ささやかな抵抗の準備

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2016-04-09

[]イスラム国を馬鹿に出来ないはずの日本

以前、NHK解説委員の出川氏によるIS(イスラム国)についての講演を聞く機会がありました。その中で、ISがイラク政府と戦う際の戦法の話がありました。どんな方法か。例えば、トラックを改造し、車体の周りに鉄板を貼り巡らせて、兵員輸送の装甲車のようにする。そのトラックの荷台に大量の爆発物を積んで、自爆攻撃を仕掛けてくる。こういう相手と戦うのは非常に困難で、イラク政府軍は撤退を余儀なくされてしまったようです。これを可能にしているのは、自爆テロをして死んでも良いという兵隊の気持ちですよね。そしてそれは、イスラム教の敵を倒して死ねば必ず天国に行ける、という揺るぎない信念があるから出来るのだということでした。


それを聞いて「やっぱイスラムの奴らとは分かりあえねえな」と思う人もいるのかもしれませんが、私は別のことを思いました。これ、まさに第二次世界大戦の時の日本じゃないですか。だってこれ、カミカゼと全く一緒でしょう。自爆ということもそうだし、死んで英霊となるという、死後の救済を信じているということも。


そこから私が想像したのは、我々(私を含むとは言っていない)が今イスラム国に対して抱いている気持ちと同じような気持ちを、連合軍側は日本に対して抱いていたのだろうということです。要するに「あいつらはキチガイの集団であり困った存在であり排除しなくちゃいけない存在だ」という気持ちです。実際、カミカゼ特攻する人や命じる人がキチガイでないと言い切れますか。日本はイスラムに負けず劣らず信仰心の篤い国だったんですね。 いや、信仰心を利用したというべきかもしれませんが。


もちろん反対側から見れば、そうまでして戦わなければならない理由があるのに、対等な存在としてではなく「排除」される対象として扱われる。そういう意味で、「テロ」という呼称は、排除してもいいという正当化をした場合の戦争の呼び方なのだと思います。「なんであいつらはただのテロ組織なのに『国』なんて名乗ってるの?」と思うということはそういうことです。実際彼らはただ世界に混乱をもたらそうとしているのではなく、領土を確保しようとしていたりと、国と呼んでも良いような活動をしています。


戦わなければいけない理由とは何かという点についても講演では触れられていました。ISにはフランスベルギーといったヨーロッパの国からも人が参加しています。中東へ行くこともあれば、インターネットを使って遠隔で協力するという形での参加もあります。どういう人が参加するのかというと、中東からの移民の子孫が多いそうです。ヨーロッパではイスラム圏の人達への根強い差別があり(日本は移民が少ないだけで、差別は十分あるでしょうが)、同じ成績でも就職できないといったことが起こり、将来に絶望し、世直しをせねばとイスラム国に傾倒していくのだそうです。これって、私は正当な理由だと思います。これまでの歴史だって、虐げられていた人達による革命が成功したらその人達が正しかったという歴史が紡がれてきたものなのですから。


「なぜ戦争(テロ)などするのか。争いなんて愚かな人のやることだ」と思っている人は多いと思いますが(賢明なる私の友人達はそんなこと思って無いかもしれないですが)、それは現状維持で問題ない立場の人の発想であって、現状に問題がある人にとってみれば「現状を維持せよ」という命令は「格差を固定せよ」という命令と同じです。当然、格差の下の側に居る人はそれを受け入れられないし、その結果がテロになるわけです。もっと言えば、テロみたいな方法でしか風穴を空けられないからテロがあるわけです。だって、そんな自爆テロなんて楽しく生きてたらしたいわけないじゃないですか。


戦争もテロも同じだと私は思いますが、そういったものがなぜ起こるかと言えば、戦争やテロに身を投じる方がマシだと考えるような状況に追い込まれているからだ、というのが現在の私の理解です。つまり、戦争やテロをしたくならないようなマシな世界を作らない限り、そういうことは起き続けるということです。


で、これは日本の格差問題貧困問題にもそのまま当てはまるんだろうなと思っています。貧困をその人達の努力不足のせいだということにしておくことは、テロに当たるような行動をする人を増やすことであり、裕福な人にとっても社会リスクの増大を招くことになると考えるべきなのだろうなと思います。

2016-02-14

[]コード弾き(リードシート弾き)用の楽譜

以前からコードからピアノのアレンジをする練習をしています。

(過去記事)


コードがあればなんとなく弾けるようになったら、今度は色んな曲を弾くのがいいのではないかなと考えました。たくさん弾けば、コード進行のパターンもたくさん体験できるだろうし。ということで、私が最近使っている楽譜を紹介します。


ちなみに、ここで紹介しているようなタイプの楽譜ことを「リードシート」と言います。メロディーとコードだけが書いてあるものですね。音符が全部書いてあるわけでは無いので、自分で伴奏を付けなくてはなりません。でも、いいところもあります。

  • 一曲当たり換算だと安い
  • 一曲当たり換算だと場所をとらない
  • 狭い紙面に収まるので一曲中では譜めくり不要
  • (コード弾きの練習になる)

最後のは当たり前なんですけど、でもコード弾き自体が楽しいんですよ。いや、楽しくない人もいるかもしれないんですけど、私は楽しいです。自分で伴奏を考える事や、弾きながら「もっとこうしてみよう」とか改良していくのが。ようやく自分が音楽を奏でられるようになった、みたいな感動があります。



さて、前置きが長くなりましたが、楽譜の紹介です。

(商品紹介が上手くいかないので、これは単なる画像を貼っています)

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これはちょっと高い(3,888円)んですけど、凄くオススメです。本当に有名曲ばかりだし、知らない曲でも弾いてみれば名曲だなあと思うものばかりです。似たような趣旨の、雑誌コーナーにあるような本との違いは、

  • 紙が良い(薄い)
  • 綴じ方が良い(開きやすい)
  • 音符の大きさ細かさがちょうどよい
  • 歌詞だけに省略されているものがない(全部楽譜がある)
  • 「なんとか特集」とかがないので長い目で見て公平な選曲
  • ある程度は前奏や間奏などの音も書かれている

てなところでしょうか。私なんかは眺めてるだけでも結構楽しいです。そういう人はちょっと変態かもしれませんが。時代順に並んでいるので、曲の複雑さとかがどう変遷したかとか、そういうことを見るための資料としてもなかなか面白いと思います。ちなみに、1970年代から2013年の曲までがあります。


ちなみに、これまでのところ、2年に一回更新版が出ているようです。最初に出た時は「ベスト300」だったところから、毎回ちょっとずつ増えています。


原曲キーじゃないのが結構あるのは、個人的にはマイナスですね。まあそれ自体は、演奏の容易さとかの面で必ずしも悪いとは言えないものの、せめて原曲キーが何でいくつシフトしているかということは書いておいてほしかったなあと思います。でも、そのうち自分で全部調べて書いておこうかなあと思います。ちなみに、自力で脳内でシフトしながら弾くのは物凄く頭の体操になります。私はまだすらすらは弾けませんけどね…。


あと細かい話ですが、リードシートはギター弾き語りの人が良く使うので、ギターのコードとかが書いてある事が多いのですが、そういうのが一切ないのも、ピアノ弾き的にはいいところかもしれません。


  • 最新版ベストヒット アニメ&ヒーローソング大全集 (実用百科)

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これは雑誌コーナーにあったやつで(ムックというのでしょうか?)今は普通は店頭にはないのではないかと思います。でもAmazonには中古がありますね。当時の定価は1,300円でした。


収録曲は188曲です。アニメソングに興味が無ければ買わなくていいと思いますけど、ジブリとか、アニメタイアップしたJ-POPとかもあるので、割かし刺さる曲があるのではないかと思います。というか、私自身この手の本を結構な頻度でチェックしてるんですけど、この本以上に刺さる本になかなか出合わないのです。


アーティスト特集として

の曲が多めに乗っています。また、番組の方の特集として、

があります。これらが2/3ぐらいを占めていて、それ以外の普通に名曲として選ばれたのが1/3ぐらいです。


ちなみにこの本のは紙や開き方は「J-POPのすべて」ほど良くありません。あと、音符の大きさも小さくて結構見にくいです。まあでも許容範囲でしょう。鉄腕アトムとか、初期のアニメの曲は本当に単純で、時代の変化を感じるのも面白いです。コード弾きとしても簡単でいいといえばいいです(笑)。


この本でも、移調されている(原曲キーじゃない)ものがあって、それは少し残念です。


あと地味に素晴らしいと思ったのが、曲ごとに「リズムのタイプ」が書いてある事です。ただ拍子があるだけじゃなくて、それが「何ビート」かが書いてあるのです。私はこの「ビート」がアレンジをするうえでとっても重要だってことが最近ようやくわかってきました。しかし、結構感覚でもやれてしまうこともあるので、そういう人には要らないのかもしれません。でも私は大変参考にしています。…まあでも多くは8ビートなんで、役に立つ局面は多くないんですけど。


