ささやかな抵抗の準備

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2016-07-23

[]脳の低級回路

店で支払いをする時に、お釣りの枚数が少なくなるように小銭を出すという行為が、私の中ではほぼ自動化されているので、普通の意味での計算をしなくても出来てしまう。出来てしまうというか、ふと不安になって計算し始めると凄く時間がかかってしまう。


これは多分、脳に低級回路というか、ハードウェア回路が出来ていて、エミュレーションである意識回路上で計算しなくてもよくなっているってことなんだと思う。


それは前から思ってたんだけど、最近、ピアノの譜読みをしていて、譜読みが上手くなるってのもこの低級回路を強化することなのではと思うようになった。譜面上の記号を、一旦音名に変換するのでは遅くなるので、記号をそのまま手の動きに出来ると早く弾けるのではないかと。


「英語を読むときにはいちいち日本語に直さず英語のまま理解しろ、そうしないと遅い」ってのも同じことだと思う。


あと、「速読がしたかったら脳内で声を出しながら読むのをやめろ」というのも同じだと思う。そしてここから考えるに、それは単に声を止めればいいということでは無くて、そういう回路が出来るよう訓練しなくちゃ出来ないってことなんだと思う。

2016-07-11

[]時間がリソースである事について

時間というものは、締め切りに追われたりしている時は足らないものであるが、電車の中などでは「余って困る」ものである。これを、時間はリソースである時と、潰さなきゃいけないものである時があって、二つの顔を見せるのが不思議だな?と思っていたのだが、その疑問を解決できたかもしれない。


その答えは「時間はいつでもリソースである」というもの。では時間が余って困るというのは何なのか?というと、時間に何かを組み合わせることで、なんらかの利益を得るということが目的であって、時間があるのだから利益を得る可能性があるのに、手段が思いつかない、あるいは思いついたものが使えないということによって、損をしたように感じる、というもの。


こう考えると、ソシャゲの課金も、楽しみを最大化するのに時間とお金をどういうバランスで投入するか、ということだと言えそうだ。製作者からすると、それでお金を投入するのが合理的にするのがゲームデザインだということになってしまうだろうが。


要するに、お金も時間も手段であるという面においては等しく、目的は楽しみを得る事なんだ。

2016-05-31

[][][]ジョン・ケージの「4分33秒」を聴いて

2014年2月15日のピアノ愛好会卒業コンサートで、ジョン・ケージの「4分33秒」が演奏されました。それを聴いて、思ったことをまとめておこうと思って伸ばし伸ばしにしてきたのですが、気が向いたので書きます。


ご存知かと思いますが、この「4分33秒」という曲は、その時間(4分33秒の間)「何の音楽も奏でない」という曲です。つまり曲であって曲でないという、極めて変な曲です。その解釈については色々と物議を醸している曲ですし、あまり定まった見解も見たことが無いような気がします。もちろん、芸術作品というものは、受け取った人が感じたことが優先されるべきだとも思うので、定まった解釈を決めること自体が野暮だとも言えて、今から私が言うことも、単なる私の一意見として聞いてもらえればいいと思います。ただ、私的には思っていたより明確な意味を感じたので、みんなが言うほど難しいことじゃないんじゃない?という気持ちもあってこれを書いています。


演奏が始まりました。何も弾かないのに演奏が始まるというのも妙な話ですが、演者は鍵盤のフタを開け閉めして楽章が始まったことを示しました。驚いたことに、その直後から、音が聴こえたのです。もちろんピアノの音ではありません。聴こえたのは会場の空調の音です。この空調の音は、演者が交代している曲の間の時間も、他の演者が弾いている時も変わらず鳴っていたはずなのに、その間は聴こえなかった音なのです。さらにその後には、会場にいる人が出す、服のこすれる音、息の音も聴こえてきました。これらももちろん、さっきまでもあったのに聴こえなかった音です。


ですから、ごく簡単に言えば、この4分33秒という曲は会場の音を聴く曲ということになります(というかWikipediaにもそう書いてあった…)。ただもちろん、それだけではあまり面白い話ではないですよね。会場の音を聴くということはどういうことか、という点にポイントがあるのだと思います。


会場の音を聴くということは、会場の音というものが存在しているということを知ることであり、それはつまり会場というものが存在しているということを知ることです。会場にあるのは、ホールそのものや、そこに来ているお客さんです。それらの存在を「演奏」として提示されて初めて気付くことが出来たのです。さらに言えば、その存在は、お客さんが「演奏が始まったので真剣に聴く体勢なった」ことによって初めて気付くことが出来たものなのです。演奏が始まって、実際には何も変化が起きていないにも関わらず、それまで聴こえなかった音が聴こえるということは聴衆側が変化したということであり、それは自分の存在に自覚的になるということでもあります。


つまりジョン・ケージはこう言いたかったのではないでしょうか。「音楽というのは、音楽だけで存在しているのではなく、それを奏でる空間や聴衆があって成立しているのだ」と。Wikipedia情報ですが、ジョン・ケージはこう言っているようです。「ケージは、この作品を気にいっている点として、演奏はいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないことをあげている」。これは「演奏する」ということは、演奏者一人で、あるいは脳内で完結したものではないのだ、と捉えることが出来るでしょう。


