大日本帝国を崩壊させる遠因となった事件の一つ。もともとは単なる与野党間の政争の材料。
1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約に調印した濱口雄幸内閣に対して、これが統帥権の独立を犯すものだとして野党政友会が攻撃した。これに軍令部や右翼がのっかる形で政府を攻撃した。
結果、政治が軍事を統率する力を失い、最終的には(この問題で政府を攻撃した当の本人である)犬養毅が五・一五事件によって射殺されて政党政治は終わりを告げた。
大日本帝国憲法には以下のように書かれている。
と書かれており、現実には大抵の国事行為は関係する国務大臣の補弼を受ける事になっていた*1。
- 第五十五條
- 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス
*1:第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」となっており、つまり天皇は責任を負わないので、代わりに国務大臣が「責ニ任」しているとも言える