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無事の記

2017-03-22

メモ二つ


 ●椎名林檎についてのメモ


 椎名林檎の『無罪』『勝訴』は実存的ロマン主義と人工的古典主義のせめぎあいの奇跡果実であり、しかし彼女女性としての肉体をずたずたにし、3枚目で古典主義的な技巧に着地して(緊急避難して)、結婚出産離婚から引退も十分ありえたけど、バンドとしての東京事変で「職業訓練」を延々と10年続けて、自己模倣劣化コピーに耐えて、4枚目5枚目辺りではかなりの水準まで行って、その頃にようやく出したソロとしての4枚目『三文ゴシップ』はかなりよくて(ブレヒト的な「労働者」「生活者」の手触りすらある)、しかしそれよりも何よりも、5枚目の『日出処』が完全に芸術的享楽として突き抜けてしまっていて、初期の『無罪』『勝訴』の達成を更新しているんだけど、これがまさに安部政権寄りの権威的ナショナリスト、ネタがベタ日本版リーフェンシュタール再来、等々と批判されているわけで、僕もまた、『日出処』以降の、圧倒的な芸術的享楽+政治的危うさをどうやって受け止めていいのか、まだ全くわからない。困惑するばかりである。ロマン主義と古典主義の内的せめぎあいといい、現代の三島由紀夫のような人だと思う。リベラルナチュラリストの宇多田ヒカルとは全く別のタイプの才能の持ち主なのだと思う。そもそもデビュー時に音楽業界のしがらみに散々苦しんだ彼女が、政治的世界のしがらみを好むとは思えないから、あえて政治の渦中に飛び込んで、政治の中枢において非政治的な純粋芸術を実験しているようにも見えるし、たんに無邪気に戯れて取り込まれているだけというよくあるパターンにも見えるし、どう考えていいのか、ほんとうに困惑と混乱は尽きない。明らかに最近作品は、享楽において圧倒的に最高潮だから、なおさら。しかも椎名林檎の場合は、純粋芸術と言っても少しも安全安心ものではなく、極右国家主義ナショナリズム熱狂を、ファシズム的な青き純潔の炎で焼き尽くす、という感じなのだ。初期の「東京」はモダニズム的だったが(アンチ渋谷としての虚構的な新宿というイロニー)、近年の椎名林檎が演出する「東京」は、完全に、ファシズム的な総合芸術の域にある(秩序と混沌技術自然、光と闇、破壊創造、生と死の一致)。紅白の都庁のように。三島は1970年、45歳で『豊饒の海』を完成させ、擬似的クーデターと自殺という最後の最大の「作品」を残したが、彼女にとって2020年の東京オリンピックパラリンピックはどうなるのだろう。


●又吉直樹『劇場』についてのメモ


古色蒼然たる「文学者」への擬態とコスプレ感が色んな意味で痛々しい。小説内の設定として、お笑い業界ではなく演劇業界を選んだゆえの、文学くささがやばいのかもしれない。又吉自身文人になりたいという欲望と文壇・メディア役割期待とが、悪い形で癒着し共依存してはいないか。逆に言うと、前作『火花』は、「芸人」と「文学者」のジャンル間のずれや歪さによって、そこが面白さになり、何とか小説たり得ていたということだったのだろうか。『劇場』の主人公恋人関係は、全く凡庸感傷的でいい気なものであり(というか主人公の邪悪さがかなりやばく、かつ、作者がその邪悪さを「こんなにだめで滑稽な自分をさらけ出すよ!」的に救済したがっているとしか思えない、そこが本当にやばい)、それに比べると、主人公と青山の関係の方がずっと面白かった。主人公が殺伐とした罵倒を繰り返しながら青山に執拗に食い下がる感じはよかった。それでも主人公サイドにまだまだ余裕があって、それがもの足りず嫌だった。「青山みたいな痛い女に理解示す俺」的なナルシシズムをふりきれてなかった。むしろ青山(小説)の側が主人公(演劇)に食い下がり、いい気な余裕を奪い去り、根源的に脅かしていたら、どうだったろう。もっと本当の意味で、不気味さと可笑しさが切り分けられないような(文学趣味ではなく)小説的な「笑い」が生まれたのではないか。『火花』はたしかにお笑い業界底辺をめぐるある種のプロレタリア文学であり、現実的にはどんなに悲惨で貧しくても、成功者も脱落者も諦めきれない者も含めて、ぜんたいとしては全員が等しくある種の救いを与えられていた。そこには作者自身の、おそらくは資本主義以上に過酷なお笑い業界を生きる仲間たちに対する(超越論的な)優しさがあり、祈りがあった。そのような超越論的な眼差しがあるからこそ、小説としてのぎこちなさが、かえって作品に深い味わいを醸造していたように思った。現実にうまく適応できない人間たちの、その貧しく地を這う身体に宿る微笑こそが、又吉氏のお笑い芸人としての可能性に新たな光を与えてもいた。しかし『劇場』はどうだろう。


