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いまだ輝かざる暁の数は、げに多かり    (リグ・ヴェーダ)

2018-02-04

[]エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(14):ハリカルナッソスのディオニュシオス エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(14):ハリカルナッソスのディオニュシオスを含むブックマーク エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(14):ハリカルナッソスのディオニュシオスのブックマークコメント

アルテミシアが死んだあとハリカルナッソスを首都とするカリア国は、その兄弟たちが順に統治を続けますが、やがてマケドニアアレクサンドロス大王の軍門に下ります。アレクサンドロスはヘカトムノスの娘アダにカリアの統治を委ねました。その後のハリカルナッソスについて私は調べることが出来ていません。私に想像出来るのは、アレクサンドロスが若くして死んだ後の後継者争いがずっと続き、ハリカルナッソスがいろいろな国の支配下に入ったということです。やがてハリカルナッソスもローマ支配下に入ります。

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すっと時代を下って、ローマのオクタウィウス、のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス、がアクティウムの海戦マルクス・アントニウスを破ってローマの最高権力者に上り詰めたBC 31年頃まで進みます。この頃、一人のハリカルナッソス人がローマに移住します。彼は修辞学の教師としてローマに赴いたのでした。彼はハリカルナッソスのディオニュシオスと呼ばれていました。彼はまた歴史家でもありました。ディオニュシオスの業績の一つは、ギリシア人でありながらローマの歴史をまとめたことで、彼によってまとめられた古代ローマ建国伝説はその後正統なものとして扱われました。もっともローマの歴史を著したのは元々ギリシア人のほうが早く、早期のローマには自分の歴史をまとめる余裕はなかったようです。その中でも一番早くローマの歴史を著したのはミュティレネのヘラニコスでした。


まだアントニウスが健在だった頃はハリカルナッソスはアントニウスの勢力圏内にありました。アントニウスはハリカルナッソスの北方にあるエペソスで軍を組織し、そこからオクタウィウスとの決戦を求めて西へ進み、アテナイに、次にはパトライに到着します。一方オクタウィウスはイタリア半島南端に近いタレントとブリンディシに軍を集結します。両軍の衝突がアクティウムで起ったので、つまりはアドリア海側で起ったので、エーゲ海東岸のハリカルナッソスは戦乱に巻き込まれることはありませんでした。その後、小アジアに進駐してきたオクタウィアヌスの軍に対してハリカルナッソス市政府も恭順を誓ったのではないか、と思います。このあとローマの平和が始まることになります。ローマ人たちは以前からギリシア哲学、医術、芸術、修辞学などに一目おいていたので、ディオニュシオスは平和が確立された今こそ首都ローマに自分への需要があると見込んだのでしょう。

彼は長年ローマに住んでラテン語を修得し、当時の多くの著名人交際したとのことです。そして修辞学の講義をする一方で、ローマの古い伝説を調査して、ローマの歴史を書きました。彼の著作ローマ古代誌』は全20巻で、ローマ建国から第1次ポエニ戦争までの歴史を扱ったそうです。また、修辞学者としても後世に大きな影響を残したそうです。

ところで彼は著作「トゥキュディデス論」の中で、同郷の先輩であるヘロドトスに高い評価を与えていたとのことで、こういうことを知ると私はうれしくなります。


ハリカルナッソスがローマの平和の時代に入ったところで、私のハリカルナッソスの話を終えたいと思います。ハリカルナッソスは今ではその名をボドルムと変えていますが、今も都市として存続しています。今ではトルコ地方都市です。お読み下さった方に感謝いたします。

EmmausEmmaus 2018/02/04 09:06 マウソロスの霊廟をみるにつけ、
時代(歴史)の盛衰といのは一体何かと思ってしまいます。
全部読みきれなかったですが、ありがとうございました。

CUSCUSCUSCUS 2018/02/04 15:44 下川さん
近藤です。読んで下さってありがとうございます。
私はあまり何も考えずに、ただおもしろいので書いていました。確かに一時代の栄華を誇った人々の記念物も何千年か経てば崩れてしまいますね。

