武漢周辺三国志遺跡

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坂坡は、湖北省の当陽県の西南部に位置しています。 ここはもともと一面丘陵で、草木が生い茂っていたところです。

長坂坡の戦い

長坂坡は三国古戦場で、三国時代の趙子龍の声望が鳴り響いた場所です。後漢の建安13年(西暦紀元208年)、曹操は新野での諸葛孔明の火攻めに対する復讐のため、自ら五千もの人馬を引き連れ襄陽を出発し、劉備を当陽まで追い詰めました。 劉備は十数人の家臣を引き連れ逃げたが、家族や家臣全て曹操軍に包囲されてしまいました。 趙雲劉備の妻子を救うため、単独で曹操軍と戦い、劉備夫人の糜竺和甘と、子の阿斗を救い出しました。 それからというもの、趙雲は世にぬきんでた英雄の名誉を獲得しました。

この家臣が主人を救うというストーリーは中国では、美談としてよく知られています。 明の万暦の10年(西暦紀元1582年)、丘の前には、記念碑が建てられています。 1934年には長坂坡公園が作られ、1979年に改装されました。

長坂坡の趙子龍遺跡

長坂坡の東に、今「子龍街」と呼ばれる通りがあり、趙子龍と曹兵がここで市街戦を行ったそうです。

長坂坡の西南に「子龍畈」と呼ばれる丘があります。西の田舎に「太子橋」と「娘娘井」の遺跡も残っています。言い伝えによると、当時糜夫人は阿斗を抱えて太子橋の下に避難したそうです。娘娘井の名前の由来は、糜夫人がこの井戸に身を投げたとされます。

バ陵橋

長坂坡まで25キロの所にある「バ陵橋」は、張飛が橋で川の地の利を利用して、敵を阻んだ所です。史料によりますと、後漢建安十三年(西暦紀元208年)に劉備が曹軍に追撃されて、その義弟の大将軍張飛が橋で魏の追撃の兵士を睨んで、曹軍に向かって、「吾輩は燕人の張翼徳だ。俺と決死の覚悟で戦う者はいるのか!」と叫んで、曹操の部下の夏侯傑がびっくりして、落馬して死んだそうです。曹軍は張飛の勢いを恐れて撤退しました。張飛はすぐ部下を命じて橋を取り壊しました。清代雍正年間、張氏の子孫はここに「張翼徳横矛処」(長矛を横に持つ所)との石碑を立てて、今でもよく保存されています


古隆中は、湖北省襄陽市から13キロメートルの諸葛亮旧居を主体とする観光地で、総面積12平方キロメートルあり、既に1700年以上の歴史を持っています。風景区は山々に包まれ、中には松や柏などの木々が高く聳え、いかにも麗しい景色です。隆中山、楽山、大旗山、小旗山などの山があるほか隆中十景として知られる、躬耕田、三顧堂、小虹橋、六角井、武侯祠、半月溪、老龍洞、梁父岩、抱膝石などがあります。

蜀の王となる劉備に宰相として仕えた諸葛亮孔明が、劉備に仕える前にここの茅の庵に住んでいました。 207年、劉備は古隆中に諸葛孔明を訪ね、「三顧の礼」を尽くして軍師に迎えました。 このとき諸葛孔明劉備に有名な「天下三分の計」を説いたといわれています

古隆中牌坊

古隆中の入り口を入ると、「古隆中」という三文字が真ん中に彫刻されている三門石坊(三門四柱で石造りの記念門)が見えます。記念門の裏側には、諸葛亮を夏代、商代、周代の三代以来、賢人の第一人者と高く評価する「三代下一人」が刻まれています。また、石碑の両側には、「三顧頻煩天下計、両朝開済老臣心」(注1)という杜甫の詩句と、諸葛亮の名文『誡子書』から引用した「澹泊明志、寧静致遠」(注2)の八文字が彫刻されています。
注1:日本風によむと、「三顧頻煩なり、天下の計、両朝開済す、老臣の心」になり、「劉備三顧の礼をもって、しばしば苦悩しながらに諸葛亮を訪れ、天下を安定について考える。諸葛亮は二代に渡って君主を補佐し、重臣として忠誠を尽くした」という意味です。
注2: 原文は「非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠」であり、読み下し文にすると、「淡泊にあらざれば、もって志を明らかにするなく、寧静にあらざれば、もって遠きを致すなし」となる。

小虹橋

小虹橋は諸葛亮が隆中に隠居していた時、外出するために必ず渡る橋です。劉備が二回目に草蘆を訪れた時、橋の近所で諸葛亮の義父である黄承彦に会ったところ、老人の着衣姿が非凡なさまを見ると、孔明と勘違いしてしまい、馬から下りて挨拶したというエピソードがあります。それで、小虹橋は世間に知られるようになりました。また、小虹橋について、清朝の王鋱は『隆中十咏』で「旧物を見て、劉備を思い出す人がいて、その人は曾て小虹橋の上に行ったようです」と紹介しています。

草蘆亭(草蘆の東屋)

草蘆亭は六角形をしています。高くて青い柱、そして鮮やかで赤い煉瓦。東屋の中には、「草蘆」と力強くて優雅な書体で彫刻された石碑があります。この東屋は明の嘉靖19年(1540年に)立てられたものです。元々、諸葛亮が隆中に隠居した時期、ここを読書室にしていましたが、明の襄簡王朱見淑が風水を信じきっていたので、この旧跡を自分の陵墓としていました。李自成が一揆を行った際、陵墓が破壊されましたが、土墳だけが残っていました。後世の人は墓の隣に草蘆亭を修復し、賢人であった孔明に対する尊敬の意を捧げ忍んでいます。

三顧堂は諸葛亮草蘆の前に位置しています。こここそ劉備三顧の礼を行い、諸葛亮が隆中で官吏登用試験で皇帝からの問いに対する答えを練った記念堂です。劉備諸葛亮と面会した当時の家屋は既に明時代に破壊されていましたが、今の三顧堂は清代の康熙帝時期に再建されたものです。

華容古道は湖北省荊州市監利県西南12キロの上車湾鎮曹橋村にあります。つまり曹橋から毛家口までの小路で、長さが7.5キロです。監利が古代「華容」と呼ばれ、もとの華容県は現在の監利県北30キロのところにあります。『資治通鑑』によると、この道が華容県に通じるということで華容道と名づけられました。古道の入口の汴河郷太平橋のそばに石碑があり、石碑に「華容古道」という四文字を刻んであります。

華容古道と三国

紀元208年、曹操荊州を手中にした後、休むことなく20数万の水陸の大軍を率い長江に沿って東に向かいました。 劉備孫権を一挙に消滅させ天下統一をするという野望を抱いていた曹操だが、勝利に有頂天になり、赤壁の戦いでは孫権劉備連合軍から火攻めに遭い大打撃を受け華容道を経て江陵に退却しました。監利はかつて雲夢沢(今の湖北江漢平原)に属し、沼地が多く、曹操の兵が草で沼地を埋めて、騎兵が通過できました。しかし、高齢、身障者などがぬかるみにはまって、あるいは孫権劉備の兵から殺され、死者が多かったです。華容道を抜ければ曹仁の待つ城まで戻れます。 しかし、華容道では武神と呼ばれる関羽曹操待ち伏せしていました。 曹操に恩義のある関羽は,静かに道を開け、これで恩義は返したと去っていきました。

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