中国後漢の人物(生年不詳 - 184年)。太平道の教祖の張角の弟。
光和7年(184年)、張角が挙兵し(黄巾の乱)、天公将軍と称すると、張宝は張梁と共に地公将軍・人公将軍と称した。
官軍の皇甫嵩の軍によって広宗の黄巾軍の本隊が壊滅させられた後も抵抗したが、光和7年11月に曲陽で皇甫嵩の軍と戦って敗死した。
『三国志演義』では妖術使いとして描かれる。張宝が守る鉄門峡を突破することができない官軍の朱儁将軍は劉備の義勇軍に張宝討伐を命じる。劉備は鉄門峡の正面突破は無理と判断し鉄門峡裏の断崖絶壁を登り、張宝の陣に攻め込んだ。断崖絶壁を登ってきた敵に張宝の部隊は混乱。その混乱の中、張宝は劉備の放った矢を受け死亡した。