2011-11-04
2011-09-22
■【座談会】現代アートの病理と救済――コミュニティアート、ネットカルチャー、ポストヒューマン
現代アートをめぐって、下記のメンバーで座談会をしました。
テーマは、現代アート、地域系アートプロジェクト、ネットカルチャー、floating view、カオス*ラウンジ、拡張現実、AR詩、pixiv、東日本大震災と喪の問題、郊外論ブーム、アートと金銭問題、倫理と責任……。そして現代アートに込める希望・祈り・愛。
ぜひ、ごらんください。
【参加者】
藤田直哉:SF・文芸評論家。http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/
ni_ka:詩人。モニタ詩やAR詩を発表。http://yaplog.jp/tipotipo/
佐々木友輔:映像作家。企画展「floating view 」主催。http://www.geocities.jp/qspds996/
杉田俊介:現在、主夫+パートケアワーカー+批評家。
■ 地域系アートプロジェクトの現在
杉田俊介(以下杉田):本日は、現代アートや芸術運動をめぐって、皆さんがどう感じていられるのか、ざっくばらんにお聞かせ下さい。僕の素人なりの目でみると、現代アートの世界は、まず一つの極にアメリカ型のアート市場をハッキングし芸術の商品性を全面化する村上隆さんがいて、その対極に、借金まみれで活動しながら芸術を単なる「いたずら」の域にまで無化しようとするChim↑Pomがいて、さらにもう一つの極には、芸術保険制度を唱えたりと国家と芸術の文化的・金銭的な協力関係を模索する平田オリザさん的なものがあって……、と、市場・純粋芸術・国家というトライアングルを構成しているようにみえます。その中でも、今回焦点になりそうなのは、皆さんが関係しているfloating view、それからカオス*ラウンジなどでしょうか。個人的には、そこに、宮下公園の運動、素人の乱、サウンドデモなどの文脈も重ねてみたいのですけれども。芸術運動と社会運動の境界線上にあるような運動ですね。
佐々木友輔(以下佐々木):今のお話しで、私がまず思い出すのは、いわゆる「地域系アートプロジェクト」のことです。たとえば私が関わりのあるところで言えば、一九九九年から市民・取手市・東京芸術大学の三者が共同で行なっている取手アートプロジェクト(http://www.toride-ap.gr.jp/)や、秋田県大館市出身のクリエイターが自発的に立ち上げた「ゼロダテ」(http://www.zero-date.org/)などですね。活動内容はそれぞれ異なりますが、アーティストと地元の人がコラボレーションし、集団生活しながらアートを制作したり、コミュニケーション自体を作品化したりするわけです。そうした動きが日本では一九九〇年代末〜二〇〇七年くらいに広がってきた。そうした集団制作や共同生活を含むアートのあり方が、twitterなどのネット上のSNSと結びついて首都圏部にいわば「逆流」している状況があるのではないか。渋家(注・個室無しのシェアハウスで共同生活を送るという、生活そのものをアートとしたムーブメントのこと)やギークハウスなどが登場してきた背景には、そういった文脈もあると思います。
杉田:なるほど。
佐々木:一方、地域系アートプロジェクトの方は、このところ、これまでとは少し方向性が変わりつつあるように見える。元々の地域系アートプロジェクトの多くは、疲弊した郊外や無縁社会の再生・活性化という目的を掲げていましたが、最近は開催地がそもそも観光地であるようなアートプロジェクトが人気のようです。瀬戸内国際芸術祭(http://setouchi-artfest.jp/)など、観光型のアートとでもいうべきものが目に付くようになってきました。
■ コミューン幻想としてのアートと搾取問題
杉田:カオス*ラウンジは、オタクやギークたちによるある種のサウンドデモのようにもみえました。自分たちの存在の公共展示であり、デモンストレーションですね。ですから、経済問題や地域性の問題とも不可分だと思うのです。しかし、彼らはなぜかあたかもネットやアーキテクチャから自分たちが純粋培養されてきたかのように語る。素朴な疑問として、なぜなのでしょう。
ni_ka:最近の表現や芸術運動の一部は、政治理念や宗教に基づいたかつてのユートピア幻想やコミューン幻想の、反復なのではないかと感じることがしばしばあります。活動によるとは思いますが、表現活動やその周囲の運動が、前時代の政治や宗教の代りになっているのではないでしょうか。
藤田直哉(以下藤田):長崎浩さんの『共同体の救済と病理』を読んでいて思ったのですが、かつての革命の理念や、オウム真理教などの宗教と同じように、現在では、芸術やアートが、人々を集団化するための原動力になっているのではないかと思っています。ここで言う「理念」とは、「内容が空疎で到達不可能であるが故に、意味内容を融通無碍に操作してコントロールする道具として、不全感を持った人々を吸引・操作可能な装置」というネガティヴな意味です。これは結構重要な問題であると考えています。何故「芸術」にそのようなコミュニケーションやコミュニティ化を求めるように作り手やキュレーターなどが変化していったのかと言えば、背景には、経済のネオリベラル化や共同体の壊滅、コミュニケーションの困難などなどが想定されるわけです。僕は、実際は下部構造の問題が大きいと思っています。
渋家などの活動を見ていると、現在のアートには、「働かないで生きていく」ことを欲望する側面があるという気がするんですね。社会に出て働きたくはないけど、他人や社会からの承認は何らかの形で受けたい。
杉田:ああ、なるほど。
ni_ka:作品が無くても、アーティストやなにかを名乗るというやり方をよく拝見します。「場」を作るとか「現象」をつくるとかそういうのものも流行していますよね。
佐々木:最近に限ったことではなく、常に一定数そういう人たちは出てくるのかもしれませんね。私自身、「アートへのただ乗り」を考える人々をしばしば目にします。もちろん、コミュニティ・アートの企画者や、地域系アートプロジェクトの現場で制作・運営を行う人たちの多くは、社会性を持ち、コミュニケーション能力の高い人たちがほとんどです。そもそも、そういう人たちがいないとプロジェクトが成り立ちませんからね。ただ、彼らが尽力して出来たものに乗っかるだけの、フリーライドアーティストが一定数いるのは確かです。
ni_ka:私は、尽力している方々には敬意を表したいです。ですが、フリーライドというより、「未来の搾取」ということが気になります。「誰でもライトにアーティストや詩人や芸術にまつわる何者かになれる」という主張により、搾取がはじまるという面もありませんか。
藤田:それはありますね。実際、一つの活動体の「上位」の人は、運動が終った後も名前も実績も残るわけですよね。未来美術家を名乗る遠藤一郎さんの「わくわくSHIBUYA」展でもカオス*ラウンジの黒瀬君たちでもそうです。
しかし、中途半端なアーティスト幻想や祭りの高揚感を与えられた人たちはどうなるのか。彼らは対等な「アーティスト」だと自分を思うことによって自己愛なり名誉心を得られるかもしれない。しかし、現実的に、彼ら・彼女等は「残らない」「残れない」のではないか。アートに名誉や金銭を期待するなら、少ない名誉や資本の奪い合いという側面からもそうならざるを得ない。だから、その「自己愛」を維持するために「アート」の定義を拡大させようとしているように思います。「しっかりとした作品で認められて、売れる」とかそういう条件をなくそうとしているように思います。
現代アート(や、現代思想)のオーガナイズ問題は重要だと思う。その集団に巻き込まれて「下部」にいて、実力や才能がないままに幻想だけを与えられて、三〇代とかになってしまった人はどうすればいいのだろうか。僕の経験上、芸術家として生き残るかどうかではなく、リアルに「生きるか死ぬか」の問題に晒される人は、うまくいかなかった人の中には膨大な数いるように思います。一つの運動を創り出した「上位」の人間は、巻き込んだ人々の人生の後始末をどう考えるのか、そもそも考えているのか、気になっています。
杉田:近年のアート運動にも、たとえば「フリーター」という言葉の出自と同じく、やりがいの搾取があるということですね。ふと思ったのは、現代アートや現代思想系の言葉が、労働や地域性の問題をスルーするのは、消費者や参加者が見たくないものをあらかじめ滅菌消毒し、快適で多幸的な「ゲンジツ」(田中秀臣)だけを提供しているからかもしれません。消費者の無意識を敏感に感じ取って、あらかじめ思想やアートという商品をパッケージ化していく。しかし、そこには、消費させる側であるつもりが、消費者の集合知的な欲望に消費され、いつのまにか逆影響を受けていく、という面もありそうです。
ni_ka:もちろん、過去の歴史に向き合い素晴らしい作品を生んでいるアーティストの方は、確固としていらっしゃいますよね。表現の主流はそういう方たちで、今話に出ている方たちは、傍流なのかもしれません。ただ、「歴史の勉強不足」がある場合、かつてのコミュニティ運動の末路を知れば、気付けることに、気付けない。芸術や表現は「新しさ」「前衛」「先端」を名乗りがちですけど、その「新しさ」は「自覚の無い反復」の場合が多いと思うんです。私は自戒を大いにこめて、そこに警戒したいです。
藤田:今現在、労働を否定して芸術の「自由」を謳い上げたり「著作権の解放」を謳い上げたりするタイプの言説を見ていると、ロマン主義の言説の単純な反復のように見えます。
特に、「アート無罪」という言葉が最近流行っているのですが、そのように揶揄されがちな「芸術」が「倫理」や「資本」や「社会」よりも無根拠・無条件に上位であるという主張をしている人はtwitterに大量にいますね。「芸術」(文学)の価値を社会より上において戦うという図式は、北村透谷の人生相渉論争、芸術と実生活論争、言葉狩り論争などと、基本的な構造は変わっていないように見える。「芸術」と「自由」が結びつくことが無根拠に前提とされている議論は、この歴史の反復に陥りがちだと思います。特に、「芸術は自由であるべきだ」「労働や他人とのコミュニケーションは私の内面の自由を奪うものだ」という二つの考えがセットになったら、危険な罠にかなり近付いてしまう。
■ アートは歴史の反復であっていい
佐々木:なるほど。そうですね。無根拠にある価値を礼賛してしまうことへの注意は怠らないようにしたいです。しかし私の観測範囲では、むしろ芸術の側が不当に下位に置かれて虐げられる場面を見かけることの方が多いなとも思います。「社会」や「社会人」という言葉をマジックワードのように使って、地道に働き生計を立てながら制作を続ける作家にさえ無遠慮にひどい罵声を浴びせる人々がいる現状がもう一方にあることは述べておきたいです。一部の人たちが芸術の価値を他より上位に語ろうとするのも、そうした圧迫状況への精一杯の抵抗という面もあるのではないでしょうか。
また私は、芸術はある程度歴史の反復であってもいいと思います。それはその都度、ある必然のもとに生まれてきているものだし、反復することでうまれてくる歴史もある。むしろ反復することでやっと、何とか持ちこたえ、維持されてきた表現や価値、生き方があるはずです。過去に議論されていたとしても、自分で実践してみなければ分からないことは山ほどありますし、膨大な反復を通して少しずつでも位相をずらしていくしかないのでしょう。私自身、コケて痛みを感じて初めて気づくことばかりです。
ただ私が警戒しているのは、少々話が逸れてしまうかもしれませんが、ひとつの芸術活動を継続すること自体が目的になってしまうことです。「プロジェクト」が期間限定であることの重要性を桂英史さんが仰っていましたが、活動の存続自体が自己目的化してしまうと非常に危険です。しがらみばかりが増大して、やめたくてもやめられない。続いているだけで誰にも望まれていないプロジェクトになってしまうくらいなら、スパッとやめるべきです。floating viewもそのような事態になることは避けたい。継続はあくまで後からついてくるものです。
ni_ka:floating viewは、佐々木さんが企画を立てて、佐々木さんの問題関心に融合するような作家や評論家に佐々木さんがお声をかけて、その企画に向かってゆくというものなので、カオス*ラウンジ、Chim↑Pomのような固定メンバーや所属アーティストという制度ではないので性質が違うと私は解釈しています。
■ アートのあらびき芸化?
