そもそもは、軍事行動において、敵の攻撃からの被害を低減するために、部隊の要員を疎らに配置すること。 転じて、第二次世界大戦末期の日本では、空襲などからの被害を避けるため、都市部の人口や動産を、より閑散とした地域に移転させることを言った。特に、国民学校(小学校)の児童を対象にした「学童疎開」が、組織的に実施された。 同時に、ある区域の建物を取り壊すことで空襲に備えた防火帯を作ることを「建物疎開」と呼ぶこともあった。
終戦の約2カ月後、親元を離れて広島県北に疎開していた子どもたちを『天風録(241020中國新聞)』は思う▲カメラマン故松重美人さん、写せなかった場面▲迎えにきた家族と大喜びする仲間を傍らで数人がぼうぜんと眺めている。一家全滅で迎えは来ない。ほとんど無言で、すすり泣く子も。痛まし過ぎて撮影できなかった▲原爆は軍事施設でなく、街の真ん中を目がけて落とされた。犠牲者の多くが子どもや女性といった社会的に弱い立場の者だった。未来も奪われてしまう子どもたちこそ、戦争の最大の犠牲者なのではないか▲ウクライナやガザのどこかで今も、多くの子どもたちが血や涙を流していることだろう。曇りなき目で見る限り、そんな姿が…
1944年(昭和19年)6月30日 東条英機内閣が都市の学童を地方へ学校単位で集団疎開させること=学童疎開促進要綱が閣議決定されました。 (疎開の目的) 1944年(昭和 19年)に入ると日本本土への爆撃が増えてきました。激しくなった空襲から守るため、さらに子どもや老人や婦女子を都市から遠ざけ、本土決戦を貫徹する目的で学童疎開を決めます。 閣議決定した学童疎開実施要綱では、京浜・名古屋・阪神・北九州の12の重要都市の国民学校初等科第3学年から第6学年の児童が対象となり、国民学校 3 年生以上の児童を都市部から農村へ避難させる学童疎開を行うことにします。残留組と疎開班に分かれ、出発の時にはお別れ…
1940年に、結婚した母に、相次いで、私と妹が生まれた。 祖父の食事は、お膳に載せて、祖父の部屋に持って行く。 戦争中で、食べるものがない時代とはいえ、普通の白米を炊いたご飯だったし、卵が、必ず、1日1回は付いていた。 だから、父と母は、食べるものが他の人より少なく、やせ細っていたらしい。 母方の祖父になる人が農家だったから、時々食料品を荷車に積んで、その上に薪を載せて送ってくれていたそうである。(闇取引になるから。当時は、食料品は配給制であった。) 母の兄が戦死し、母方の祖父が脳出血になった時、母の兄や姉は、母方の祖父に会いに戻ったけど、母が帰ることを、祖父が許さず、「あの時ほど、つらいこと…
寒いです。雨だし。。。真夏にこの寒い天気は何なんでしょう。。。このところの雨で被害を受けた地方の方にはお見舞い申し上げます。 東京西多摩地域の昨日は20℃でした。。。おかげで、しぐれちゃんのへやんぽ部屋の室温とあまり変わらないので、その点は過ごしやすくていいのですが。寒いので、ウールの〝チョッキ”を着ています。。。そして、足元にはしぐれちゃん。これが暖かくていいのです✨ありがとう。うさ神様。。。 裸足です…でもあったか…❤ そういえば、昨日8月15日は終戦記念日でした。といっても、お母ちゃんは昭和生まれですが戦争経験者ではありません。ですが、お母ちゃんのお母ちゃん・うみこさんは戦争経験者です。…