ただ、この「演奏には聴衆が必要だ」というのは、誰もが認める立場だとは私は思っていません。このことは、同時代を生きたピアニストであるグレン・グールドを対比に出すと、よりはっきり理解できるのではないかと思います。グレン・グールドは、ある時から演奏会という形態を否定して、録音したものだけを世に出すようになりました。良い音楽を作るにあたって聴衆の存在など不要だ!と考えたのです。演奏会において演奏者と聴衆は対等ではなく、聴衆は演奏者が間違えたらそれを咎めようとしている失礼な存在だとまで言いました。


この二つの立場の対立は、現在まで脈々と続いています。そしてこれは、音楽の録音という形態が現れたことで明確に意識されるようになったのでしょう。私が見るところでは、音楽における最大の革新と言えるものは歴史上二回あり、一回目は楽譜が発明されたことで、二回目が録音が発明されたことです。つまりこの話は、録音が出てきて音楽の在り方が見直しを迫られた時に、二人の人間(もっとたくさん居るでしょうが)が異なる見解を提示した、と解釈することが出来るでしょう。


では皆さんはどちら派でしょうか。例えば、以下のそれぞれの立場について、皆さんはどのような見解を持っているでしょうか。


a.演奏はミスするか分からないから素晴らしい

b.確実にミスしていないものを届けることが出来るならその方が良い


a.CDの音楽はライブ演奏を疑似的に切り取ったもので本物ではない

b.CDを聴くのはライブに劣る行為ではなく一つの独立した音楽体験


a.音楽は人間が奏でるもの

b.音楽は機械が奏でても音楽


a.聴衆の反応が見られるのが演奏の醍醐味だ

b.どこかで誰かが聴いてくれていることさえ分かればそれでも十分嬉しい


a.音楽は多くの人が評価するものに価値がある

b.自分一人が納得できる音楽が作れれば多くの人が評価してくれなくてもよい


a.ライブで周りの人と一緒に盛り上がる方が音楽を最大限楽しめる

b.一人の世界に入り込んで集中した方が音楽を最大限楽しめる


a.音楽は演奏者の動きや人物のバックグラウンドを含めて楽しむもの

b.音楽は音を聴くのが純粋な態度でその他の要素は邪魔なもの


いかがでしょうか。なかなか境界線を引きにくいところもありますが、それぞれaがライブ派(ケージ派)、bが録音派(グールド派)、と考えられるのではないでしょうか。こうしていろいろ並べてみると、絶対こっちだ!というものと、どっちか迷う、というものがありますよね。つまり、全面的にどちらかに寄っている人はあまりいなくて、その間ぐらいというか、場合による、というぐらいに思っている人が多数派なのではないでしょうか。とは言ったものの、私はかなりbの録音派だと自分では思っています。が、その話はまた別の機会に述べたいと思います。


少し別の観点としては、音楽鑑賞において、演奏者の動きなどは純粋な音楽の要素ではないと考えたとしても、その純粋な音楽はありふれたものになってしまったせいで、わざわざ音楽鑑賞をするならライブのような音楽以外の要素があるものを望むようになった、と考えることも出来ます。アーティストがCDで稼ぐのではなく、まずYouTubeでタダで見せて人気になったらライブで稼ぐ、という形態へシフトしているのはご承知の通りです。それは「音楽がお金と交換されなくなった」ことではあるかもしれないですが、「音楽を純粋に聴かなくなった」とまでは言えないだろう、つまり音楽の価値(お金以外でも測れるとすれば)が減じたということではないだろう、と私は思います。


以上で話は終わりですが、ここで改めて、4分33秒を演奏してくれた後輩には本当に感謝したいと思います。これはまさにCDでは意味が無くて、演奏会で聴かないと得られない体験だったのですから。

2016-05-23

今日のtwitter

抜粋

  • スラムダンクで、最後桜木が怪我した時に「覚えるのも早かったから忘れるのも早いのでは?」とか言いだしてなんでそんな無駄に悲劇煽るん?と当時は思ったんだけど、暗譜したの忘れないのは長く取り組んだやつな気がするし、あながち間違いではない気がする。 posted at 01:03:06
  • 英語でZのことは「ズィー」って習うと思うんだけど、「ゼット」はどこから来たんだっけ?と思って調べると、アメリカ英語以外の英語は「zed(ゼッド)」で、オランダ語は「ゼット」だって出て来るな。蘭学の名残だったりするのかな? posted at 11:29:34
  • メモ。 「YouTubeを埋め込んでも重くならないようにする方法がめっちゃ良かった - NO TITLE」→ shiromatakumi.hatenablog.com/entry/2016/05/… posted at 11:44:09
  • ドラゴンクエスト モンスター物語」っていう本が好きだったんだけど、そのなかのマネマネのお話のところで、みんながマネマネを有効活用しているという話の中で、死神貴族が自分に化けさせて複数の人とデートしてたっていう話を見てそれは嬉しいのか??と思ってたんだけど(続く) posted at 15:29:44
  • ツイッターで沢山の人と同時に話して遊ぶ方が、人に会って数人の人に会うよりの楽しいのでは?と思う気持ちがある私は、その気持ちが分かる方なのでは?という気がしてきた。「ツイッターやる人は友達が少ない」とかいうツイート見たけど、ツイッターで話してる人が友達でないとは思わない。 posted at 15:33:41
  • 王蟲腐海な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」 posted at 17:35:13

