(1961年 - ) 日本のジャーナリスト、毎日新聞記者。福島県いわき市生まれ。北海道大学工学部資源開発工学科卒業後、住友金属鉱山に入社。1989年、毎日新聞社記者に転じる。長野支局を経て1992年より外信部。ヨハネスブルグ特派員、メキシコシティ支局長。メキシコシティ支局長時代の2005年に、『絵はがきにされた少年』(『遠い地平』を改題)で開高健ノンフィクション賞を受賞。2008年3月からローマ支局長。
道で摘んで持ち帰った花を 長皿に置き 楽しんだ後 それを麻糸でまとめ 柱に吊るした。 よく乾いた花の茎は しっかりとして 言う事を聞かない。 姿よく整えようと思っても あっちを向いたままだ。 「まあ いいや」と 花瓶に挿した。 先日 図書館から受け取った本「マイケル・K」。 「切手にされた少年」藤原章生の本に書かれていた。 著者 J.M.クッツェーは南アフリカ生まれ イギリスのブッカー賞を2度受賞し 2003年にノーベル賞を受賞した。 毎日新聞を読まなければ藤原章生を知らず 「切手にされた少年」を読まなければ クッツェーを知らず「マイケル・K」に出会わなかった。 新聞の連載から始まり 次々と南…
朝と夜には 一番上にフリースを着る様になった。 蒸し暑くて 苦しいような一週間前が遠い日のようだ。 百日草は 気がつくと枯れている。 私はそれらを何本も引き抜いた。 その後に 綺麗な赤やピンクの鳳仙花が 去年の零れ種から 花を咲かせている。 今日のおやつ。 ブルターニュ人のお土産の 帆立貝のパテを クラッカーに塗った。 割けた貝柱が クリームの中に豊かに入り クラッカーのサクッとした食感も 旨みの内だと感じる。 ワインと共に食べるのが フランス風だとか。 藤原章生の「絵葉書にされた少年」も後少し。 ヨーロッパの宗主国から独立した アフリカ大陸の国々。 その後の 内戦 差別 貧困 暴力 偏見。 …
計15年ほど世界各地に暮らし、現地の人と親しんできました。そうした友人たちを振り返ったとき、その人を語る上で、例えば「コロンビア人」「中国人」といった国籍はさほど大きくないと気づきました。国籍は、その人のいくつかある属性の一つにすぎず、その人を形づくるのは、生来の気質や家庭環境、その人固有の経験や感受性であって、国籍で人を知ろうとしても限界がある。その結果、次第次第に私自身も、国籍は一つのラベルにすぎないという姿勢をとるようになりました。(藤原章生『差別の教室』集英社新書、2023) おはようございます。雨です。晴耕雨読です。藤原章生さんの『差別の教室』を読み返しつつ、以前、藤原さんの講演会に…
2011年11月号掲載 毎日新聞ローマ支局長/藤原章生(当時) 孫俊清さんの言う通り、あの土方焼けのオヤジたちが本当に仙人なら、なぜあのとき私の前に現れたのか。天川村の座敷には私のほかに3人いたのに、どうして、私にだけ見えたのか。何か理由があるはずだ。 孫さんも「仙人は普段は姿を現さないけど、相手を選んで、自分を見せたり見せなかったりする。多分、そのときはあなたに見せたかったんでしょ」と言う。 思いつくのは、「仙人」と呼ばれる山口先生にインタビューしにきた私の前に現れ、「俺たちが本物だ」という彼らの自己主張だ。録音の中で彼らは、山口先生が「神さん」「社長」と言ったり、大きな力について語るときに…
これは目標の喪失にもつながるが、常に最先端を意識していた永田さんはいつの間にか、登る動機が、高校時代に吉川智明さんと登ったときのような、「山の中にいる、ただそれだけの喜び」から、メディアへの評価へと変わっていった面もあったのではないだろうか。評価されない以上、登っても仕方がないと。K7から下山後、記者会見を開いても誰も来てくれなかったことを嘆いたのも、その傍証だ。(藤原章生『酔いどれクライマー 永田東一郎物語』山と渓谷社、2023) こんばんは。教員を長く続けていると、子どもにせよ大人にせよ、この人はおそらく発達障害なのだろうなぁと思うことがしばしばあります。藤原章生さんの新刊に登場する故・永…
60歳前のおじさんはどんなことを考えるのか?なぜ、いきなりヒマラヤへ?ぶらっとヒマラヤへ行けるのは若者じゃなきゃ無理じゃないのか? なんて事を考えながら読みました。山に登る人多いですよね。私も高校は登山部でした。 ぶらっとヒマラヤ 作者:藤原 章生 毎日新聞出版 Amazon 私は現在40歳。60歳まで生きていれば20年後だ。20歳の時に20年後を想像することは全くできなかった。この20年を振り返ると、ついこの前のように思い出せる。 このペースでいけば、人生最後の時には「ああ、あっという間の人生だったな」と思うに違いない。 著者の藤原章生さんは58歳の時に、登山仲間の斎藤明さんに誘われてヒマラ…
