「利害の絡んだキナ臭い話」「当事者のトチ狂った発言」 → 言語訓練の必要

昨日は少々危機的な書き方をしすぎたかもしれませんが、僕としては、「バカ発言」「楽観的無関心」は致命的なんじゃないの?ということです。それは自戒も込めて。
なんかみんな、業界的に政治意識低すぎ。と言っても「左翼的スローガンを主張しろ」とかいうことではなくて、「僕らは実際に社会の中で追い詰められた存在で、経済的にも文化的にも排除されかかっているのだから(というか排除されてる)、放っておくと(バカなことやってると)大変なことにならないか?」ってことなんですが。
このまま不況が続いて、社会全体の雰囲気に余裕がなくなってくると、「とりあえず引きこもってる連中は切り捨てろ」 「いや、無条件に自衛隊に入れろ」とかいう話になりませんか? それに当事者が反抗的な口をきくと、「親や社会に養ってもらうしかできないお前らがなんで大きなクチをきけるんだ?」 「働かない分際で世間様に口出ししようってのか?」云々。
→ 「今のうちに理性的な対応策を検討して実践しておくべきだ」と言ってる僕は危機意識をあおってるだけですか? 僕は、ヒキコモリというのはそんな呑気なこと言ってられる状況にはないと思う。


焦っていても仕方がないので、ひとまず「ベーシック・インカム」という具体案の検討を核に、自分にとって最も致命的と思われるテーマをえぐり出し、それに関連する勉強に取り組んでみる、という地道な作業(というか往復運動)をやってみます。「大学に入学したての1年生」みたいな姿勢が必要なんだと思います。


chiki さん(id:seijotcp)のところで面白い鼎談をやっていて、関連する北田暁大氏の講演録(chiki さん作成)を読んだのですが、とてもいい勉強になりました。今日はその2つを題材にしてみます。
あらかじめ断わっておくと、僕は「ローティって誰?」という教養レベルです。知的なクロスワードパズルはどうでもよくて、「生活の必要」「苦痛除去」といった具体的な問題解決との関係においてしか勉強するつもりがありません。――僕はこれは、多くのヒキコモリ関係者(当事者・家族・支援者)と共有できる姿勢だと思っているのですが、そんなことないのかな・・・。


【今日のエントリーは、いっぱい間違いとかあると思います。遠慮なくご指摘いただけるとうれしいです。】






北田暁大氏 講演会 「アメリカ的プラグマティズム:リベラリズムと<帝国>」 より

【僕は、ネット上の文書をじっくり読むときは、サイトから全文をコピー → 新規のTEXTメールにペースト → それをまた全文コピーしてHTMLメールに落とす → 大事なところの色を変えながら読み進む――という方法をとっています。赤線引きながら読むみたいで、イイ感じですよ。】
あまりにも基礎教養が足らなくて苦労しましたが、なんとか全文読みました。思いのほか(失礼!)クリティカルな議論があってびっくり。(以下、読みやすいように勝手に文面をいじりました*1。段落・色変え・太字などはすべて私のしわざです。)



「(言語によって)自他の信念体系を改編していく」という課題(私的領域における哲学の課題)と、「他者の悪を軽減する」という課題とは、一応別個のものです。

  • 「公的」な政治とは、これだけは許しちゃおけないという「悪」の軽減を理屈抜きに指向する言語ゲームの総体であり、
  • 「私的」な活動とは、そうした身も蓋もないリアルには還元できない信念体系の豊饒化を図る言語ゲームの実践空間です。

この、両者を混同する(文化左翼のように「哲学」が「政治」の指針を与えると考える)ことは、目前にいる他者の痛みを「意味論化」する基礎付け主義にコミットすることにつながる。
以上がローティの考えです。つまり、目の前に飢えたホームレスがいるのならば、まずはその苦しみを取り除くのが政治の課題だと。私的な領域から「ホームレスに接している私のアイデンティティとは、実は偽善なのか」云々は家でやってくれ、と。

ローティ、ええこと言うやん。
意味論化する必要があるのは、それが苦痛を取り除くときのみ、と。(ヒキコモリを「社会の症状」のように捉えて、そこから取り組み方を考える、などというのも「意味論化」の一種でしょうか。)
理論においては徹底的に考えつつも、臨床においては「過激な折衷派でありたい」と語った斎藤環さんをちょっと思い出したんですが。



