正徳4年12月3日。文左衛門は今朝口米を差し上げる。十郎右と車を用意し、200丁64文。今朝の天気を考えて、大岡半之右と加藤紋大夫は米を遣わせず。このため巳(午前9時)頃、御蔵の日用で急に遣わす。1人前400文ずつと云々。磯貝武右の米を検査する。
正徳4年12月1日。文左衛門は口米の俵を5つ拵える。稲荷で稽古浄瑠璃が始まる。1段の床代は1人3銭ずつ、その後夜の浄瑠璃は中止となり、昼だけとなる。
正徳3年12月2日。仲間は口米を残らず金でこの日差し上げる。値段は1両で5斗9升。4升安く6斗3升。
正徳2年12月7日。この日仲間が口米を差し上げたところ値段が7斗なるので、文左衛門は1人前600丁60文を武右へ翌日遣わす。
正徳2年12月5日。文左衛門はこの朝武右へ口米の判に出かける。4両を持参する。内1匁は余るはずであった。この日から穏便が明けるとの廻文がある。
正徳1年12月10日。仲間は口米を上納する。文左衛門は金で納める。
正徳1年11月26日。文左衛門は昼から磯貝武右へ口米帳面を確認に源右・平左と出かける。亥(午後9時)前に帰る。
宝永7年11月26日。文左衛門は口米帳面書のため昼前から源右へ出かける。小川善兵衛が病気のため加藤平左衛門が計算をする。他にも元右衛門・武右衛門がやって来て、夜食も頂く。亥(午後9時)前に帰る。7月に駿河町で狼藉をはたらいた大工は多く預けられていたが、この日1人は追放、残る10余人は過怠牢(一定期間牢に囚禁すること)に入る。この度のお産の祈りの間、前の牢奉行加藤(欠字)は国に戻るのを許される。そのほか追放になった町人も国に戻るのを許された者がある。
宝永6年12月12日。文左衛門は口米を上納する。文左衛門は6俵で車力(運搬人)に230文かかる。田島儀兵衛が米を検査する。
宝永5年12月12日。文左衛門は巳(午前9時)から一郎左の頼母子会のため八郎右へ出かける。瀬左と一郎左の2人に落ちる。吸物・酒などを頂き、すぐに夕飯も頂く。口米・不同金の値段が変わり、7斗になる。このため不足銀を小頭に遣わす。11日以前に差し上げた分は前の値段で納める。