ただまあ人によっては他の本の方が選曲が気にいるかもしれません。決定版という感じではあまりないです。もう普通には売られなくなっていることもあり、もっといい本がどんどん出るといいなあと思います。


冒頭にアーティストのインタビューが少し載ってます。まあそんなに熱心に読んではいないんですけど。でもそれなりに面白いです。


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これは、名前の通り、童謡とか唱歌の本です。1,080円でした。曲数は189曲。小さくて分厚い本ですが、曲自体が短いものが多いので、楽譜は一ページに収まり、かつ音符も見やすいです。

  • Part1:童謡 唱歌(140曲)
  • Part2:名曲(33曲)
  • Part3:各地のうた(16曲)

という構成になっています。名曲というのは、昭和歌謡からJ-POPまで、広い年代に好かれてそうな曲(「川の流れのように」、「昴」、「世界に一つだけの花」とか)です。各地のうたは「なんちゃら節」とかそういうやつです。


この手の本は類似の本がたくさんありまして、私も店頭で色々見比べました。値段も内容も近くて迷うところです。だからまあどれでもいいっちゃいいのかもしれませんが、参考までに、どんな点を考慮したかというと…

  • コードが振ってある(子供の歌の本には振ってないことも多い)
  • 「昔の歌」ではなく「子供の歌」感が強い(昭和歌謡とか少ない)
  • 音符の大きさが好み(大き過ぎない)

ぐらいでしょうか。ちなみに、日本の音階の曲などではコードが振ってないこともあります(それで正しいのだと思います)。


この本をなんで買ったかというと、リハモの練習に良いかなあと思ったということです。リハモというのはリハーモナイズの略で、原曲とは違ったコードを「付け直す」ことを意味しています。J-POPとかだと、既にコードが凝っていて、リハモして良くするのが難しいんですね。しかしこうした曲は単純なので、弾いてると「もっと工夫したい」と思う、かなあと。実際、やってみるとそんな気持ちになります。


あとは簡単な曲の方が初見にはいいかなと思ったのもあります。またもちろん、古くから良く知られているような曲を知るのも悪くないかなと思ったのもあります。


あと、こうした本は分厚いので、普通に開いて折り目を付けるぐらいでは開きっぱなしになってくれません。そこで、こういうページオープナーというものを使うと便利です。

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参考までに、アレンジの参考にしている本とサイトを挙げておきます。


なぜだかアマゾンの商品紹介が上手く機能しない…けど治るかもしれないのでここに置いておきます。

新装版 童謡・唱歌・みんなのうた

新装版 童謡・唱歌・みんなのうた

2015-12-31

[]2015年まとめ

もうこのブログの書き方忘れた。

書いた文章

ちゃんと話がまとまった(比較的)ものは新ブログの方に乗せているので、雑多なものを今日の分として載せておく。雑多って言いながらもめっちゃ苦労して書いてたりするんだけど。

ブログ掲載分
本日掲載分

音楽

サカナクションと、マイケル・チャンさんの即興を特に聴いていた気がする。

あとは、ネクロダンサー(ゲーム)のサントラを割と聴いてました。


自分で投稿したのは、「この傘をたためば」だけかなあ。これも、数日でやったもので、そんなに力が入っているわけではない。

D


もっと色々読んだ気がするんだけど…「言語哲学大全」とルーマン関連本が難しすぎてうんうん唸ってた記憶が強い。それであんまりたくさんは読めなかったのかな…。あと、一日ぐらいでダダっと読んだのだと印象に残って無かったりしてな…。図書館で借りた奴は、返却期限が迫るとメールで注意してくれるので、そのログを使った。だから早めに返したのは補足出来ない(笑)。


(大体)通して読んだもの
  • 炭水化物が人類を滅ぼす
  • 食の世界地図
  • ルーマン 社会システム理論 「知」の扉をひらく
  • 貧困のない世界を創る
読みかけだけどまあまあ読んだもの
  • ルーマンの社会理論(馬場 靖雄)
  • 137億年の物語 : 宇宙が始まってから今日までの全歴史
  • 構造主義科学論の冒険
  • 日本人のためのリズム感トレーニング理論
借りたけどろくに読まなかったもの

ゲーム

いろいろやった。昨年末にSteamで積んだのをやったのが大きかったかな?

Steamにて。マインクラフトを2次元にしたようなもの。100時間以上もやってた。割と戦闘ゲーム?だった気がする。ヨーヨーメインで戦ってました。ムーンロードは倒してない。その前のイベントで止まってる。クラフト要素、例えば家を装飾したりすることには全く興味が持てないあたり性格が出ている。

  • Crypt of the NecroDancer

クリプト・オブ・ネクロダンサーSteamにて。ローグライク音ゲーとかいう異色作。面白いよ。すげえ集中力使うから疲れて帰ってきた夜とかに出来ない感じだった。


ケイデンス(ノーマル主人公)でオールゾーンモード(普通のストーリーモードみたいなの)をクリアするところまではやった。


音楽が要なわけで力入ってて、サントラも一緒に買ったので音楽だけ先に良く聴いてた。

  • Legend of Grimrock

Steamにて。現代版ダンジョンマスター。いやーこうワクテカして始めたんですけど、楽しめはしたんですけど、盛り上がり切らない印象でしたねえ…。せっかくの要素が使いきれてない感じする。いや、それでもやるけどね(笑)。一応クリアしました。

  • ポータル

Steamにて(Steamの運営会社がこれを作っている)。異なる場所の空間を接続して移動するポータルガンを使ったパズルゲーム。最初、「こんな全編チュートリアルみたいな感じで終わっちゃうの?」と思ってたんだけど、後半に期待していたような展開があって良かった。すげえ鳥肌立ったゾ。

  • McPixel

Steamにて。この動画を見れば良く分かります。バカバカしすぎて病んだ心に癒しになります。

【ゆっくり実況】不屈と挑戦のMcPixel ‐ ニコニコ動画:GINZA

  • Papers, Please

Steamにて。入国審査ゲー。間違い探し的な。これもこの動画を見れば分かる…んだけど、正直割と気が滅入って続けられなかった。またいつかやる。

【ゆっくり実況】出会いと別れのPapers, Please(beta) ‐ ニコニコ動画:GINZA

ゼルダの伝説 神々のトライフォース2

ゼルダの伝説 神々のトライフォース2

3DSを買ったのだった。そんで最初にやったのはこれ。楽しかったよ。ちと簡単だったけど…。うーん、面白かったはずなのに印象が…。やっぱやってすぐレビュー書かないとダメっすね…。

スーパーマリオ3Dランド

スーパーマリオ3Dランド

これも最初に買っておいた。良く出来てる。しかしこれもあまり言う事が無いな…。最近もまだやってて、あとは「王冠コース」だけになった。


メタルマックス3(通常版)(特典なし)

メタルマックス3(通常版)(特典なし)

DS。弟に借りてやってた。結構終盤までやったんだけど、止まってる。そのうちクリアしておきたいね。色々と粗はあるゲームという印象ではある。


クラウドゴンとの戦いが印象に残っている。なんか猛吹雪で戦車から降ろされて強烈だった。やっぱゲームは難しくないと印象に残らないってことかなあ。


3DSダウンロードソフト(400円)。ロックマン+グラディウスパワーアップシステム、なんだけど、8割方ロックマンやね。


廉価の割にキャラ絵とかボイスとかに力が入っている、と捉えるべきなんだろうけど、その辺りはあまり興味が湧かず…。あ、でも音楽は好きだった。あと、一人用ポーカーがゲーム外のミニゲームとして入ってて、それがなかなか平凡ながら楽しい。


2もあるんでそのうち買おうねえ。

DSiウェア。そう言えばDSi資産3DSで買えるんやと思い。一個買ってみることにした。ミニゲームでレベルアップするRPG?なんだが、それなりにミニゲームRPGモチベーション相互に高めていて上手い作りだと思う。


ミニゲームはかなりたくさん有るんだけど、その中の「正方形陣取り」にめっちゃハマった(と言っても実時間は大したことないが)。自分が覚醒したかのような猛烈なスピードでタッチペンを動かすのは快感だったぜ。


…なお、あともうちょっとと思われるところでクリアしてない。

3DSダウンロードソフト。GBAの時に買った「ガンスタースーパーヒーローズ」がどうにも中途半端な作品だったので、じゃあ原作もやってみますか、ということでやってみた。


面白かったけど、期待し過ぎた感はあったかもしんない。3D表示は良く出来てたと思う。

3DSバーチャルコンソール。これはファミコンソフトの中でも今でもプレイに耐える作品の一つだと思う。アクションとパズルのバランスが絶妙。…ということが分かっていたので割と安心して買った。まだまだあんまり出来てない。まあまたそのうちやります。

[]暗記がしたい

「暗記がしたい」と最近思うようになった。


歴史の勉強をする時にこんなことを言われなかっただろうか。「覚えるためには、それぞれの項目を丸暗記するのではなく、歴史の流れの中に項目を位置付けなさい」と。しかし何かがおかしい気がする。歴史の勉強の本当の目的は流れを知ることではないのだろうか?そもそも、項目を知ることは流れを知らなくても出来るが、流れを知るためには項目を知ることは必須なのではないだろうか?