変化、つまり加速度を書きたいのだ。一定の速さで時間が過ぎていくのではなく、遅くなろうが速くなろうが、そこにある加速度。つまり、ヒマラヤに行くという特殊な体験、60前という年齢経験が自分自身に何らかの変化、加速あるいは減速をもたらすか、ということに興味がある。それは私への好奇心だけではない。人間の一つの代表である私自身の変化を知ることで、人間を知ることができると思うからだ。(藤原章生『ぶらっとヒマラヤ』毎日新聞出版、2021) こんばんは。今日は土曜授業でした。年度末の繁忙期なのに、雪崩のごとく押し寄せてくる仕事に息も絶え絶えなのに、休みの日にも授業だなんて。通知表も指導要録も何もかも放り投げて…
いま僕が文芸家協会の会員にさせてもらい助かっているのは、健康保険である。文芸美術国民健康保険組合という形の国民健康保険への団体加入で、一般の国民健康保険よりかなり安い。遡れば、菊池のおかげになる。(猪瀬直樹『小論文の書き方』文春新書、2001) こんばんは。ブログ記事、401回目の投稿です。直近の100記事(301~400記事)を振り返ってみると、書くことを継続できたのは、猪瀬直樹さんや中原淳さん、藤原章生さんを始めとする「贈与の差出人」のおかげだなって、これまでと同様に勝手に感謝しています。 www.countryteacher.tokyo 小論文の書き方 (文春新書) 作者:猪瀬 直樹 文…
主人公はこうしてナザレに戻って来る。退屈で凡庸な隣人たちの顔を毎日眺めながら、生きていくしかない。結局、世界のどこにいっても、パレスチナに真面目に関心を持っている人などいない。その癖、誰もがパレスチナ人と同じように、監視され、見えない抑圧のなかで生きている。全世界がパレスチナになってしまったかのようだ。自分はどこでもよそ者だし、人々はお互いによそ者どうしで、理想郷なんてどこにもない。このフィルムのなかで主人公は最後まで科白らしい科白を口にしないが、心のなかでは「やれやれ」と、諦念と落胆の入り混じった気持ちを抱いている。世界のどこに足を向けようが、どこも同じだ。(劇場版パンフレット『天国にちがい…
するとほどなく、朝日新聞にこんな論調の記事が載った。テロの原因は貧困にある。武力による報復ではテロを根絶できない。テロをなくすにはまず貧困をなくさなければならない。 それを見たとき、私の中から自分でも驚くほどの怒りが湧いてきた。 机上の空論だけ繰り返しいい気になっているエリート記者がわかったふうなことをぬかしやがって。貧困がテロの原因だと言うのなら、もしそれが本当なら、なぜアフリカ人は爆破テロを起こさないんだ。なぜなんだ。(藤原章生『新版 絵はがきにされた少年』柏艪舎、2020) こんばんは。今週の火曜日の夜に藤原章生さんと高野秀行さんのトークイベントに参加してきました。場所は青山ブックセンタ…
2025年1月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 クレド・ムトゥワ(Credo Mutwa)という名をかすかに覚えていた。南アフリカの民 族、ズールー出身の哲学者だ。日本語だとクレドと表記されるが、ズールー語で「C」は舌先を前歯の裏に当てチッと発音する。不満なとき「チェッ」と言う日本語に近い。その音に習い、地元ではよくチュレド・ムトゥワと呼ばれる。2024年初めの3カ月 、そして11月から南アフリカに暮らす中、彼の名を何度も耳にした。 私の暮らしはシンプルだ。週に3回、車で10分ほどの家でズールー語の先生の授業を受け、残りは予習復習の合間に、居候先に集まる人たちとしゃべっている。私が居候する家…
2024年12月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 11月7日、成田をたち、再び南アフリカに向かう。4月に帰ってきたときに決めていたため新鮮味はないが、今回は来年3月まで滞在し、なんとしてでもズールー語をものにしたいと思っている。 私はこれまで英語を南アフリカで、スペイン語をメキシコで、イタリア語をローマで学んできた。日本でも勉強していたが、現地に暮らし言語を日夜浴びていないとまったく身が入らない。それをこの年になってようやく思い知った。 この春まで3カ月間、南アの旧黒人居住区ソウェトに暮らし、高校の元科学教師、67歳のムザマネにズールー語を習っていた。週3回の個人授業で、それ以外の時間は、自…
