「1952年豊臣秀吉文禄の役当時、??平(イ・サムピョン)は日本に協力的だった」という文句を、「??平は1952年、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、鍋島軍に捕らえられ、道案内などの強力を命令されたと推定される」に修正される。

 これまで公州市と忠清南道地域の郷土学者らは有田町側にこの碑文の内容について訂正を要求してきた。

 有田町は壬辰倭乱(イムジンウェラン、豊臣秀吉が1592年に開始した朝鮮侵略戦争)当時、日本に連行され、日本・有田陶磁器の基礎を作った??平を記念し、1917年、??平の白磁創業300周年を迎え記念碑を建立した。

 毎年5月はじめには公州をはじめとした韓国の陶芸家を招き陶祖祭を行ってきたが、碑文の内容のため様々なあつれきがあった。

TITLE:朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)
URL:http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/07/22/20050722000041.html

今日では泉山白磁砿発見者は李参平だというのが定説になって不動である。だが、鹿児島での韓人陶工の子孫である沈寿官氏が当時の朝鮮には唐臼はなかった。それなのに有田では李参平の時代に生まれている。従って李参平は中国人ではなかったかと言うのである。又、最近では有田ケーブルネットワークの西山峰次氏は陶磁全集の解説の中の左の一文を取り上げている。即ち「連房状階段式登窯の遺構が、未だ韓国では発見されないことは、通説のように天狗谷など有田の諸窯が、はたして李朝陶工によって築かれたものであるか疑問を残すのではないかと思う」と。

TITLE:李参平のことについて
URL:http://www47.tok2.com/home/yakimono/honoo/01-05.htm

「陶祖」李参平の子孫はどこに行った

有名な有田焼の産地、佐賀県有田町に陶祖神社がある。祀られているのは日本に磁器の製法を伝え有田の地で初めて磁器を焼いた「陶祖 李参平」である。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の際に朝鮮半島から我が国に「渡来」し、磁器の原料であるカオリンを求め歩き、有田の地でそれを発見してそこで我が国初の磁器を焼いたのである。それまで日本では、肌が白くて薄手の焼き物である白磁を製産することは出来なかった。李参平は一族郎党を皆引き連れて渡来したため、それ以後朝鮮半島における白磁の伝統は途絶えてしまったという。また「伊万里」というのは有田焼を伊万里の港から輸出したため起こった名で、焼かれたのは有田である。今でも有田の町は磁器の生産と販売を中心とした町である、春の連休には「陶器市」が開かれ全国から買い物客が訪れる。そのときには、普段は陶器販売店ではないところも一時的に衣替えをし、町中が陶器販売一色になってしまう。
 有田には数多くの窯元があり、人間国宝の店やら、宮内庁御用達の店やらがひしめき合っている。ところが、不思議なことに「陶祖」と仰がれ神様にまでなっている李参平の子孫が見あたらない。李が引き連れてきたという一族郎党の子孫と名乗る窯元も知らない。磁器の製作には高度の技術と熟練とが必要で、今でも一子相伝の秘術も存在しているぐらいである。焼成の温度も今なら科学的に測定可能であるが、昔は炎の色とかで判断していたのである。ヨーロッパが中国産の磁器をまねて自前で磁器を製産するためにいかに苦心を重ねたかということが歴史に残っている。轆轤の回し方から、絵付けの方法、絵の具の調合、釉薬の組成、何から何までが実に高等技術であり、近代に至るまで秘法や家伝として伝えられてきたものばかりと言っても過言ではない。そのような技術を「当時の百姓が農業の片手間に李さんの陶芸教室で習ってきて、自分で窯を開き、さらには農業までやめてかかって有田焼を焼いた」などと言われても到底信じられることではない。要するに李参平とその一族郎党の子孫が「昔からの日本人」になったと考えるしかないのである。その傍証として、沈寿官などの薩摩焼きの職人も同じく朝鮮出兵の際に薩摩藩に渡来した人々の子孫で、代々の薩摩藩主がその異国趣味からか従来通りの姓名を名乗らせ風俗も従来通りにしてある苗代川という地域に居住させ、武士の待遇を与えていたことがあげられる。ちなみに、戦前の外務大臣A級戦犯として処刑された東郷茂徳もここの出身で本来の姓は「朴」である。
 言うまでもないことだが、有田の窯元や商人達は地元の名士であり佐賀県、果ては日本の名士でもある。このように「昔からの日本人」になって地元のみならず日本中の有力者や名士になった朝鮮半島や中国出身者は有田の他にも多いはずである。

