玉永寺前坊守講演


6月28日 「水橋九条の会」にて水橋ふるさと会館で話した原稿です

水橋小出 、玉永寺 石川です。
昨年の暮、事務局の方から戦争体験の話をするようにと言われ、こんな貴重な場で 皆さんに話を聞いていただく機会を与えていただきました。昭和20年の敗戦から早くも64年 長い月日と時間を過ごしました。私の戦争体験は小さい頃です。はっきりと記憶している訳ではありませんが、一人の子供として淋しい思いをしたこと、辛い思いをしたこと、嫌な思いをしたことをメモを見ながら話そうと思います。このことは、私ばかりでなく、戦争で犠牲になった人たち、又遺族方々、そして戦争にかかわった全ての人たち、それは日本だけではなく世界全体の人たちの心情だと思います。

私の母は昭和12年9月3日、19歳のとき玉永寺の長男に嫁ぎました。日中全面戦争の中、直ぐに戦地に行くと言うことで急いで結婚式を挙げました。嫁いで一週間後、9月12日、富山連隊 冨士井部隊に入隊し、その一ヵ月後10月12日中国で戦死しました。23歳の時です。お寺の仕事は次男が継ぐことになり、私の父は京都の大学に勉学に行き、住職の資格を収得し母と結婚し、私は昭和15年に生まれました。私が2歳になりようやく片言で人の名前が呼べるようになったとき 第二次世界大戦の召集を受け、昭和17年1月28日東京赤羽にある部隊に入隊され、戦地へと旅立ちました。母は18年11月京都の東本願寺で住職の代行を勤める資格を取り、其の後法務を努め、寺を守りました。


次の年、昭和19年8月29日東京の大間窪小学校から児童51名が疎開して来ました。先生2名、作業員2名 寮母さん等、そして私たち家族4名総勢60名、寺は大勢の暮らしとなりました。お寺は玉永寺学寮と言って、気丈な母は、保母としても働いていました。保母は疎開児童のお母さん代わりとなり そのお世話をする仕事でした。当事は、配給米も少なく、食べるものが不足して母と門徒のおばあちゃんと荷車を引いて門徒さんにお米や大根やかぶ等の野菜を集めて廻っていた、そんな姿も私は見ています。母の残している日記には 8月29日「もち米7升 飯米2、5升」と書かれてあります。精一杯のお迎えをしたのだと思います。それからは毎日「米 朝4、5升 昼5升夕飯には 4、5升そして10月に入りますと米が1升減り代わりに豆が入り、又うどん、すいとん」と書かれて有ります。すいとんとは、麦の粉を団子に丸め、野菜と一緒に入れ味噌汁にしたものです。飯米購入通帳というのが有り 村長さんの名前で発行されています。食べ物にどれだけ苦労していたか想像されます。「朝はお弁当箱全体に入っていたご飯が、お昼になりいただく頃は、アルミの弁当の片方にかたむき、農家の子供さんの、真っ白のご飯が一杯詰まったお弁当が羨ましかった、お弁当箱が無くなった事も度々有った」「又、夏は外で一列に並び、DDTという白い粉を頭からかけられて、ノミやシラミを駆除したり、又村祭りに成りますと、村の方々がそれぞれの家に招いて下さり馳走いただいたり お風呂に入れてもらったりして村の人におせわになったことが忘れられない」と 疎開に来ていた人たちが語ってくれました。


翌年20年の3月2日6年生は中学校に入るので帰り、其の後小学校1年生と2年生が疎開し、小さな子供たちは 父母が恋しく毎晩のようにすすり泣いていました。その学童疎開に来ていらした方も 今は72歳から77歳になられ、今も交流しています。

ここで、17年に戦地に立った父からの便りの1枚を読みます。


「玉永寺御一同様」
師走の砌 故郷の山河はさぞ木枯らしの吹きすさみ報恩講廻りも大変なことであろうと思い 皆様のご苦労を思い浮かべ感謝致して居ります。それに引換え比島(フイリッピン)は7、8月頃の暑さで蛙さえないて居ります。寒さの折 門徒各位や千穂子は元気でしょうか、お便りいたしました。
葉書が自由に無くお便り致さないことをお詫びいたします。比のところに来て、いよいよ自己のなすべき事がはっきりして来たように思われます。朝廷の御為 新兵として恥ずかしからぬ重大な責務が課せられている事を深く感じました。勿論、皆様も日々のラジオニュース等で報を聞き周知致しておられる事と思います。国として又 民族として男としてなすべき事が沢山あります。
何卒いかなることが有りましょうとも 決して泣くことなく、涙することなく 仏のみ法を喜び信じ 一家仲良く日暮を致し下されたく尚、門徒の皆様にも宜しく。「東雲の空を拝せぢ母の顔」
萬波へだたる南海の孤島より 比島派遣6167部隊気付5542部隊遠藤隊


