今では書生等という言葉は使わないが当時は学校の生徒でも書生さんと言った。そして決まって黒の紋付き羽織に小倉の袴で羽織の紐は白で二尺位(約六十糎)もあった。それを先の方で結び首に掛けて歩いていた。下駄は朴歯の太い鼻緒のついた桐の厚いものでゴロンゴロンと殊更、音を立てゝ得意がっていた。 此等の書生さん仲間では男色が流行して時々稚児さんの事で血を見る様な争いもあった。 特に九州地方の人々の間に多かった様である。私とは同級生のN君は、熊本の士族で剣道の達人で、よく画論を闘わせた一人であったが、御国柄この稚児さんの事に関しては熱心であった。 明治三十?年四月頃この宿へ一人の婦人が止宿させて呉れと訪れた。…