項目の名前は、それ自体を知るためにあるのではなく、それを使って知識同士を接続するためにあるのではないか。「AならばB1である。B2ならばCである。よってAならばCである」と言う為には、別々のどこかに出てくるB1とB2が同一であることに気付かないといけない。


私はもともと「暗記否定派」だったので、暗記をないがしろにしてきた。よって例えば国の名前とそれがどこにあるかとかを致命的に覚えていないので、そういう知識が繋がってくれなくて、これは非効率なのではという気がしてきた。そこで、がっつり、中学生がやるような暗記をした方が良いような気がしてきた。……やってないけど。


以前の私は「インターネットが発達して、知りたい事は知りたくなった時に検索で見つけられるようになったため、暗記の価値は減った、あるいは無くなった」と思っていた。そして、他にもそう思っている人は多いのではないかと感じている。しかし、ちょっと前からそう単純な話でもないと思うようになった。なぜなら、そもそも「知識を得るには知識が必要だから」だ。とすると、暗記はそれ自体が目標なのではなく、さらなる知識を得るための下準備だ。


極端な例で考えてみる。例えばある言語を習得しないと、その言語で書かれた文章を読む事は出来ない。英語が読めない人は、英語の文献にアクセスしてそこに書かれている知識を得る事が出来ない。もちろん、日本語が読めない人は日本語で書かれた文献を読む事は出来ない。では我々日本人は、日本語で書かれた文章であれば読む事が出来るのかというと、どんな文章でも読める訳ではない。自分の専門外の専門書を読んでみれば、ちっとも分からないし読めない事がすぐに分かる。日本語でも、知らない単語ばかりの文章は読めないのだ。


というわけで、暗記がしたいと思うようになったのだが、今書いてても良く分からない事がある。インターネットの検索機能によって暗記しておかなくても良くなったことというのは確かにある気がする。「暗記しておくべき知識」と「暗記しなくていい知識(必要になったら検索で探せばいい知識)」というのは、なんらかの基準で区別可能なのだろうか?これまでの話からすると、「知識を繋ぐような知識、ハブになるような知識」は暗記した方がよさそうと言えそうだ。しかし、それってなんだろう?

[]言葉の取り合い

ずっと考えているけどまとまらない色々な話があるのですが、考えていてもまとまらない気がしてきたので、書けそうな所から順次書いて公開していきたいと思います。まとまらないんだけど、なんだかどれも関連があって、それらの関連性も含めて述べるべきではないかとも思っていたのですが、それは後からやる事にしたいと思います



「生命とは何か」という問いがある。そして例えば、ウイルスは生物であるとか生物でないといった議論がある。しかし私はこれに少し妙な印象を覚える。これは、必ず一つに決めなくてはいけない事なのだろうか。ここで、ウイルスを含まない方を「生命a」と名前を付け、含む方を「生命b」と付ければ、少なくとも議論上の齟齬は解消するはずである。「生命をこのように定義すればウイルスは入るし、このように定義すれば入りませんね」で話は終わりのはずである。そんなに目くじら立てて論争するようなこととは思えない。にもかかわらず多くの人は、何かしら客観的な基準において、ウイルスは含まれるとか含まれないといった事が判定できると感じているかのようなのである。


突飛かもしれないが、これが意味することは以下のような事であると考えられる。我々は生命とは何かを実はすでに知っている。いや、知らないはずだと私は思うのだが、知っていると信じているのである。そして、知っている「生命とは何か」に合致する定義を探している。「生命」という言葉を、好きなように定義していいものだとは考えていない。自分の知っている「生命」と同じでなくてはならないと感じているのである。


このような、「自分の知る言葉が、自分の知っている通りの意味に結びついていて欲しい」という欲求を、私はどうでもいいものだと思っていた。逆から見れば、言葉というのは、定義次第で任意に決められると思っていたということだ。しかし、もしかしたらそうではない(どうでもいいことではない)のかもしれないと思い始めた。


例えば「DQNネーム」という言葉を「キラキラネーム」と呼び替える動きがあった。これには明確に「独創的な名前を付けることを肯定的に捉えて欲しい」という気持ちが含まれている。替えて欲しいと思うということは、変わることに意味があると思っているということだ。これはすなわち、「言葉が変わっても中身が同じだったら意味は同じではないのか」という問いに対して「同じではない」と答えるということだ。似たようなことは、例えば「障害者」を「障がい者」と呼び替えようみたいな動きにも見て取ることが出来る。


別のパターンとして、言葉そのものを無くしてしまうという方策もたびたび取られる。例えば「どもり」(吃音とも言う)という言葉がある。話し始める際に言葉が上手く出てこず、詰まったような音を繰り返してしまう状況及びその人を指す言葉である。今では差別的意味合いがあるとされ、おおやけには使われなくなった。使われなくなったが、その症状(?)を持つ人が居なくなったわけではない。実際身近にも何人も居る。しかし、それを意識すらしない事が増えたし、私以外の人も、気にしている様子はない。実際、気付いていないかもしれない。断言できる事ではないが、言葉がなくなったことで、「症状」すらも消滅したのではないかと感じる。恐らく、「コミュ力が低い」などの、別の何かの概念に吸収されてしまったのだ。その意味では、確かに差別語を禁止することで、差別がなくなってるのかもしれない。


言葉は「概念を表現するための手段」ではないのかもしれない。それ自体が良し悪しを持つ「思想」のようなものであるのかもしれない。「生命」が自分の知っている通りの「生命」であって欲しいということは、自分の思想に共感して欲しいであるとか、悪く言えば自分の思想が他の思想より優位であること示したいということのように思える。


いや、そう思っているのがむしろ普通なのかも知れない。生命を「生命a」と「生命b」に分けて良いという発想自体が、ある種訓練されて出来たものである。ここには、それらに優劣を付けようという発想はない。ただ、二つの概念があり、それらに別の名前を付けて区別しようという意志があるだけだ。


考えてみると、「どもり」という言葉を知っていたとして、それを単なる症状として捉えるならば、言う方も言われる方も不快にはならないはずである。風邪をひいて頭が痛い時に、「頭痛がある」と言う方も言われる方も特にそれで傷ついたりはしまい。あるいは「ハゲ」はどうだろうか。髪の量が少ないことは客観的な事実として認識しうることである。しかしそれを言われると傷つき、であるからこそ言う事がはばかられるのは、そこに「ハゲは良くない事」という思想が背景にあるからだろう。ただ「違う」のではなく、「優劣」を感じさせている。


優劣を付けようとしているということを、分かり合うことを拒否していることだと考えてみる。自分の持っている定義の方が優れていると思っていない人は、「生命a」、「生命b」と名付けることに躊躇はない。しかし自分の定義の方が正しいと思っている人は、それを許容できないのではないか。


こういう、「言葉と意味の対応」について争うことを「言葉の取り合い」という名前だとするならば、言葉の取り合いは、分かり合おうとしている人達にとっては不毛な争いだが、実際には分かり合おうとしている場というのは人間にとって極めて限られた局面でしかなく、言葉の取り合いをすることによってまさに思想の戦いが行われており、そしてそれが人間にとってかなり重要な戦場なのではないだろうか。



(一旦終了。以下余談というか、自分用でもあるメモ)

・この話の中で、分からなくて飛ばした部分がある。それは「知っている」についてだ。私は「知っている」とは「知っていると信じている」ことなのではないかと思う。「信じる」については言いたいことがあるので、それを次に書きたいと思う(予告)。

・上記に関連したメモだが、「数学演繹で出来ている」のだが「最初の数学演繹…というか、公理系から出来たわけではない」のだと思う。

・そもそも「○○とは何か」という問い自体が何を意味しているのかが分かっていないように思う(分かる事なのかもわからないが)。「内包」「外延」などについてなんとなく勉強してみたが、何か話せるほどよく分かっていない。

コンピュータと人間のコミュニケーションの違いは何かと、自分の授業のために考えていた。ひとまず出した考えを載せておく。人間もコンピュータも、プロトコルに基づいて情報が受け渡されるが、人間には完全に共通プロトコルは存在しない。そのプロトコルセットは、開いた系である。それに対してコンピュータプロトコルセットは閉じた系である。しかし人間は人間同士のプロトコルセットが、不完全ながらもある程度共通していると信じており、それによって誤解を生みながらもなんとかやり取りをしている。今回の話で言うと、言葉に対応する概念が一意に定まっている状態が、閉じた系の状態である。閉じた系のプロトコルで情報をやり取りする時には、送り手と受け取り手の情報は一致する。しかし開いた系を用いている人間にとって、送り手と受け手の情報は一致しない。この場合、情報を「生み出す」のは、受け取る側である。この話も、どこかでしたい。今書いた以上の発展はないかもしれないが。