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2018-02-02

[]エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(13):ヘカトムノスの一族 エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(13):ヘカトムノスの一族を含むブックマーク エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(13):ヘカトムノスの一族のブックマークコメント

ハリカルナッソスはBC 454年までにはアテナイを中心とするデロス同盟に参加し、BC 431年からのペロポネソス戦争において一度もアテナイに対して反乱することなく、BC 404年のアテナイの敗戦までデロス同盟に留まっていました。トゥキュディデスの戦史にはハリカルナッソスの名前はたぶん1回しか登場しません。それも何か活躍しての話ではなく、アテナイの将軍アルキビアデスが「ハリカルナッソスに赴いて市民から強制的に多額の資金を調達し」たというだけの話です。

さてアテナイの敗戦後のBC 399年、若きスパルタ王アゲシラオス2世は小アジアに渡ってペルシアに戦いを挑みました。そのアゲシラオス小アジア善戦するのを見たペルシア宰相ティトラウステスはギリシア本土内で戦争が起きるように陰謀を画策し、再びアテナイスパルタに対して戦争を始めることになりました。この作戦は功を奏し、アゲシラオス故国スパルタに戻らざるを得なくなります。やがて戦況はアテナイ側が優勢になりました。ペルシアとしてはスパルタアテナイのどちらの勢力にも強大になって欲しくないので、突然ここで戦争に介入して停戦に持ち込みました。これがBC 386年の「大王の和約」という平和条約です。この条約によって小アジアギリシア都市はペルシア支配下に入ることになりました。これによってハリカルナッソスもペルシア支配下に入ります。

これより少し前、ハリカルナッソスの東側にあるカリア人の国ミュラサの統治者ヘカトムノスがペルシア王国支配下のカリアの太守になるという出来事がありました。ミュラサは元々ペルシアに服属していましたが、それはペルシアの一部リュディア属州の一部としてでした。ところが当時のペルシア王アルタクセルクセスは、このリュディア州からカリアを分離させて独立の属州とし、その太守にヘカトムノスを任命したのです。これはとても異例のことで、ヘカトムノスはペルシア人以外で太守の地位についた始めて人間になりました。彼はかなりの野心家で、事実上の独立を勝ち取っていました。BC 386年の「大王の和約」によりハリカルナッソスはこのヘカトムノスの支配下に入ったのでした。このあと、ハリカルナッソスはBC 326年までこの一族によって支配されることになります。

BC 377年ヘカトムノスの長男マウソロスが王位を継ぐと、彼はこの国(カリア国)の首都としてハリカルナッソスを選びました。彼はハリカルナッソスを首都にふさわしくあるように改造していきます。

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(左:マウソロスの像)


マウソロスは、ハリカルナッソスを武人の統治者にふさわしい都にしはじめた。敵の攻撃に備えるため、町に面している湾を深くし、その掘り出した土で海峡の防御を固めた。さらに、城壁や見張り台も設置された。また、市場に隣接して大きな港を造り、その奥に隠れた小さな港も造った。この港は敵の不意を着く攻撃に適していた。一方、内陸部では一般市民のために、広場や道路、家の整備が進められ、4つの門と2つの大通りが造られた。そして、ギリシア風の劇場や戦争の神アレスを祀った神殿なども建設された。湾の一画には、マウソロスの巨大な要塞型宮殿が建てられた。この宮殿は、海から、敵の攻撃目標となりうる丘の上までしっかり見渡せた。


日本語版ウィキペディアの「マウソロス霊廟」の項より。

彼は近くのロドス島も領土に含めます。今やハリカルナッソスは小国とはいえ一国の首都として栄えました。


24年の統治ののちBC 353年に、マウソロスは死去します。彼の妻はその名をアルテミシアというのですが、夫の死を非常に悲しみました。奇妙なことにアルテミシアは実はマウソロスの妹でもあったのです。これはカリアの王家の伝統だとも説明されています。古代エジプトにも同じようなことがあったと記憶しています。