藤田:繰り返しになるけど、アーティスト志向とフリーター的な現実がセットになっていることが、危ういと思うんだよね。長年見てきたネット上の文学者集団があるんだけど、自殺したり措置入院させられたりとか続出していて、結構リアルにとんでもない。文学なり芸術なりに人生を賭けてしまうと、「潰し」の効くスキルが獲得されないままになってしまうから、そこで成功できなかったら、結構ヤバいんだよ。自分は天才であるはずだという思いと、しんどい現実との折り合いがつけられなくなって、別の世界を夢見てしまう。最近亡くなった、あるネットの小説家の作品を読み直していたのですが、彼はきつい労働と叶わない夢の中で、「空」を非常にポジティヴな世界として描き出すようになっていくんですね。そして、マンションから落下して亡くなってしまった。これは読み返していて非常に辛いものがあります。
杉田:一時期のレッドカーペットやあらびき団に出てくる大量生産のお笑い芸人のような……。バイトしながら、たまに番組に出るみたいな。もちろん現代アーティストとお笑い芸人の間に境界線や優劣もないですけど。
ni_ka:あらびき団は、あらびきなものを俯瞰している東野幸治さんと藤井隆さんがいるから成立していますよね。『ピューと吹く!ジャガー』でいえばピヨ彦。つっこみというか整理役の彼らがいなければ、そこはボケなのかも判明しない「ボケッ放しよくわからない人たちゾーン」ですよね。高度にあらびきを装った中原昌也さんのような作家もいらっしゃいますが。
藤田:浅田彰が詩人の和合亮一をツェランと比較して、共同体に奉仕してセラピーすることは芸術ではない、と言っていたという報告を、twitterで見ました。これが浅田さんの言った内容と同じかどうかはともかく、この意見に僕は共感する部分も多くて、コミュニケーションの価値と芸術の価値は全く違うのだ、という立場は典型的な立場の一つだと思います。
杉田:少し話の流れを変えると、最近の芸術=社会運動の中には、少なくとも潜在的には、「次」のフェーズや倫理を開く面もあったと感じたんです。優れた才能ある個人が勉強し切磋琢磨して勝ち残る、というだけではない、集団的な芸術=社会運動の可能性はありえないのでしょうか。
藤田:たとえば昔のダダやシュルレアリスムは、集団と言っても、数十人単位だったように思います。今はネットを介しているから、参加人数の桁が違いますよね。pixiv等でも巨大な規模のコミュニケーションや売り買いが生じているわけですね。僕も批評家ですから、心の一方ではヴォネガットが言ったように、「一つのジャンルに世界で一〇人いれば充分」という残酷な見方を持っています。もう一方で、この桁違いの数は何かを根本的に変える可能性を持っている気もする。少なくとも「芸術」の定義は変えようとしている。しかし、それを変えたからなんなのか、その先が見えない。「誰でもピカソ」状態になったときに、そのピカソはどうやって生活するんだろうか。「誰でも」になれば、承認や名誉や金銭は得られないわけです。そこはシビアに「奪い合い」の世界にならざるを得ない。それを諦める、あるいは求めないのであれば、それは一つの新しいあり方として、肯定できると思います。ネット上の創作にはそういう側面がありますよね。僕はそれらが結構好きです。
先ほど「あらびき団」化という話がありましたが、たけし軍団はあらびき団以前にあらびき団だったわけです。たけしさんは素人いじりも行っていた。そして、そうやって「芸人未満」の人たちを「芸人」にしてしまったことの責任をとって、仕事の面倒を見たり、私費でお小遣いを上げたり、色々している。「たけし軍団」から学ぶことは多いと思います。
■ コミュニケーションの価値と芸術の価値
杉田:一つの運動で何かが大きく変わるわけではないでしょうが、たとえば経済面を含むフリーやシェアの動きも一定の規模になってきましたよね。数十年単位で変わっていく面もあるのでは。
藤田:両義的ですね。フリーやシェアは、個別具体的に、利害や効果を見極めた上で、本当に文化や作り手にとって良い形になる「バランス」が問題だと思います。そのバランスをどうすればよいのかは、そう簡単には決められない。
佐々木:いくつかの地域系アートプロジェクトに参加してみて感じたことですが、私には、コミュニケーションの価値と芸術の価値は違うと言い切ってしまうことは出来ません。確かにその二つの価値を考え無しに一緒くたにしてしまって、どんどんつまらなくなっていくプロジェクトは無数にある。けれども同時に、最初から割り切って「地方で美術展覧会巡回展をやりますよ」というようなスタンスのプロジェクトほど魅力のないものもない。緊張感が失われてしまうんですね。
当たり前のことですが、実際にある土地に立って、コミュニケーションの価値と芸術の価値の間でそれぞれに誘惑されてふらつきながら制作・実践を行う中で、何かがうまれる兆しのようなものがやっと見えてくるのだと思います。自分は出来れば楽をしたい怠惰な人間ですが、トライ&エラーの、「エラー」の時間を端折ることは出来ないなあ、ショートカットは出来ないものだなあと、このところ痛感しています。
また、最近の芸術運動や社会運動を行う人たちのことをそこまで心配する必要はないのではないでしょうか。もちろん個人差はありますが、彼らもしたたかで、弱くないです。一方的に幻想に惑わされ搾取されているわけではなく、ある程度現実を見据えながら、自覚的に利用し合っていたりする。最近入学してくる美術大学の学生なんて本当にドライですよ。最初からアーティストになろうとすら思っていなくて、入学時から就職の心配をしていたりする。私のように、個人の「作家」として、具体的な「作品」にこだわって家に引きこもって制作を続けている人間の方がよっぽど社会性に欠けていたり、生活力もなかったりします。情けないことに(笑)。でもそれは完全に自己責任ですからね。そもそも現状で誰かに救ってもらうことは期待出来ないし、「作家」を名乗る以上は生も死も自分で引き受けなければと思います。
しかし私は一方で、「作家」を名乗らない作家のあり方、職業としての芸術家ではないかたちで表現を続けるあり方も模索していきたいし、そうした試みを行う人や場所を応援していくつもりです。藤田さんの仰ったウェブ上の創作もそうですし、それ以外の場所でも。以前は否定的な目で見ていた地域系アートプロジェクトを今日これだけ推しているのは、その最良の部分に、そうした芸術表現の可能性を感じたからです。ずっと継続していくことは難しくても、先ほど述べたように「プロジェクト」として期間と狙いを定めれば、地域系アートプロジェクトやコミュニティ・アートにもまだまだやれることがある。
芸術運動の社会的な影響力については、例えば最近、大小様々ですが各所でカオス*ラウンジの影響が感じられるモノやコトを見かけます。彼らの行いへの批判があるのはもっともですし、私自身彼らの活動全体を肯定することは出来ませんが、そのようにじわじわと周囲に影響を与え、社会の何事かを変えたことは認めざるを得ないのかなと。その何事かの正体はまだ分からないし、答えが出るのももう少し先だと思いますが……。カオス*ラウンジが出てこなければ、floating viewも今のようなかたちで注目されることはなかったかもしれない。そのことは謙虚に受け止めたいと思います。
藤田:北村透谷が、芸術や美は今すぐ役には立たないけど、未来のいつの日か現実を変えることに賭ける、という内容のことを言っていました。日本で初めてとは言わないけど、「美」の実用性からの自立ということをかなり早くに言ったのは透谷で、しかし彼はその前に革命運動に参加して、仲間が捕まったりしていた。そのときに透谷は逃げてて(笑)、その罪悪感が、彼の主張には大きく影響しています。「芸術は社会とは関係ない」「イデオロギーとは関係ない」という主張すら、理念やイデオロギーに関わらざるを得ないんです。
風景と自分が一体化するなんていう発言もしてて(「絶大の景色に対する時に詞句全く尽るは、即ち「我」の全部既に没了し去れ、恍惚としてわが此にあるか、彼にあるか知らずなりゆくなり」)、これはネットを「新しい風景」とする最近の言説と並べると、そっくりすぎてびっくりします。
再度注意を喚起しますが、透谷の発言の背景には政治的な挫折と宗教があることを忘れてはいけないです。革命に参加しないで逃げて友人だけが捕まったことの罪悪感と、キリスト教という宗教的背景が、透谷の美学形成に重大な影響を及ぼしたと言われています。
最近だと「人間関係」や「コミュニケーション」を芸術評価の価値の軸にしようとしているようですが、その主張自体が一つの政治的背景を持っていたり、宗教的な価値観に無自覚に基づいているのかもしれないと、一度は考えてみるべきです。
カオス*ラウンジだって、あんなにイデオロギー的主張の強い運動はない。梅ラボさんの絵をそれを切り離して擁護する人もいますが、そうはいかない。なぜなら、「どう描くか」こそが思想なのです。図像と手法こそが思想なんです。
ただ、梅ラボ氏の絵が示している思想を、黒瀬陽平氏が理解しているとは思えない。「カオス*ラウンジ宣言」と梅ラボ氏の絵が乖離していることは紛れもない事実です。「げんじつ!」展に出ていた梅ラボ氏の作品は(ネットの高解像度の画像で見ただけなのですが)彼の新しい作家性と思想を示していて、(著作権の問題や、著作権を主張できない匿名からの簒奪の問題を抜きにすれば)評価できます。しかし、彼に群がってその作品を矮小化して代弁し「運動」として利用しようとすることからは深刻な問題が生じていると考えています。
■ 情報技術革命時代の倫理と責任
杉田:藤田さんは、カオス*ラウンジ関係者の倫理や責任の不在を批判されていますね。
藤田:そうですね。ポストモダンなデータベース的主体は、近代的主体と違って、ネットの画像や引用やパッチワークから成り立っているとでも言いたいかのような主張を彼らはするわけですが、結局そこにも、金銭欲や名誉欲、性欲など、人間的な「内面」が露呈してきたわけですね。またポストモダン的な主体(として彼らが理解しているような、ネットと人間が断片化して融合するような世界)では、主張が論理的に破綻していたり、責任の所在を曖昧化したり、加害と被害の配分を巧みに操って他人を貶めたりすることが簡単に起こるわけですよね。