・「シニフィアンシニフィエ」とか「言語ゲーム」とか「サピア=ウォーフの仮説」などの言葉について知らないわけではなく、そういう既にある議論を引用した方が良いのだろうとは思うのだが、このエントリにも関連する話だが、「名前を付けると分かっていることのように感じる」のだが「私の意識としてはとにかく分からないと感じている」ため、使わないことにした。いや、単に良く知らないというのもあるが。

[]信じること

の続き



今日は「信じること」について書きたいのだが、そのためには自分のとあるエピソードを引用せざるを得ない。関係者の中には思い出したく無い人も居るかもしれないが、ご了承願いたい。


私はM1ぐらいの頃まで、ピアノ愛好会の後輩を厳しく指導していた(余談だが、入学当初から先輩をもっと厳しく指導するような奴だったと思う)。厳しく指導していたが、私は悪意があったつもりはなく、後輩のためを思って注意していたつもりだった。そして、それが注意されている後輩達にも伝わっていると思っていた。


しかし、実際には彼らにはイライラが溜まっていたようで、5人の後輩に呼び出され、私を吊し上げる会が開かれ、私は大いに糾弾されることになった。私はその場でも自分の言っていることの方が後輩達の言っていることより真っ当だと感じていたものの、とにかく5対1で私を擁護してくれる人も居ないので、ひたすら叩かれ続けた。


それから数日は、私は怒りと悲しみで頭がおかしくなりそうだった。なぜ彼らの事を思ってやったことで、こんなに彼らに嫌われなくてはならないのだろうか。彼らには私の気持ちは伝わっていなかったのか。どうして彼らは分かってくれないのか。もう彼らの事が「信じられない」と思った。


そこでふと、「信じられない」という言葉が引っかかった。「信じられない」というのは、相手の事か?相手が悪いのか?いや違う、「信じられない」というのは「自分が」「信じることが出来ない」という意味だ、と思った。


信じることは、自分だけで出来る。相手を信じることが出来ないのは、あくまで自分の問題だ。相手がどんな事を言っていようが、自分が信じることさえできれば信じていることになる。私は彼らを信じたいと思っているのだから、それは自分の気の持ちようでどうにかすればいいことだ。相手を「改善」する必要は何もないのだ。


そこまで考えて、一気に気持ちが楽になった。彼らが私を嫌おうがなんだろうが、私は彼らに愛情を注げばいい。しかしもちろん、もっともっと注意深く、より彼らのためになる方法で。


さて、私の聖人アピールはどうでもいいので、「信じる」について考えよう。「信じる」は自分だけで出来るが、しかし自分で完全に制御できる事ではない。「信じたい」と思うことまでは出来ても、それで信じることが出来るかどうかはまた別である。自分の心が「信じられない」と主張しているのであれば、それは実際信じていないのである。「信じることが出来ている」ということがイコール「信じている」ということなのである。そしてそれ自体は「感覚」である。感覚(や感情)であるということは、他の要素からは反証不可能であるということを意味する。気温が低くても人が暑いと感じているなら暑いのであり、それは外気温とは全く関係なく成立する事である。それと「信じられる」は同じものだ。そして感覚に「気のせい」はない。感覚とはすなわち気だからだ。


キリスト教でいうところの「神を信じる」というは、「神を感じる」ということなのだろうし、実際神を感じている人がたくさんいるのであろう。それは、自分の中の体験なのだから、本人たちが感じているのであれば感じているのである。


信じることが出来るかどうかは、何によって決まるのだろうか。信じたいと思う気持ちと、信じたことで良い結果になった経験の兼ね合いになるだろうか。片方が弱ければもう片方がより必要なのかもしれない。この話は、また別の機会にすることにしたい。



(一旦終了。以下雑談)

「信じる」と言えば私にとってはこの曲、という曲があるので、是非ともどうぞお聞きください。ゲーム「MOTHER」のアレンジアルバムより、「 Pollyanna (I Believe in You) 」です。私はあの日以来、涙なしには聴けません。

https://www.youtube.com/watch?v=vBbRJoHTJAM

歌詞、訳を掲載しているサイト

http://tamagokake.hateblo.jp/entry/2015/03/25/092757

一番を抜粋引用します。

"朝日はまた輝くって信じてるし、

虹の終わりには金のツボがあるって信じてる。

バラは露にキスされるって信じてる。

同じように、あなたを信じてもいいでしょう?

架空の童話やお守りを信じているし、

十字に誓ったあなたの約束を信じてる。

空はいつまでも青いって信じてる。

同じようにあなたを信じていいでしょう?

私のことをあなたはバカだというかもね。

変でおかしいって、ポリアンナと呼んだっていい。

希望の光を信じてる。それがあなたを信じる理由。"

[]感覚としての分かる、表出としての分かる

の続き



前回の話は「信じる」についてだった。そこで「信じられる」は「感覚」である、という話をした。今日はその話の続き。


最近の私は、本を読んだり、自分で考え事をして「なるほど!」とか「そうだったのか!」とか、知るということでとても驚いている。そういう体験は快感だ。「知る喜び」を感じる。そしてそういうものを与えてくれるのが良い勉強だと世間的にも言われているような気がする。


対して高校までの勉強を思い出してみると、先生の話などほとんど何も覚えていない。雑談の中に極々わずかに、印象深い言葉があっただけである。メインの勉強部分で驚くということはほとんどなかった。


しかし、現に私は筑波大学に合格して入っているのであるし、授業の中で何も学ばなかったということもないと思う。ならば、知ることで驚いてはいなくても、つまり、快感を覚えながら学習していたわけではなくても、知る事には成功していたのだろう。であれば、実は知ることに驚きは必要ないのだろうか?


つまりどういうことか。「分かった」とか「知った」という感覚があることと、例えばテストで点が取れることのような、それを外的に証明する能力があることは、別物である。…ちなみに、こういう時に、後者を「本当に知る」などと呼ぶのは「言葉の取り合い」であることに注意してほしい。それらに優劣を付けずありのままに捉えれば、単に二つの「分かる」があるのだ。


ここでは「分かった」という感覚があることを、便宜上「内的分かった」と名付け、外的に証明できる能力があることを「外的分かった」と名付けることにする。


少し戻って、高校の授業に驚きが無かった、すなわち「内的分かった」が無かった理由を考えてみる。私がざっくりと考えたのは以下の二つだ。

・まだ疑問を持つ前の事を教わるので、疑問が解決したという感覚が得られない。

・上手く段階的に少しずつ新しい事を教えていくので、直前に教わった知識との差が小さいから、その瞬間知ったというインパクトが小さいから


さて、この二つはどういう関係にあるのだろうか。よく分からない。とりあえず、後者から考えてみよう。この理屈で行くと、カリキュラムを上手に組むと「外的分かりやすさ」が高まる代わりに、「内的分かった」が低くなるような気がする。果たしてそれは本当だろうか?驚きがない方が例えばテストの結果としては良くなるのだろうか?


既に知っていることをもう一度聞かされてもそれで感動したりはしない、というのは事実だろう。だから、少しずつ段階的に複雑になっていく順番で教わっていくと驚きを感じにくい、とは言えるかもしれない。しかし、驚きがない方が良いとまでは言えないかもしれない。同じことを伝えるのでも、より驚きを持って伝えることも出来るのではないだろうか。


そのいい例だと思うものとして、「温厚な上司の怒らせ方」というビデオがある。一つ見てもらおう。

https://www.youtube.com/watch?v=FeXLPBCiCpw

これは、「人の怒らせ方」についての、映像のマニュアル(もちろん、お笑い目的だが)である。これらを我々はインパクトを持って見ることが出来る。さて、普通は、マナーを教えるのであれば、正しい振る舞いをしている映像を見せるはずだ。しかし、それはきっとインパクトがないに違いない。その振る舞いは、我々が元々イメージする礼儀正しい振る舞いに相当近いはずだからである。であるからこそ、その映像があったとして、我々はそこから学ぶことが難しいのだと思う。


マナーを教えるにあたって、「何かをすべき」ということは、「何かはすべきではない」ということと表裏一体であると考えることが出来る。であるから、同じことを説明するのでも、そうしてひっくり返した方が驚きを喚起することが出来る可能性がある。しかも、片方が当たり前すぎる場合こそ、その反対が大きな驚きになるはずである。この映像の作者は、きっとそれが分かってやっていると私は思う。


また戻って、では、このことは、「疑問を持つこと」とどういう関係にあるだろうか。疑問を持っていると、それが分かった時に大きなインパクトになる、ということは事実のように思う。では、その疑問はどうすれば生まれるのだろうか。


