日蓮は伊豆に流罪となりました。 流罪の地は伊東でしたが、この地は北条得宗家有縁の地であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が流罪された地であり、北条家の身内である伊東氏がこの地を治めていました。 鎌倉市中を引き回された後、由比ガ浜から伊東へと流されましたが、これは松葉が谷の法難とは異なり、完全に「罪人」としての扱いでした。そして罪状は「御成敗式目」の中の第十二条にある「悪口の咎」にあたると言うのです。恐らく松葉が谷に戻った日蓮は、立正安国論にあった様に念仏宗を責め、念仏宗側としても日蓮を憎んでいたのかもしれません。そしてその念仏宗信者と日蓮門下の間には小競り合いがあったのかもしれません。 ◆流罪の口実 …