僕が一番滑稽だと思うのは、ネットを重大な断層であるかのように主張して「新しさ」を価値の源泉にした運動が、ネットとは全く関係なく、戦前から続く「無責任の構造」や「甘えの構造」を無自覚に反復しているように見えるという点です。ポストモダンも解離もデータベースもアーキテクチャも生成力も聞こえは新しかったが、実際にはそれらの言葉を使った「村」だったという「田舎者性」こそがきちんと考察されるべきなんだと思います。
杉田:他方で、そこには、土着的あるいは近代的主体の復古とは異なる、ポストモダンと情報技術革命の瓦礫を一度くぐった先にある、いわばポストヒューマンな倫理の芽生えは含まれていないのでしょうか。
藤田:肯定的な側面ももちろんあるんです。
梅ラボ氏の文章を読むと、カオス*ラウンジの騒動や東日本大震災を通して、キャラクターに対してすら暴力を行使してはいけない、という倫理が芽生えている。カオス*ラウンジという運動のどうしようもなさとは関係なく、そこに、現実と情報環境などと混交した現在的な感覚における「生命/キャラクター」に対する、新しい倫理や責任の感覚の萌芽があると思うんです。その新しい思想を、あの作品から徹底的に読み込むことなしに、底の浅い「宣言」で押し通そうというのは、ちょっと肯定できない。
著作権や、二次創作への態度も含めて、ネットでの騒動の全体が、芸術とネットと倫理とについて思考を促し、議論を発展させていく場として機能していることは間違いがないです(この考え方は、以前に大澤信亮さんが示唆されていらっしゃいました)。これらを通過した中で、ネットと人間が切り離せず、ある種のマン・マシン・インターフェイスそのもの自体になってしまった世界における「倫理」のシステムが構築されていくのではないか。あるいは逆に、「ならない/なれない」という差異の軋みからこそそれが生まれてくるのかもしれません。それがひと段落した後に、芸術や運動も次のステージに一挙に進むと思います。
杉田:全共闘運動から宗教的原理主義化の時期への、いわば「過剰反省」があったと思うんです。倫理を突き詰めると内ゲバになるから、倫理とか言うのはやめようぜ、と。北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』や東浩紀『動物化するポストモダン』などは、責任や倫理の問題の回避を正当化するためのセオリーでもある。良くも悪くも。しかし、消費主義やポストモダン的主体の無限の無責任や暴力の転移、また組織的な暴力性も誰の目にも明らかなわけで。それをふまえて、今後、芸術や運動における倫理の問い直しが必然化してきたのかもしれませんね。
藤田:東日本大震災がそれを、良く悪くも我々に要求してしまいました。多くの人が丸山真男の「無責任の体系」に言及している。大きな出来事が起こったとたん、そういう言説が出てくること自体もひとつの問題ではあるんですが……。
杉田:nikaさんの詩は、素材や問題関心の点では、オタクやカオス*ラウンジとも重なりますよね。
でも、ホモソーシャリティやアーキテクチャへの居直りを、決して自分にゆるしていない。
ni_kaさんのAR詩『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』は、お世辞抜きに素晴らしい。圧倒的です。3・11の被災地や死者たちに向き合いつつ、東京を浮遊(ドリフト)していく。斜めだったり手ブレていたり反転・回転したりする画面は、まさに妖精的なfloating viewです。そこでは、無数に増殖するキティちゃん/少女趣味のエアタグ/ぼやけた家族や恋人のスナップ写真/花や光の色彩/等が、ふわふわと浮遊し続けているわけですが、これは、現実/記号(エアタグ)/言葉/キャラが等価なものとして重ね描きされた拡張現実的トーキョーの風景です。
ni_kaさんは、東京と被災地、生者と死者の間の絶対的な断絶に等身大で向き合い、自らの無力さを全身に染み渡らせていく(男性的な自己反省や内省ではなく、本当に身体や言葉の表層に染み渡らせる感じですね)。けれども、その永遠の浮遊の反復と鎮魂(哀悼)の独自の抒情性の中に、弱々しくエフェメラルな「責任」「倫理」(っぽいもの)が生じてくる。生者と死者とキャラと言語とネットが混然一体となった「風景」――そこでは、自らの身体や言葉を匿名化・妖精化する試みと、死者たちの圧倒的な「不在」が、絶対に重なり合わないまま、ほのかに照応しているようにみえます。
ni_ka:「モニタ詩」と自分で名づけた私の作品や他のネットでの作品は、ネット側から生じた文学史に回収されないであろう現象や言葉の変容を、その現象にはコミットせず、それらを自分の直観にとりこんで、モニタを最終アウトプットとして表現する、というのが一つのコンセプトでした。
東日本大震災以降、言説や表現やマスメディアや社会運動はこんなにも「生者」のためにあるものなのか、と愕然としました。いわゆる一部の「知識人」や「文化人」や「発信者」の言説の偏りが納得できないんです。勿論優しい方が多く存在しているのは知っています。ですが、私の眼には、大量死と、現在進行形の「喪の限界」の問題が遠ざけられ、生き残った方だけに向かいすぎているように映るんです。
二万人を超える、自分と同じ価値の魂を持った人々が海にのまれて、あの日からずっと大切な溺死体を探してくれている人たちが今もいるので、私の中では今ここの「生者」と無念の「死者」たちの世界は、消化できないものとして同じ広さで存在しているんですね。
父の実家が宮城県気仙沼市なので、親戚を多く3月11日に失いました。きちんと弔うことすらできませんでした。ただ私自身は、生まれは品川で基本的に東京や豪州で生活してきたので、宮城県の沿岸部という空間、或いはそこにある共同体は、悠遠でしかも幽遠なので、東京で孤立しているように感じる。これは凡庸な疎外感なのか、私がマイノリティーになったからなのか、或いは違う理由があるからなのか、震災から自問自答し続けています。
人間の生存本能のような遺伝子レベルの問題で、生き残ったものだけの方向に、必然のように言説や表現が行進していっているのならば、偶然に生き残ったからこそ、そこには今は抗いたいです。「死者」になった人とその周辺に向かう表現や言説が足りていない。
元々私にとって詩を創ったり表現をすることは怖いことなんですね。私の固有の知覚やアンビションや言葉によって誰かを傷つけることはとても怖いです。
生身では不可視のAR、拡張現実という中で、妖精というか透明の視点や言葉を獲得することで、かろうじて、やっと今のような表現をしているという状況です。記録写真詩作品としてアップしているのはごく一部で、大量に「生と死」のあわいを彷徨うように東京中にエアタグを祈るようにまいています。そして私がまいたエアタグを気づきもせず、東京の人々や空気が通り過ぎた時に、私たちと同じ人間である遠い場所の死者と一瞬の交点になれという気持ちで、映像感覚と都市感覚とノイズをまきこんで「AR詩」を東京中にえがいています。(http://yaplog.jp/tipotipo/)
藤田:『3・11の未来 日本・SF・創造力』の中で僕が書かせていただいた、「喪の新しい技法を作り出す(出さざるを得ない)」というテーマをもっとも優れた形で行っている作家の一人がni_kaさんだと思います。というか、この言い方も倒錯していて、むしろ彼女の創作活動を見ながら、僕があの文章を組み上げていった部分も、結構あるんです。
■ ポストヒューマンにとってユーモアとは何か
杉田:藤田さんの今回の『3・11の未来』に収録された原稿は、また文体のギアが一つ上がった感じがありますね。極限的なアモラルや暴力性を通過した先にある、ポストヒューマンなエチカというか。
しかし、確かに、際どいですね。他人の死や虐殺を享楽するメンタリティが自分の中にあるわけじゃないですか。この7月、ようやく陸前高田や気仙沼、南相馬、福島第一原発から北に20キロの地点を「見学」してきたのですが、どこか昂揚し、言葉が上擦っている自分に気付いて。川崎に帰った後、しばらく脳や身体がフリーズした。
藤田:スペクタクルそれ自体の快楽というのは、もうどうしようもなく、ありますよね。安吾が「魔の退屈」で東京大空襲を「楽しんだ」「美しい」と率直に書いています。シュトックハウゼンやボードリヤールは、貿易センタービル倒壊に快あるいは美を感じたと率直に言っています。しかし、これは井口時男さんが『文芸思潮』の座談会で仰っていることなんですが、そこで苦しんだ人や死んだ人の苦しみを想像することは「遅れて」やってくる。だから、言葉は「遅れて」やってくる。その「遅れ」に言葉の価値がある、と言うわけです。この遅れてやってくる想像力や倫理を持ちつつ、映像やスペクタクルに率直に高揚したこと自体を抹消せず、その乖離を認めることだけが、本当の倫理の足がかりになるのではないか。
倫理だけに偏重して、「快」や「感じること」まで抑圧していくと、問題はより悪化する場合がある。他人へ求める倫理と自分に課す倫理は、倫理それ自体が暴力であるという性質を持っているので、無限に反転して暴力を高次化していくわけですね。そうした悪循環を超えるものは、ユーモアしかない、というのが僕の立場です。倫理の悪循環を解き放つための倫理として、僕はユーモアを考えています。
杉田:なるほど。僕もユーモアの問題は重要だと思います。アイロニーや2ちゃん的な「嗤い」ではなくユーモア。僕は「喜び」のユーモアを重視したいのですが、たとえばスピノザの非人間的なエチカは、喜びのエチカであり、抑圧的な倫理主義とは違うかもしれない。僕の場合は、無意味でファルスな現実を笑う、というより、他者を「笑わせる」が連鎖し、喜びが無限に伝達していく、というイメージかな。
藤田さんは、2ちゃんねるやpixivの中に、時おり、ある種のメカニックで集団的なエチカが自然生成的に出てくることに、注目していますよね。
藤田:たとえば、僕には、カオス*ラウンジよりも、それと敵対している画像掲示板の方々の方が、倫理的だったしユーモアがあったと思う。
しかし、色々聞いてみるうちに、そういう運動も、どうも無意識と群集と集合知の自動計算が生み出したものというよりも、「中の人」が単に個人としても立派なだけという側面も見えてきました。
杉田:金持ち喧嘩せず、というか?
