三河大野から鳳来寺山へ

 阿寺の七滝&鳳来寺山の旅の後編です。


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 除草作業中の三河大野駅にある案内掲示板で道筋を確認し線路沿いに北へ。踏み切りを渡って進むと引地という所の東海自然歩道の看板があった。そこから人工林が整然と立ち並ぶなだらかな山道を歩く。

 しばらくすると「湯谷峠まで200m」の看板があり、急に勾配がキツくなり足場が悪くなった。「明らかに200mじゃねーだろ」と唸りながらのそのそ歩いていると椿地蔵というものがあった。
 隣に石碑が立っていて、それによると野田城主菅沼定村の弟の菅沼三右衛門定圓のお墓で、1556年(弘治2)に織田方に味方し今川氏と戦い、この椿坂で討死したそうだ。この石碑は大津市の菅沼さんが立てた物らしい。菅沼氏はのちに徳川家に仕えて、家康の関東入国後に上野阿保に封じられた。その後、いくつかの場所を転々と移封を繰り返した。その中に近江膳所藩にも封ぜられているので大津に末裔がいてもおかしくはない(ぜんぜん違う理由だったらごめんなさい><)。

 閑話休題して、湯谷峠から5分ほど登ると鳳来寺山パークウェイに架かる歩道橋がある。そこからの景色と紅葉が素晴らしかった。歩道橋を渡ると行者越(行者帰とも)の案内板がある。行者越はかつて鳳来寺参道最大の難所と呼ばれ、多くの修験者がこの岩場を越えて修養道場に臨んだと伝えられている。歌川広重も「東海道風景図会」でこの地を版画に残している(コレ)。かの役小角もこの坂が辛すぎるのでルートを変更したとも言われている。今ではしっかり整備されていて音を上げるような坂ではないが、昔はさながらロッククライムのように登っていたようだ。
 行者越の坂を登り切った岩場からの景色も素晴らしく周りの山々が見渡せる。

一息入れてから落ち葉の積もった山道を歩いていると、進行方向の坂の上にが座っているのに気づいた。すかさずカメラを構えようとしたら、向こうもこちらに気づいたらしく一瞬目が合ったと思ったらそそくさと藪の中へ逃げて行ってしまった。急いで坂を駆け上がって様子を探るとガサガサと落ち葉を踏んで逃げていく音がしていた。同じ霊長類としてご挨拶ぐらいしたかったのに〜と歯痒い思いをしながらも、ニヤニヤ顔で山道を進むとパークウェイと東照宮の間の道路に出た。

鳳来山東照宮

 徳川三代将軍家光が日光東照宮に参拝した折、その縁起に「松平広忠が立派な世継ぎを得たいと思い、奥方とともに鳳来寺にこもり祈願して生まれた子どもが家康であった」と書いてあったことに感銘を受け、この地に東照宮を建てることを決心した。完成したのは四代将軍家綱の治世で、江戸時代初期の建築法を残す貴重なものとし、国の重要文化財になっている。
 人物神を主祭神にする神社にはあまり参詣してないので詳しくはないが、徳川家康を神として祀る際に神号を「大権現」にするか「大明神」にするかで揉めたという話を聞いたことがある。結局、秀吉が大明神だったので、それに対する形で大権現に決まったんだとか。
 鳳来寺パークウェイの駐車場から向かってくる人達がちらほら見受けられた。東照宮の前にはかなり急な石段があって、ご老体の参拝者には辛そうだった。江戸時代までは石段の前に番台のようなものがあり、手形を持たぬ者はたとえ大名であってもこの階段を登ることは許されなかったそうだ。一般人は石段の下から拝礼していたことを思うと、いい時代になったもんだ。戦前は狛犬が参拝者によってほじくられてなくなったことがあったそうだ。狛犬の欠片を持っていると家康のような運の強さと弾に当たらないご利益があると、まことしやかに信じられていたらしい。

鳳来寺山

  • 標高:684m

 東照宮社務所の裏を通って登山道に入る。十分ほどで鷹打場に出る。

 この辺りからやや曇り空になってきて山を登るには涼しくて好都合だった。少し道を戻って黒曜石がむき出しになった岩場を駆け登っていく。途中、石がモッコリと積み上げられているところがある。これは巫女石高座石と言って、鳳来寺山を開山した利修仙人が説法していたら八人の巫女が天より降りてきたという故事に因むものらしい。