2017-03-01

限界研『東日本大震災後文学論』刊行


 共著『東日本大震災後文学論』が東日本大震災から6年目の3月11日に刊行されます。

 昨年から僕も「新人」として限界小説研究会に参加していました。これはその研究成果です。漢字10文字のタイトルも、カバーの黒さも、600頁を超える分厚さも、じつに反時代的な一冊になったと思います。あの震災の衝撃に対峙するには、そんな過剰さが必要だと思われました。日々の生活の中で色々な物事を忘れていく自分にとって、何を忘れ、何を覚えているか、また何をそもそも記憶すら出来ていないのか、結果的にそれが試されているとも思います。

 お手に取ってみて下さい。

 メンバー同志の共同研究や相互批評が全体を染みわたっています。僕自身は巻末の作品リストのほか、高橋源一郎論を書いています。200枚になりました(この長さの原稿を掲載して貰えるのも論集として過剰ですが)。同論では高橋以外にも中村文則、上田岳弘、星野智幸、大澤信亮などの小説・批評をポストヒューマンな「銀河系文学」と呼び、また終盤では宮澤賢治/ゴジラ/ナウシカ/高畑勲などに関しても論じています。


 ◆「高橋源一郎論――銀河系文学の彼方に」(200枚、限界研『東日本大震災後文学論』、2017年3月11日)


 個人的な話を付け加えれば、高橋源一郎の男性問題を論じているという意味では『宮崎駿論』『長渕剛論』『非モテの品格』との連続性もあります。さらに昨年末の立岩真也氏との共著『相模原障害者殺傷事件』と本書『東日本大震災後文学論』は、偶然ですが、共に漢字10文字で過剰な感じになりました。


2017-02-17

最近仕事(諸々)


 ちょっと色々な意味で身辺が落ち着かない日々が続いていますが、最近の仕事諸々は下記になります。


 ◆笠井潔+藤田直哉+杉田俊介+冨塚亮平+藤井義允「『シン・ゴジラ』を撃て!――笠井潔『テロルとゴジラ』、藤田直哉『シン・ゴジラ論』をめぐって」(「図書新聞」2月25日、3292号(2月18日発売号))

 ◆「高橋和巳は何を「わが解体」と呼んだのか――自己批判批判的に肯定する」(42枚、『高橋和巳』河出書房新社、2017年2月28日

 ◆「高橋和巳の公共性――新しい読者のために」(10枚、河出文庫『わが解体』解説

 ◆「読書=本の森 秋山駿『内部の人間』」(共同通信)

 ◆「憑依のアナキズム――栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』書評」(「文學界」2017年4月号)


高橋和巳

高橋和巳

2017-01-18

最近仕事(α-Synodos原稿+津島佑子論)


 ◆「優生と男性のはざまでとり乱す――優生思想についてのメモ」(約25枚、「α-Synodos」vol.212(特集生命)、2017年1月15日配信

 ◆「いかに兄を障害児として産み直すか――津島佑子の初期作品から」(43枚、『津島佑子』河出書房新社、2017年1月20日

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309025391/


α-Synodos原稿の削除部分


 上記のα-Synodos原稿から削った部分(原稿が長すぎた、同号の粥川氏の原稿とかぶった、本論とあまり有機的な繋がりがない、等の理由による)を下記に(せっかくなので)アップしておきます


 優生思想とは何か。

 以下では、(1)古典的な優生思想、(2)リベラルな優生思想、(3)増強型の優生思想の三つを区別して論じる。

 まず(1)の古典的な優生学について。

 一般的に、優生学とは、人間遺伝的要因に着目し、それを利用して人間の性能の劣化を防ごうとする、あるいは積極的にその質を改良しようとする学問的立場社会的政治的実践のことである立岩真也用語解説」、安立清史・杉岡直人編『社会学』)。

