2018/01/07 四ツ谷散歩 01 旧四谷見附跡/国史跡江戸城外堀跡(四谷門地区)/六番町/五番町/三年坂

24時間勤務アケに四ツ谷散歩。
11月2日に紀尾井町を散歩したが、見てないところが沢山あったので周囲を散策。


スタートのJR四ツ谷駅



◆旧四谷見附跡



この石垣がそうなんだと思うのだが、説明板とかなかった。
次に「新四谷見附橋」を渡ったところにある説明板にいろいろ書いてあった。



<新四谷見附橋を渡る>




国史江戸城外堀跡(四谷門地区)





 牛込(飯田橋駅)から赤坂(赤坂見附)へ続く江戸城外堀は、寛永13年(1636)に仙台藩伊達家をはじめとする東国52家の大名により開削されました。この外堀普請は、約30年にわたる江戸城建設を締めくくる大規模なもので、外堀予定地やその周辺の多くの寺院や町屋が移転しました。
 四谷付近では、現在の舟町・愛住町と須賀町・若葉二丁目一番に寺院が集められ寺町が形成されます。また、半蔵門から都通麹町の十丁目西側に四谷門を築くため、麹町十一丁目から麹町十三丁目は、現在の四ツ谷一丁目にあたる部分に移動しました。そして、寛永15年には四谷大通(現新宿通り)や御堀端通り(現外堀通り)沿いに四谷伝馬町や四谷塩町が設けられ、今も続く四谷の町割りが完成します。



◆六番町



 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
現在の番町小学校が建っている場所には、かつて定火消(じょうびけし)(消防)の役屋敷(やくやしき)があり、のちに上野小幡(こうずけおばた)藩上屋敷(かみやしき)となりました。四谷御門寄りの広い敷地には、尾張藩付家老(つけがろう)成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)の上屋敷がありました。明治以降は、下六番町(しもろくばんちょう)という町名になり、昭和十三年(1938年)から現在の六番町になりました。
明治から大正・昭和にかけては、数多くの文化人や高級官僚の住宅地として発展しました。「破戒(はかい)」「夜明け前」の島崎藤村、「婦系図(おんなけいず)」「天守物語」の泉鏡花(いずみきょうか)、アララギ派歌人島木赤彦(しまきあかひこ)、「或る女」の有島武郎(ありしまたけお)、「三田文学」で活躍した水上瀧太郎(みなかみたきたろう)、「父帰る」の菊池寛(きくちかん)、「多情仏心(たじょうぶっしん)」の里見紝(さとみとん)、「百鬼園随筆(ひゃっきえんずいひつ)」の内田百●(門構えに月)(うちだひゃっけん)など、多くの作家たちが居を構えました。また、印象派を紹介した画家で作家でもあった有島生馬(ありしまいくま)、エコール・ド・パリで活躍した画家の藤田嗣治(ふじたつぐはる)、歌舞伎俳優の初世中村吉右衛門(なかむらきちえもん)、初世市川猿翁(いちかわえんおう)、二世中村又五郎(なかむらまたごろう)、三世市川猿之助(いちかわえんのすけ)、長唄の吉住慈恭(よしずみじきょう)などの芸術家も六番町の住人でした。
かつては日本の近代的女性を育んだ)明治女学校、日本の歌壇の中心的存在であったアララギ出版所、菊池寛が創立した文藝春秋社もあり、白樺派の誕生にかかわった有島邸や若い作家たちが集った鏡花邸など、まさに六番町から、日本の近代文学や芸術が開花したといっても過言ではありません。



◆五番町



 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
江戸城外郭門のひとつである市谷御門(現・JR市ヶ谷駅付近)があったこの町は、旗本屋敷が整然と立ち並んでいたようです。明治時代にこの地に付けられた町名は土手三番町で、五番町と改称されたのは昭和十三年(1938年)のことです。
江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。また、ほかの番町と同様、この界隈も文人たちに愛された町でした。
フランスの風刺画家であったビゴーや、「婦系図(おんなけいず)」「歌行灯(うたあんどん)」などで有名な小説家の泉鏡花(いずみきょうか)も、明治時代の一時期ですがこの町の住人でした。夏目漱石の門下生で、「山高帽子」「ノラや」などの作品で知られる小説家・内田百●(門構えに月)(うちだひゃっけん)は、昭和十二年(1937年)からの十年あまりをここ五番町で過ごしました。数多くの随筆で知られる百間は、「東京焼盡(とうきょうしょうじん)」のなかで、戦場ルポライターのような確かさで、空襲のさまを描写しています。彼の邸宅跡地には、現在、番町会館が建っています。また、昭和二十九年(1954年)に「驟雨(しゅうう)」で芥川賞を受賞した小説家・吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)もこの五番町の住人でした。
落ち着いた風情を色濃く残す五番町の趣は、こうした偉大な文人たちによって培われてきたものなのです。



◆三年坂




この坂を三年坂といいます。
 「新撰東京名所図会」には「下六番町の方より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも三念寺坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりし因り此名あり。然るに俗間誤りて三年坂と称し、」とかかれています。



続く。