小野田寛郎

(一般)
おのだひろお

1922年、和歌山県海南市生まれ。
1942年 召集令状で徴兵されるが、自動車運転や語学などの能力を見込まれ、予備仕官学校、中野学校へと進学する。
1944年12月 フィリピン戦の直前、長期抗戦目的のゲリラ戦指揮のため、フィリピンルバング島に着任。
1945年1月 ルバング島に米軍上陸、日本軍守備隊200名中160名が戦死、小野田少尉は3人一組のグループに分けさせ、ゲリラ戦を命令。
1945年10月 米軍の投降勧告で、小野田少尉のグループ以外の日本兵は投降。小野田グループの3人のみが残る。
      この後長期に島に残る。フィリピン人の牛を盗む、フィリピン軍を殺害などして抵抗を続ける。またグループ中の1名が死亡。
1960年頃 残留日本兵発見の報告で、日本政府による呼びかけ実際されるが、発見されず死亡とされる。日本側は、戦争が終わった事を知らせている。
1972年10月 小野田少尉とフィリピン軍の銃撃戦で小野田少尉部下の小塚金七一等兵が死亡し、発見される。このため日本政府厚生省による再度捜索が実施される。後年小野田氏は小塚氏と意見が異なり衝突があった事を述べている。
ここまで数十回の戦闘で小野田グループにより複数のフィリピン軍兵士が死亡。日本側は、戦争が終わっているのを承知でも出てこないのはフィリピン側からの処罰を恐れた為と判断し、処罰はない事を知らせる。一方小野田氏は後述のように戦争終結が正式に自分に伝達されていない事に固執している*1。なお小野田氏は複数人を銃撃&命中を確信、銃殺されるのが当然と後年語っている。同時にフィリピン人は悪い事は全て日本兵においかぶせているとも語っている。
1974年 小野田氏、ジャングルより現れる
この際、ボランティア日本人のテントに自ら出現し、作戦任務解除命令があれば出頭すると伝え、日本側は上官にあたる元日本軍将校を現地で面談させ、出頭させる。小野田氏は正式の命令があったとして出頭する。
1974年3月 日本に帰国、皇居参拝、全国から集まった寄付金を靖国神社に納付し、軍国主義者との非難を浴びる
1975年 ブラジルへ渡り、牧場を作る。
    少年による親の殺害事件を発端に、日本で少年教育のため小野田自然塾を主催
    更に日本での講演活動、執筆活動を開始、保守系雑誌に寄稿
2004年12月17日、ブラジル空軍は勇気と功績をたたえ「サントス・ドゥモン勲章」を授与。*2
2005年11月、小野田自然塾を続けたことが評価され藍綬褒章受賞。
2006年 映画「蟻の兵隊」で取材され、靖国神社への参拝と、日本の太平洋戦争開始は当時の開戦理由を踏襲し「国を守るため」との見解を披露
2014年1月、死去。

参考:NHKBSハイビジョン特集「生き抜く小野田寛郎」2005年(110分のインタビュー番組)

*1:2014年Yahooニュース記事では密着取材者に本当は戦争終結は知っていたと語っている

*2:サントス・ドゥモン勲章は、民間人にも授けられる勲章としては最高位

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