TITLE:李参平
URL:http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-5.html

実は金ヶ江さん、日本で初めて磁器焼成を成功したとされている李参平のご子孫で、韓国での技術研修終了後も、初代李参平の研究を続け、登り窯を使って初期伊万里を復刻すべく作陶活動を行っていらっしゃいます。またこの2月には伝統工芸士としても認定され、活躍が期待される若手作家の一人です。

TITLE:行ってきました見てきました
URL:http://www.umakato.jp/itte/2005/vol02.html

金ケ江家文書

稗古場の金ケ江義人家に伝わる古文書類で、分家筋から陶石の採掘権をめぐって寛政12年に佐賀藩へ提出されたものなどがある。その中に先祖李参平が日本に渡来したことや、泉山で陶石を発見し天狗谷に窯を築いたことなどが記されている。有田町史「陶業編1」参照。

TITLE:ベールを脱いだ古窯 予想を超えた規模の天狗谷
URL:http://www47.tok2.com/home/yakimono/onna-sarayama/27.htm

陶器市期間中を含む4/29-5/31に有田町の商工会議所及び有田館にて「日韓交流陶磁展」を開催いたしました。李王朝時代より約200年、歴史の荒波を乗り越え、脈々と作陶を続けてきた「朝鮮窯」の8代目にあたる金榮植(キム・ヨンシク)先生(慶尚北道聞慶市)と、16世紀末に朝鮮半島から日本に連れて来られ、日本最初の磁器を創世した陶工・李参平の子孫13代金ケ江義人先生の作品が約50点展示され、両国の陶工の技を通した交流を実現することが出来ました。
おかげさまで3千人を越える多くの方々のご来場をいただくことができました。心より感謝申し上げます。また新聞各紙とFBS「めんたいワイド」などで紹介されました。

TITLE:玄海人クラブホームページ〓活動報告
URL:http://ww7.tiki.ne.jp/~genkaijin/houkoku.htm

日本で最初に磁器を作ったのは李参平といわれているが、中島浩氣著の「肥前陶磁史考」によれば、李参平が来日する以前にすでに黒牟田・応法地区では磁器が作られていたのではないかと考えられている。

TITLE:古窯の里 有田 黒牟田・応法〓400年の歴史が息づく〓
URL:http://p-j-net.ne.jp/kuromutaoubou/rekisi.htm

「李参平」を知っていますか――大阪書籍――

 教科書の目次は、その編集姿勢を物語っているが、巻末の索引もまた、その教科書の性格を物語っている。
 例えば「大書」の人名索引には、「安重根」「李参平」「李舜臣」「李成桂」「金日成」「全準」「柳寛順」の朝鮮人名が、例によって韓国音の表記で記載されている。全世界史上記憶すべき二百十名の中に、朝鮮人が七名も採録され、しかもそのうちの王族は一名のみ。戦後韓国で創られた政治神話で「東洋のジャンヌダルク」と称される柳某が、世界史を代表する人物でないことは誰の眼にも明白であるが、「大書」は大きく採り上げている。
 何故ならば、「近隣諸国条項」への配慮と教科書採択権を持つ反日教員に阿る(おもねる)ためである。
 柳ばかりか、明治維新の元勲たる伊藤博文の暗殺犯を、「大書」は「朝鮮の青年安重根」とあたかも英雄の様に記載している。
 そればかりか「李参平」なる聞きなれない人物名を採り上げ(「東書」も同様)、「陶祖李参平」なる写真を掲載している。そして、「秀吉の朝鮮侵略のさい、多くの朝鮮人陶工が日本に連行され、李参平もその一人でした」と、大東亜戦争中のいわゆる「朝鮮人強制連行」を連想させる意図的表記を行っている。この記述は、歴史を四百年溯及し、侵略者たる日本を断罪しつつも、文化的優越国たる朝鮮が、わが国に多大な恩恵を与え給うたかを生徒に印象づける効果を狙っている。
 朝鮮の一陶工の氏名を載せるならば、信楽、瀬戸、常滑丹波備前、等々の陶工名を何故記載しないのか。「大書」は、赤絵の始祖たる柿右衛門も、仁清も載せていないのである。もともと一人の陶工が有史以来二百十名の歴史的人物に列挙される資格があるのか。
 また、朝鮮、韓国の人名が、国史を含む歴史上の重要人物中、三十分の一もの確率で登場させる価値があるのか、「大書」の対韓土下座編集の問題点は大いに論議されねばならない。

TITLE:日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【教育問題について】
URL:http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01254/contents/764.htm