これら、ローティの意見を強引にまとめると次のようなものになります。

  • 現状では色々と問題はあるけれど、とりあえずアメリカ的なリベラル・デモクラシーは、他の政治体制と比べた結果、「悪の減少」という善 good を実現してきたのは事実である(反基礎付け主義)。
  • この事実と照らし合わせるなら、なるほどアメリカ型デモクラシーに「根拠」はないが、「最善なき次善」の策とはいえるだろう(プラグマティズム)。
  • こうした感覚を持つのは、自分がアメリカという場所に生まれ育ったからかもしれないがアイロニズム)、それはそれで仕方がない。
  • 誰しも自らの位置を規定する地平の外部に出ることは出来ないのだから(エスノセントリズム)…

こうしたローティの立ち位置は、右派からは伝統批判だと非難され、左からは右翼じゃないかと疑われています。本人はどっちでもないことが自分のポジションだと強調しているんですが、ある意味典型的な<アメリカ>的スタイルですね。「基礎がない」ということを基礎にするところから議論を徹底しているからです。

ふーむ・・・・。
僕自身、どうも「自分は何をやっているのか」を(少なくとも機能的には)理解できないと何もできない、という感じがあって悩ましいのですが(だって基礎付けがなければぜんぜん動けませんから)、「(この方法に)根拠はないが、最善なき次善の策だ」っていいな。
自分のやっていることに対応するイデアなんかないんだが、でも役に立つじゃん、みたいな。
「これはなぜ役に立ったんだろう」を考えると「もっと役に立つこと」が析出できるように感じるのは、錯覚、ですかね。(でもその錯覚がなければ進歩もないような)




「ヒキコモリ」との関連で驚いたのは次の質問。

質問者3 目の前のホームレスの話で、ホームレスが飢えているのは「自己責任だという言い方が一方であると思うのですが、ローティならどう対処するのでしょう?

う、すでに理解者が居る・・・。
ホームレスだと、まだ「就労のための努力をさんざん頑張ったが、でもダメだったんだろうな」とも見えますが、ヒキコモリの場合にはそれ以上にずっと「自分自身の自由意志的選択において閉じこもってるんだ」というふうに見えないでしょうか。だとしたら、それはまさに「自己責任だ」という糾弾を受けないでしょうか。


ところで、上の質問に対する北田氏の返答は:

 私はローティでないので分かりませんが、おそらく「自己責任という曖昧な概念では議論するのは無意味だ」的なことを言うのではないでしょうか。ただ、ローティ自身は、自分の「言説の効果」について考えている人です。それがおそらく、彼がアイロニストだといわれるところだと思います。

うーん・・・・。
「自己責任という曖昧な概念で議論するのは無意味だ」という言い分が、はたして糾弾されている当事者の反論として有効かどうか。言明そのものとして(コンスタティヴには)いくら正しかろうとも、ヘタをすると(パフォーマティヴには)かえって「言い訳」みたいに見えてしまわないか、心配です。
ここでやはり、ベーシック・インカムの有効性を思い出してしまいます。あれは「成人全員に無条件に支給」なので、社会保障を得るために言説レベルで自己正当化を図る必要がまったくない。
・・・・ただ逆に言えば、「言説レベルで引きこもりを自己責任論から逃れさせる」のは、きわめて難しい課題だ、ということでしょうか。





*1:すみません>chiki さん。まずかったら言ってください。

チャット鼎談 「アメリカとネオリベラリズムを巡って」 より

うちのリンクが出会いのきっかけになったそうで、光栄です。以下、興味深かったところを。(こちらも、色変え・太字などの加工は私です)



灯 『普通だと、言説的にこの辺りでジジェクが出てきますね。イデオロギーを信じていることと、「信じているふり」をしていることの間に差異はなく、むしろ信じていないけれど信じているかのように振舞うことによって特定の社会的イデオロギーは機能し続けるし、より強固になる、というような。おそらく、ラカンの「メタレベルはない」にも通じるような気がします』