 スペンサーらが唱えた社会進化論(Social Evolutionism)は、ダーウィンの進化論を受け、 それを人間的な社会に適用・応用しようとする社会ダーウィニズム(Social Darwinism)へと繋がり、これが一九世紀後半以降、アメリカなどで支持されていった。そのような流れの中で、一八八三年に、優生学eugenics という言葉をダーウィンの甥でもあるイギリスのF・ゴルトンが初めて使った、とされる。これはギリシャ語で「よいタネ」を意味する言葉だという。

 一口に優生学/優生思想といっても、もちろん、学派や時代、論者などによって様々な違いがあるのだが、ある程度の最大公約数的に共通の傾向をもつ思想的・実践的な潮流として、一九世紀末から第二次世界大戦前にかけて、世界中で大きな影響力を持つことになった。人類を品種改良し、理想的な社会を作るための夢の学問と信じられていた時代もある(今もそうかもしれない)。ドイツでは一九世紀末以降、民族衛生学(Rassenhygiene)と呼ばれる流れが形成された。

 こうした古典的な意味での優生学は、大きく分けると、優秀な(とされる)遺伝子や人間を増やそうとする積極的(肯定的)優生学(positive eugenics)と、 劣った(とされる)遺伝子や人間の数を減らそうとする消極的否定的)優生学(negative eugenics)とに区別される。

 かつての歴史の上では、前者の積極的優生よりも、後者の消極的優生の方がより一般的に実践されてきた。断種法の制定、強制的不妊手術、施設病院への隔離収容、安楽死・慈悲殺、また遺伝子関連技術の発達に伴う出生前診断、等々……。人種差別移民問題などに絡むケースも多い。

 ちなみに優生的なものを推し進める手段としては、介入のみならず、放任・放置というやり方もあるだろう。つまり、 放任+自由競争によって淘汰が生じ、よりよい人間が残り、人間という人間の種や社会が進化する。社会扶助などによって本来淘汰されているはずの劣位の者を生き残らせるのは「逆淘汰」であり、望ましくない。そう考えるのである。

 一般的に、優生学といえば、ナチスという負の遺産イメージが強いだろう。実際にナチス政権は、生きるに値する生命と生きるに値しない生命を分け、人種や民族の生命の質を全体的に引き上げることをめざし、様々な障害者や遺伝性の病気がある(とされた)人々の強制的な断種を行ったり、障害者の安楽死作戦(T4作戦)を実行したりした。

 これに対し、近年、(2)リベラル優生学とは何だろうか。

 それは自己決定に基づく優生学である。つまり、国家・社会の全体主義的な強制(強制不妊手術や遺伝子差別)ではなく、リベラルな主体の自己決定やインフォームドコンセントが重視され、科学的根拠やエビデンスに基づいて、優生的な改造や介入を選択する、というものである。

 国家や共同体集団的利益を優先し、個々人の生命や生殖に介入するタイプの優生学は、現在、公の場であからさまに主張するのは避けられる傾向にある。それを「旧優生学」と呼ぶのに対し、個人や親の利益とも関わりつつ、ある個人の利益や幸福のために、あくまでも自由な選択に基づいてなされるタイプの出生前診断や中絶などを「新優生学」(new eugenics)と呼ぶ。

 それは医療関連技術の発展とも関わる。松原洋子は次のように書いている。《「遺伝学的市民」とは、「新遺伝学」の時代に登場してきた市民像である。遺伝学的市民は、「知る権利」や「選択の自由」を主張し、遺伝学リテラシーをもち、適切なインフォームド・チョイスによって新遺伝学が提供するサービスを自由に使いこなせる市民である》(松原洋子「「新遺伝学」と市民」、『生命の臨界』所収)。

 従来の優生学は、国家や公共の名のもとに個人の身体や生殖に介入するものだった。これに対し、産む・産まないの自己決定を主張する女性たちの運動から生まれた性と生殖に関する健康/権利(リプロダクティブ・ヘルスライツ)という考え方は、古典的な意味での優生学に対する批判であり、抵抗を意味した。しかし、女性たちの自己決定論は、自分の身体の処分権を主張する時に、生殖関連技術が高度化した状況の中では、ある場合にはかえって、先端医療のある種の資源として女性の身体が利用されていくことへと絡め取られてしまう、というねじれがあるのである(萩野美穂『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』等)。

