あらかじめ決められた顧客たちの為のドキュメンタリー

「こじ開ける論理ですよ、その意味じゃあ、奥崎さんがああいう形でアクションを起こしていくその行動のパターンと、僕らがキャメラを持って映画を撮っていくスタイルとは似てますよ。似てるっていうか、同じですよ」(原一男『踏み越えるキャメラ――わが方法、アクションドキュメンタリー』)


 個人的にドキュメンタリーの強みっていうのは、観客に圧倒的な「リアルさ」を感じさせることだと思う。
 
 勿論、ドキュメンタリーだって演出や編集によって、都合の良い形に捏造することが可能で、実際そういったものも沢山あるわけだし、そもそも「捏造」とまでは行かずとも、「演出」からは逃れることはできないわけだが、たまたま観ただけの観客に対して与える印象は、劇映画、テレビドラマよりも強いだろうと思う。描かれる内容に対して、殆ど興味を持たない者の関心を「こじ開ける」という意味において、「ドキュメンタリーである」ということは、それなりの強度を持つはずだ。ゆえに、「誰かにとってのみ都合の良いドキュメンタリー」は、「誰かにとってのみ都合の良い劇映画/テレビドラマ」よりも有害度が高いと言えるのかもしれない。

 「誰かにとってのみ都合が良いわけではないドキュメンタリー」と言うと、私はフレデリック・ワイズマンの作品を想起する。たとえば、マサチューセッツ州ブリッジウォーター精神病院刑務所の日常を記録し、長く上映禁止の憂き目にあっていた1967年制作の『チチカット・フォーリーズ』では、食事を拒否する受刑者に鼻からチューブを挿しこんで流動食を飲ませるような場面も捉えつつ、しかし、受刑者=被害者、医師・看守=加害者という図式では描かない。ワイズマン自身が「私の映画は自分の仕事をうまくこなしている人もたくさん描いているはずだが」と語るように、この作品においても、登場する看守や医師の大半は、自身の出来る限りの仕事はこなしている。この作品が映し出すのは、ただこの刑務所が悲惨な状態にあるという事実と、その責任が誰か一人、どこか一つに負わせられるものではないというもう一つの事実だけである。

 端的に言えば、ワイズマンは批評的ではあっても、否定的であったり肯定的であることはない。ゆえに、画面にはただ「現実」が映し出される。現実を直視させられては、観客は考えずにはいられない。

 また、ワイズマンは「カメラを意識した人がふだん以上に自分の役割らしく振る舞うとしたら、その方が好都合だ」とも語る。これは、原一男のドキュメンタリーにおけるカメラが、それ自体挑発の装置として被写体の行動を増幅させる契機としてはたらくこととほぼ同義だろう。その結果、日常を記録するだけでは浮かび上がらない本質的なものが現れたりする。原一男のドキュメンタリーはそういった瞬間の連続である(ふと思ったが、このカメラと被写体の関係は『水曜どうでしょう』におけるディレクター陣と鈴井貴之大泉洋の出演陣の関係にも言える気がする。『どうでしょう』がバラエティではなく、ドキュメンタリーと言われるのは、きっとこの辺りに所以しているのだろう)。


「映画は夢であるとしても、それは現実逃避のための夢ではなく、「現実」を直視するための夢である」(北小路隆志


 しかし、ここで、私が個人的に〈「あらかじめ決められた顧客たち」問題〉と呼んでいる問題が浮かぶ。
 
 つまり、結局のところ、大抵の人間にとって作品を鑑賞するという行為は、その作品がどれほど社会的であれ、どれほど芸術的であれ、あるいはどれほど偏向的なものであれ、自身の願望充足ということでしかないのではないか、という問題だ。ドキュメンタリーに限って、酷く短絡的に述べれば、「ドキュメンタリーを観る人間なんて、最初からそういう映画が好きな人間だけだろう」ということでもある。

 例えば、ドキュメンタリーではないが、ヒット映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、「昭和30年代を美しい過去として賞賛したい人たち」によって肯定的に消費される。そして、同時に、「そういった短絡的解釈をする人たちを攻撃したい人たち」にとって「恰好の餌食」としても消費される。どちらも、自身の現在の「ありたい立場」を補強する意味でしか、作品を観ていない。