いささかトリッキーな話になるが、結論だけでなく私の思考過程を聞いて欲しい。人はどういう時に「なぜ」と口にするか思い出してみたところ、なぜという言葉が、疑問である場合だけでなく、否定を意味することが多い事を思い出した。「あいつはなんであんなことをやるのか分からない」というのは、否定、非難の言葉だ。しかし、これを言葉の使い方が間違っていると捉えずに、そもそも否定と疑問は同じような心の動きだと考えてみた。すると、これは「今まで自分が知っていた事と違う」という局面において発生するのではないかと思いついた。


小さな子供は「なぜ、なぜ」と聞く。まだほとんどの事を知らないので、身近に起きる現象のほとんどが、自分の知識では説明がつかないのだから、疑問を持つ。ここまでは良さそうだ。大人になって、自分の持っている概念で、出会う現象が説明できてしまうなら、疑問は持たない。これも良さそうだ。そして、既にたくさんの知識を持っている状態で、説明がつかない事があれば疑問になるし、その結論が今まで考えていた事をひっくり返すようなことになれば、既に知っていることが多い人の方が影響が大きいので、大きなインパクトになる。これはどうだろう…。逆に子供は適応力が高いとか、そういうものかと思って納得してしまうというような話も聞くので、私に実感があるわけではないが、これも納得してもらえるかもしれない。そして学校の勉強で驚きが得られないのは、それが何故正しいのか考える暇もなく学んでいかないと間に合わないようになっているから、だろうか。


私は別に学校教育悪口を言いたいわけではないので、なんだかそうなってしまった感があって癪なので、少し擁護しておこう。知識がないと、それが覆ることもないのだから、いつか覆すための知識を溜めておくことにも意味があるのかもしれない、と私は思う。


話がまとまっていなかったら申し訳ない。それでも書かないと前に進めそうにない状況なので、ご勘弁を。

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(一旦終了。以下メモ)

・難し過ぎて泣きそうだった

・次の話題は、さらに踏み込まないといけない。「○○とは何か」という問いは何を聞いているのか、何を答えればばいいのか、という話だ。「○○である」ということは「○○でない」ということとセットにできるのか、みたいな話になると思う。

・ちなみに、「信じること」からはもう一つ話の分岐先の予定があって、それは「信頼の貯金」という話だ。そしてその話からの派生予定が「安定系と不安定系」とか「スパイラル構造」みたいな話。

[]文字だけのやり取りの方が伝わること

よく、インターネットでのコミュニケーションについて「文字だけのやり取りでは微妙なニュアンスが伝わらない」とか言う人が居ますが、まあそれは事実かもしれないけど、文字によるコミュニケーションの方が優れた面もあるなーと最近とても感じています。


私の所属しているピアノ愛好会というサークルでは多くの人がtwitterをやっていて、夜中にみんなで盛り上がったりしています。すると、恐らく一堂に会していたら、他の人が喋っていたら遠慮して喋らなくなる人も、そこでは発言できているわけです。そして、その瞬間は別のことに話題が進んでも、後から発言を拾って話題を広げることもできます。これは、声が大きくて主張が強い人ばかりが発言するような面と向かった場面より、よほど民主的ではないでしょうか?


他にも、例えば飲み会とかやっても、結局一度に話せるのは周囲に居る何人かに限定されてしまいますよね。それが、何十人という人と同時に会話する(と呼べるのかはともかく)ことが可能になっています。いや、私は面と向かって話すのも好きと言えば好きですけどね。


そう考えていくと、twitterオフ会が、目の前に人が居るのにみんなスマフォを覗き込んでいるという事態さえ、別に悪くないのではないかという気がしてきました(いや、本音を言うとやはりちょっと違和感はある)。


今のはtwitterで会話というか談話をするような話についてでしたけど、最近それよりもっと思うのは、twitterでもfacebookでもそうですが、勝手に書いておいたことを読んでくれて、それで親近感を抱いてもらっている例が結構あるということです。


「当たり前じゃないか」「じゃなかったらなんで書くんだよ」と言われるかもしれませんか、私は私の考えて書いてるようなことが、他の人に興味があることだとはあんまり思っていない面があって、例えば初対面の人にあんな話はしないわけです(若干嘘だが)。でも、私自身は普段ああいうことを考えることに頭を支配されているので、そういう話が出来たらいいなといつも思っているわけです。だから本当にそうなっていると嬉しいな!と思うわけです。


そもそも、私が昔からWebに日記とかブログとかを書いているのは、自分が変な人だから、という意識によるものだと思います。とにかく私は感覚が一般的ではないので、例えば学校の様な場ではみんながやるというような場面で嫌なことが結構あったわけです。でも、ただ場を乱したいわけでもないので、自分の側の都合というものを釈明したい訳です。そしてそれはどうしても長くなるので、すぐに面と向かってというわけにはいかない事が多いのです。だから長文で書いておいて、読んでくれると嬉しいな…となるわけです。


「もやもやと思っている事を上手く言語化してくれる」と評価してもらう事が増えたのですが、仮にそれが本当だとして、それが上手になった理由は、私が自分自身に抱いている、自分は普通ではない、という気持ちによるものだと思うのです。普通の感覚の人は、言語化しなくても周囲の人と上手く馴染めてしまいますから、私は言語能力を高めないと(寂しくて)生きていけない人間だったのではないかと思うのです。


それで、更に思うのですが、面と向かって話す能力より、文章にして書く能力の方が、今の時代では友達を増やすには有効なのではないかということです。いくら面識があっても、その人が何を考えているかまで知っている人なんてのは、ごくわずかでしょう。いや、比較として考えると、面と向かって話せる人数にはそもそも限界があるわけです。ところが文章に書いてインターネットに載せれば、いくらでも拡散する事が出来るわけです。もちろん、読んでもらう事自体には高いハードルはあると思いますが。


そんなわけで、誰かと飲みに行くことはほとんどないけれど、私が友達だと感じられる人は日々増えていて、嬉しいな、みたいな話なのでした。

[]ワクチンと最適戦略(の困った話)

ワクチンをするのは、自分のためではなく、周囲の人のためなのだろうか。だとしたら、そのように広報されないのは不誠実ではないだろうか。


ワクチンというのは、もちろん、それによって抗体を作って、自分を病気から守るものであると思う。しかしそれだけではなく、ワクチンを打って抗体を持った人がたくさん居たら、感染源が広まるのを防ぐことが出来るような気がする。すると、他の人がワクチンを打ってくれることによって、自分が感染する可能性が下がっていくことになると思う。


その場合、行政または医者が「ワクチンを是非打ちましょう」と言う時、それはどちら(両方かも知れない)を狙ってのことなのだろうか?後者つまりパンデミックを防ぐためという言い方はあまりされない気がする(私が聞いてないだけかも)。


ここでもし、ワクチンを打つことが、打つ本人にとってお金もかかるし、副作用があったりして、できれば避けたい事であるとして、しかしそれによって周囲の人の感染率が下がる場合に、最適戦略が、自分は打たずに周りの人に打たせることになってしまわないだろうか。


ワクチン打ちましょうとか言うのが金儲けのためだとかいう説もあるようだが、そうであれば無視しててもいい訳だが、実際パンデミック(とまで行かないまでも流行)を防ぐために必要ならば、協力するべきだろう。そして、もし上記の仮定が合ってるなら、自分のためだと言ってワクチンを打たせるのは嘘つきだと思うし、打ちたく無い人は自分が良いならしなくていいと思ってしまうと思う(今の私は、例えばインフルエンザについてはこの状態)。ちゃんとリスクを分担する旨を了解してもらうとか、もっと言うと強制力を働かせるとか、すべきなんじゃないだろうか。


…ド素人の考えなので、専門の方、ざっくりでもどのように考えたらいいか、教えていただけると幸いです。

[]人間は弱いAI

前から「強いAIと弱いAI」とか言ってるのが何かおかしい気がしているんです。たぶん、人間みたいな知能のことを「強いI(intelligence)」として、それに相当するものを作れたら「強いAI」って呼ぼうとしてるんだと思うんですけど…。


AIの話で出て来る、「フレーム問題」というものがあります。参考にWikipediaを見てみますと、


「有限の情報処理能力しかないロボットには、現実に起こりうる問題全てに対処することができないことを示すものである。」

「一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータ評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。」


とか書いてあります。


これの何がおかしいと思っているかというと、「まるで人間は有限ではない情報処理能力を持っている」と言っているかのように見えるところです。人間の脳の大きさは有限なのですから、私の発想ではどう考えても人間の情報処理能力は有限です。じゃあ人間はどうしているのか?というと、単に有限の問題を解いているのだろうと思います。


ところで、私の話になりますが、私は東日本大震災の頃から(大震災だけが原因ではないが)、一体何が正しいことなのかという事がさっっぱり分からなくなってしまいました。そして、自分が何をしたらいいのかも分からなくなってしまいました。その頃からの悩みは一向に解決していません。これはまさに、自分が「フレーム問題に陥ってる」のだと思っています。


普通の人間は、何が正しいか分からなくても、とりあえず生殖のためにとか、仲間のためにとか、国家のためにとか、人類存続のためにとか、何か制約条件を加えることによって、問題が解けるようになるのだと思います。それを、例えば「本当に人類は存続した方がいいのか?」とかいちいち疑っていくと、何をして良いのか全然分からなくなります。それが今の私です。


つまりどういうことか。人工知能についての話の中では「人間みたいな知能を作りたい」と言っていて、人間みたいな知能のことが「強い、汎用的な知能」だみたいなことを言っているように思います。ですが、私の考えでは、人間は汎用的な知性など持っていません。もっと言えば、私の様に汎用的な知性を獲得した人(話の流れで言ってるだけです)は、フレーム問題に陥って子孫を残せずに死ぬので、世界に残る人類は基本的にいつも汎用的な知性を持たない存在となるのではないでしょうか。


「汎用的なAI」が「強いAI」なのだとすれば、フレーム問題に陥ったAIだけが、強いAIなのではないでしょうか?