 これを道徳的に批判することは、それほど簡単なことではない。たとえばリベラルな優生思想の持ち主は、次のように主張するかもしれない。

 ――現実に、環境教育のコントロールを通じた人間の改良は、ごく普通に行われているではありませんか。公衆衛生の改善は、伝染病の死亡率を減少させ平均寿命を上げ、栄養状態の改善は、人類の体格を著しく向上させてきました。親は子どものために出来るだけ良い教育を受けさせようとするし、健康や成長のために遊びや運動をさせたい、と自然に思うものです。これらも洗脳や介入なのですか。逆に聞きたいです。どうして、遺伝子や能力への介入だけがことさら批判されるのでしょうか。それは裏返しの遺伝子神話(遺伝子に過剰反応すること)ではありませんか。たとえ今のところ、科学的に不確定なリスクがあるとしても、それは技術的に解決していくべきものです。私たちは、自分たち合理的意志コスト計算に基づいて、子どもたちの未来の幸福のために、最善の選択をしているだけなのです……。(金森修『遺伝子改造』等を参照)

 さらにこうしたリベラル優生学(新優生思想)の考え方を突きつめていくと、エンハンスメントと呼ばれる考え方に行きつく場合がある。

 そこには、リベラルな自己決定に基づく優生思想とはまた別の過剰さがあるように思われるので、これを(3)増強型の優生思想と呼んでおこう。

 生命科学や生命倫理の二一世紀の新しい課題として、ライフエクステンション(生延長)、エンハンスメント(能力増強)、ニューロエシックス(脳神経倫理学)などの増強型の科学技術がある(この辺りのことは、上田昌文+渡部麻衣子編『エンハンスメント論争 身体・精神の増強と先端科学技術』、森岡正博「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学」、生命環境倫理ドイツ情報センター編『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』等を参照)。

 エンハンスメントとは、健康の回復・維持を超えて、人間の能力や性質の改良・増強のために、生物医学的に介入することを指す。たとえば身長を伸ばす、筋肉を増強する、老化を遅らせる、知能指数を上げる、感情を統御する、性格を道徳的にする、などのあらゆる介入が技術的に可能になりつつある。方法としては薬物投与、外科手術、遺伝子操作などが行われる(これはすでに農作物や動物に対しては行われている遺伝子操作を、人間へも応用し適用することである)。心や精神への介入も、ニューロエシックス(脳神経倫理学)等の分野では注目されている。

 しかしそもそも、たとえば受精卵の選択という形での介入などは、すでに不妊治療などで行われていた。では、受精卵の遺伝子への介入はどうか。遺伝病の治療などの遺伝子の修正と、遺伝子の性質や能力への増強的介入では、何かが違うのか。たとえばそれはデザインベイビーの存在までをも許すものなのか。遺伝子操作は、たんに個人のみならず、長い目でみれば人類にとってもリスクがないか。あるいはそれらの技術は、富裕層や先進国の人間のみが享受可能であり、累積的に遺伝子・能力格差を生み出し、いずれ極端な二極化の世界に至るのではないか。いや、完全な人間(perfect people)になるのを望むのは人類の一般的な欲求であり、そのような人々が当たり前に存在するようになれば、不利益を被る欠点・障害を持つ人々がそもそもいなくなるはずだ……云々。

 こうした問題が現在、リアル文脈議論され、検討されているのだ。

 このような増強型の優生思想とは、「社会的弱者」「劣位の者」の身体や生命に介入し選別し抹殺するための優生思想(介入型の消極的優生)ではないし、あるいは、放置し見殺しにするための優生思想(放置型の消極的優生)でもない。人体を改良しより善く生かすための優生思想(自己決定に基づく積極的優生)なのである。あるいは、親が子の将来のリスクを回避し、幸福の可能性を増やすための優生的な考えである(パターナリズムとしての積極的優生)。

 たとえば『責任という原理』等で有名な哲学者のハンス・ヨナスは、生延長批判のために、人間にとって「死」とは恩恵である、という議論を展開してきた。人間の生の全てを計算可能、改造可能、延長可能にするのは、悪夢のようでバカげている。そのことを主張するためには、人間には死が最後の恩恵として残されていなければならない、と。こうしたヨナスの主張は、もともと、ヨナスの哲学から影響を受けたレオン・キャスが主導する形で大統領生命倫理評議会による思想的レポートが提出され、それに対し功利主義者のハリスらが反論し、さまざまな政治的・科学技術的な諸論争が生じた、という緊張感の中で示されたものだった。しかし、ヨナスの技術批判は、どこか、底が浅いという気がする。

