正徳5年11月29日。結納が済む。(後略)文左衛門は口米の判を与右に頼んで遣わす。5両と丁60文。十郎右に頼まれたこの度言いつけの書付が来る。大明院宮が熱田に泊る。江戸へ下られる。饗応などは前日に行う。
正徳2年12月5日。文左衛門はこの朝武右へ口米の判に出かける。4両を持参する。内1匁は余るはずであった。この日から穏便が明けるとの廻文がある。
元禄11年3月14日。勘定奉行取田次郎左衛門手代の福井彦六が次郎左衛門の判を偽造したことで、評定場の牢に入る。御先手足軽13人がこれを警固する。偽手形などが300両程あったと。後に獄門となる。13と8つの子どもがあり、母に暇乞いをして牢に入ると。