藤田:普通に「人間」としてちゃんとしている人々がたまたま集まったから非常に魅力的な空間になって、「集合知」も見事に働いた、ということのようです……
しかし、その中には多分実際の無職もニートもいる。実際、彼らは自分たちがニートやダメ人間であることを強調します。ネグリとハートが書いた『マルチチュード』という本の中で、新しい時代の革命主体として期待されている「マルチチュード」という言葉があります。僕の読解では、コンピュータ関係のグローバルな知的エリートが実行部隊として現実的に期待されていて、介護や看護や果ては農業までも「第三次産業的な労働」として「マルチチュード」だと言われているが、それは「連帯」を生むための「便宜」だろうと思ったことがあります。しかし、その掲示板の「無職」ネタ、自虐ネタは、「マルチチュード」なんていう概念をでっちあげて学術的に言わなくても、結局「連帯」を維持する機能を担っているわけです。本当は弁護士や、役員かもしれない。しかし、匿名で同じ「無職」を共有することで、そこでは「マルチチュード」という言葉が果たしているのと同じ働きが起こっているんです。
しかし、同時期に、花王への抗議運動や、フジテレビのデモなどもありました。ネットでの群集行動が何かの可能性に繋がっていると言う場合、個別の運動ごとに肯定できる部分とできない部分をきっちり見極めないと、むしろ危険な場合も多いのではないか。何に向かうのか、どう向かうのか。
■ 神的なものの問題――Jホラーをめぐって
藤田:少し話は変わりますが、前に2ちゃんねる用語の「ネ申」についてずっと考えていたことがあります。僕はこれを「道化師であると同時に神」であるとして、中島梓さんの書かれたSF論『道化師と神』(1983)と接続させて考えてみました。
日本SFの第一世代を支えた柴野拓美さんが、SFを定義して「人間理性の産物が人間理性を離れて自走することを意識した文学」と言った。「集団理性」という概念を出すわけです。それに対し、「集団無意識」ということも言う。今で言う初音ミクや「キャラクター」の問題系を、情報化社会以前に提唱していることには恐ろしく思います。
しかし、何故それが「神」や「天使」などの宗教的なもののメタファーで呼ばれるのか。ウィリアム・ギブスンの『カウント・ゼロ』(1986)では、ネットの中を自走する存在が、ヴードゥー教と関連付けられたりしている。ギブスンが「天使」と言われる初音ミクに興味を抱き、twitterで言及するのは必然だったと言えるかもしれません。
人間理性や工学的なものの延長上に宗教の問題が出てくる。僕らが現に直面しているのは、そういう状況であって、この中から新しい宗教的なものや倫理が生まれてこようとしているのかもしれません。
杉田:その辺は大澤信亮君の『神的批評』の神的なものの概念とも、違うものなのでしょうね。超人(スーパーマン)と非人間(ポストヒューマン)の微妙な違いというか。
ところで佐々木さん、floating viewの先には、倫理や宗教の問題が出てくると思いますか?
佐々木:floating viewの今後については、正直「2」以降は何の予定も予想も立てていないので答えられないですね。
ただ、自分自身の作品制作について言えば、今、ホラー映画を撮る計画を立てているのですが、それがおそらく、杉田さんにご質問頂いた倫理や宗教の問題につながっていくのではないかと予測しています。最近、『リング』は傑作だったと気がついて、この映画のことをずっと考えているんですね。『リング』では、来歴不明な怨念が、たくさんの人間にTwitterのRTのように伝播して、皆なぜ呪われるのか分からないまま死んでいく。日本の悪霊は、特定の人物への恨みがきっかけであっても、復讐の過程で周囲の関係ない人にも被害を及ぼすという話を聞いたことがありますが、『リング』のビデオテープもまさにそれだ、と。私が興味を持っているのは、貞子がビデオに無差別な怨念を込めるその瞬間です。Twitterで【拡散希望】と書く瞬間です。「ホラー映画ビギンズ」とでもいうべきものを撮ってみたい。
杉田:それは面白いですね。
藤田:山川賢一さんが、『リング』に代表されるJホラー一般を「仕組みは理解可能なのにどうにもできないシステム」の恐怖だと仰っていました。「情報」の中で自走していく存在が当時は「幽霊」や「怨念」として認識されていたんですね。90年代からゼロ年代にかけて、僕らはみんなで悪魔祓いをして、貞子をミクにしていたのかもしれませんね(笑)。
■ 郊外的なものをめぐって
佐々木:Twitterと言えば、先日杉田さんが、最近の郊外論には労働の問題が抜け落ちているというご批判をなさっていましたが、私はその言葉を自分の活動への批判として受け取りました。実際、floating viewの「1」では、労働の問題をあえて脇に置いてしまったところがあります。
今、あるところでは再び小さな郊外論ブームが起こっているのかもしれませんが、私の知る限り、実際に郊外に住む人たちにはその言葉はほとんど届いていない。彼らは自分たちの町に対して本当に関心がないんですね。それこそ「何もない」と思い込んでしまっている。愛着も思い入れもない場所をわざわざ変えようとは思いませんから、その場所に不満があれば、郊外ではなく都市か田舎に移動すれば良いという発想になりがちです。そうした意識を変えるために、可能な限り郊外のポジティブな側面を強調しようとした。しかしその結果、抜け落ちてしまったものもたくさんあった。それは今後の課題です。以前から予告しているのですが、長塚節の『土』の現代版を映画化することを考えています。ちょうど100年前の茨城県に住む貧農の物語です。杉田さんから頂いたご意見に対しては、この作品で何かしらの返答が出来るかもしれません。
ni_ka:私は、佐々木さんの企画の「郊外からうまれるアート」展に参加させていただいて今でもとてもそれが嬉しいのですが、郊外観は佐々木さんと全然違うんです。
私にとっては郊外の本質というものは存在しません。つまり「私」語りの末に「郊外とはこうである」と、「私」の感覚で郊外を一般化させると、虚構のイメージ創りに加担してしまうと思うんですね。佐々木さんは「郊外は否定されて無視されてきたが、実はロマンティックな生活がある」という旨の主張をされるのですが、単一的な否定の言説を否定することによって、結果的に郊外を言葉で単一化させてしまった。それは、佐々木さんの通ってらっしゃる東京藝大の校舎とお住まいが取手市なので、その学生生活が楽しくてその場所を肯定したいがためのものかなぁと。佐々木さんの住んでいる取手が本当に郊外なのか疑うことも重要ですし。「郊外の人は」とか「郊外は」というように、最大公約数的にトポスや人間を「私」を通しただけの感覚で語ると固有性を奪うし危険だと思うんです。
たとえば郊外と言っても、欧州の郊外にはゲットーがあるし、アフリカもアメリカもロシアも多種多様ですし、フランスでは郊外といえば移民問題が大きくて、「郊外暴動」というものがあります。日本の郊外だってむろん多様です。ですから郊外という言葉の定義を一応理解していても、郊外というものは掴むことはできません。どこかの宇宙人から見たらば、地球丸ごとが郊外かもしれませんからね(笑)。
藤田:佐々木さんの郊外論が、下部構造を否認しがちなことは確かでしょうね。カタログに寄稿させていただいた僕の文章は、なるべくその部分を露骨に書くようにしました。
杉田:第一回のfloating viewをみに行った時、一つの芸術運動では、キュレーターと批評家の両輪が大切なんだなあ、とつくづく感じました。たとえば「拡張現実」や「アーキテクチャ」という概念も使い方次第では危うくて。現実を重ね描きすると言いつつ、みたくない差異(他者)をスルーしてすます口実にもなる。
佐々木:論考では、地理区分としての「郊外」と区別して「郊外的環境」という言葉を設け、floating viewの立脚点となる、ある限定的な場所のあり方を描こうとしたのですが、やはりこれまでの「郊外」という言葉の強さに引きずられてしまい、そこがうまく説明出来なかったかもしれません。また、私の郊外論がとてもプライベートな記憶に多くを負っているのも事実です。ただし学生生活は全然楽しくなかったですが(笑)。論考の冒頭にも書いたように、私は社会学や郊外論に関して完全に門外漢なので、あくまで作家の立場から、郊外への新しい(と自分が思う)アプローチ、これまでとは異なる切り口を提案することしか出来ません。そう考えた時に、やはり私には「具体的な場所」を歩き、生活した経験から始めるしかないし、それが一番誠実だと信じています。
とは言え、floating viewの中でも、作家の数、参加者の数だけ異なる郊外観がある。それを私個人の狭い郊外観に押し込めてしまうのではなく、むしろそれぞれの郊外観がひとつに結合されないままひとつの空間(展覧会場)にかさなり合っているような状態をつくりあげることは当初からの重要なテーマでした。私にとって拡張現実とは、杉田さんのお言葉をお借りすれば、「現実を重ね描きする」ためのものではなく、「差異を可視化する」ための方法論のひとつであると考えています(先ほどお話しした新作ホラー映画の構想はまさに、現実を拡張して見えなかったものを可視化することによって、「それ」に取り憑かれ、呪われるお話です)。
そうしたテーマを実現するための具体的な実践として、floating viewでは展示の空間や作品ごとの配置を一般的な展覧会のように縦に区切らないことを目指しました。floating viewでいう「郊外」が、何かを排除するために機能するのではなく、部分的なかさなりで各作家がある空間を共有するためのゆるやかな枠として機能するようにと、作家の石塚つばささんと試行錯誤を重ねて空間設計を行った。イメージはitunesのソート機能です。「郊外的環境」というワードでソートすると、偶然この作家たちが上位に並ぶ。それは一時的な集合であって、また別のソートによって並び替えられ、入れ替えられる。各作品を単体で完結させず、展覧会としても閉じてしまわず、多様なレイヤーの一端を垣間見せるような展示にしたかった。それが達成出来たかどうかは観に来てくださった方々の判断に委ねます。
杉田:佐々木さんの場合、失礼な言い方になるかもしれないけど、論文と実行の間のずれ(をご本人が自覚できていないこと)が面白くって。本の方の『floating view』も、中身が雑多じゃないですか。展覧会自体への藤田さんの批判、ni_kaさんの詩、もはや郊外の話とは全然関係ない身体論が掲載されていたりする。『思想地図』や『プラネッツ』はファストフード店のメニューの多様さという感じですが、floating viewの場合は構図自体が奇妙に狂っている。その辺りは佐々木さんの無意識の才能なのかな。そのうち富田克也さんや入江悠さんと一緒に何かやっても面白いのでは。彼らの郊外観は全然違いますから。
