大正と大正天皇、それと狂気について

前回の終わりに夢野久作の名前を出したが、今回の導入としてその話を少し。
代表作『ドグラ・マグラ』が書き下ろされたのは昭和10年1月のこと。しかし、初稿にあたる『狂人の解放治療』は大正15年に書かれており、作者によるとその構想はさらにそれ以前へと遡るという。『ドグラ・マグラ』という作品はまさに大正という時代の中で描かれたものである。
それが反映された例をいくつか挙げてみよう。まず、主人公の名前「呉一郎」は当時の巣鴨病院の院長「呉秀三」から取られたものであると考えられている。呉秀三は日本における精神病治療の基礎を築いた人物であり、また、新聞には著名人の発狂を報じる記事とともに「家族とも相談の上巣鴨病院に入院せしめ其療養中なり」と巣鴨病院の名前がたびたび登場した。
筒井康隆の『将軍が目醒めた時』という短編の主人公となった「葦原将軍」が入院していたのもこの巣鴨病院である。葦原将軍の言葉は新聞をにぎわせ、人々はそれを正当なものとして喝采を送った。当時の人々にとって狂気は身近なものであった。
そして、呉一郎が入る解放治療場の監視人の名前は「甘粕」。これも甘粕憲兵大尉から取ったと考えて間違いないだろう。甘粕事件の被害者である大杉も加害者である甘粕も、どちらも久作の父である杉山茂丸の元にしきりに出入りしていたという。久作にしてみれば、親しい人間同士が殺しあったわけだ。
正木(まさき/しょうき)博士と若林(わかばやし/ばかばかし)博士が交互に現れ主人公を混乱させ、「天子様のため」に許婚を殺させたように、正気と狂気が混在する大正という社会を背景として『ドグラ・マグラ』は書かれた。


導入が長くなったので、そろそろ本題である大正天皇の話に移ろう。
先に名前を挙げた葦原将軍は精神を病んだ結果、自らのことを「葦原国元首」と名乗ったが、本物の元首である大正天皇もやはり脳を病んでいた。その事実は大正9年から5回に分け国民に対して発表された。最初の3回は静養によって回復する通常の病気として。それにも関わらず天皇が脳をわずらっているという風説は自然と広まっていったため、大正10年10月に行われた第4回の発表ではついにその事実を認めるに至った。

『東京朝日新聞』大正10年10月5日
「陛下は御幼少の時、脳膜炎様の疾患に罹らせられ且御成長の時機より御成年後に於ても屢々(しばしば)御大患を御経過遊ばされし云々」

裕仁皇太子が摂政に就任した当日の11月25日には、大正天皇のさらに詳しい病状が発表された。

『東京朝日新聞』11月26日
天皇陛下は御降誕後間もなく、脳膜炎様の御大患に罹らせられ……(中略)……御壮年期に入らせたまひたるより以来十二、三年間は格別の御大患なく、御動作も活発にあらせられたり。然るに御践祚後は政務御多端にあらせられ、之が為め軫稔(しんねん)を労したまひたる結果なるべきか、大正三、四年の頃より、御起居以前の如くならず、御姿勢は端整を欠き、御歩行は安定ならず、御言語には渋滞を来す様ならせられたり」

上にも書いてあるとおり、皇太子時代や即位後の数年は健康であったし、後の昭和天皇とは異なり政治の表舞台に出てくることも多かった。大嘗祭の簡素化を求めたり、スキャンダルで退陣を余儀なくされた大隈に対し、元老の意に反して留任の優詔を下したり。
しかし、そうした振る舞いは山県有朋をはじめとする元老の不信感を高めただけでなく、前回の記事でも書いたとおり、官僚機構の発達は天皇の個人的な権威を社会機構の一部として取り組むことを要請したため、次第に大正天皇という個人を離れ「天皇」という権威だけが一人歩きしていくこととなる。実際に、天皇が発病した後に起こった米騒動の際にも、明治天皇の例を踏まえ「聖恩」が具体的な形で民衆に与えられている。

『京都日出新聞』大正7年8月16日
「馬淵京都府知事は窮民賜恤の恩賜金を拝戴したるに関し十五日付を以て一般府民に対し左の如き告諭を発したり。
京都府告諭第二号
今次米価の暴騰に伴ひ一般生計の窮乏名状すべからざるものあり事畏くも天聴に達し特に御内幣金を下し賜ふ。聖恩優握洵 (まこと)に恐懼に堪えず直ちに之を各都市に配当し且つ其の方法を指示し夫々救済の資に充つべきことを郡市長に命じたり
(中略)
右と同時に郡長市長に対して左の訓令を発したり
(中略)
本官は本日直に告諭を発して府民に諭す所あり各郡市長は速かに適当の方法を以て之を部内一般に周知せすね以て天恩の鴻大なるを十分に徹底せしむべし

また、天皇の諮問機関として枢密院が存在するが、その審査範囲は国政の大部分にわたるにも関わらず、そこで実際に天皇が何か意見を言ったり質問をしたりということは出来なかった。大正天皇が健康だったとしても結局は何も出来ず、手元に残された監督機関は軍部だけということになる。


とはいえ、天皇の不在が政治に対して影響を与えなかったわけではない。いわゆる大正デモクラシー期において頻繁に行われた、天皇の裁定によって混乱した事態を収拾するという方法が容易には使えなくなったこと、また、判断力を失った天皇が政争の具になることを未然に防ぐため、自然と元老や側近が内閣の安定に協力するようになったことなど、この時機に安定した政党内閣が続くことになる遠因ともなったのである。