父から来た葉書が19枚有り その中の1枚です。


遠くの門徒さんも有り、当時は母のただ一の乗り物は自転車でした。1日に2人もなくなられ、母は体がだるく、足の裏が膿んで歩けなくなったり、それでも白衣に衣を着て 黒いもんぺをはき、黒い重いマントを着て自転車に乗り働いた母の姿は、今も目にやき付いています。自転車に乗ったまま、川に流され、誰かに助けていただいたと話したことも有りました。無理を重ねた母はついに、肋膜を患ってしまいました。小さな私にうつしてはいけないと、母は祖母たちのはからいで私を残し実家に帰りました。


戦争は益々激しくなり、夜になると富山にも飛行機のB29が飛ぶように成り、夜はサイレンがなると裸電球に黒い布を捲き 灯火管制。小さな私も疎開児童の方たちの後につき、一緒に綿の入った防空頭巾で頭を覆いあごの所でひもを結んで急いで 前の大通りに一列に並び 先生の「ふせー」と言う号令でそのまま体を地面に投げ出しました。何度もそんな日が続き、そして8月1日富山の空襲。爆撃、スゴイ音を立て低飛行してくる飛行機と同時にヒュルルー、感高い音がしてピカピカ光る金色や銀色の赤や緑の光ったテープのようなものがヒラヒラ空から舞い落ちると、同時にドカーーン、ドカーーーンと物凄い爆発。爆音と共に西の空が真っ赤に燃え火の粉が吹き上がり。真夜中なのにビルの建つ富山の町がとても近くに見え、一瞬のうちに町が焼け野原になりました。そして沢山の人の尊い命が失われてしまい、寺には、東京から、富山から焼け出され知人や親類の方たちが疎開してこられました。


昭和20年、1945年8月15日 とうとう日本は降伏し戦争は終わりました。9月に入り父兄の方の迎えがあり疎開児童は帰られたのです。終戦になった一週間後 父は8月23日にパラオ諸島で亡くなったのです。25歳でした。南洋の暑いパラオ諸島での戦いは、細い体の父をどれだけ苦しめたことでしょう、その上 何も食べる物が無く父の死は、餓死です。人間が枯葉のようにやせ、次々と亡くなられたそうです。


暑い日「帰ってこられる、帰ってこられる」私は何もわからず舟橋村の電車の駅へ迎えに行きました。4才になった私は20センチくらいの正方形の木箱を真っ白な布で肩からぶら下げ 家族もいなく舟橋駅から門徒の方々と列をなして歩いて帰りました。首から下げたその箱は あまりにも軽く、歩く度に「カタカタ」小さな物が転がる音がして私は不思議に思いました。家で待っていた祖母は私の姿を見て、泣き崩れました。木箱の中には父が肌身離さず持っていた、汗で擦り切れ よれよれバタバタになった父の貯金通帳と、真っ赤なケースに入った小さな赤い判子でした。転がる音がしたのは その判子だったんです。それと綿でくるんだ小さなものが入っていました。想像したのは父の爪だったんだろうと思います。


実家で病床の母は父の死を知りました。寺の境内地に、回りが4尺五寸もあった20本の杉の木、水橋から五百石までにこんな立派な杉は無いといわれた木も供出、釣鐘堂の梵鐘も供出、住職2人も戦死。戦争は 私の家族の幸せを全部 奪い取って行きました。抜け殻になったような祖母と母、しばらくして祖母は亡くなり、叔母は嫁ぎ お寺は母と私二人だけに成りました。母は、実家のお世話で体も回復し門徒回りもできるようになりました。私は、楽しい事もなく、うれしい思いもなく、何が有っても面白くなく 笑いたくなくなり、気づかぬうちに笑いを忘れ、どんなことにも感動しなくなりました。学校で先生に指摘され気がつきました。留守番ばかりの私は淋しくなると、2階にある母のタンスの前に椅子を持っていって、一番上の引き出しに母が大切にしてる父からの便りを見つけ、何度も何度も繰り返し読みました。そして見たこと、読んだことは母には絶対言いませんでした。母の張り詰めている気持ちが子供心に崩れるように思えたのです。


