リンゴだミカンだ、カキたイチゴだと、お好みはそれぞれにあろうけれども、レモンに対してだけはちょいと格別な印象を抱く人が、文学好きには多い。梶井基次郎『檸檬』の影響である。 肺疾による微熱にのべつ苛立つ主人公が、京都の街をほっつき歩く。ここが京都ではないどこかの街だとの、錯覚に耽りたがる。「ここではないどこか願望」は、チェーホフ由来の、いわば近代文学基本主題のひとつだ。 ご多分に洩れず、彼はひどい貧乏だ。かつては丸善でのウィンドウショッピングが愉しみのひとつだった。洒落た香水壜やオーデコロン、煙管に煙草、小刀に石鹸などを観て廻り、せめてもの買物として最高級の鉛筆を一本だけ買って帰ることが気晴らし…