 つまり、作品がどれだけ誠実に、何か一点の派閥的なもののために描かれているわけではなかったとしても、受け手がそこから「自分にとって都合の良い情報/意見」のみを抽出してしまうのだ。
 〈「あらかじめ決められた顧客たち」問題〉とは、ハナから作品(というか社会)に対する意見(というよりは「主義」)を変えるつもりのない人の存在、そして、そんな人たちを(自覚がなかったとしても)「顧客」として動員しようとする作り手の問題である。

 作家そのものが、「あらかじめ決められた顧客」的である場合もある。たとえば、渡辺文樹の『罵詈雑言』(1995)は、青年凍死事件をもとに、青年が原発反対派であったことから、推進派による村ぐるみの集団殺人ではないかと勝手に確信した渡辺が、全く裏をとれないまま村じゅうを突撃取材し、最後には独断と偏見に満ちた再現ドラマで締めくくるという内容だ。

 映画批評家の森直人は「基本的には、ごくストレートな問題意識が、思い込みや妄想や衝動で無意識にズレていくタイプだと思う。いわば、〈社会派〉的善意と表現者としてのデーモンの乖離部分から不気味に立ち上がってくる、矛盾の結晶が彼の映画だ」と述べており、たしかに渡辺文樹という人間を観察する(あるいは、渡辺的振る舞いが氾濫する世界の縮図を見る)という意味では、非常に興味深いのだが、そういった批評性を受け手が必ずしも持っているとは限らない。単純に嫌って拒絶するだけならまだしも、渡辺的振る舞いを模倣しかねない(実際、渡辺ほど無根拠ではないが、振る舞い的には近しいマイケル・ムーアに憧れるドキュメンタリストの卵は多い)。

 また、松江哲明が2005年に逝去したAV女優・林由美香を、彼女が出演した韓国制作のAVを主軸に追っていく『あんにょん由美香』も、林由美香という存在、ないしは90年代から00年代初頭にかけて奇妙な存在感を発揮していた平野勝之カンパニー松尾といったAV作家たちの「作品」を、神格化しようとする姿勢ばかりが目立ち、そういった流れと無関係な人間からすれば、一体何を騒いでいるのか分からないようなものになっていた(この作品の姿は、ある意味でブログ的盛り上がりと言えるかもしれない。「今日は〜〜に行きました。面白かったよ〜」的なことだけが書かれているブログは、実際の友達同士であればコメントも出来るだろうが、そうではない者にとっては、何の面白みもないものである)。。

 日本映画学校の卒業制作で、約5年かかってようやく5月22日から一般公開されるセルフドキュメンタリー映画『アヒルの子』の撮影担当だった山内大堂は、映画学校の冊子に掲載されたレポートで「自分のやりたいことを本当に成し遂げた作品は、観る人間に感情を伝えることの出来る本物の作品を生む」と記しているが、「創作」という行為を神聖化しすぎているような気がするし、何より『アヒルの子』がどれだけ「傑作」であろうと、〈「あらかじめ決められた顧客たち」問題〉を無効化することは出来ないだろう(未見なので、傑作なのかどうかも分からないけれど。レポート等を読んだ限りにおいては、描かれている内容に最初から共感しやすいタイプの人間でないと、「感情を伝える」ことは難しいのではないかと思った)。おそらく、ヤマカン(『涼宮ハルヒの憂鬱』や『かんなぎ』で有名なアニメ演出家・山本寛さんの愛称。ちなみに、自主作品を除けば初の実写監督作品となる『私の優しくない先輩』が7月から公開される)がブログに綴っていた言葉の方が、作家の現状認識としては正しいだろう。