佐々木:うーん。自分ではやっぱり中身が雑多だとはあまり思えないんです。例えばfloating viewで郊外的環境の問題として取り上げた環境管理型権力とかアーキテクチャといった話は、必ずしも情報論として語らなければならないわけではない。身体論の側から、もっと言えば「論」ですらなく身体の側からのアプローチがあっても良いはずだし、舞踏家やパフォーマーがそういった問題意識に反応して、抗ったり馴れ合ったり躍ったりしても良いですよね。
floating viewは、展覧会、書籍、その他イベントなどを合わせた複合的な企画の総称です。そこで位相の違うあれこれをかさねてみたり、ぶつけてみたりすることで、郊外の思わぬ一面が見つけられるかもしれない。またfloating viewを観てくださった方々がそこから何かアイデアを思いつき、新たな郊外への実践・試みを始めるきっかけになるかもしれない。この企画がそうした発火点になってくれればと願っております。
杉田:わかりました。
■ 希望・祈り・愛
杉田:最後に何か一言、お願いします。
藤田:僕は、今の芸術や運動は、水面下で、必要な過程を経ているように見えます。新しい倫理、新しいシステム、新しい組織論……。その蠢きを同時代で体験できるというのは、非常に楽しい経験でもあるんです。とはいえ、先ほど自分で言ってあれなのですが、ネットで人が衝突するのを放っておけばなにかいいものが出てくるだろう、という考えも危ない気がします。「希望」や「可能性」は、瞬間的に、偶発的に、事故のように顕現していて、それを捕まえる手段が見つからない、という感じです。
ni_ka:今日はなんだかドリーム感の少ない発言が多くなってしまった気がしますが、私は、文学、批評、美術、演劇、映像、その他の表現には大きな可能性があると思っています。これからも他者や歴史のノイズに五感を研ぎ澄まして、命をかけて、天に昇るというか祈りの限界のようなところに向かってゆけば、一瞬どこかに到達できると強く信じています。これこそ自分で最初の方に申し上げたユートピア幻想かもしれませんが、信じます。これからも既存の表現の枠にとらわれず、「モニタ詩」や「AR詩」のように挑戦をしてゆきたいです。発表できていませんが、小説、つまり散文形式で、AR的に知覚を空間に浮遊させたり他者のノイズをとりこんでゆく試みもしています。
また、floating view2では、個人的には、喪の限界の問題や、東京と津波が襲った場所の距離を、詩作品とインスタレーションで、空間における作品の提示の仕方で訴えたいと考えています。佐々木さんの企画趣旨、他の参加作家の方が各々に個性的で素晴らしいので、是非いらしていただけたらと存じます。
佐々木:今ni_kaさんがお知らせしてくださったように、九月三〇日から新宿眼科画廊にて「floating view 2」を開催します。テーマは「トポフィリア・アップデート」。現在、場所への愛がいかにして可能かについて考えます。今回私は企画者に徹しますが、自信を持って推薦出来る作家・作品が揃いましたので、ぜひ新宿で、各作家の作品をご鑑賞頂けたらと思います。ni_kaさんのAR詩も新たな展開を始めており、必見です。
杉田:みなさんそれぞれの、次の展開がとても楽しみです。今日はありがとうございました。
(2011年8月29日、於新宿)
2011-05-12
■[批評][映画]『へばの』の上映と木村文洋氏への手紙
以下の映画上映があります。
へばの・2011・3年目の上映
■東京・渋谷 『へばの』英語字幕版上映+USTREAM 同時配信 2011年5月15日(日)
【開場】 10時30分 【開映】 11時00分〜 【座談会】 12時45分〜【会場】 光塾 COMMON CONTACT ※上映終了後に休憩をはさみ、その場で、参加を希望される方々と、監督・スタッフにより座談会を一時間程度行いたいと思います。参加は無料です。
◎レイトショー【開場】 20時50分 【開映】 21時10分〜【会場】 オーディトリウム渋谷
※各回共、映画上映と同時にUSTREAM 配信を行います。 www.ustream.tv/channel/hebano-goodbye
■大阪 4月30日(日)〜5月13日(金)の中で、計5回
緊急上映 福島第一レベル7の現在から【原発映画特集】シアター7
■山梨 6月9日(木)〜6月12日(日)計7回 シアターホトリ にて
今回の試みを私なりに後方支援(?)するために、二〇一一年一月三〇日に監督の木村文洋氏に送った私信メールを以下に掲載します(木村氏本人の許可を得ました。また加筆修正しました)。
3月11日の震災・津波・原発の後に明らかになったのは、首都圏や相対的安全圏の「我々」の生活や精神が基本的に「変わらない」こと、この期に及んで何ら深刻な打撃もうけないという無痛と不感症でした。六ヶ所村を題材に『へばの』を撮った木村氏の次回作への期待とハードルは、著しく上ったはずです。しかし、僕の考えでは、木村氏の最大の特殊能力は、自らの苦しみをどうにもできない他人や自分の弱さ(ヴァルネラビリティ)への繊細な共感にあり、その弱さを徹底的かつ覚醒的に生き抜くことによって、いつの日かたとえば、かつて青山真治『EUREKA』が切り開いた以上の光景を我々に見せてくれるかもしれません。もちろんそこでは、映画を見る我々の「視力」も験されるはずです。『AKIRA』やタルコフスキーを回顧し喜んでいる場合ではない。「撮れば撮れてしまう」という技術革新上の錯覚や粗製乱造を許す自主制作・自主上映界隈の腐海から、今後、いかなる怪物的な作品が聖誕するのか。我々は「映画や芸術は現実に対し無力だ」「娯楽・サプリに過ぎない」という消費型シニシズムに慣れきっています。しかしそれは、私自身の堕落も含め、映画が世界を変えてきた、我々の視力や欲望の形態をも変えてきた、という歴史的事実への畏れを欠く。ならば、「筆と爆裂弾は紙一重」(二葉亭四迷)ならぬ「映画と放射能は紙一重」であるような作品、それゆえに現実の暴力への対抗ワクチンとなる浄化的な映画を待ち望む権利は、依然、我々にはあるはずです。この世界に真に「新しい映画」が聖誕する時、監督・スタッフの側と観客の側の視力が同時に変革され、かつ、その作品の内容に見合った流通的+政治的な回路が新しく切り開かれてしまう、しかもそれは無数の作品の流星群として同時多発的にこの世界に到来しうる、私はそう信じています。
とにかく、『へばの』をご覧下さい。
木村文洋様
●木村さん、杉田俊介です。年始は体調を崩されたようですが、お元気ですか。『へばの』の感想をお伝えするのが大変遅くなりました。
この間、家庭の諸事情から殆ど何もできていなかったのですが、折にふれて木村さんのブログを拝見し、スピリチュアルムービーズ、チームユダ、中崎町ドキュメンタリースペースなどの進行形の映画運動の現況を遠目に見ながら(不勉強な自分はそれらの作品を殆ど未見ですが)、今なお続く自主制作/自主上映の血族のエネルギーを感じました。僕がそれらを無視できなかったのは、僕自身二〇代後半から「フリーターズフリー」で仲間との協同事業を継続的に試み、かつ、それらが今は深刻な停滞と暗礁に乗り上げているからかもしれません。以前のメールで、僕には『へばの』に向き合う資格があるか分からない、と書きました。それは何重の意味でもそうです。映画を日々の糧としてみているわけでもなく、ここ何年も、日々の生活・子育てやパート労働に埋没し、殆ど何も読まず何も書けていないからです。何より、誰もが苦しむ生活の疲弊を押し切って、自らの「書くこと」と「協同事業」の暗礁を同時突破する何か=「明日の必要」(石川啄木)の手ごたえも自信もなく、未だにふらふら・うねうねとさ迷っている。腰が据わりきらない。せめてそれが何かを難産の果てに産み落とす「ねちねちした進み方の必要」(中野重治)であれば、と祈りながらも、たんなるふらふら・うねうねした進み方から抜け出せません。
にもかかわらず、一つの切迫した気持ちとして映画の感想をお伝えしたい、いや伝えなければ、と今回思ったのは、木村さんの作品に、魂的に強く動かされるものを感じたからでした。
●たとえば『へばの』の紀美の凄みは、有島武郎『或る女』の葉子を自然に想起させました。葉子が自分を取り巻く複数の諸力との闘争を同時進行で強いられていたように、紀美は(僕の目に見えた限りでは)三つの地層の闘争を同時に強いられている。
(1)六ヶ所村に再処理施設を押し付けてそれを健忘する中央の「日本人」たち。
(2)幸福な「家族」の幻影を善意で押し付ける父親や村人たちの気遣いや優しさ。
(3)放射能事故の被害者であることを理由に、紀美と向き合う勇気を回避する治の弱さ。
仕方なく日々の生活の労苦に埋没するのでも、自己欺瞞的に生活の負担を誰かに押し付け社会運動や事業にのめり込むのでもなく、腰を据えて「生活それ自体を一つの持続的な闘争となすこと」は本当に困難です。多くの人が、各自が生きざるをえない生活圏内で、複数の暴力に揉みくちゃにされ、何かと闘っているが「何」と闘っているのかも判然としないまま、体力や精神ばかりか人生の初動の「志」をも削り取られていく。そんな状況下で、真の〈生活=闘争〉の名に値するもの、「勝てないまでも、負けない戦い」(障害当事者の高橋修の言葉)を続行する人間の生の発光は、いかに可能であるのか。僕は紀美を前に、そんなことを考えさせられました。
たとえば鎌田哲哉氏は、『へばの』パンフレットに寄せた文章で、紀美の父の心臓病による死を「自殺」として「誤読」しますが(「誤読」は否定的な意味ではありません)、氏のもう一つの「誤読」は、女性たちに終始依存し続ける治の心根の弱さを、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』の佐藤真の「懐疑」に繋がる「迷い続ける」「自問」として読み換えた点にある、と僕は思います。治はたとえば、紀美の父親の本音(健康な子を確実に産める男が紀美の夫に望ましい)を知ったあと、紀美と十分な相談も議論も経ないまま、突然行方不明になり、音信不通の上、3年後突然戻って来ます。いかに過酷な状況にあるとは言え、これは酷い。たとえば、治の紀美への態度と、青山真治『ユリイカ』の沢井の、妻への(失踪自体は「酷い」が、自分のその酷さ自体へは誠実に向き合う)対応の違いをみて下さい。その違いは一目瞭然です。更に言えば鎌田氏は、沢井が犯罪被害の傷を純粋に培養しえたのは家族の経済力や支援があったからだ、と、一つの偶然の被害故に別の卑近な誰かに加害を加える(ことに無自覚でいられる)自己欺瞞=余裕をこそ、批判したのでした。これは、純粋に放射能事故のせいというより、治が本当は人生全体で打ち克つべきなのに、向き合うことさえできず温存してきた根深い傾向性であり、肉体や精神ではなく魂のdisabilityなのではないか。僕自身の生き方を深く治のそれに重ねつつ、そう感じました。紀美に対する加害への不感症。セックスの場面での強迫反復的な紀美の能動性/治の受動性の構図。新しい奥さんに葬式用のネクタイを締めてもらっている姿。――これらが自然に、治の根治困難な女性依存の心性を暗示するからです。