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アルテミシアは夫の支配権を引継ぎましたが、夫のために世界で最も美しい墓を造ることを決心しました。こうして建設されたのがマウソレウムマウソロス霊廟)です。今でも英語のmausoleumという単語は「壮大な霊廟」のことを意味します。その語源となったのがこの霊廟でした。この霊廟は当時のギリシアの最上の建築家芸術家招聘して建設され世界の七不思議の一つにも数えられていました。

  • ところで「世界の七不思議」という言葉の原語では「不思議」という意味はなかったということを最近ウィキペディアで知りました。これは日本語にする時に誤訳したらしいです。もともとは「世界の七必見」という意味だったそうです。そうだと分かると意味がしっくりしてきます。

壮麗な霊廟だったであろうマウソレウムがどんなものだったか偲ぼうにも、残念ながら今ではその廃墟しかありません。


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その代わり、そのミニチュア模型がイスタンブールにあるそうです。

このアルテミシア、ただ夫を偲ぶだけの女性ではなく、武人としても優れていたようです。マウソロスが死去した直後のこと「アルテミシアが君臨し始めると、女性が全カリアの諸都市を支配することにロドス人が立腹し、艦隊を装備して、この王国を占領すべく、出港した」(ウィトルウィウスによる)という事件がありました。しかし彼女はハリカルナッソスの大きな港の奥にあった秘密の港に自分の船を隠し、ロドス人たちが上陸を始めたのを見計らって横から奇襲をかけて勝利を得たのでした。そしてロドス人たちの船を奪って逆にそれに自分の兵隊を乗せてロドス島を攻略し、反乱を鎮圧したのでした。このアルテミシアも夫の死の2年後に死去します。その時まだ霊廟は完成していませんでしたが、建設に当っていたギリシア人の建築家芸術家たちは、霊廟の建設を続け、完成させたのでした。


プリニウスによれば、霊廟が完成する前に依頼主が亡くなったのに建築家たちが工事を中断しなかったのは、この霊廟が自分個人の栄光と手腕の記念になると考えたからだという。


日本語版ウィキペディアの「マウソロス霊廟」の項より。

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2018-01-21

[]エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(12):ヘロドトス(2) エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(12):ヘロドトス(2)を含むブックマーク エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(12):ヘロドトス(2)のブックマークコメント

ヘロドトスの生涯については、岩波文庫の「歴史」の(下)で、訳者の松平千秋氏による解説の中に書かれていましたので、(昭和47年=1972年 と古いですが)それを抜粋して紹介します。

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(一)ヘロドトスの生涯――その生涯について知られるところは極めて少ない。紀元十世紀頃に編纂されたと推定される、いわゆるスダの辞典(中略)におけるヘロドトスおよび彼と関連する事項についての記述を基にして古代作家の断片的な言及を勘案しつつ、さらに彼の著作「歴史」自体の記述から推量しうるところを加味して、その大凡の輪郭を描きうるに止まるのである。

 スダがヘロドトスの項目下に記すところによれば、ヘロドトス小アジア南部の町ハリカルナッソスの名家の出で、父の名はリュクセスといい、母はドリュオであったという。テオドロスという兄弟があり、また当時高名な叙事詩人パニュアッシスはその従兄弟であったと。(中略)

 父の名のリュクセス、従兄弟(中略)のパニュアッシスという名は、明らかにギリシア系ではなく、カリア語の系統に属するものである。それに対して母の名は(中略)ギリシア名であることは疑いなく、兄弟の名のテオドロス、またヘロドトス自身の名もともに立派なギリシア名である。思うに原住民であるカリア人の血統をひくリュクセスが、ギリシア系の女を娶り、生れた子供にはギリシア系の名を与えたと考えるのが自然な解釈であろう。(中略)なお従兄弟(中略)に当るパニュアッシスは、当時最もすぐれた叙事詩人としてその名を謳われた人で、今日ではその作品はほとんど失われて終ったが、作品の題名のいくつかは伝えられている。ヘロドトスがその豊かな文学的素養をこの人物に負うところが少なくなかったことは、容易に推察される。(中略)


