右側に気をつけろ?

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080226/1204009224


ここで言及されている「ダウン症の人の描いた絵」がどんなものなのかわからないし、坂本龍一氏が具体的にどのように称賛したのかもわからない。そもそも「障害者アート」という言葉も知らなかった。「アウトサイダー・アート」なら知っていたけど。さて、坂本龍一といえば、以前浅田彰氏とともに大江光を絶対に認めないと発言して、大江健三郎どうして世間は僕たち父子をいじめるの?と被害妄想に陥らせた人ではなかったか。
世間に「アウトサイダー・アート」として紹介されている作品は(管見の限りでは)文句なく面白い。例えば、服部正アウトサイダー・アート』(光文社新書)という本の図版を見てみなよ。さて、しばしば誤解されているが、「アウトサイダー・アート」というのは「障害者」のアートを意味するのではない。服部さんの言葉を引けば、「精神病であったり知的な障害があるということはあくまで結果論であり、アウトサイダー・アートの必要条件ではない」(p.21)ということだ。「アウトサイダー・アート」を定義するのは難しいが、「アウトサイダー・アート」が何の外部かといえば、既存のゲージュツであり、特に幼稚園のお絵かきや小学校の図画工作から始まって美術大学に至る〈教育制度の範囲内での美術〉である――「その多くの作者に共通しているのは、彼らが正規の美術教育を受けていないということである」(p.17)。だから、「セルフトート・アート(self-taught art)」と呼ばれることもある。しかし、服部氏は「正規の美術教育を受けていない」こと自体が意外と困難なのだという――


たしかに、美術学校で専門的な美術教育を受けた人はそう多くない。それにもかかわらず、私たちは幼い頃から人の肌を「肌色」のクレヨンで描き、草は緑色で塗る癖がついている。それは、中学校や高校の美術教師の多くが美術学校の卒業生であるということにとどまらず、私たちが日常生活の中で目にする絵本や雑誌のイラスト、テレビや家庭用のテレビ・ゲーム機から映し出される画像など、あらゆる視覚的イメージが多かれ少なかれ美術教育の枠組みの中から生み出されているからだ。
私たちは、知らず知らずのうちに、伝統的な美術教育の中で培われてきた視覚イメージの波に飲み込まれ、その洗礼を受けている。こうして、上手い下手の違いはあっても、樹といえば、多くの人が緑と茶色のクレヨンをためらいもなく選び、横から見た樹の全体図を描くようになるのだ。(pp.21-22)
「障害者の「無垢」が持つ力」というが、「障害者」であっても「美術教育」の影響から逃れることは難しいのだから、「無垢」ということが言えたとしても、それは〈勝ち取られた無垢〉という些か矛盾した言い方にならざるをえないのではないかと思う。だから、私たちは常に「アウトサイダー」になるために修行しなければならないのであり、或いは自らの「アウトサイダー」性を「美術教育」に抗して育み守らなければならないといえるのかもしれない。或いは(これは美術ではなく音楽についてだが)ロバート・フリップ老師のミュージシャンは蓄積したテクニックを一挙に捨てる知性を持たなければならないという言葉を思い起こすべきなのかもしれない。また、作り手が美術史やら業界のしがらみやらに無頓着で、世界が作り手の中で完結しているようにみえ、観る人がいくら美術的教養を当て嵌めようとしても跳ね返されるという鑑賞者=解釈者の挫折のうちに「無垢」が構成される場合もあるだろう(Cf. p.223ff.)。〈極私性〉としての無垢。そうでない「無垢」には或る種の〈オリエンタリズム〉を疑わなければならないだろう。さらにややっこしいことに、アート(少なくとも現代アートにおいては)「アウトサイダー」であることが既に規範だということがある。
とはいっても、これらはあくまでも「アウトサイダー」にとってのアウトサイダーが頭の中を整理するための理屈にすぎず、作り手たちはたんに作りたいから、或いは作らなければならない実存的境位に置かれているから作っているということになるだろう。だから、服部氏はアートと「福祉」を結びつけることには批判的なスタンスを採る;

知的な障害のある人たちの地位を向上させたいと願うことは崇高であり、そのための活動には敬意を表すべきである。だが、そのための道具としてアートを用いるのは、少し無理がある。アートもサッカーも*1、まずは純粋な楽しみとして享受されるものだ。(略)社会福祉の向上や差別意識の払拭というような念願や理念が組み込まれていることを意識すると、やはり楽しみには水を差されてしまう。
善意を否定するつもりはないが、芸術もスポーツも、その目的は善行ではない。(後略)(pp.106-107)
なお、服部さんの本の中で「無垢」というような言葉は(私の記憶の限りでは)全く使われていないことは申し添えておく。以下のようなことは言っているけれど。彼は子どもの頃、「美術教育」から疎外されて、「絵を描くのが嫌い」な子どもになってしまった。

そんな私は、二〇歳の頃にアウトサイダー・アートに出会った。その自由奔放な表現は、私にとって衝撃以外のなにものでもなかった。その強烈な印象によって、私は美術に関わる仕事を目指すようになった。アウトサイダー・アートが私に与えてくれたもの、それは人の目を気にして自分の気持ちを押さえ込むのはつまらないということ、たとえ周囲に笑われても、自分が信じる道を進むことの大切さだった。(p.4)
少し三宅さんに茶々を入れる。「その後、「中沢新一先生も支援しようとしているんです」というのが続いたのですが、中沢ブランドというのはむしろ縁起が悪いんじゃないかね」――美的センスに関しては、中沢さんには近しいものを感じている。ローリー・アンダーソンを最初に聴いたのも、中沢さんが言及していたからだし、何よりも〈悪党〉というのがキュートな存在であることを日本人に再認識させたのは不滅の功績だと思う。
それよりも、「無垢」な「ダウン症の人の描いた絵」というのは実際にどんなものだったのか。それがいちばんの問題だ。
ところで、「右側に気をつけろ?」というタイトルだが、本文から連想していけば、意味はすぐにばれてしまう。こんなベタな発想しかできないなんて、やはり私にはクリエイティヴな才能はない!
アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)

*1:ここで「サッカー」が出てくるのは、その前の段落で、ジダン仏蘭西における移民の地位向上との関係について言及されていたため。