というわけで、「人工知能が人間の様になるなんて期待し過ぎだ」という話を良く見ますが、私は「人間が汎用的な知性を持ってるなんて期待し過ぎだ」と思っているというお話でした。

[]敗者としての人工知能

人工知能についてのぼやき(ツイートの転載)。


人工知能が人間を追い越すか?みたいな話が盛り上がってるけど、少し関係するような気がする話として、ビデオゲームAIって、「人間の代わりに相手してくれるもの」なんだけど、それって実質的に「人間の代わりに人間に負けてくれるもの」なんだと思う。


人間同士が戦うと、どうしても勝者と敗者が生まれる。もちろん戦った事自体が楽しければいいのだけど、やはり現実としては勝った方が楽しい。そこに、負けても悲しまない存在としてのAIが居ることで、人間全員が勝つことが許される。そういう、負けるための存在としてのAIの存在を感じる。


勝手な想像だけど、昔のゲームは今より、賢く強いAIを目指していた。でも、AIが賢くなると、打ちのめされてしまう人間が出てくる。そういうゲームの方が良いゲームの様な気がするけど、実際それは「人を選ぶゲーム」になってしまって、「みんなが勝てるゲーム」の方が売れて主流になる。


無能なロボットを会社に配属してみんながロボットよりはマシみたいに思えるという活用法がある??(ロクな結論に辿りつかなかった)

[]ロジカルシンキング宗教共通してみられる布教性について

ロジカルシンキングは、相手のためのものである。論理的に考えて論理的に説明すると、相手は納得しやすい。がしかし、それゆえに、ロジカルシンキングを求める人は、自分ではなく相手に求めるのである。


相手の望むことをしてあげると幸せになれる」という教義を持つ宗教を考えてみよう。簡単化のために、この宗教にはこの教義しかないものとして考える。この教えを守る集団がいたとすると、お互いが相手の望むことをしてあげることによって、お互いが幸せになることができる。さてここに、その宗教に入信していない人がいたとする。その人は他の人を幸せにしようとはしないのだけど、他の人はその宗教に入っているわけだから、その人を幸せにしようとする。そうなると普通は、相手の望みを叶えようとしている側は不公平に思うだろう。(まあ、その宗教に入信してる人は相手が幸せになればいいわけだから、その相手が見返りをくれなくても究極的には構わないのかもしれないが)


この場合にどういうことが起きるのかを想像すると、「相手にも自分と同じ宗教に入ってもらう」か、「同じ宗教に入っていない人を排斥する」のではないかと思う。これは、裏表の関係にあるもので、どちらか一方を選択すると同時にもう片方も起こることだと思われる。


ここで仮に定義した宗教の教義というのは、実は宗教のとても大きなポイントなのではないかと思っていて、それゆえ宗教は「布教をする(その考えに賛同する人を増やしていく)」ということがそもそも根幹に据えられていて切り離せないのではないかとか思っているのだが、その話はまた別の機会にする。


さて、よくロジカルシンキング(論理的思考)について。ロジカルシンキングというのは、まあ割とチャライ感じ「万能の道具だー」みたいに使われているのかもしれなくて、具体的に本を読んだ事とかはないのだが、とりあえずここでは論理的に説明する事だとしておく。「思考」って言ってるのに「説明」に限定するのはなんで?って思うかもしれないけど、脳内でどう思考しているかなんて他の人には見えっこないからである。


論理的な説明というのは、正しさが明確な説明である。しかし、それは論理という考え方自体を受け入れて理解しているからこそそうなるのであって、論理を受け入れていない人に対してはその効果は発揮されない。論理というのは「こういう説明なら納得できるはず」という「納得の型」であり、その型を持っていない人にとっては、なぜその説明で納得できるはずなのかが分からないのである。

さて、ここで冒頭の宗教の例を振り返ってみよう。論理は、お互いがそれを受け入れていると、お互いの議論がスムーズになって、その分だけお互いを幸せにしてくれる。しかし、そこに論理を受け入れていない人が混ざると、「論理側」の人ばかり相手の幸せを願うことになって、不満を抱くことになる。


そこから起こることも宗教の例と同じで、他人に「ロジカルシンキングをするよう強いる」か「ロジカルシンキングをしない人を排斥する」になると思われる。こういう例に思い当たる節があるはずである。


ここらで大体話は終わりで、結論というには少し飛躍(論理が)している感があるが、少し考察する。ロジカルシンキングというのは、元々が「相手のため」のものであるからこそ、そこに宗教と同様の「布教性」が発生するのだろうと思われる。なぜロジカルシンキング相手のためのものなのかと言えば、それは「説明」が相手のためのものなのだからだろうと思われる。


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以下補足。

・もちろん私は、論理的な説明というのは、相当に妥当かつ有用と言える方法だと思っていて、それを分からない人を議論から切り捨てるのがいけないと言っているわけではない。しかし、「説明」が「相手のためのもの」であるならば、切り捨てるということは元々の目的を放棄することだということである。

・私はここで、説明というのが「相手のためのもの」だと言っているが、これこそが論理で言う所の「前提」の一例であり、そこが真でなくなると話(結論、の意味)は変わってしまう。そしてそれが偽になってしまったケースもたくさんある。すなわち、相手に自分の意見を通して相手を好きなようにコントロールするのが目的であれば、ロジカルシンキング相手のためのものでは無くなる。そんなものを相手が了承しないのは当たり前であろう。しかしこのケースは物凄く多い。

[]宗教が「理解できないもの」という意味で使われているなら、宗教が排斥されるのは当然である

ちょっと前に、大学で「宗教活動を禁止してるってのはグローバルな大学になりたいって言ってるのにまずくない?」「学内に宗教学の先生もいるはずなのに、そういう方針について文句とか無いの?」みたいな話ツイッターでをしていた。すると、「宗教信仰しているのと、活動をするというのは違うんじゃないの?」とか「布教するのは違うんじゃないの?」みたいな反応があった。それを受けて考えてみたんだけど、話はそう簡単ではないと思う。


なお、大学の学則における宗教についての記述には以下のようなものがある。



(学生団体の活動の制限)

第7条 学生団体は、学内において、特定の政党を支持し、若しくはこれに反対するための政治活動又は特定の宗教のための宗教活動を行ってはならない。


集会の開催)

第9条 学生又は学生団体が、学内において、集会(集団行進及び集団示威行動を含む。以下同じ。)を開催しようとするときは、あらかじめ責任者を定め、別に定める学生集会(催)願を事前に学長に提出し、その許可を受けなければならない。

集会の制限)

第10条 学生又は学生団体は、学内において、特定の政党又は宗教団体に係る活動を目的とする集会を開催することはできない。



現在、(少なくとも筑波大学では)グローバル化を推進しており、留学生も多数受け入れている。例えばイスラムの女性が「ヒジャブ」(頭の髪を覆う布)を付けている光景も良く見られる。そこには宗教性が当然ある。もちろんそれは咎められていないし、咎めるべきであるとも思っていない。しかし例えば、学内において、ある宗教の教徒が、自分たちのやるイベントの勧誘のためのビラを配ったりしたら、基本的には規制の対象となる。学生も、すぐに学生生活課に苦情を入れることであろう。実際そういう状況(苦情を入れて対処される)は何回か見たことがある。


しかし学内でクリスマスパーティをやると言ったら、私はクリスマス宗教的イベントであると思うので、規則に照らすならば規制するべきであると思う。ハロウィンも同様である。しかしそうしたものが咎められている気配はない。それはそうしたイベントが既に我々日本人にとって馴染みのイベントになっていて違和感がないからだろうと思われる。


もちろん、日本人はそうしたイベントを商業的なものにしてしまって、宗教性を伴わないイベントになっているということ自体は理解できる。そうした、実質や心の伴わないものは宗教ではないと考えているのかもしれない。では外見が宗教でなくても宗教の心が伴っていれば宗教と言えるだろうか。例えば私がキリスト教の教えに従って、「自分に害為すものの幸せを祈って行動する」のは、キリスト教の心が伴っているのであるから、まぎれもない宗教活動だと思うのである。私は洗礼を受けたことはないが、キリスト教の教えを断片ではあるが学び、実践することにしているのである。ではこれは学則で規制すべきことだろうか?あるいは、他の人の行為にもこういうものはたくさんあるのではないだろうか?