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 下 (岩波文庫)


このようにヘロドトスはカリア系の血を引いていると推定されています。ハリカルナッソスの特色のひとつがその町の中でカリア人の地位がギリシア人と並んで高かった、ということを思い出します。こういうことは他のドーリス都市では見られなかったようです。ところでスダという辞典ですが、紀元10世紀頃の辞典ですので、ヘロドトスが生きていた頃から1300年ぐらいのちのことになります。スダの記事がどこまで信用出来るのか用心が必要だと思います。

 ペルシア戦役当時のハリカルナッソスが、女傑として知られたアルテミシア一世の統治下にあったことは、「歴史」の記述からも知られるところで、ヘロドトスが彼女に深い尊敬の念を抱いていたことは、その叙述ぶりから明らかに看取される。その後彼女の孫(中略)に当るリュグダミスの代に至って、独裁者打倒を目指す反乱が起ったが、この企図は挫折し、パニュアッシスはこの争乱の間に命を落し、ヘロドトスもサモス島へ亡命を余儀なくされた。彼のサモス滞在は相当の期間にわたったものと考えられ、巻三をはじめとしてサモスに関する詳細な記述は、その滞在中の見聞に基くものとされる。しかし再度企てられた反乱によってリュグダミスは打倒され、ハリカルナッソスには独裁制に代って民主制が敷かれた。この反乱においてヘロドトスがどのような役割を演じたかは明らかでないが、なにがしかの寄与をしたことは確かのようである。この革命の起った年代も明らかでないが、454年にこの町がデロス同盟に加わっている記録から推して、450年代のはじめと見るのが妥当であろうか。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

私がヘロドトスのアルテミシアへの讃美に違和感を感じるのはこういう点にも由来します。彼はアルテミシアの孫のために亡命せざるを得なくなったわけですのでアルテミシアの一族に敵意を持っていてもおかしくありません。私にはヘロドトスが本当にアルテミシアを讃美していたのか、あるいはそれは皮肉の意をこめた賛辞なのか、よく分かりません。


 彼の長途の旅がこの帰国後からはじまり、恐らくは444年のトゥリオイ移住に至るまでの期間、幾度かにわたってつづけられたものであろうことは想像に難くないが、その年代や期間など詳細なことはもはや知るべくもない。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

旅するヘロドトスを題材に小説や映画を作ったら面白いと思います。なぜそこまで苦労してペルシア戦争の歴史を調査したのか、そして彼にどんなスキルがあったのか(例えば、いろいろな言語を片言であっても話せたのではないでしょうか)、どうやって日々の糧を得ていたのか(商業に従事していたのか、あるいは時には傭兵になったのか、あるいは各地のポリス(都市国家)の政策コンサルティングのようなことをしていたのか)、さまざまな疑問が湧いてきます。そこに想像を膨らませる楽しみがあると思うのです。

この、広範囲を旅しての調査の動機について彼自身は

  • 「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バロバロイ)の果した偉大な驚嘆すべき事跡の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて」

と書いています。その思いは理解可能ではありますが、それに一生を賭けるというのは、やはり常人ではありません。なかなか魅力的な人物ではないでしょうか。


ただ彼のアテナイ滞在がかなり長期にわたったことについては、ほとんど疑う余地がない。そしてこの滞在中にペリクレス、ソポクレスらの名士たちと交友関係を結び、彼自身アテナイ人から深く敬愛されていたことは、いくつかの伝承からも十分察せられる。アテナイは彼の著述のための資料蒐集にも重大な意味を担っていたに相違ないが、それよりも一層重要なことは、ペリクレス統治下にあって全盛を誇っていたアテナイの文化が、ヘロドトスに及ぼした精神的影響であったといわなければならない。(中略)