 さらに考えてみよう。

 増強的な優生思想の一つのポイントは、人為/自然、必然/偶然の区別を無効化していくことである。

 たとえばこれまで、社会正義にもとづく配分的正義(人々は社会的に平等であるべきである)を考える場合にも、一般的には、社会的不平等(構造や制度の面での不平等)と自然的不平等(生まれ付きの能力や身体の不平等)の水準が区別されてきた。後者はそもそも、変更不能である。だから、社会構造を変革し、機会・財・選択肢アクセス権などの平等な確保と分配を進めるべきである、と。

 しかし、人間のあり方を技術的に遺伝子レベルで改良・改造することが一般化していくならば、状況はさらに変わっていくかもしれない。医療的・科学的なテクノロジーの進展によって、これまでは自然的不平等とみなされてきた様々な領域すらもが、仕方がない自然的な偶然ではなく、人間の人為的な選択対象へと変わっていくからだ(アレンブキャナン他『偶然から選択へ』。馬渕浩二『倫理空間への問い 応用倫理学から世界を見る』を参照)。たとえば、身体障害や脳機能の障害などを予防・治療しうるようになれば、胎児や乳幼児の時点で障害の治療をしないならば、それは親の責任であり、ひいては自己責任である、と見なされることになっていく。

 未来のスーパーヒューマンは、次のように主張するかもしれない。ここにもし、どんな障害や難病でもあとかたもなく消える薬が開発されたとしたら、誰もがそれを飲むだろう。自分の子どもに飲ませるだろう。そしてそのことは、より平等で素晴らしい社会へのステップボードであるだろう、と――たとえ障害や身体的・知的能力の優越すら、ますます、個人責任化されていくとしても……。

 これはユートピアディストピアの話ではない。リベラルな社会の帰結でもある。社会学者稲葉振一郎は、社会主義的な計画経済破綻し、リベラルな市場経済が発達する中では、人間の身体(人的資本)もまた、ある意味では、サイボーグ的に改造しうるものとなる、と言う。経済学でいう人的資本論は、自分の身体という財産を自由に改造することを認めるからだ。ポストヒューマン的な状況とは、SF的な遠い未来の話ではなく、リベラルな価値観と人間改造への志向が両立しうるような状況へと一歩近づくことであり、そこでは人々は「優生学的操作・サイボーグ的改造と、子どもに対して親が望むような教育をなすこととの間に、本質的な違いはあるのか?」という問いの前に躊躇し、佇むほかなくなる(『「資本」論』)。原理的に、我が子を愛するがゆえの人体改造や子どもの遺伝子操作(デザインベイビー)と、通常の意味での教育や育児への親の投資の間に、はっきりとした線が引けなくなっていくのである。

 ならば、あらためて、優生学的なものや内なる優生思想から解き放たれる(それに抵抗する?脱構築する?)とは、どういうことなのか。

 そのことを根底的に問い直してみるしかない。


2017-01-07

すばるクリティーク賞創設+選考委員になります


 大切なお知らせがあります。


 「すばるクリティーク賞」という批評の新人賞が新しく創設されました。

 その選考委員になりました。

 他の選考委員は大澤信亮、中島岳志、浜崎洋介の各氏です(中島氏はゲスト選考委員の位置づけです)。


 どんな「新人」と出会えるのか、楽しみにしています。未曽有の怪物的才能が出現し、完膚なきまでにこちらがねじ伏せられる、という恐怖も含めて、楽しみです。


 詳細は本誌の共同討議と、応募要項をご覧下さい。

http://subaru.shueisha.co.jp/critique/index.html

 僕自身の批評に対する思いのありったけは、共同討議の中で語っています。2017年は僕自身の「文芸批評元年」にしなければ、という志でいます。誰かを批評する者は誰かから批評されねばならない、自分の書き方と生き方が変革されないならば選考委員を引き受けた意味がない、と思っています。どんなに非力で無力であれ、批評の歴史を一歩でも継承し更新する責任を自分なりに引き受けねば、と。それを具体の仕事で示さねば、と。


 ◆大澤信亮×中島岳志×浜崎洋介×杉田俊介「来たるべき新人へ――すばるクリティーク賞創設」(「すばる」2017年2月号)


すばる2017年2月号

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