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2016-05-22

[][]どんなときも。ピアノアレンジ

ピアノアレンジしてみました。ワンコーラスのみ。サビが結構跳躍が多くて難しい。なかなかバッチリ弾けるテイクが取れず、これはまだサビ前とサビ以後で別テイクのを編集して繋げています。まあ、まだアレンジ出来たばっかりなので、そのうち弾けるようになるでしょう。


特に特徴があるアレンジでは無いですが、自分なりの美意識を反映させたつもりではあります。どんな点かと言いますと

  • 音をスッキリさせる。特に低音を鳴らし過ぎない
  • 普通に弾くと普通にメロディが出る
  • メロディを右手オクターブに(出来るだけ)しない(鋭い音になっちゃう気がする)
  • 必要以上に和音を濃厚にしない

みたいな感じです。


こういうJ-POPのアレンジをやると、右手でメロディ+下の音を弾かないといけないので、かなり小指と薬指でメロディを弾くことになりますね。急速に鍛えられてる感じがします。


イントロは、元曲では本当は倍の長さがあって、後半はビートが利いた状態になるんだけども、やろうとしても前半部分と差別化できなかったので省略してしまいました。なんかアイディアが浮かべば直すかも。終わり方も、なんか終わらさなきゃと思ってシンプルに終わりを付けただけなんですが、聴いてみるとこんなもんでも良いかなと思っのたのでこのままで行くかも。


一応フルでも弾けるけど、ほとんど2番サビの「そしていつか だれかをあいし」のところ以外に違うところがないので、まだ下手なこともあって省略した。アレンジを変えないと物足りないかなとも思うし。

今日のtwitter

抜粋

  • 砂鉄氏(カエルの方)が言ってた事だけど、昔は「聴くだけ(読むだけ・観るだけ)とか単なる消費者じゃん」と思ってたけど、最近はみんな作る側になったというかそういう人が増えたから、作品に触れて「凄いですね」って言う人の方が貴重になってきた感は確かにあるなと思う。 posted at 18:23:01
  • (bot)ラウンドアバウト交差点はちょっと違うかもしれないが、「一見危険だがみんなが気を付けるようになるので逆に事故は少ない」みたいな理由で採用する時に、「気をつけなくて済んでいたところから気を付けるというコストが上がった」ことは誰も問題にしないのか、と思うことがある。 posted at 18:25:49
  • コンサートの類が好きじゃなくなってきたのも割とそれに関連していて、コンサートって「来てもらう」っていう意識になっちゃってんのよ(少なくとも私が)。コンサートで喜ぶのは出る人で、観客は演奏者を喜ばしに来る人のように思ってしまうんだよ。 posted at 18:26:36
  • 私がコンサートに出たとしてそれを聴きたい人は居ないと思うし、動画でニッチな需要に応えた方が圧倒的充実感があると同時にご足労いただくこともないし。という気持ちになっているのでコンサートに出なくなったし出たい気持ちも無くなった。と今は思ってる。また心境は変わるかもだけど。 posted at 18:29:40
  • で、これは「祭」が好きかどうかという話に関連すると思っていて、祭って、自分が参加すると楽しいけど、お客さんとして行くとちっとも面白くないんですよ。そして参加か否か意識の問題で、運営側でなくても参加の意識になれる人も結構多いんですけど、私はそれが非常に弱いのかなと思う。 posted at 18:36:10
  • ただ、動画で「勝手に見てくれー」ってしておくだけでなく「聴いてもらいたい人」というのは居るので、そういう人には聴いてもらいたい。それがコンサートである必要がないだけで。 posted at 18:39:58
  • 私は自動作曲なんかを研究してたりするわけですが、今の、そしてこれからの人類に必要なのは、素晴らしい音楽を作ってくれる人工知能なんかでは無くて、カスガさんが言ってましたが、我々の作ったものを鑑賞して適切に(時に厳しく?)褒めてくれる人工知能なんですよ。 posted at 18:43:58
  • その点カラオケは、行きたい人で行けばだけど、みんなが参加者だから良いよな、と思う。 posted at 19:00:16
  • 性格が良さそうな人に愚痴を言うとそういうこと言うの良くないよって言われそうだから、愚痴を言うには性格が悪い人が必要だな!! posted at 22:55:34
  • そういう意味で行くと、信頼できる人っていうけど、自分より倫理観が高い人は信頼できねえわな。ヤンキー的なのも、倫理観の低さで信頼勝ち取ったりするじゃん。 posted at 23:02:01

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