2024年11月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 8月11日に落石で左足をけがしてから9月11日まで、私は災難つづきだった。ヒビの入った足は腫れがひかないため、私は空手の稽古も休み、長い散歩もしないようにしていた。そして8月19日、妻が前から予定していたイタリアのシチリアに出かけていった。ロサンゼルスに長年暮らす娘に招待されての1週間の旅行だった。 その4日後、ひとり東京の自宅にいたら娘の電話で起こされた。彼女が私に電話してくるのは珍しい。 「あ、おとうさん、寝てた?」「うん、いま起きた」「なんども電話してたんだけど……おかあさんがね……」。娘の声の暗さに思わず、「どうした!」と声を上げた。…
2024年10月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 この夏、お盆休みの長い山登りでちょっとした事故に遭った。50cm四方、厚さ20cmほどの岩が左頭上から落ちてきて、その下を歩いていた私は瞬時に左足を引っ込めたが間に合わず、足先に激しい痛みを覚えた。「ガッ」と一撃された感じだった。声が出ないほどの痛み、という表現があった気もするが、数メートル前 にいた仲間、マッチャンこと松原憲彦は「声を聞かなかった」と言うので、声をあげなかったのだろう。だが、痛みは存外味わったことのないものだった。 足先が切れたような感覚があった。すぐに地下足袋と軍足を脱ぐと、前に向かって声をかけた。「おーい、足、やられた!…
2024年9月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 新聞記者になりたてのころだから28歳の年、長野市に暮らしていた私はのちのちまでつき合うようになる友人2人と出会った。ひとりはトモさんという少し年上の人で当時、長野外国語センターという英語学校の講師をしていた。もう一人は長野市内の印刷会社で働いていた工員で、詩人の浜田順二さんだ。この人は一回りほど上である 。 長野には身よりもなかったので、ゼロからの出発だったが、若かったせいもあっていろんな人に会った。そんな中、いまも濃い関係が続いているのはこの二人だけだ。 職場はどうだろう。支局長の曽我祥雄さんは当時50をまわったくらいだから私より二回り上で、…
2024年8月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 先輩記者、岩橋豊さんの訃報を聞いたとき、「えーっ」と声を上げてしまったのは 、数日前から彼のことを思い出していたからだ。普段は思い出さないのにそのときは立て続けだった。 私は今年4月6日、南アフリカから東京に戻った。昨年11月からニュースをほとんど見ていなかったため、何があったのかと振り返っていたら、脚本家、山田太一さんの死を知った。木下恵介監督をテーマに話を聞いたことがあり、記事が出たあと、丁寧な手紙をいただいたことがあった。「あー、亡くなったかあ」と残念に思い、彼の随筆を読んだり、テレビドラマ「岸辺のアルバム」などを見返していた。 そんな中…
2024年7月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 5月、立て続けに先輩記者たちの偲ぶ会が開かれた。一人は昨年末に亡くなった元ソウル、ワシントン特派員の中島哲夫さんで、享年66。50代半ばで若年性アルツハイマーを発病し、社説を書く仕事ができなくなり、人とも会わなくなっていた。最後は家族に見守られひっそりと逝かれたという。 病気が病気だけに、生前会いに行けなかった人も多く、有志たちがどうしてもと東京・大手町の広いレストランで偲ぶ会が開かれた。 中島さんとは、私が毎日新聞の松本支局大町駐在から東京の外信部に異動してきた30歳の春に初めて会った。会社の寮も同じで、近所づきあいもした。彼はその1年前に九…
