〈わしの話は誰も聴くものがゐない。畏ろしさを思ふのかも知れない。〉 (〈老人と少女のゐた説話〉の構想Ⅰ)

これは吉本が若いころに書いた散文詩「エリアンの手記と詩」の構想を練っている時の文章なんだと思いますこの詩は主人公のエリアンに吉本自身が仮託された物語になっています。どこの国とも知れない国籍不明の舞台を設定した、吉本の数少ないフィクションです。舞台は国籍不明ですが、内容は吉本の通っていた下町の学習塾の教師や女生徒などとの関係が込められています。「わしの話は誰も聴くものがいない」と言っている老人は、その学習塾の教師がモデルのようです。ではなぜ国籍不明の舞台を設定しなければならないのか。どうして自分の生活地域である東京の下町を舞台にして樋口一葉の「たけくらべ」のような物語にしなかったのか。それについては吉本が堀辰雄とか立原道造とか芥川龍之介について書いた文章が参考になると思います。

堀辰雄などの文学者は吉本と同様に東京の下町に育っています。しかし彼らの詩や小説は下町の実生活の風景を避けて西欧的な舞台の中で描かれます。あるいは中世の日本のようなはるか昔の舞台を択びます。それは下町というものは、想像力を飛翔させたり観念的な思想を込めたりする舞台にはふさわしくないからです。向こう三軒両隣がお互いの家の事情や米びつのなかまで知っているような共同体で、よく言えばアジア的な相互扶助と親愛感の濃密な雰囲気があります。「寅さん」の柴又の世界のような感じです。しかし悪く言えば、もっと広い世界や西欧的な文化に憧れるものには息苦しくてたまったものではない。下町の世界をありのままに書くならば「綴り方教室」のような現実にべったり貼りついたものになってしまうと吉本は述べています。アジア的な濃密な共同体には、個人の想像力や観念の居場所がないわけです。

吉本も若いころは、堀辰雄などの作風を真似した時期があったということになると思います。しかしその道を吉本はそれ以上進まなかった。吉本は自分の血肉である下町の現実から逃避せずに、その息苦しさと疎外感のただ中で一庶民として暮らし、同時に途方もない観念の作業や想像力の拡大を遂行しようとしました。つまり24時間の現実の時間の外側に「25時間目」を設定して、それ以外は下町の現実のなかで下町の人々と同じように振る舞って、「25時」のなかで考えること・書くことを続けたわけです。なぜそうしたのか。その理由のひとつは、吉本自身が書いていますが、ある時期に自分の周囲の人たち、つまり庶民たちも自分と変わらないのではないか。自分のように生活にまみれながら、胸の奥には25時間目の世界を作らざるをえない何かを秘めて暮らしているのではないかということに「はじめて気がついた」と書いています。孤立しているから連帯しているという吉本の大衆への思想はその気づきから始まったといえると思います。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

「大洋」の世界と、幼児が男と女に分化していく性的な過程というようなことを解説してきました。ここらで吉本の考察を論理としてだけでなく、具体的な作家や思想家をまな板に載せた批評を取り上げて、そのなかに吉本の母型論的な考察がどう生きているかという例を取り上げたいと思いました。論理が骨だとすると、具体的な作品や作家の批評は肉です。骨肉ともに備えたものが提示できれば、ずいぶんわかりやすかろうと思ったわけです。特に女性を対象にして、今まで解説してきたことを具体的にたどれるような文章はないかと考えたのですが、思いつかないんですよね。作家とか思想家ってたいてい男ですからね。唯一まとまった吉本の批評として女性の思想家を取り上げているものとして私が知っているのは「シモーヌ・ヴェイユ」でした。ヴェイユに対する吉本の評価はとても高く、取り上げる価値があります。それで吉本の「蘇るヴェイユ」(1992年 JICC出版局)とか、あとは「言葉という思想」(昭和56年 弓立社)や「第二の敗戦期」(2012年 春秋社)、「ほんとうの考え・うその考え(1997年 春秋社)」などの吉本がヴェイユについてまとまったことを書いている文章を読み直してみました。しかしヴェイユというたいへんな人を母型論的な考察と結びつけるのは難事業ですね。私なんかのやれることではないということがわかりました。これは本格的な研究者がこれからやってほしい仕事です。

でもせっかく読み直したことだし、わたしにも考えられる程度のことを書いてみようと思います。ヴェイユについて私は吉本の文章を通してしか知りませんし、たいした解説はできませんが。