「自分の創りたいもの」などあまりにくだらないから今すぐ捨て去ってしまえ。「今必要なもの」だけを創れ。(山本寛


 ヤマカンの作品の視聴者の大半を成すであろうアニメオタクの中にも、「自分にとって都合の良い情報だけを引き出す」傾向が強い者は少なくない(物語そのものよりも、萌えられるか否かという基準とか。東浩紀言うところの「動物的」な騒ぎ?)。だからこそヤマカンはそういった状況に敏感で、挑発的な演出も多い。なにしろ、「今必要なもの」が描かれた作品であっても、「今必要なもの」以外の要素だけを抽出して、勝手に楽しむこと出来るわけだし、また、そういった行為そのものは別に全否定されるべきものでもない。問題なのは、「そうすることでしか」楽しめないということと、その点に作り手が鈍感であること、あるいは甘えてしまうことだろう。

 ライターの成馬零一が、神聖かまってちゃんに関する文章の中で、「今はどうやってリスナーに自分の表現を届けるかまで、送り手が問われている」と書いていた。本来的にメッセージ性や作家性の強いジャンルであるドキュメンタリー作家は、「どうやって受け手に自分の表現を届けるか」のみならず(そこさえ、意識していない作家も多いが)、「届けた後にどうするか」まで問われているのかもしれない(たとえば、ワイズマン的な立ち位置を更に進め、制作者が完成した作品に関して、会見なりブログなりニコ動なりで、観客や批評家などと積極的にディスカッションしたりして「その先」を目指したりしたらどうだろう。勿論、その際のディスカッションも、自身の立ち位置を補強するためだけの意見のぶつけ合いではなく、生産性の高い議論でなくてはならないだろう。

踏み越えるキャメラ―わが方法、アクションドキュメンタリー

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前ブログからのコメントの転載


Commented by ペギモン

我らが素晴らしき日本映画学校には「テレビドキュメンタリー=クソ」というの洗脳教育プログラムがあったけど、私みたいな外道はよく見るんですよ

全く興味のない雑学を押し付けるようなバラエティー番組(大抵、クイズ形式だけど、興味ねぇーって……という)よか、幾分かマシだと思ってるし、普段、触れないような分野の話題でも興味深く見れるのでね

そーゆー意味では、「興味があるから観に行く映画作品」より、「この前、テレビで初めて知った」という不特定多数の情報は入ってくるかな

まぁ、そーは言っても現状把握(もしくは、それ以下のサワリ部分)程度の、お勉強だけどね

2010年05月22日 00:57




Commented by 美月雨竜

ペギモン氏

 いくら「クソ」と洗脳したところで、多くの観客は映画学校的洗脳とは無関係のところで生きているのだから、そんな洗脳は醜い身内褒めしか産まんと思うのだけどねえ。

 サワリだけでも興味を惹かれれば、あとは自分で調べたりするだろうし、その際に都合の良い情報だけを集めたりしなければ、入口のドキュメントが本当に「クソ」であっても、結果オーライだとも思うわけです。

 「偶然に知る」ってのは結構重要なことで、どうやって多くの受け手をその偶然に引っ張ってくるか、というのも考えられてしかるべきことかもしれない。

2010年05月22日 01:03



Commented by otooto

最近、原さんにお仕事頂いて一緒に撮影してるけど,,まぁ…僕には到底考えられない事を考えてますよ。(撮影に関して)

あと,大道さんの撮影はものすごく評価が高いけど,なぜだろう?確かに上手いし,しっかり撮ってるけど…ん〜難しい…

ちなみに僕はアヒルの子より、『ライン』の方を見に行こうと思ってますアヒルの子は学校で見たしね…



あと,不特定多数に…って話は是枝監督がテレビドキュメンタリーの必要性って話で出てたね。まぁ,,僕にしてみればどっちでもいいのだけど…

2010年05月22日 19:31

Commented by 美月雨竜

otooto氏

 原さんって、ひょっとしたら「撮影する」ということ以外に関しては、あまり深く考えてないのでは?と思ったりする。これは別に否定的な意味じゃなくて、それゆえに作品が強度を持つんじゃないかと(逆に、劇映画『またの日の知華』は、色々と余計なことを考えてしまった結果なんじゃないかと思ったりする)。

 『アヒルの子』は、観たいとは思わないのだけど、仕事柄観ておくべきだなとは思ってる。いずれ、行く。その際には、きっと『ライン』もついでのように鑑賞しておくと思う。観たら、また何か書いておこう。

2010年05月22日 23:25