 登り下りを繰り返すとKEEP OUTの黄色いテープで囲まれている小屋がある天狗岩に出る。天狗に形が似ているからその名が付いたそうだが、岩が大きすぎてどこがどう天狗なのかはよく分からなかった。ちょうど曇り空の隙間から日が差し、オーロラのように新城市街地辺りを照らしていた。何かが降臨しそうな幻想的な風景に感動。左手の方角には浜松のアクトタワーらしき摩天楼が、右手には豊川・豊橋三河湾がうっすら見えた。

 お腹も空いてきたので山頂に向けて先を急ぐ。やや下り道が続いたあと、山頂前の心臓破りの坂が待っていた。登りやすくするためか鉄の杭が岩に刺さっているが、コケたら逆に怪我しそうで怖かった。山頂には案内板とベンチが設置されている。眺望はない。中年の4、5人の団体がカップラーメンを食べていた。

 そこから東海自然歩道に従って2分ほど歩くと大きな岩が出現する。『瑠璃山』という看板が掛けられていて、鳳来寺山よりわずかに高い695mの山頂になっている。岩場に恐る恐る登ってみたが木が邪魔で眺望はよくなかった。ただ、岩の前にある階段からの展望はよく奥三河の山々が望めた。

 汗をかいたので岩場の影てこっそりシャツを着替えて鳳来寺山の山頂方面へ戻る。来た道と反対の道を進むと奥の院に突き当たる。開祖や霊仏を祀る場所らしいが、左に10度ぐらい傾いていて今にも崩れてしまいそうだった。瓦も落ち、中を覗くと床も抜けていた。奥の院の近くには見晴台があって、南の方角が眺められる。相変わらず雲の隙間から日光が差して風光明媚な展望を演出していた。

 奥の院から下り道を通っていくと、六本杉に着く。元々は七本杉であったが、利修仙人がその中の一本を切って薬師如来を彫って本尊としたと伝えられている。見た感じそれっぽい杉は確認できたので2本+切り株1本だった。あとの杉は落雷や強風で朽ちてしまったそうだ。

 利修仙人が入寂したとされる勝岳不動の横を通って下って行くと、本堂に続く石段に着いた。東照宮から山頂を経由して本堂に着くまで1時間半ほどだった。

鳳来寺

 鳳来寺の歴史についてはWikipediaやちょっと難しいがココのページが詳しい。鳳来寺を開山したのは前述の通り利修仙人(古くは理趣仙人とも)。地元では仙人様と呼ばれ尊ばれているが、お坊さんなので利修上人と行った方が正しいのかもしれない。
 利修仙人は鳳凰や龍を乗り回しただとか、赤鬼・青鬼・黒鬼を使役しただとか、309歳まで生きただとか、いろいろな伝説が残っていて個人的にはなかなか興味深い人物。鳳来寺は時の流れに沿って盛衰を繰り返していたが、江戸時代に入ると東照宮が建てられ幕府からも多くの寄進を受け、東三河随一の大寺院となった。遠州秋葉神社とこの鳳来寺を結ぶ秋葉鳳来寺街道は多くの観光客で賑わったという。
 しかし、明治に入り神仏分離とそれに伴う廃仏毀釈が起こると状況は一変し、困窮の一途を辿ることになる。かつて数多存在したという坊院跡を見ると、やはりもの寂しい印象を受ける。
 現在の本堂(写真)は1914年(大正3年)に火災で焼失したので1974年(昭和49年)に再建されたものである。この再建には面白いエピソードが残ってる。利修仙人が従えたという三鬼は、自分の死期を悟った仙人が「お前たちがいては参拝客が怖がるので、ワシと一緒に死んで鳳来寺の守護をせよ」と説得して、首をはねられ本堂の下に埋められたとされていた。江戸時代にも本堂が焼失し、再建した際にその首の入った箱が出土して、日本人のものより一回り大き頭蓋骨が入っていたと記録されている。といってもそれらの記述はあくまで伝説であると思われていた。それが戦後、本堂の再建工事の途中に「鬼骨入り」と彫られた石櫃が発見され皆が仰天した。中に頭蓋骨は入っていなかったが骨粉が入っていて、分析の結果、哺乳類の骨だということらしい。結局鬼かどうかは分からなかったが、千年以上前の伝承が現代に蘇るに対するロマンを感じる出来事だ。
 