 444年にヘロドトスは、アテナイが中心となって計画した南イタリアのトゥリオイ植民に参加する。これはペリクレスの発意にかかるもので、(中略)古都シュバリスの跡に建設された新しい植民都市であった。ヘロドトスがこれに参加した動機は明らかでない。(中略)

 死歿の年代も場所も明らかでない。トゥリオイで生涯を終え、その墓も同地にあったという伝承があるが定かではない。(中略)

 歿年が少なくとも430年以後であることは、「歴史」の中にペロポネソス戦争にふれた箇所がいくつかある事実からほぼ間違いない(例えば巻九、七三節)。(中略)

 以上がヘロドトスの生涯について、われわれの知る大凡の輪郭である。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

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(左:トゥリオイの位置)


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2018-01-20

[]エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(11):ヘロドトス(1) エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(11):ヘロドトス(1)を含むブックマーク エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(11):ヘロドトス(1)のブックマークコメント

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私の「エーゲ海のある都市の物語」の元ネタのほとんどはヘロドトス「歴史」という本です。この話題でいかにもいろいろ知っているようにブログに記事をアップしていますが、この本がなければほとんど何も書けません。

そのヘロドトスはハリカルナッソスの出身なのでした。


(左:ヘロドトス

本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バロバロイ)の果した偉大な驚嘆すべき事跡の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである。


ヘロドトス著「歴史」冒頭、すなわち、巻1、1 から

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)


ヘロドトスはさまざまな国や地域の歴史をこの「歴史」という本に詳しく記したのですが、自分のことについてはあまり書いていません。しかし「歴史」を読んでみるとヘロドトスが広範囲に旅をしていることが分かります。たとえば、

さてエジプト人、リビア人、ギリシア人を問わずこれまで私が面談した人々の中で、ナイルの水源を知っていると確言した者は一人もいなかった。(中略)

しかし私がそれとは別にできうる限りの広範囲にわたって調査し、エレパンティネの町までは自ら出向いて実地を見、それより以遠は伝聞によって知り得たところは次のようである。


ヘロドトス著「歴史」 巻2、28、29 から

エレパンティネはナイル河のほとりにある町の名です。ですからヘロドトスナイル河をエレパンティネまではさかのぼったことが分かります。「ハリカルナッソス(6):エジプトの傭兵としてのギリシア人」のところで紹介したロドス島の人はもう少し上流のアブ・シンベルにまで行っているので、ヘロドトスがエレパンティネまで到達しているのもうなづけます。たぶんここがヘロドトスの行った場所のなかで最も南の場所でしょう。

また東のほうはバビロンまでは確実に行っているようです。ひょっとしたらさらに東、ペルシア王国の首都スサまで行っているかもしれません。

しかし(バビロンが)穀類の生産には好適の土地であることは、その収穫量が平均して(播種量の)二百倍、最大の豊作時には三百倍に達することでも判る。ここでは小麦や大麦の葉が優に四ダクテュロスになる。稗や胡麻もどのような大木になるか、私はよく知っているけれども、ここには述べまい。バビロンへ行ったことのない人には、私が穀類について今述べたことすら、とうてい信じられないことが私にはよく判っているからである。


ヘロドトス著「歴史」 巻1、193 から

西にはイタリアのタラントの付近まで行ったようです。以下の引用に登場するメタポンティオンというのは現在のイタリアのベルナルダです。

右の二つの町ではこのように伝えているが、一方私はイタリアのメタポンティオンで、アリステアスの二度目の失踪から二百四十年後――この数字は私がプロコンネソスとメタポンティオンとで計算の結果得たものである――次のような事件があったのを知っている。


ヘロドトス著「歴史」 巻4、15 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

北には黒海の北岸の現在のオデッサ付近まで来ているそうです。以下の引用の中のポリュステネス河というのは今のドニエプル河で、ヒュパニス河というのは南ブーフ川のことだそうです。

