紀行文は好きなジャンルだ。 旅はいい(・・)。自分でゆくのは当然のこと、他人(ひと)の話を謹聴するも、また楽し。 最近読んだ部類では、昭和六年刊行の『商心遍路』がまず秀逸な出来だった。 著者の名前は小田久太郎。浮世の肩書き、三越専務。三井王国の押しも押されぬ驍将である。そのあたりの背景に、まったく適ったタイトルだろう。 昭和四年の十月十一日である、小田久太郎が日本を離れ、世界一周の大旅行へと乗り出したのは――。 乗船したのは「浅間丸」、郵船会社の新造船。ペンキの塗りも初々しいカワイ子ちゃんの処女航海に便乗する格好だった。 まず第一に目指すのは、北米大陸西海岸、サンフランシスコの港湾である。 船…