シモーヌ・ヴェイユは1909年にパリで生まれて、第二次世界大戦のさなかに34歳の若さで死んでいます。生きているうちに著作を刊行するということがなかったので、世間的にはまったく無名の人として死んだのです。死後にヴェイユの残したノートの一部を知人が箴言集として出版したらベストセラーになって、それからヴェイユの残した膨大なノートや原稿・手紙といったものが出版され、ヴェイユの思想の全体がわかるようになったということです。そうウィキペディアに書いてあった。

吉本がヴェイユを取り上げる仕方は、ヴェイユのふたつの面を描いています。ひとつは政治思想家、活動家としてのヴェイユです。もうひとつは政治思想的に、あるいは活動家として絶望し、やりようがなくなった後にヴェイユが掘り下げていった「神」の問題、だから自身の神学を作り上げていったヴェイユというものを取り上げています。どちらもたいへんな内容です。こういう人がもし知人によるノートの公刊という契機がなかったら誰にも知られないまま過ぎていったのかと思うと、吉本の「25時」を秘して生きている庶民、という考えとともに目からうろこが落ちるような気がします。

母型論的な関心からすれば、「神」の問題に入っていくヴェイユが興味深く感じられます。ヴェイユが政治的関心から宗教的な関心に移っていったことを、「転向」であると批判する左翼の人間もいるようです。しかし吉本によればそれは全く違うということです。マルクス主義の革命思想家、活動家としてのヴェイユの考察は、後年のヴェイユ独自の神学にも生きているのだと述べられています。それは日本の戦中戦後で「転向」した左翼たちとまったく違うところだと言っています。つまり時代の思潮の変わり目で、どのように自分の思想が変化せざるをえなかったのかを辿れるように書き残すことなく、あっちの考えからこっちの考えに乗り移るように「転向」する、というようないい加減さはヴェイユにはないと言っているわけです。そしてそれは自らの現実から、模倣するものもない最先端を切り開いていった西欧の思想自体の偉大さでもあって、そこは模倣によって思想を輸入してきた日本の思想がまだまだ追いついていないことです。

結局ヴェイユを知るにはその全体を通して知るしかないわけです。しかしそれをちゃんとやると母型論になかなか戻ってこれないので、政治思想家としてのヴェイユについてはおおざっぱに解説するにとどめます。

ヴェイユの兄はアンドレといって数学の天才だったそうです。ヴェイユは兄に対して劣等感をもっていたらしいですが、ヴェイユ自身もたいへんな秀才でパリの高等師範学校の試験に合格し、ソルボンヌ大学の哲学の講義なども受講していたといいます。

卒業後、ヴェイユは女子高等中学校の哲学教師になり、同時に労働組合運動に関わっていきます。だからヴェイユは左翼思想に入れ込んでいくわけです。その政治活動のために教育委員会から睨まれ、転勤を命じられた時にヴェイユは休暇をとってドイツに旅行します。23歳の時です。その頃のドイツは第一次大戦で敗戦し、敗戦国として失業と恐慌で疲弊しきった社会状況にありました。そのなかからヒトラーの率いるナチスが勢力を伸ばし始めたという時期にあたります。

ヴェイユが最大の関心をもって当時のドイツの社会を分析したのは、「敗戦ドイツに集中している力関係の場をよく解明することが、ヨーロッパの問題を解明することと等しい意味をもっていたといえます(「言葉という思想」の「シモーヌ・ヴェイユの意味」の章より 吉本隆明)という理由からでした。ドイツの力関係というのは、「ひとつはドイツのナチズムの問題と、もうひとつは、ドイツの労働者の利害とロシアの国家およびロシア共産党の政策の矛盾の問題が、力学的に集約され、煮詰められていた(「シモーヌ・ヴェイユの意味」)ということになります。ナチスとは何か。そしてロシア共産党とそれを指導するスターリンロシア共産党とは何か、という問題がヴェイユの関心事でした。

吉本はヴェイユのドイツ問題の分析を詳細に辿って、ヴェイユは「独自な、そしてどんな既成の評価にもわずらわされない見事な分析の仕方をやっています」と絶賛しています。それをまた詳細に解説していくと、母型論に戻る前にとんでもなく大回りをしなくてはならないので、ざっくりと解説します。結論からいうと、ナチスもダメ、ドイツ共産党もダメ、そしてその背後で支配しているロシア共産党もダメというパッテンをつけるしかなかったというのがヴェイユの孤独な分析の結果でした。