2024年6月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 先日、久しぶりに東京の神保町で麻雀をした。きっかり午後5時半に到着すると、すでに3人は勢ぞろいしていて、あいさつもそこそこに勝負が始まった。こちらは半年ぶりだし、アフリカから戻ったとみな知っているのに、誰も何も聞かない。「アフリカ、どうだった?」「面白かった?」と聞いてくれると思い、小話をいくつか用意していたが、何も聞かない。そもそも関心がないのか、目の前の勝負に夢中なのか。 3人は70代の前半から末で、私よりも一回り以上上の男たちだ。2人は元新聞記者 、もう一人は援助団体の役員をやっているが、特段、アフリカには関心がないようで、私は少しがっか…
2024年5月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 南アフリカから22時間かけて成田空港に着いた途端、すでに「日本モード」に なっている自分に気づいた。飛行機から降りると、いそいそとチケットを買い京成スカイライナーに乗った。土曜日の午後9時。普段はガラガラの車両は珍しく混んでいる。30代半ばに見える男性の隣に、「失礼します」と言って席についた。が、男性は返事をしないどころか、こちらを見上げもしない。 そうだ。そうだった。私は日本モードをさらに強め、日暮里駅まで無言ですごした。車内には結構外国人もいるが、話し声一つしない。チリ一つ落ちていない。 日暮里で山手線に乗りかえ、車中の人々の顔をさりげなく…
2024年4月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 南アフリカに3カ月という長い日程を組んだのはズールー語を学ぶためだった。西アフリカを旅行中、人の家に泊めてもらううちに、現地のアフリカ言語を自分のものにしたいという欲がでてきた。そのためには、まずは取材の拠点となる南アフリカの代表的な言語、ズールー語を学ぼうと思ったのだ。 ムザマーネ、通称MZという名の元高校教師の元に週3日通い、毎回20ほどの構文を録音してもらい、それを繰り返し朗読している。私が寄宿しているソウェトの友人宅は、裏庭が飲み屋のようになっている。といってもビールだけを売りツマミも何もない店で、現地では「シェビーン」と呼ばれる小さな…
2024年3月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 南アフリカに着いて間もないこの1月、私は友人につき合い、ショッピングモー ルにある銀行のベンチに座っていた。 モールの玄関口や駐車場で暇そうに佇んでいる人の姿は昔と変わらない。だが、 買い物に来る人はみなおしゃれで、裕福そうに見える。思わず声をかけ、写真を 撮らせてもらったほどだ。 銀行は当時より立派になっていて、多くの人が並んでいた。当時は職員といえば、黒人居住区でも大半は白人だったが、それが見事に入れ替わり、黒人かカラードがまるで何事もなかったかのように静かに業務に勤しんでいた。 2001年春にこの地を去って以来、23年ぶりの南アである。こ…
2024年2月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 アフリカ大陸の旅もあっという間に2カ月。昨日、西アフリカのコートジボワール最大の都市、アビジャンに着いたところだ。もう少し先に進んでいるはずだったが、ずいぶんと長居してしまった。 スペイン、モロッコ、モーリタニアまでは、出会った人の家に長くても3泊ほどで順調に下ってきたが、マラリアにかかったのも手伝いガンビアに10日、その南のセネガルのカザマンス地方にも長居し、ギニアビサウやシエラレオネでもいい知り合いができ、日にちがたってしまった。 こんなペースで南下していたら、南アフリカに着く前に帰国予定の4月がすぎてしまう。そう気づいて、ここアビジャンか…
2024年1月号掲載 毎日新聞契約記者/藤原章生 アフリカ旅行を始めてそろそろ1カ月になり、西アフリカの小国、ガンビアでこんな光景を目にした。 しばらく路上で待っていると、目当ての行き先に行く大型のワゴン車が客寄せを始め、10人ほどが一斉にバスにかけていった。私も加わり、スライド式のドアから乗り込むと、すぐ前にいた若いカトリックのシスターが後部左隅の座席の収まり、私もその列の右端に座った。するともうひとり、赤ちゃんを抱えたシスターが懸命に乗ろうとして、中にいる乗客に赤ちゃんを受け取ってもらっていた。身が軽くなった彼女はもう一人のシスターが確保した後部座席に収まった。 赤ちゃんを受け取った乗客が…