正徳3年11月24日。巳半(午前10時)から文左衛門は元右へ行く。口米帳を確認する。武右・十郎・与左・孫右・全香も居合わせる。夜、吸物・酒・菜増水(雑炊)などを頂く。戌(午後7時)過ぎに帰る。
正徳2年12月2日。文左衛門は昼前から武右へ出かけ、口米帳を確認する。平左・元右と夕飯を食べ、その後全香もやって来る。夕暮れ前、吸物でまた酒を頂く。文左衛門は直ぐに源蔵へ出かける。十文字大夫・永原七郎左衛門も居合わせる。子(午後11時)過ぎに帰る。この時火事の噂がある。亥(午後9時)頃、納屋でこたつから火が出ようとしたのを消し止めると。
宝永5年11月28日。辰半(午前8時)、文左衛門20両の頼母子は文左衛門の控えに落ちる。4両の小頼母子は文左衛門と源太左が調整して得る。昼前から文左衛門は源右へ口米帳の認めに出かける。武右・善兵・元右のもの。文左衛門は酉半(午後6時)に帰る。馬廻内藤円右衛門は中川勝蔵百姓甚右衛門を連れて京へ出発する。甚右衛門は先日の捨馬の仲間であった。善右衛門は印場村の者で、妻子は牢に入り、親類は所に預けられる。
宝永4年12月9日。文左衛門は武右へ口米帳の印をもらいに行く。百姓を呼び、口米の俵5つを調える。佐藤金左衛門が評定所東屋敷へ移る。来年1月に久野杢太夫が江戸へ出発するためと云々。
宝永3年11月21日。不同金の値段が8斗3升、上納金は8斗9升となる。文左衛門は寄合帰りに源右へ出かける。口米帳を確認する。武右・善兵・元右も同席する。津守様(松平義行)衆今城仙右衛門、間鍋茂太夫弟も追放となる。博奕のためとも。あるいは先日の火事の際によからぬ所へ行っていて間に合わなかったためと。
元禄16年11月28日。巳(午前9時)から磯貝武右へ文左衛門は出かける。例年通り口米帳を書く。源右、久右、加左。