 本堂の屋根付きベンチで休憩したのち、鐘楼と鏡岩の真下を経由して、石段の参道を下り始めた。

↑鐘楼

↑鏡岩を真下から見上げる
 この石段は全部で1425段あり、普通に歩くと往復90分かかる。真夏にこの石段を登ると暑さと群がってくる虫の多さで嫌になるほどだ。石段の横にはかつて存在した多くの坊院跡の石碑が立っている。

不動院

↑延々と続く石段
 石段の両脇には杉の大木がニョキニョキ生えている。その中でも一段と目を引くのが傘杉だ。今まで生えていた大杉のさらに2倍ぐらいの太さがある。前回来たときは注連縄が施されていたがなくなっていた。目通り周囲7.5m、樹高60m、樹齢800年で、なんと樹高日本一の樹木だそうだ。ただ、木の大きさは幹の太さで競われることが多いため、あまり知られていない。(屋久島の縄文杉などは特別な条件下で幹が太く成長したタイプ。この傘杉はノーマルな杉のタイプで大きいと言ってもスレンダー)
 天に向かって直立する様は正しく杉の中の杉といった印象を受ける。昔は枝がパラソルのようになっていたが、台風などで折れてしまったそうだ。

↑写真だと大きさが分かりづらいので持っていたペットボトルと比較

↑一番下の枝でも高さ37mの位置
 廃仏毀釈の影響で貧窮した僧侶たちは仏具や仏像などと共にこの杉も売却しようとしたらしい。50円(当時)で買い取った業者が木材にするために伐採しようと斧を入れると、傘杉から血飛沫が吹き出し、慌てて伐採を取りやめたという昔話が残っている。

 傘杉を過ぎると徳川家光が建てた仁王門がある(国指定重要文化財)。仁王門正面の「鳳来寺」の額は光明皇后聖武天皇の后)が書いたものが掛けられていたと伝えられている。

↑フェンスの中から仁王像が鋭い目付きでこちらを睨みつける
 近世・近代には多くの文豪が訪れた鳳来寺には、それを記念した石碑も数多く建てられている。

松尾芭蕉の碑。残念ながらこの日は風が弱かったので句の通りにはならなかった。

 石段を降り切ったら食堂兼土産屋で遅めの昼ご飯を食べることに。メニューを見て「仙人定食」にファーストインプレッションで即決。私の他には老夫婦が二組お茶していた。なかなかボリュームがあったが空腹感のループを3回ぐらい超えていたのでペロッと平らげてしまった。
 帰りのバスの時間まで微妙に空いてしまい、どうしようか悩んだ末、「鳳来寺山自然科学博物館」に寄ることにした。鳳来寺山には何度か訪れてきたが、ここに入るのは始めてだった。

 博物館の中は、鳳来寺山を中心とした岩石・化石・鉱石・植物・動物・菌類などが展示してあった。さっき見掛けたニホンザルの模型もあった。コノハズクのコーナーでは先日、豊橋市の公園で発見されたコノハズクの写真が額に収められて展示してあった。(参考:幻の鳥コノハズクを撮影 愛知・豊橋市の公園
 バスの時間が押し迫ってきたので、もう少しゆっくり見ていきたい気持ちを押し殺して博物館を去った。バス停に着くと1分ほどでバスが来て無事帰路についた。


【感想など】
 鳳来寺に関する本を何冊か読んだことがあるせいか、書きたい事柄が多くて記事にするのに時間がかかってしまった(だいぶ削ったけど)。一年ぶりに行ってみて伝説と歴史が入り乱れる鳳来寺はとっても魅力的なところだと再確認できた。
 阿寺の七滝から東海自然歩道を通って鳳来寺山まで歩いた訳だが、行者越に着くまで他のハイカーには一人も出会わなかった。鳳来寺はパークウェイが整備されているし、表参道は石段側なので当然といえば当然だけど。
 紅葉はやや散り気味だったが去年よりは断然楽しめた。あとで調べた情報によると、パークウェイの駐車場付近はかなり綺麗だったらしい。また惜しいことをしてしまったなぁ。
 本当は湯谷温泉にも行きたかったけど、ルート的に無理があったので今回は諦めてしまった。また機会があれば是非ゆっくり温泉に浸かりたい。