大西巨人は、一つの社会的な被害を純粋化=「真空地帯」化し、自らが女性への直接・間接の性暴力の加害者である事実は絶対に自覚しえない、という解離的な精神の繁茂を「俗情との結託」と呼びました。終盤、車中で紀美とセックスした後、治はまたもや突然姿を消します。今度は紀美ばかりか新しい奥さんや子どもを残して。治は紀美に「オメは何も変わってねえ」と言います。しかし、紀美が三年の間、治の復活=甦りの可能性を諦めず、自らの精神の原形質を冷凍保存し「変わらずに」いるための努力を続けたとしたら、治は「今年の春には何もかもがすんだ」どころか、むしろ周囲の無言の気遣いで「何もかもが変わらないで済んだ」だけではないか。苦難の中で自分を裏切った他者のために「変わらない」精神と「全てをすんだことにする」精神の違いが自ずとある。それは多分被曝後の「三年の月日」だけの問題ではありません。もちろん「中央」の「日本人」(としての僕ら)に、治の行動を叩く資格は皆無でしょう。にもかかわらず、経験上僕に疑えないのは、ウーマンリブや障害者解放運動の文脈で、社会の絶対的被害者であるからこそ、「弱い者がより弱い者を叩く」という悪無限を断ち切ろうとした精神の血族たちがいた、信じられないがそういう人々がいた、という圧倒的な事実です。やはり僕はそちらの血脈にこそ何かを学びたい。
しかし「何」が、ある個人にそうした加害と被害の多層性の感覚を、本当の傷痕として刻むのか。何をなすにせよ、激しい闘争的な怒り(敵に向き合う態度)と他者の痛みへの繊細な優しさ(寄り添う態度)が同時に必要だ、という失語の時期をいかに通過した/させられたか、――それがその人の闘争や協同の持続的な質をいやがおうにも決めて行く、決定的な勝負の場面でその違いが自ずと明らかになる、と僕は思います。紀美や妻子の前から再び黙って姿を消した後、どんな経緯を経てか、治はプルトニウムを原発から盗んで東京へ持ち込みテロルを目論見ますが(終盤の極度な圧縮のため、僕は物語を理解し損ねているかもしれません)、これは、たとえ治が高校卒業後に再処理施設で働く以外なかったというアンダークラスの出自であれ、卑近な他者を踏み躙り自爆的暴力に没入する、というハウスキーパー事件や『党生活者』以来の典型的に「左翼男性」なパターンの重力圏を一歩も出ないものにみえます。
しかし紀美は、そんな治的な弱者暴力をも同時に叩きまくろうとした。だから、「どこかへ行こう」「今からでも遅くはないと思う」と囁く治の甘美な誘惑を、冷たく突き放す(冒頭近くですでに紀美は、「こっち来い」という治の言葉に従順に従わない女性として描かれていた)。だから重要なのは、映画上映のためのコピー「わ、ここにいる」は、彼女の能動的な覚悟の表明のみならず、治的存在の暴力に対する絶対零度の「否定」=「へばの」としてある、という点だと思います。あの小川紳介の「僕はここに居る」とも間接的に響き合う、紀美の「わ、ここにいる」=「自立」は、女性としての自分の生の「ありのままの肯定」(リブの零落形態→「生きさせろ」運動の末路としての)ではなく、上記の三種類の暴力へと抵抗=闘争し続け、それらを生き方自体で凌駕する、という態度表明にみえます。しかもそれを、六ヶ所村という場所で、かつ、女手一つで赤ん坊を育てる、という何重もの困難な状況下で試みること。わ、ここにいる……。時にそれは殆ど不穏な殺意へと結晶化していきます。
たとえば僕は、紀美の父親の死因は、心臓の病でも自殺でもなく、紀美が殺したのではないか、と思い、ぞっとしました。今も自分の解釈は正しい気がします、監督の自己理解を裏切ってでも。
●映画は、誰もいなくなった静謐な「家」で、赤ん坊を抱きながら「こちら」(観客)をふと見詰める紀美の眼差しで終わる。すなわち映画は、問いをエンドポイントから直ちに自分の足元へと切り返すことを、観客へと迫る。いえ、観客だけではありません。葉子(登場人物)と有島(作者)が違うように、紀美と木村さんは違います。六ヶ所村の紀美の眼差しに見詰められる時、木村さん(や僕)にとっての真の「自立」とは何か、という問いの再設定を無限に迫られてしまう。木村さん(や僕)が生きる「この場所」から、「この場所」でこそ、紀美の問いが新しく反復=変奏されねばならない。それこそが木村さんが「原稿用紙150ページある、クソ長い」企画書の冒頭に記したという「自立を描きたい。今、ここにあっての」というモチーフなのでした。
木村さんは自身の「今、ここ」から全てを始める決意を記します、《しかし私はいまいる六畳半で、世界の情勢とも世界の映画界とも無縁な場で、世界と映画について発言したいと思った。/「権利の到来、など、一生訪れない」それが私が20代を終える直前で考えたことだったからだ。いまいる「ここ」から、映画をつくりたいと思った。私は、ここにいる。紀美と私とがいる場所は違うけれど、今いる場所の無能さから目をそらさず、言葉を発し続けられたら、と思った》(「二年半」)。
「紀美と私とがいる場所は違うけれど」という非対称性の痛烈な自覚に明らかなように、これは世代的荒廃や時代の「無能さ」の自己絶対化ではありません。そもそも、他者から「見詰められること」、他者を撮影し見詰めていた自分が他者から撮影され見詰め返されていたという「怖さ」のモチーフは、たとえば、僕も敬愛する土本典昭さんのオブセッショナルな主題でした。それに対し、たとえば佐藤真さんは、ポスト小川紳介・土本典昭という強烈な(過剰過ぎる)「遅れてきた青年」の意識の中で、自分固有の「見詰められる」経験を探し求めつつ、それに出会えず、徐々に痛ましく衰弱していったように僕には思えます(『サイード』に関して「画面に何も映らないんだよ」と語ったという、木村さんが佐藤氏から直接聞いたというエピソードは、あまりにも哀しい)。ここから僕らは何を学ぶべきなのか。「他者」から見詰められるという激痛、受容も馴致もできない眼差しに食い込まれ続けるという経験を欠く時、僕らの「今、ここ」での「自立」を目指す試みは、何を為そうが何に恵まれようが、やがて内側から衰滅せずにいない、という「怖さ」なのかもしれません。
でも「他者」とは誰なのか。困難は「ここ」から始まる。他者はどこかに探し求めるものではなく、ただ、出遇い直さねばならないものだから。「自分探し」も「他者探し」も通じない誰かだけが、僕らに自らの無能さへの覚醒を無限に迫る誰かだけが、他者なのだから。
たとえば僕の二〇〇五年のフリーター論は、フリーター的労働・生存を現にわが身で生きる自分の「今、ここ」での自立の可能性/不可能性を内部観測的に計量する試みでしたが、(紀美的な)「他者」からの視点に深く曝される、という試練を欠落させていた。他方で二冊目の二〇〇八年の『無能力批評』では、対象としての障害者や貧者の眼差しに向き合おうと衝迫し過ぎたために、かえって、自らの自立の困難への躓きをスルーしてしまった。――必要なのは両者を同時に、しかも「今、ここ」で、分裂的に試みることだったのに(僕は今、その失敗を再び生き直すことを試みていますが、成功するかどうか)。
●他方で紀美の側も、今後再び、別の試練に直面していくはずです。もちろん、複層的な暴力に翻弄されつつ自発的に「何か」を懐胎し出産しようとした紀美と、常に「何か」を他人(からの承認)の中に求めようとする治には、決定的な違いがある。しかしなお彼らを災厄の「その後」の時間性の試練が、葉子や鎌田氏のみならず、誰もが平等に強いられる散文的な時間性の試練が、これから見舞うことになるでしょう。
――これは個人的な話なのですが、治/妻/連れ子の関係は、僕の父/母/兄(父親違い)の関係を思わせました。僕の母親は約40年前にシングルマザーでした。離婚した前夫との間の子ども(僕の父親違いの兄)を抱え、極貧で、秋田で凍死寸前まで追い詰められました。その後今の夫(僕の父親)と出会い、再婚し、僕が生まれ、僕の弟が生まれた。でもその後も、舅との関係や世間の目に数十年、他に逃げ場のない「専業主婦」という拘束の中で苦しめられた。母親のそれらの地方/首都圏を貫く重層的な「貧困」との闘争の日々が無ければ、今の僕はこの地球上になかった。僕の母親は、地方で完全な自立はできず、関東へ出てきて別の男性(僕の父)と再婚しなければならなかった。四〇年前とは状況が異なるとは言え、東北で、シングルマザーの紀美が、あの神話的な出産の後、身近に親類もなく、目立った労働スキルも持たず、生計を立てるのは、決して楽ではないはずで(父親の遺産があるのでしょうか?それとも生活保護を受給しているのでしょうか?)、みもふたもない経済問題が彼女を今後、苦しめ続けるはずです。
僕はこう思います。
『或る女』の葉子が――鎌田氏の有島武郎論が批評し尽くしたように――前半部の闘争性から後半部の弛緩と衰弱へと崩れ落ちていったとすれば、紀美は、極度の省略と切り詰めを伴うとは言え、治と共にいる時の闘争性→治が去った後の衰弱→治が戻った後に示す新たな闘争の復活、という三つの段階を通過したようにみえます。でもこの三段目の復活の力は何処から来たのか。正直に感想を述べると、『へばの』のこの強度が、木村さんのシナリオや認識の強度から齎されたのか、俳優の西山さんの演技の凄みに由るのか、僕には分からない面もあったのです。木村さんが紀美を「産み落とした」のか、西山さんが『へばの』全体への怪物的な異物=批評なのか。それともまさにその決定不能こそが映画という協同作業の奇蹟なのか。そこは本当にわかりませんでした。
僕らが『へばの』の本当の価値を知るためには、木村さんの次の展開を待つほかありません。
苦難を堪え忍ぶ「女」に腐敗した状況の浄化を託す態度こそが我々男どもの最悪の感傷だ、とは言いません。しかし、たとえば僕は、有島が『或る女』で本当に試みるべきだったのは、理解不能な他者としての不死身の「女」を描くと同時に、有島本人をモデルとする古藤の存在を葉子にある側面で匹敵し凌駕しうる存在へと何としてでも高めること、そのことで紀美とその子の来るべき困窮の日々を協働的に生き延びさせる(=生き延びさせあう)こと、それを通して啄木的な反省=「生活を変えること」を有島自身の実人生で実行すること、だったように思うのです。