マザー・テレサの言葉」みたいなのが持てはやされているのを結構見るのだが、なぜ「キリスト教」は受け入れられないのに「マザー・テレサの言葉」ならいいのだろうか?と考えると、「一般的にも立派な行為と言えることだから、宗教と特別言わなくてもいいんじゃない?」という気持ちがあるのだと思われる。私の眼には、マザー・テレサの内心では、キリストの教えを熱心に実行しているつもりであるのだと思うのであるが。


問題の核心はここである。ある宗教の中に居る人は、その宗教の教えの通りに生きることが生きることそのものなのである。宗教の教えを実行するのが生きることであり、その中の行為に「これは宗教的行為」「これは宗教的行為ではない」という区別があるわけではないのである。それを判断するのはいつも外部の人である。これは宗教がとても特殊なものであるということではなく、むしろ逆である。日本人も例えば「家庭を持って子供を育てるのが幸せ」教とか、「生きるというのは自分のやりたいことをやる事だ」教などがいつも宗教戦争をしているのである。ちなみに「この世に唯一絶対正しいものなどないんだよ教」が仏教である(らしい)。


生きる理由なんてものを考えると、どう頑張っても理屈では説明しきれない(少なくとも私には未だに出来ていない)。生きることに根拠を求めていくと、どこかで理由を考えることを諦めて、何かを無批判に、無根拠に受け入れなくてはならない。そこには「信じる」があり、宗教はそこで生まれる。


話を戻して、では「宗教の禁止」とはなんなのだろうかと考えると、まず「生きることすべてが宗教である」という考えからはこんなルールが出てくるわけはないので、そういう意味ではない。これは要するに「(大多数の人にとって)迷惑な事は禁止」ということでしかないのである。もっと言えば、普通の迷惑行為は迷惑行為として問題に出来るが、普通の基準では規制できないが「奇異に見える行為」を規制する理由として使われているのである。実際、日本に置いて「宗教」という言葉が使われる時は「自分達には理解できない事(をする人達)」という意味で使われているように思う。



「異文化理解をする。しかし自分にとって迷惑に感じる異文化は認めない」というのでは、異文化理解になっていない。自分が迷惑に感じるという理由で相手が悪いと決めつけるのは大変幼稚な事である。これは「ハラスメント」という言葉が起こす現象と同質の問題を含んでいる。言いがかりを付けたら相手を裁ける仕組みの中では、迷惑だと言ったものの要求が常に通るのだから、わがままな人の思い通りになってしまう。ハラスメントとして表明できること自体には重要な価値があると思うのだが、ハラスメントだと言ってからの対処は慎重でなくてはならない。もちろん、迷惑だと表明することは構わないのである。しかしざっくり言えば、迷惑だと表明して、相手の言い分を聞くところからが異文化理解である。これは何も外国人との交流に限った話ではない。


テクニカルな事を言うと、迷惑だと表明したことが即相手を裁くことになってしまう状況では、迷惑だと言う事自体の重みがとても大きくなってしまう。そうした状況では主張自体が抑制されてしまうし、言わないまま鬱憤を溜めて、言う時はいつも爆発するとき、ということになってしまう。もしそうした主張が抑制されていないとすれば、物凄く立場の強さに差があって好きなように相手を排斥出来る場合であるということである。日本の在学生と留学生との関係というのは大きく人数差があるため、その代表的な例と言える。

みんな異文化理解など本当はしたくないのだということが透けて見えている。究極的には別にしなくてもいいのだが、だったら綺麗事を言うのをやめろと思うのである。留学生が不憫ということもあるが、結局このままでは(グローバルに見た時の)大学の評判も落ちるのではないかと思う。しかし、異文化理解を必要とするのは、いつも理解されない側であるのかもしれないと考えると、せめて、普段「日本人」にすら排斥されている(と感じている)人は、その重要性を認識してみてもいいのではないだろうか。



以下捕捉


・ご存知の事と思うが、日本でこうした宗教の認識が広まったのは、オウム真理教に代表される宗教集団が宗教団体であることを隠れ蓑として色々と問題を起こしたことによる影響が大きい。宗教には自分で名乗るものと名乗らない物があって、日本で宗教を名乗るのは困った者達だけという状況が起きていた(今も別に変わったわけではないと思う)。そうした状況で、宗教を名乗る人達に近づかない方が賢明であるという判断をすること自体はなんらおかしい事ではない。


・「まともな宗教は良いけど、カルト宗教が問題」と言うことも出来るが、まともじゃない宗教の事をカルト宗教と呼ぶのであるから、これはトートロジーであり、結局はまともかどうかは自分で判断するしかない。もちろん信頼できる人に聞いてもいいが、ポイントは、宗教中の人にしてみれば区別はないはずだということである。ところで、我々日本人の「会社信仰」がカルト宗教でないと言い切れるだろうか?


・「みんなが迷惑に思うことは禁止」というのはそれ自体問題がある考えであるわけではない。しかし、そのみんなが迷惑に思うこととは何なのかということを、抽象的であってもいいから書かないと、「何が迷惑な事か」を決められる側の権力(裁量権)を大きくなる。それは持っている側にとっては美味しい事だが、それがいつ自分に牙をむくかどうかを考えるべきである。


銭湯が「刺繍のある人はお断り」と書くのは、ヤクザをやんわりと否定するためである。それによって恩恵を受けているのは、現場で問題が起きた時に対処を余儀なくされる番頭(って言うのかな?)である。割を食っているのはヤクザではなく刺繍をしている人である(ヤクザもかもしれないが)。今回の件でも同様で、宗教を禁止という言い方にしていることで恩恵を得ているのは問題が起きた時に対処する大学事務であると思う。大学事務の仕事を無限に大変にしていいとも思わないので、宗教を容認する方向へ方針を変更するならば、大学職員にクレームを入れることを控えないといけないし、クレームを入れたのに大学職員が対処しないという事態を受け入れないといけない。私は本当にそうするべきだ(いちいち対処するからみんなが付け上がる)と思っているのだが、そう思わない人がたくさん居るのだろうな、とは思う。

[]すべての人を罪人に出来るルールは諸刃の剣である

その昔、ヨーロッパ魔女狩りという風習があった。ざっくりと解説すると、今起きている社会の問題は人間に紛れている魔女が起こしているから、その魔女を見つけ出して殺さねばならない、というような風習である。その際、疑いをかけられた人が魔女なのかどうかを判定するために、「魔女裁判」と呼ばれる取り調べが行われていた(後世の人がそう呼んだだけかもしれない)。その方法は色々あったようだが、特に私の印象に残っているのは以下の方法である。「体を縛って川に投げ込み、浮かんできたら魔女で、沈んだら魔女ではない」。当然この方法では、浮かんだら殺されるし、沈んだらそのまま死ぬので、疑いをかけられた時点でその人は死ぬしかない。このような理不尽な裁判が行われたらしく、転じて、現代でもこのような一方的な処罰のことを魔女狩りと呼ぶことがある。


魔女狩りが行われている世界に住んでいる状況を想像すると、やはり酷く恐ろしい。いつ自分が魔女だと言われるか分からないし(ちなみに、魔”女”狩りだからといって、女ばかり殺された訳ではないようである。魔術が使えるんだから男にも化けられるという事だろうか)、一度やり玉に挙げられたらもう助かる見込みがない。そういう世界では、目立たぬよう、角(かど)を立てぬよう、おびえながら生きることになりそうだ。


では魔女裁判は具体的には何がおかしいのだろうか。それはもちろん、自分が魔女ではなかった場合に処罰を免れる可能性がないことである(そもそも魔女であることが悪いことなのかはよく分からないが、ここではそのことは忘れておこう)。これを防ぐために、近代法には基本原則として「無罪の推定」という仕組みが組み込まれている。「無罪の推定」は「誰でも裁判で有罪が確定するまでは無罪と見なされるので処罰(不利益)を与えてはいけない」ということと「その人が有罪であることを証明する責任は告発した側にある」ということだとしておこう。


「無罪の推定」によって「あいつはなんか怪しいよな」という理由だけでは人を処罰できなくなる。これによって、みんなが気楽に生きられるようになる。しかし、この原則は裁判所ではともかく、一般にはすぐ破られる。人は「なんだか怪しいからあいつを排除したい」と思うのが普通なのである。それがなぜかと言われると、人間ってのはそういうものだとしか言いようがないところがあるのだが、逆に、人間ってのはそういうものだからこそ、自然に任せていると皆がどんどん生き辛くなってしまうので、長年(千年単位)の議論の末に「無罪の推定のような仕組みを入れておいた方がいい」というところにたどり着いたのだと考えるといいと思う。直観に反するからこそ必要なものの一例だ。