其の後は本堂も庫裏も毎年修理の連続でした。毎日お世話方が寄り合いに来られ、夜遅くまで続くお酒の会合、そして暴言の恐ろしさに隣の家まで裸足のまま家を飛び出した事も有りました。母は自転車に乗り、黒いマントを着て雪の中も雨の中も働き、白衣に黒い衣、遅く帰る頃には、足袋がびしょぬれ、夜はいつも黒いマントと つくろいをした白い足袋がコタツのやぐらにかけられていました。そして口癖のように「まじめにたてなさい」と繰り返し教えてくれました。きっと、自分自身に言い聞かせていたのだと思います。


そして私は19歳で住職を迎え結婚しました。母が40歳になった頃、県の未亡人会、お寺の坊守会、村の婦人会、いろんなお世話をして強くなっていました。月日がたち、母はやっと色の付いた洋服を着たり口にも紅を注すようになりました。父が亡くなったところに行きたいと パラオの近くのフイリッピンまで一人で出かけました。その頃はまだ、遺骨収拾団などはなかった頃で 現地の人に案内を頼んだそうです。私を誘ってくれましたが、男の子3人持ち、子育てに夢中だった私は母を思いやる事が出来ませんでした。


良く言いました「あんたが居たから頑張ってきたのだ」そう言う母の言葉に私は押しつぶされる思いが致しました。戦地で父と一緒だった方が再び父のことを話したいと 尋ねてこられた事がありましたが、母も私も再び悲しい辛い思いをするのはいやで 聞きたくなく直ぐに帰ってもらいました。その後も気丈な母でしたが 狭心症を患っていました。そして母は昭和57年暮も押し迫った12月23日心臓発作が有り 富山中央病院の救命救急センターへ入院しました。ベッドの上でいろんな機械に繋がれ 強かった母は仰向けの姿のままでした。
最後に面会に行った時 力なく言いました「自分の人生を考えて見ると幸せ者だったわ」。苦労ばかりの母の人生だったのに、このような言葉が母の口から出たことに驚き、胸が張り裂ける思いになり 苦しく悲しく、涙がひとりでに流れました。今もこの言葉が 私の生きる支えとなり どんな時にも勇気を与えてくれています。
母の苦労を一番知りながら、優しいことばもかけず、当たり前のようにすごしたことに申し訳なく、目の前の身動きの出来なくなった母に感謝の気持ちで一杯になりました。その夜 昭和58年の元旦でした、急変し63歳でこの世を終えました。病は心筋梗塞でした。


苦労を重ねた母は 暖かく迎えてくださった ご門徒の皆様に支えられ、耐えて生きて来れたのだと思います。今年は母の二十七回忌です。

世の中には明るい光の中に輝く人生もあるかもしれませんが、歴史に翻弄された父や母のような 父の兄のような 自分ではどうすることも出来ない くやしい戦争で このように人生を過ごした人がいます。人を人でなくしてしまう戦争 すべての世の中の人を悲しみのどん底に突き落とす戦争、私は絶対2度と繰り返してはいけないと思います。おろかな戦争で日本人が300万人以上超す犠牲者となり、ヒロシマナガサキ原爆兵器による5,000万人を超える人の命を奪った第2次世界大戦。又中国、インドネシアベトナムフイリッピン、韓国、北朝鮮で1,700万人の方が亡くなっています。私の家族のような、辛く悲しい家族は2度と作らないで下さい。
この悲しみの中から平和を望み「憲法第9条」が生まれたに違いは無いと信じてます。外国の人も うらやんでいる平和の「憲法第9条」です。この憲法にこめられている悲願を、未来ある子供たちのために 一人でも多くの人に分かっていただけるよう伝えていく責任が 戦争の悲しみを体験したものみんなに有ります。 


お釈迦さまは「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と 生きとし生ける、全てのものの いのちの尊さと平等を説いて下さっています。私はこの言葉を憶念しながら「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と 念ぜられた親鸞聖人を偲び一人の仏教徒として 今日この場に立たせていただきました。ありがとうございました。
     玉永寺 前坊守     石川千穂子