●木村さんの警備員という現職に僕がやや過剰に反応してしまう(これは決してよい兆候ではありません)のは、僕も、大学院を出た後、コンビニや本屋のバイトと共に、警備員の仕事をしていたからです。その後間もなく僕はヘルパー2級の資格を取得し障害者介護施設の臨時職員になり、その約二年後には別のNPOの正規職員に「上昇」しました。だから僕と木村さんの境涯を単純に同一視はできませんが、あの警備員時代の奈落感覚は今も僕の中から消えません。その頃味わった生の混乱を元手に、僕は、最初のフリーター論を書いた。現在のグローバリゼーションという現実性が僕らに強いるのは、政治的にも労働的にも、被害と加害の重層的な決定不能(の全面化)であり、またそれが齎す失語(「加害者だ」と滑らかに口にすることもできない)の螺旋状の深化ではないのか――もちろんそれは未曾有の新しい事態とは言えず、「水俣」やリブ、障害者運動の歴史的段階にもすでに露呈し始めていたものでしたが。
ならば、六ヶ所村で紀美が強いられている現実と、東京で警備員をしながら困難な条件下で自主制作・自主上映作品を撮り続ける木村さん(や僕たち)が強いられているグローバルかつローカルなフリーター的労働・生存の現実、――そのクロスポイントから、「今、ここ」から、全面的に問いを練り直さねばならないのではないか。
もしかしたら、その先で、あの、三年ぶりに再会した紀美と治の間の非対称で残酷な切り返し(すれ違い)とは全く異なる、互いに互いを生かし合う「出遭い」が――自らの空洞を他者(女性)に承認させるのではなく、誰もが自力では意識不能な「何か」を互いに照らし合うこととしての「出遭い」=「産み直し」が――生じるのかもしれない。と、そんなことをはるかな懐かしさと共に思ったりもしたのです。僕自身がずっと昔「へばの」を告げられた大切な人々を思い出しながら。彼女たちとの不可能な出遭い直しを痛く遠く信じながら。「前を向いていれば/また会えますか/未来はどこへでも続いているんだ/二度と会えぬ人に場所に/窓を開ける」「私たちにできなかったことを/とても懐かしく思うよ」(宇多田ヒカル)。
僕の直観では、「全員」との共闘の不可能性を痛感した紀美の一騎当千的な闘争は、いつか限界を迎える日が来る。必ず来る。その時こそ、紀美が家族や事業における真の「協同」を再び試みるとは何か、「至る所に紀美はいる、しかし、紀美に寄り添い、六ヶ所村の紀美を迎えに行くに足る人間がいない」極寒の状況の中で、僕らが再び紀美と出会い直し、協同を再開する条件とは何か、それらが問われることになる。その日もやはりきっと来る。僕はそのことを、まだ抽象的な言葉でしか語れません。しかし、必要な時間の試練に耐えつつ自らを怪物的な協同/協働の再契約に足る人間へと高めること、それだけが、(「日本人」「健常者」「男」「都会人」である自分を無限否定するのではなく)この自分の人生をも全力で生かしめること、自分の「宿命」と「明日」を本当に愛すること、真に「今、ここで自立すること」の、必要条件なのではないでしょうか。共同/協働とは、別に難しい意味ではありません。「誰かと一緒に何かをやる」という、ありふれた意味です。紀美の父親の「今の地球上で生きている限り、誰もが被爆しているようなもんだ」という言葉は(すぐさま彼自身が曖昧に否定する)一般論に過ぎませんが、もしこの感覚を欺瞞なく真に「公正に」主張しうるなら――日々皮膚感覚として身近に感じながらあたかも「まひるのほし」(佐藤真)のように見えないでいる自らの「被曝」を「発見」し、問い直しうるとすれば――、そこにはどんな認識的・実行的な試みが不可欠なのでしょうか。
『へばの』から、そんなことを、あの労働感覚の原点=ふるさとの感覚に立ち戻らされつつ、再び僕も考えさせられていたのでした。
●しかしその先に、僕らは、僕は、目の前の、ありのままの〈現実〉の中に、「何」を見出すべきなのか。
どんなセオリーがそこにはありうるのか。
もちろん、それは今ここで簡単に口にしうることではないし、来るべき具体的な作品の完成自体によって示さねばならないことでしょう。
ただ、その上で、僕が遠い道標のように今、思い出すのは、再び土本監督の映像の強度、崩壊(衰弱)と甦り(復活)が入り乱れつつ進行していく「水俣」の複層的な時間の強度でした。
たとえば『水俣――患者さんとその世界』(一九七一年)の画面は、殆ど異星の記録映像のように、画面を見る僕らの感覚を粉々に打ち砕いてしまいます。これは「可愛そうな被害者」の映画ではない。『水俣』は、俯瞰不能なほど複雑で「悲惨」な空間をモザイク状に浮かび上がらせつつ、その中で生きざるをえない人々がかちえた「喜び」の発光体を無数に映し込んでいるからです。あるいは『不知火海』(一九七五年)の時間感覚です。『不知火海』の撮影時は、すでに、政治運動・社会運動の退潮期に差し掛かりつつあり、弛緩の気配が見え隠れします。しかし、『不知火海』の画面が捉える「水俣」を流れるのは、その弛緩とは自ずと別の時間性であり、資本主義的・文明的な「災厄」の経験の後に生じる普遍的かつ重層的な時間のベクトル・リズム・断層であるかにみえます。たとえば『不知火海』の画面には、すでに、『水俣』『水俣一揆』の時の闘争=祭りの昂揚はありません。しかし、回復・治癒・健忘へと順調に向っているのでもない。本来の「自然」が自浄的に回復するという(石牟礼道子的な)ストーリーも成り立たない(事実、たとえば漁師のとる魚も、容赦ない商品交換や景気循環の中にある)。あるいは『チッソは私であった』の緒方正人さんは、被害者の自らの中にある加害性、内なるチッソ性の認識において凄まじいのですが、社会・政治の水準から「自然」の水準へと跳躍してしまったようにも思えます(ある暴力が人災か天災かの決定不能の中で闘わざるをえない、という真に困難な試みの回避)。
そこにあるのは、単純な弛緩でも甦りの物語でもありません。複層的で多様なずれや衝突が無数に生じていて――そしてたとえば『水俣』の諌山さん(未認定の胎児性患者の母親で、彼女自身が水俣患者であるにも関わらず記憶障害その他からそれを意識化できない)、『不知火海』の清子ちゃん(世界の何を見ても「美しい」とも「悲しい」とも実感できないという、医師や家族ばかりか同じ胎児性患者とすら共有できない精神の氷点を抱え込まされている)のように、その復活的な過程にすら参入不可能な人々の絶対的に静止し凍結した時間性があり――、しかしその全体こそが、「水俣」の経験を豊饒化させていく黒土となり、腐葉土となっていくかのようです。ここでは「映画」が、現実の市井の生活者がすでに生きている生の潜在能力を覚醒的に開きつつ、「倫理的な個人の一騎当千の闘い」でも「聖別」でもなく、「水俣」を未曾有の〈協働〉の空間として産み直していくかのようです。運動/芸術の対立を打ち砕く〈運動=芸術〉となっていくかのようです。
でも、「何」が、こうした複層的+持続的な認識を僕らに齎すのでしょうか。土本さんは、「敵」との闘争と同時に「甦り」の予兆や気配を自然や人々の表情の細部に、繊細に発見しようとしました。闘争なしの甦りの記述は直ちに宗教的復活に堕してしまう、と何度も念押しした。闘争と甦りの同時性。ここでは闘争の意味も複数化せざるをえません。敵はチッソだけでも政府だけでも科学者だけでも医者だけでもない。事実、水俣の人々は、共同体内部の「隣人こそが最悪の敵」という陰惨な現実にも苦しんできた。しかし、肝心なのは、彼ら自身の力によってそれらの泥沼を越えていく、そうした兆しが至る所に見出されていくことです。たとえば彼らが闘争のリミットで行き当たるのは、自分たちの敵を隣人として再発見する、という可能性でした(『水俣一揆』での、チッソ社長との敵対的な友愛)。敵との間にすら信頼(信用)が生成すること、共に生き延びる信用がありうること――これは水俣の人々にとっても、端的に驚きだったはずです。具体的な闘いの継続の中でしか見えてこない甦りがあり、繊細な優しさの中にしか見えてこない闘いがある。しかし、それらの重層的で複層的なプロセスそれ自体が、じつは、一つの世界の、一人の人間の「甦り」=「闘争」なのではないか。撮る者や観る者たちは、そう信じるほかにないのではないか。
そして、もちろん僕に何かを言う資格は絶対にありませんが、「水俣」の「自立」がありうるならば、それは、毒の完全な浄化/企業や国に責任を認めさせること/国内第三世界的なチッソ(資本制企業)の呪縛からの地域経済の解放、等のみならず、世界中の「第三世界」や被災地と間接的に繋がりつつ、「水俣」が無限に甦り続けることなのではないだろうか。アウシュビッツとヒロシマに続いてミナマタを世界遺産に、という川本輝夫さんの提案もそういう意味だったのではないか。不遜ながら、そんなふうにも思ったのです。
繰り返しますが、土本さんの映画は、現実そのものを映すというより、現実以上に現実的な現実(の一断面)を、その潜在的可能性を引き出していくわけです。おそらく、映画や批評という無力なジャンルになおできることがあるなら、偉そうな行動規範の外部注入でも腰の砕けた後方支援でもなく、当の対象となる人々自身がその生活を通してすでに生きてはいるが十分に自覚しえていない生存原理(セオリー)を光学的に拡張することであり、覚醒的に普遍化していくことではないか。僕らは「現実を変える」という言葉を普段硬直的に捉えているから、過剰な暴力に走るか、過剰な絶望やシニシズムに陥ってしまう。しかし「現実を変える」の意味にもまた複数のレイヤーがあり、映画や批評は「現実を変える」という既成の言葉の意味をも変革していかねばならない。いずれにせよ僕らは、インディーズ系芸術の界隈と社会・政治運動の界隈に蔓延する粗製乱造と貧困化、それらを同時に次の局面へと切り開く「芸術的=政治的運動」を、たとえ実行不可能なゾルレンとしてであれ、依然目指し続けるほかにない。
何度でも繰り返しますが、これらの重層的な「闘争」=「甦り」を、「権利の到来、など、一生訪れない」自分たちの足元=「今、ここ」へと切り返すこと。「今、ここ」から始め直すこと。世界中の被災地と間接的に共鳴し合いながら無限に自らを復活させ続けること。おそらく木村さんや僕のミッションは、こうした問いを理論的+実践的に問い続けることなのではないか。要するに、僕らはまだまだ甘ったれなんですよ。「俺は無力だ」という性急な自己反省の何倍も無力で無能なんですよ。
しかも僕らの生活や生存は、自殺した佐藤真さんが直面した以上の「遅れ」=「上げ底」=「泥沼」の中にあるのです……。
●すでに長くなりすぎました。
