なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。 そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を…