正徳3年11月19日。この日辰(午前7時)から午刻(午前11時)までの間に足軽頭以上の拝礼が行われる。ただし、香典は昨日方丈へ渡してあり、この日は霊屋拝礼の格に順番はなく、本堂に行ってそれぞれ拝礼して帰る。香典の人数は前の通り。山門から筵を敷いて置いてあった。穏便が許され、月代を剃るようにとの廻文がある。
正徳3年7月4日。御蔵から米7斗6升を受け取る。駄賃は100文。この日から10日まで穏便にするよう廻文がある
正徳3年1月21日。法事の間は音曲・鳴物を止め、物静かにするようにとの廻文がある。
正徳2年12月5日。文左衛門はこの朝武右へ口米の判に出かける。4両を持参する。内1匁は余るはずであった。この日から穏便が明けるとの廻文がある。
宝永7年6月5日。5日から7日まで鳴物は禁止となるが、普請は許される。
宝永6年12月25日。この日限りで穏便が明けるとの廻文がある。
宝永6年10月15日。水戸様逝去につき21日まで穏便の廻文がある。この日聞いたところでは千村・山村の両家は延宝午の倹約で馬を牽くのを止めていたが、この秋願い出てもとに戻す。江戸では尾州番頭も馬を牽く。
宝永6年3月29日。この日から穏便が終わる。ただし鉄砲は撃たないようにとの廻文がある。近頃、人参の値段上下がる。木綿の値段が上がり、下々が迷惑していると聞き及び、詮議したところ、帆に大分使われているので今後一切新規にもめん帆は禁止する。ただし前々からあった木綿は使ってよいと云々。新規には前々の通り蒲のむしろを帆に仕立てるようにと仰せ出されたという話もあった。
宝永6年3月9日。酒の販売を許すとの廻文が町中へある。ごぜ・座頭渡世の稽古に鳴物・音曲が許される。町では三弦などを引く。
宝永6年1月29日。朝比奈宇右衛門は使いとして近頃京へ向かったが、穏便のため準備が整っておらず、来月中旬また来るようにと云々。この日名古屋に戻り、留まる。