正徳2年12月21日。不同金の値段がまた変り、6斗4升となる。
正徳2年11月15日。不同金は7斗3升、定納金は7斗1升となる。12月6日に値段が替わり、不同は7斗となる。
宝永6年11月21日。不同金が8斗3升、代米金が8斗8升となる。今年暮れの蔵買留はなし。評定所東屋敷へ村瀬彦蔵・成田林蔵・南部戸太夫(イ分)・半助と名乗った五十人で今は小普請の小栗清太夫が入る。小栗清太夫は小普請で初めは半助をという名の五十人であった戸太夫は浪人で、初めは渡辺飛騨守の家来で巾下新道に家を借りて住んでいた。全員追剥などの悪人であった。
宝永5年12月12日。文左衛門は巳(午前9時)から一郎左の頼母子会のため八郎右へ出かける。瀬左と一郎左の2人に落ちる。吸物・酒などを頂き、すぐに夕飯も頂く。口米・不同金の値段が変わり、7斗になる。このため不足銀を小頭に遣わす。11日以前に差し上げた分は前の値段で納める。
宝永5年11月14日。文左衛門は手形を1両で9斗替えで売り払う。不同金は7斗4升であったが、12月12日に7斗に変更となる。
宝永3年11月21日。不同金の値段が8斗3升、上納金は8斗9升となる。文左衛門は寄合帰りに源右へ出かける。口米帳を確認する。武右・善兵・元右も同席する。津守様(松平義行)衆今城仙右衛門、間鍋茂太夫弟も追放となる。博奕のためとも。あるいは先日の火事の際によからぬ所へ行っていて間に合わなかったためと。