これ、素で宮台氏の「あえて」への批判になってませんか?
「メタレベルはない*1」んだから、ベタにやる形を模索するしかないと思うんですが。



chiki 『$◇aを続けることによって、死んだ父=Aのスラッシュに惹かれ続ける。そこには既にメタレベルはないのだけれども、Aに行きたがるa(フェティッシュ残っている(残余)、ということでしょうか?』



三島由紀夫氏があれほど鮮烈な印象を呼んで「日本」「天皇」を際立たせてしまったこと。
宮台氏にとっての天皇
そしてもう一つ気にになるのが、ジジェクが来日した折に『批評空間』で行なった討議において、日本の象徴天皇制を(ヘーゲルの国家論を参照しつつ)容認していたことです。象徴界にあいた穴(現実界)に、まったく無根拠で形式的な「我欲す」の一撃を与えること。「絶対精神を目指す」道程から、「絶対精神はあり得ない」への反転(Aバレ)。――あの時、ジジェクの立論に夢中になりながら、最後まで苦しんだ論点でした。(こんなところで再会することになるとは・・・)



リリカ 『ちゃんと説明できませんが、やっぱり、日本人とアメリカ人の、アイロニーニヒリズムのあり方はかなり違っているように思えます』
chiki 『北田先生も、今、日本のアイロニーに関して分析中だと思います。宮台さんのことだけでなく、2ちゃんねる論がその序論のようなものになるのかもしれません。ところで、日本の場合、コジェーヴが「日本的スノビズム」と呼んだものがありますが、それが日本的アイロニー(或いは日本的シニシズム)にどうつながっていくのかって気になりますよね。』

なるほど。
ずいぶん前に、アメリカ人は、無を恐がる(なぜならそれは≪死≫だから)。しかし、日本人はやすやすとその無を楽しむことができる」とどこかで読んで、妙に印象的だった記憶があります。アメリカ文化(あるいは日本のテレビ文化)を覆う「空白・無音への恐怖」とか。(いや、それはちがう話か)
スノビズムは、アイロニーシニシズムなしに≪永遠の空虚≫を生き抜く作法だ」、なんて言ったらアホですか。(オタクとスノビズムは違うもの?とまた初級者のしつもん。たぶん、「物」と「形式」の関係がもんだいだと思うのですが・・・)


ちなみに、社会から脱落してしまっている人間は、スノビズムアイロニーシニシズム、そのどれをも生きられなくなっていて、だから黙っていたら死ぬしかない。「信じているように振る舞う」ことさえできない人間*2は、あくせくと別の選択肢を探さざるを(創らざるを)えない・・・・。



灯 『セーフティーネットも無しで「自己責任」もないでしょう。権限もなしで…』
chiki 『そこがリバタニアンの欺瞞ですね』
リリカ 『「自己責任」と言っている人は、実際何の責任を取れと考えているのかよくわからないです』
chiki 『選択の結果、という因果性のことなんでしょう。「あなたには選択肢があった。でもこれを選んだ。ゆえに自己責任である」と。でも、この場合の選択肢ってちっとも平等ではないですから』



これは僕も先日触れた「教育機会の階級差」みたいな話なんですが、そのまま「ヒキコモリ」を考える参考になると思います。
リバタリアニズムの発想から言えば、引きこもりは「自由な選択の結果」ということになるのだと思います。 → でも実情は違う。本質は「インポテンツ」(無能力)の問題です。 → その無能力の内実(個人と社会の絡み合い)をつまびらかにするところから、有効な具体案を生み出したいのですが。


生活の無能力に対するセーフティ・ネットとしてのベーシック・インカムなわけですが、僕としてはこれに平行し、「別のセーフティ・ネット」としての「地域通貨」にも、注目していきたいと思っています。





*1:正確には「メタ言語はない」(Il n'y a pas de métalangage.)ですね。

*2:なぜできないのか、は一考の価値があるかも。

ふう。

なんだか人の発言を利用して自分の思考を整理しただけ、という気もして、だとしたらとても失礼でしょうか・・・・。僕としては、人の言葉からいい刺激をいただいて、次の活動や勉強の原動力にしてゆく、というふうにしたつもりなのですが。
ここに僕が書いたことが、少しでも読んでくれた方の刺激になってくれることを祈ります。(少しでも、問いや議論を共有できるといいですね。)


それでは、また明日につながりますように。