中国後漢末期の人物(? - 184年)。冀州鉅鹿郡の人。太平道の教祖。
元々は官僚志望であったが、党錮の禁により仕官の道を断たれ、宗教指導者となり、太平道を創設した。自らを大賢良師と称し、多くの信者を集め、一大教団を結成した。
光和7年(184年)、漢王朝の転覆を図り、部下の馬元義に宮廷工作をさせたが陰謀が発覚し、逮捕されそうになったため、「蒼天已死 黄天當立 歳有甲子 天下大吉 」のスローガンを掲げ各地で反乱を起こした(黄巾の乱)。張角は天公将軍と称し、弟の張宝は地公将軍、張梁は人公将軍を称した。
張角のいる広宗には、官軍の盧植が差し向けられたが、張角はよく抵抗したため、盧植は更迭され代わって董卓が派遣されたが張角はこれも退けた。
しかし、まもなく張角自身が病死してしまう。各地の反乱も官軍の皇甫嵩や朱儁の活躍により鎮定され、皇甫嵩により広宗で張梁が敗北すると、張角の墓が暴かれその遺体は斬首された。まもなく張宝も討たれ、黄巾の乱は終結した。