さて、具体例としてセクハラについて考えてみよう。セクハラという概念が生まれたのは、これまで男性が女性の嫌がることを多々してきたことへの対処であるわけで、それ自体は良い変化だと思う。ハラスメントの概念の画期的な所は、「受け取る側が嫌だと思ったらハラスメント」と定義したことである。普通、ある行為の良し悪しは行為者側に依存する。それを、行為を受け取る側から論じられるようにしたのだ。それによって、「問題ないと思う人もいるかもしれないけど本人にとっては嫌な事」について、嫌だと表明できるようになった。しかし、セクハラだと表明して、もしそれで弁明の余地無しに相手に処罰が与えられてしまったら、それは魔女狩りと同じだ。さらに、表明しただけで処罰が与えられるとなると、それ自体が重い意味を持つようになり、女の人も表明しにくくなって損をしてしまう。それを防ぐには「嫌だと表明すること」と「相手が悪い」ということは別だと考える必要がある。


相手の言い分に依らず人を罰することが出来る仕組みは、それがいかに自分に都合が良く思えても、同じことが自分にも適用される危険性を常に考慮しなくてはならない。

[]メッセージは科学的に正しくないからこそメッセージになる

(この文章は自分的には論理の展開がおかしい気がしているんだけど、見直してそのうち仕上げたいなので、公開しといた方が自分でも確認しやすいので公開しておく)

(この文章の趣旨的には、「メッセージ」は「科学」と一緒で、情報量を増やすものなので、それを反するものだと書いているのがおかしいのかな)



科学とは何かを語るうえで重要な指標として「反証可能性」というものがある。「科学とは何か」なんてことに皆が興味が有るのか無いのか分からないが、これが分かっていると日常でも役に立つと思うので紹介する。これは情報量と関係のある概念だ。


「無駄を無くせ」なんてことを言う人がよく居る。しかし、無駄という言葉はそもそも「要らないもの」という意味を含んでいるわけで、無駄を無くした方が良いのは当たり前である。だからその言葉には情報量がない。それに対して、「何が無駄なのか」を挙げることには情報量がある。そして、特定のものを「無駄だ」と指摘すると「いやそれはあんたは無駄だというかもしれないけど、私にとっては無駄じゃないんだ」と反論することが出来る。例えば「ゲームは時間の無駄」などと言えば多数の反論が来るであろう。反論の余地がない話は確かに正しいが、言っても意味がない。


「この世には二通りの○○がいる」という語り口がある。ここで例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚している男だ」などと言ったとすると、この文章は「結婚」のところに何を入れても正しい。文の構造自体がそうなっているのだ。こういう文の事を「トートロジー(恒真)」な文という。これに対して、例えば「世の中には二通りの男がいる。結婚していない男と、結婚を後悔している男だ」という文だとすると、これはおそらく正しくはないが、言った人が「男は結婚をすると後悔する」というメッセージを出していることは分かる。もしそれが正しければ新しい事を言えていることにはなる。そこに情報があるわけである。


嵐の大野氏は、やる気を出さないメンバーに向かって「目の前の事を頑張れない奴が何を頑張れるんだ!」と言ったそうである。かっこいい言葉だと思う。しかしそれはメッセージであって、正しくはないな、と思うのである。ブラック企業の社長のような、目の前のことに人を縛りつけて不満を言わせない目的の人も同じことを言うであろう。だからこの言葉はシチュエーション限定でしか(文脈依存にしか)正しくないのである。


今私は「こういう場合は正しくない」と、大野氏の意見を否定して見せた。ある命題を否定する論証をすることを「反証」という。反証とは、事例を挙げるなりして「その説は間違っています」と言うことだ。であるから、反証可能性があるということは「どのような事例が示されれば、あなたの説は間違っていることになりますか?」という質問に答えられるということだ。そして、科学には、この反証可能性がなくてはならない(という考えの学者が多数派である)。科学の法則はすべてが仮説であり、いつか否定されるかもしれないが、今のところ正しそう、というものなのだ。科学は「絶対に正しい」とは「絶対に言うことが出来ない」。それは弱々しいと思うかもしれないが、その謙虚さが科学を他と区別しているのである。だから「絶対に正しい」などと言う科学者は信用してはいけない。


しかし、例えば医者が患者に「私の病気は治りますか?」と聞かれて、「絶対に治るとは言えない」と返答するのは、科学的には正しいのだろうが、果たして医療として正しいのだろうか?あるいは、大野氏が言うようなかっこいいセリフは馬鹿な意見なのだろうか?きっと、相手に言いたいことが伝わったのなら、そのシチュエーションでは科学とは別の意味で、メッセージとして正しかったのだと思う。逆に言えば、メッセージとは、正しいとは限らないことを正しいと言い張る事なのだと思う。


書いていて思うが、こんなまどろっこしい話を、学者以外の誰がするというのだ。おおよそ世の中のかっこいい事は、科学的に正しくない事の中にあるんじゃないだろうか。

2015-12-30

今日のtwitter

抜粋

  • Steamで積もうか迷ってる↓ Undertale Inside My Radio Ori and Blind Forest Trine 2 FTL: Faster Than Light Risk of Rain Transistor (Skyrim) posted at 10:19:44
  • 「エロ」と「性的」は違うものなのかもしれない、と今更。 posted at 16:04:02
  • 「ルール」は、自然にしていると上手くいかない事に対して設けられると考えると、多くのルールは直感に反するものだということになるが、それが「ルールというのは良く分からない(専門家だけが分かるような机上の)ものだ」になっているとすると良くない状況だと思う。 posted at 16:48:37
  • 直感に合う部分、「何を目指しているか」みたいなことをもうちっと明示したうえでルールを位置づけた方がい良い、みたいな話になるのかなあ。 posted at 16:54:40
  • 「学際的」って、「色んな学問分野にまたがる」って意味だと思うんだけど、「際」って「縁」みたいなイメージで、学問分野のせめぎ合う間の線っぽさがあって、狭い範囲を指すような印象を抱く可能性もあるのかなと思った。 posted at 20:41:35
  • 私、最近あまり話す時に断定しなくなったと思うんですけど、断定する人ってこういう風に見えてたんだなあって、今更ながらに思うようになった。強そう。そして怖い。 posted at 22:56:33

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[]リスクを取るとはリスクの大きいことをすることではなく決断をすることである

(facebook投稿の転載)


考えて導き出された結論が道徳的だったから書くの止めようかと思ったけど、自分にとって都合悪い事を書く人の方がひねくれてる気もするしせっかくだから書きます。


よく「成功するにはリスクを取れ」みたいな話が有りますが、まずこれは端的に言っておかしい。何がおかしいかと言うと、ただリスクを取ればいいわけじゃないから。例えば、私が歩行者だとして車道に入ったり出たりを繰り返すと、リスクは上昇するけど、それに見合うリターンは何もないので、ただ損をする。リスクを取るからには、それに見合うリターンがないと意味がない。


ということは、要は、リスクと成功の確率とリターンの量について、期待値を計算して、期待値的に得な戦略を取ればいいということになる。リスクは出来れば少ない方がいいけど、「リスクを取ることを(期待値的に得なら)恐れるな」はだいたい正しいって事になる。


ではなぜ普通の人はその戦略を取らないのか?あるいは、取らないように感じるのか?という疑問が私にはあった。こういう話の次には頻繁に、「変化を恐れるな」的な意味で「現状維持にもリスクがある」という話が出てくる。現状維持にもリスクがあるということはその通り。このことについて、私は「人間は現状維持のリスクを低く見積もる傾向があるんだろう」みたいなことを考えていたんだけど、自分でもいまいち面白くないと思っていた。それでもうちょっと考えていた。


そんで思いついたんだけど、そもそも「リスク」を意識するのって、選択肢があって、それについて決断することを真面目に考えた時なんだなって思った。私みたいにズルズル大学に居る人なんていうのは、物凄くこのリスク計算が甘いんだと思うんだけども、自問自答するに、計算が下手糞なんじゃなくて、そもそも何も考えていないというのが正直な気持ちなの。計算した上で低く見積もっちゃってる訳じゃないのよ。


何が言いたいかというと、(社会的)成功をした人はなんらか決断をしたんだと思うんだけど、その人はわざわざリスクの高い方法を選んだわけでは決してないんだけども、決断する際にリスクについて真面目に向き合って考えた人であるがために、リスクがあってもやったんだという意識が芽生えがちなので、「リスクを取れ」って言っちゃうのかなと。


いやー偉いですね決断した人は。ちなみに私は「成功者」という言葉が嫌いです。以上、よろしくお願いします。

2015-12-29

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  • 人間が嫌いな気がするが人間の創ったものがとても好きなのでそんなに人間が嫌いじゃないのかもしれない。 posted at 00:17:23
  • ビッグデータにより明らかになりましたbot」っていうのどうかな。「スポーツが好きな人には粗暴な人が多いことがビッグデータにより明らかになりました。」とか悪口言いまくるのに使う。 posted at 11:00:09

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