彼らが私に自分の目で実際に確かめさせてくれたことを次に述べよう。

 ポリュステネス、ヒュパニス両河の中間に、エクサンパイオスという名の土地がある。・・・・・・


ヘロドトス著「歴史」 巻4、81 から

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私は彼の好奇心の旺盛さにも感心します。さまざまな民族の習慣や起源に対する探究心、ある集団(国とか民族とか)と他の集団のあいだの敵意の、あるいは好意の、起源に対する探究心、あるいは神々への信仰と儀礼の起源への探究心、など、人間というものへの関心の高さ、そして人間に対する一種のなんというか広い愛情というか敬意とかいったもの、を感じます。私は彼の「歴史」に登場するさまざまな民族の風習に関しての記事をを読んでいてよく感じるのは、「人間とはこんな生き方(ある方)もあるのだ」という、その多様性への気付きです。

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2018-01-17

[]エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(10):サラミスの海戦以後 エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(10):サラミスの海戦以後を含むブックマーク エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(10):サラミスの海戦以後のブックマークコメント

クセルクセス自身は戦いに参加せず、アイガレオス山の麓に玉座を据えてこの海戦を観戦していたのですが、自分の軍の負けを悟ると、一刻も早くギリシアから撤退したいと思うようになりました。その様子を見ていた将軍のマルドニオスは、

王にギリシア遠征を説得した自分としては、いずれ処罰をうけるであろうから、むしろ今一度一か八かの冒険を試み、ギリシアを征服するか華々しく戦死を遂げるのが望ましかろうと、ひそかに考えた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、100 から

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

そこでクセルクセス王に対して、殿が国許に帰られるおつもりならば自分に30万の兵を頂きたい、それによっていかにしてもギリシアを隷属せしめて殿にお渡ししなけれななりません、と願い出ました。これを聞いたクセスクセスは大いに喜んだのですが、今やクセルクセスのお気に入りとなったアルテミシアの意見をも聞いておこうと思いました。王に呼ばれたアルテミシアは、マルドニオスの策に賛成し、

「もしマルドニオスがギリシアの征服に成功すればそれはクセルクセス王の手柄になるし、もしマルドニオスがギリシアの征服に失敗したとしても、クセルクセス自身が安泰である限り、さしたる不幸でもない。もともと今回の遠征の目的はアテナイの町を焼き亡ぼすことであり、それはすでに実現したので、いずれにしても王の勝利であります。」

と答えたのでした。クセルクセスはこのアルテミシアの進言を聞いてわが意を得たりと喜びました。そしてクセルクセスはアルテミシアを誉めた上で、自分の息子たちを連れて小アジアのエペソスまで送り届けることを依頼したのでした。


以上がヘロドトスが伝えるアルテミシアの物語です。それにしても、なぜヘロドトスはアルテミシアのことを「私の讃嘆おく能わざる」と形容するのかと、またも私は疑問に思ってしまいます。私にはこの物語のどこにも讃嘆すべき事柄を見つけられないからです。ひょっとしてこれはヘロドトスの皮肉なのではないか、と思う時もあります。

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もうひとつ考えた可能性は、アルテミシアがクセルクセスのお気に入りになったことで、この海戦のあとハリカルナッソスがクセルクセスの優遇を受けたのではないか、ということです。この海戦の1年のち、BC 479年のミュカレの戦いでイオニアは再びペルシアから離反するのですが、どうもハリカルナッソスはこの時ペルシアに反旗を翻さなかったようです。アルテミシアがそのような動きを封じたのでしょう。よってしばらくの間、ハリカルナッソスはペルシア領に留まります。ハリカルナッソスがペルシアから独立したのははっきりしないのですが、BC 454年にはデロス同盟に加わっていることが確実だそうですので、それ以前に独立していることになります。ヘロドトスはBC 485年の生まれと言われているので、サラミスの海戦の時は5歳です。その後、アルテミシアの功績によってハリカルナッソスがクセルクセスの優遇を受けたとすれば、それを少年の頃に体験したのかもしれません。そしてそれが彼をしてアルテミシアを讃美することになったのかもしれません。


しかし、サラミスの海戦後のハリカルナッソスについてヘロドトスは何も書いていないので、この推測もあまり根拠がありません。

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