結局、色々と無礼で失礼なことを、無遠慮に書いてしまった気がします(謙虚を装いつつ実は心底無礼なのは、僕の悪癖の一つにすぎません)。近いうちに、どこかでお会いし、ゆっくりお話しできる機会があれば、嬉しく思います。――今、子どもが慢性的な体調不良で保育園に通えず、中々時間がとりにくくはあるのですが。しかし、万難を排して。それから素朴に、木村さんの作品にふれて、今は、色々な若々しい映画をみてみたくなりました。小谷忠典さんも、山崎樹一郎さんも、板倉善之さんも、NDSの人々の作品も。僕が人生の中で一番映画をみた二〇代前半のような新鮮な気持ち、「ああ、世界にはこんな未知の表現があるんだ」「こんなすごい奴らが同じ世界に生きているんだ」という気持ちを甦らせる映画と出会いたい。木村さんの次回作の進行はいかがでしょうか。条件面や内容面での苦難も多いと想像しますが、楽しみです。安易に大量に書けてしまう、映画を撮れてしまう状況下で、持続的な難産に苦しみうる精神は、それだけで一つの武器に思えますから。では、お元気で。冬場の警備の仕事は体と神経を削ると思いますが、お互いの内外の「厳冬」を乗り切りましょう。
杉田俊介拝
2011-04-28
■[アニメ][批評]『ドラえもん のび太と鉄人兵団』の感想
突然ですが、思うところがあり、映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』(一九八六年の旧版)の感想を書きとめておきます。
ちなみに、漫画家の篠房六郎さん(『百舌谷さん逆上する』は大傑作だ)の『鉄人兵団』感想が素晴らしいので、まずはそちらの一読をお勧めします(http://togetter.com/li/110187)。
それから、こちら(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20110103/p1)の、ドラえもん長編映画全作レビューがとても労作。
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『鉄人兵団』のモチーフは、歴史の重層的な暴力を描くことにあると思う。この映画はすでに、「日常的な世界での冒険を通して、少年少女が成長する」というジュブナイル物語の定型を、はるかに逸脱してしまっている。しかしその歴史の重層的な暴力は、むしろ「日常」そのものにある。そしてこの「日常」はとても強固なものだ。何をなそうが何が起ころうが、私たちはこの「日常」を超える価値を未だに見出せないし、どんな破局が訪れようとつねにそこへと帰ろうとする。『鉄人兵団』は私たちの「日常」の歴史性を遡行的に問い直す試みでもある。
たとえばのび太たちは、地球人を奴隷にするために殺到するロボットたちを、鏡面世界の中に誘い込む。鏡面世界の中なら、どんなに破壊されても、現実の世界に被害が及ぶことはない。私は、のび太たちの、無邪気にスーパーの商品を盗みながら、鏡面世界の街や商品に関しては「何をしても平気」(盗んだし壊したりしても)と言い切る感覚には、物語の初期段階から、ずいぶん危ういものを感じたものだった。
多くの人がいうように、のび太たちは(映画の観客である私たちは)、鉄人たちと戦ううちに、鉄人たちが冷酷無比な悪魔でも残虐なテロリストでもなく、人間たちと同じく心もあるし、様々なことに悩み、葛藤する存在である、と気付かされていく。特に鉄人と人間の間で葛藤する少女リルルを通して。つまり、人間と鉄人たちこそが鏡像関係にあるのだ(現実世界‐鏡面世界、人間‐と鉄人、という二重の鏡像関係)。
リルルは、自分たちの惑星メカトピアの歴史=神話をこんなふうに語る。はるか昔、メカトピアの人間達は滅びた。人間はわがままで、欲張りで、憎み合い、殺しあった。神は人間を見捨て、代わりにアムとイムというロボットを作った。神は「お前達で天国のような社会を作りなさい」と命じた。その後、ロボットの中にも、金持ち・貴族と奴隷という階級が生じた。しかしやがてみんな平等なはずだという考えが広まり、奴隷制度は廃止された。しかし、社会の存続のために新しい労働力が必要なので、地球の人間たちを使うことにした。ロボットは神の子であり、宇宙はロボットのためにある。
それを聞いたしずかは、ぽつりと言う。「まるっきり人間の歴史じゃない。神様もさぞガッカリなさったでしょうね」。リルルは激怒する。しかし、この言葉は、人間(観客)の側に直ちに跳ね返ってくるものなのだ。
そもそも、ドラえもん映画には、生物進化の歴史を創世記から何度もやり直す、という不気味なオブセッションがある。これは何度もしつこく強迫反復される(これはフロイトの『モーセと一神教』を思い起こさせるだろう)。しかし、別の人類の歴史(パラレルワールド)だろうが、人間とは別の生命体から進化した生物だろうが、結局、現在の人類と大差ない結果に終わる。ここにあるのは、恐ろしいほどのニヒリズムだと思う(藤子・F・不二雄の名作短編「分岐点」を思い出す)。
リルルは、ロボット兵団のボスのところへ戻って、人間の奴隷化計画に反対する。ロボットだけの天国ではなく、宇宙の全ての生命の天国を作るべきです。それが神の本当の命令ではないか、と。人間から差別され、上流ロボットからも差別されてきたリルルが、人間やロボットをふくむ全ての存在の「天国」を心から望むのだ。直ちに反逆罪に問われる状況下で。
結局のび太たちは戦力的には鉄人に勝てない。ミクロスの「神様に文句を言いたい」という一言をヒントに、しずかたちが、タイムマシンでメカトピアの創世期に戻り、神様にお願いすることになる。神!。これは本来、完全に禁じ手のはずだ(事実『魔界大冒険』では、もしもボックスで魔法世界をなかったことにするのは、それだけは、禁じ手とされていた)。恐ろしい話だと思った。人間もロボットも含め、最後は神様に頼らないと、最初から(三万年前から!)全部をやり直すのでないと、この殺し合いの螺旋は止まらないのだから。
神(人間に絶望しロボットのユートピアを夢見た科学者)はアムとイムを改造し、他人を思いやる同情の気持ちを植えつけ、進化の方向を修正する。その結果、リルルをふくむ鉄人兵団は全て宇宙の歴史から跡形もなく消える。しかし、ふと思う。面倒なものや敵は全て抹消する、消してもいい、と思うその精神のあり方こそが、歴史の究極の暴力なのではないか、と。
老いた科学者は、作業を完成する前に、倒れる。その作業をリルルが続ける。「静さん、私が本当の天国を作るのよ。そして私はメカトピアの天使になるの」。その間も、鉄人兵団とドラえもんたちは陰惨な殺し合いを続ける。しかしドラえもんたちは負ける寸前に追い込まれる。そのとき、鉄人たちは突然、全て消滅する。リルル「今度生まれ変わる時は天使のようなロボットに」、しずか「あなたは今、天使みたいよ」「友達よ」。リルルは消滅する。
人間の殺し合いの歴史にうんざりした科学者が、ロボットのユートピアを作ろうとするが、ロボットたちも3万年かけて人間と同じ歴史を反復し、それを止めるには、最初に戻って、全てを消去するしかない……。なんという物語なのだろう。これは血痕も存在の痕跡も残さず全てを浄化する「神的暴力」の発動ではないのか。これはいわゆる「加害者の反省の論理」としての「第三世界論」(先進国は第三世界を搾取している)などとも違う暴力の発動ではないのか。
メカトピアは、たぶん、ユートピアになったのではないのだ。たんに、この宇宙から消滅したのだ。痕跡すら残さず。完全に。事実、メカトピアの様子は映画の中に出てこない。のび太が漠然と夢想するだけだ。のび太がリルルの「天使」を幻視しただけだ。そう思って、私はぞっとした。
大切なのは次のことだろう。鉄人と人間たちが血みどろに闘い続ける超ディストピアが、わずか鏡一枚を隔てて、私たちの世界のすぐ下(横?上?)に広がっている、ということ。ドラえもん映画では基本的に、高度成長期以降の日本的な「この日常」は永遠に反復し続ける「終らない日常」であり(ドラえもんのアニメ自体が無限反復の中にあり、むしろ生身の人間=声優自体の肉体の崩壊によってしか歯止めをかけられないものである)、破壊されえないものだった。しかし、つねに、すぐ傍の過去/宇宙/別世界では、世界全体を崩壊させかねない凄まじい暴力や戦争が生じている。私たちはそれを意識も自覚もできないが、そうなのだ。そういうねじれたリアリティ。それはおそらく、リプレイ系の物語の頂点をなす『ビューティフルドリーマー』や『エンドレスエイト』ですら獲得できなかったタイプの想像力だった。
ならば天国とは何か。地獄とは。きっと、天国とは、宇宙のどこかの惑星や異次元ではなく、高度成長期以降の日本の「この日常」(煉獄)のことなのだ。人間の暴力、鉄人の暴力、未来(ドラえもんの時代)の暴力などが、複雑に入り雑じりながら、かろうじて、この「日常」が成り立ってしまっているだけなのだ。『鉄人兵団』をみることは、そうした「日常」への覚醒的な想像力を叩き込まれる経験となりうる。さらにいえば、それは、スクリーンの中のアニメのキャラクターたちがどんなに闘おうが苦しもうが、無傷でそれを楽しめてしまう、観客としての自分たちへの問い直しをすら、迫るものだったのかもしれない(映画版には、一箇所、スクリーンの中のドラえもんが観客に語りかける、というメタ的な場面がある)。
だから、私は、リルルというロボット少女の最後の天使的な自己犠牲に感動した、というふうには、この映画をみることができなかった。それは「戦闘美少女の自己犠牲によって世界が浄化される」ことを夢見る、という定型的な欲望に対して違和感がある、というだけではない(最近では、『魔法少女まどか★マギカ』の最後のまどかのイエス的な自己犠牲の発動に関しても、同じ感想を持ったけど)。映画を見終えたあとの、物凄く嫌な感じ。この映画では、本当に何かが解決したのだろうか。藤子氏の、何重もの、もしかしたら無意識の、強力な〈悪意〉を感じたのだった。「人間の底もない悪意」(ネテロ会長)を。正直、これは、喜んで子どもにみせたい映画とはいえない。相応に覚悟してみせるべき映画だと思う。
なお、1990年代初期の『アニマル惑星』『雲の王国』『ブリキの迷宮』等では、環境問題への言及がなされるが、ドラえもんシリーズのポイントは、科学文明や環境破壊への批判が、そのまま、未来世界やドラえもんの存在根拠を掘り崩してしまう、という痛みにあると思う。事実『ドラビアンナイト』『雲の王国』『ブリキの迷宮』では、四次元ポケットが使えなくなったり、ドラえもん自身が拷問をうけて機能停止したりする(『ブリキの迷宮』ではドラえもんは、のび太に繰り返し、道具に頼るな、と言う)。やがて、のび太は次の問いの前に自然に立たされていく――自分にとっては未来の道具が大切なのか、たとえ「ポッケのないドラえもん」(筋肉少女帯)だとしても「ただのドラえもん」の方が大切なのか、と。映画の中でこの問題が深く突き詰められたとは思わないけれども、これはやはり不穏な問いだと思う。