このヴェイユの孤独な分析者としての姿と社会状況は、そのまま敗戦後の吉本の社会の片隅でのあり方と重なっていると思います。関心のあり方も同じです。そしてすべての政治勢力にバッテンをつけざるをえなかった徹底性と孤立性もよく似ていると思います。特に当時左翼のなかで絶対的な権威をもち、誰も批判することができずに崇拝していたロシア共産党を否定した、バッテンをつけたということが重要でした。ヴェイユの先見性は1991年のソ連邦の崩壊を待って歴史的に証明されたわけです。

まずナチズムはなぜバッテンなのか。ナチズムは国家社会主義であるとヴェイユは総括します。つまりファシズムです。ヴェイユマルクスの思想に影響を受け、その理念である労働者(プロレタリアート)の解放、労働者が権力を持つ社会というものを理想としています。ヴェイユの分析は、ファシズムであるナチスは、現在の国家のありかたからさらに国家の権力と管理力を強化して、大資本家と癒着して労働者を弾圧する思想とみなしました。しかしその労働者への弾圧と支配を隠し持っているナチスがなぜたいへんな勢いでドイツの民衆を捉えていくのか。ヴェイユによればナチスはまともな政治理念をもっているとは思えないが、ドイツの民衆や労働者の現実感情をひきつける力はどの党はより持っていました。ナチスはドイツの民衆に、諸君がこんなに飢えて苦しんでいるのは戦争に負けたからだ。戦争に負けて、戦勝国のヨーロッパの資本主義国から圧迫され、戦敗国としてさまざまな悪い条件を押しつけられているからだと宣伝しました。またドイツを牛耳っているのはユダヤ人の大資本家だ。あいつらはユダヤ人だからドイツ国民のこと、ドイツ国家のことなど少しも考えていない、自分たちが儲けることしか考えてないんだと支配層であるユダヤ人への民衆の憎悪を煽りました。また一方で、たとえば民衆に少しずつ土地を所有させる、もし大資本家がそれを抑圧しようとしたらナチスの国家の力でそれを制圧して民衆や労働者を守る、というようなできるはずもないいいことづくめの場当たり的な政策を宣伝しているとヴェイユはみなしました。しかし疲れ切ったドイツの民衆は、その場しのぎの感情の解放を求めてナチスへの支持を強めていきました。やがてナチスが権力を握るときがくれば、手のひらを返すように労働者、民衆を抑圧する国家に変貌することは間違いないとヴェイユには思われました。

ではドイツ共産党、その親分であるロシア共産党はなぜバッテンなのか。これは吉本が日本共産党ロシア共産党であるスターリン主義にバッテンをつけ、安保闘争に参加していった過程に重なっています。吉本は同じ時代に自分と同じように孤独に現実を分析し孤立を深めていった徹底した人間がここにもいたのだという切実さと驚きでヴェイユを読んだでしょう。ヴェイユによれば、また吉本にとっても、ドイツと日本の共産党、そしてその支配者であるロシア共産党は社会国家主義(一国社会主義)つまりスターリニズムだということになります。ドイツの共産党ヴェイユによれば、ロシア共産党の強い支配下に、その出先機関にすぎなくなっています。そしてスターリンロシア共産党は、ロシアにとって緊急なことは、ドイツとフランスが同盟を結んで、ロシアに当たる体制ができないようにすることだと考えています。それが一国社会主義としてのロシアの関心事であって、それに比べればドイツの民衆や労働者がどうなってゆくかは二の次にすぎない。そしてドイツの共産党ロシア共産党の手下として、その指導方針に従うだけの傀儡になってしまっている。ヴェイユはそう分析して、民衆や労働者より国家体制、国家権力の拡大に力点を置く国家社会主義と社会国家主義は同じものであり、だから共産党ナチスは通底していくのだと分析しているわけです。そして実際に共産党を離脱してナチスに入党する者がたくさんいたということです。

全ヨーロッパの縮図としてのドイツ問題を分析し終えたときに、ヴェイユは絶望しました。その絶望は労働者、民衆の解放を第一義とした現実勢力はまったく存在しないという絶望です。「眼をつむったりはすまい。この自分しかあてにすまいと覚悟しよう」とヴェイユは絶望のなかで記しています。この言葉は吉本が安保闘争の後に「試行」を創刊したころに考えたことと同じものでしょう。

おおざっぱに解説してもけっこう長くなりました。まだ「神」の問題に深入りする前のヴェイユの考察で、吉本が重要とみなしているいくつかの項目があります。それは次回といたします。