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いまだ輝かざる暁の数は、げに多かり    (リグ・ヴェーダ)

2016-06-05

日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(9) 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(9)を含むブックマーク 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(9)のブックマークコメント

神島のゲーター祭だけで、「答志の淡郡(あはのこほり)」の「淡(あわ)」や「粟嶋(あはしま)」の「粟(あわ)」を「太陽」の意味である、とするのは性急かもしれません。しかし、私は「あわ」を「太陽」という意味に解することで、ひとつ疑問が解けることがありました。

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それは、内宮の摂社で海辺の綺麗な景色(三重県伊勢市二見町松下字鳥取)のなかに鎮座する「粟皇子(あわみこ)神社」のことです。ご祭神は「須佐乃乎命御玉(スサノオのミコトのみたま)道主命(ミチヌシのミコト)」という神なのですが、私はこの神がなぜ「粟皇子」と呼ばれるのだろうか、とずっと思っていました。

ところでこの神社にも私は行ったことがあり、私のお気に入りの神社の一つです(その時のことは「粟皇子(あわみこ)神社」に書きました)。日本書紀垂仁天皇紀に出てくる天照大神の言葉「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。この国に居らむと欲(おも)ふ。」を実感させるような場所です。

さて、今回私は試しに「粟皇子」を「太陽の皇子」と言い換えてみました。すると日本書紀の以下のくだりを思い出しました。


即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめがみ)を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。号(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此(これ)筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等が祭る神、是(これ)なり。


日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀 巻一神代上 第六段 第三の一書」より

「道主命」はこの日本書紀の記述にある「道主貴(ちぬしのむち)」でしょう。そしてこの神は三柱の女神の総称であり、「日神の生(あ)れませる」、つまり太陽の神が生んだ、と書かれています。私は、だから「道主命」は「粟皇子」と呼ばれるのだ、と納得しました。この三柱の女神はいわゆる宗像三女神で、福岡県宗像市宗像大社に祭られています。その名は市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫神(たごりひめ)(伝承によって名前の若干に変動があります)といいます。航海の安全を司る女神たちです。


さて、私には上のようなこともあって、ますます「あわ=太陽」という説を唱えたくなりました。粟嶋太陽の島なのだと思いました。だとすれば、この島はどこにあるのでしょう? それは答志島のことでしょうか? しかし、答志島が昔、粟嶋と呼ばれていた証拠が見つかりません。あるいは、ある人のいうように伊雑宮のあたりなのでしょうか? しかし、私には地形的にここが島と呼ばれそうにないと思います。それとも別の人のいうように安楽島(あらしま)こそ粟嶋なのでしょうか? それとも、ゲーター祭の伝わっている神島なのでしょうか? それとも、ひょっとしたら、今はもう海に沈んでしまった島なのでしょうか? 残念ながら私には答えがありません。

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かつて、この海域に太陽の島があり、そこにワカヒルメのミコトという強力な女神の聖地があった、という推定を得たということだけで、私は満足すべきなのかもしれません。


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2016-06-01

日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(8) 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(8)を含むブックマーク 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(8)のブックマークコメント

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もう、この話題で書くのはやめようと思った矢先に、この話題に関する新たなヒントを思い付いてしまいました。


それは神島のことです。神島は、この海域にあり、答志島と伊良湖岬の間に位置しています。

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三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台のモデルになったところですが、ここには大晦日から元旦の夜明けにかけて行われるゲーター祭という祭が伝わっています。「ゲーター」とは「迎旦(げいたん)」の意味だという説もありますが、はっきりしたことは分からないようです。この祭では、グミの木(お菓子のグミとは無関係)で直径2m程の輪を作り、和紙で巻いて白い輪にします。この輪は太陽を表しているということです。元旦の夜明け前になると女竹を持った男たちが集まり、そこにこの輪を持った別の男たちが登場します。すると今まで待機していた男たちはこの白い輪の中に竹を差し入れ、上に高く持ち上げます。太陽が昇るのを表しているようです。しかし、これは実はニセの太陽だそうで、「天に二つの日輪なく、地に二皇あるときは世に災いを招く。若し日輪二つある時は、神に誓って偽りの日輪は是の如く突き落とす」という考えがこの祭りの背景にあるそうです。そして、それに従ってこの輪を最後に落とします。ある説では、これは南北朝時代の思想だそうです(百島百祭 #02 三重・神島のゲーター祭――離島経済新聞)。なるほど南北朝時代には実際に「地に二皇あるとき」であったので、これは南朝方のプロパガンダとして始まった祭かもしれません。というのは、伊勢神宮の外宮の一禰宜である度会家行は南北朝の動乱では、神皇正統記で有名な南朝方の北畠親房の味方をしていましたから、たぶんここ神島の支配者も南朝に味方していたのではないかと思います。(ところでこの祭は、1997年に県の無形民俗文化財に指定されました。)


でも私は最近、この祭を別な風に解釈したのです。つまり、この祭が元旦の日の出の直前に行われることから、この白い輪が表す太陽が死んで(あるいは没して)、甦った太陽が復活するのが(それは本物の太陽の日の出なのですが)この祭の意味ではないか、と思ったのでした。もしそうだとすれば、今、私が書いているワカヒルメのミコトの話につながると思ったのです。それで、思いついたら即、書こう、と思ってfacebookにこう書きました。

また、思いつくことがあった。今、ブログに書いているワカヒルメのミコトのこと。神島で行われるゲーター祭り。あれは、太陽の再生を物語る祭りであり、私が想定した「若返る太陽」という考えを表しているのではないか。

(2016/5/29)

そして、関係のある動画をググッて、そのURLを上の投稿に含めました。以下の動画です。

D

投稿した以上は、この動画を最後まで見なければ、と私は思ったので最後まで見ていました。そうしたところ、ある箇所でムムッと感じるものがありました。それでその思いを、またfacebookに書きました。

しかもビックリしたことに、太陽を表す、グミの枝をまるめて作った直径2mぐらいの輪のことを「アワ」と呼んでいた。私は、「田節(たふし=答志)の淡郡(あはのこほり)にをる神(=ワカヒルメのミコト)」の「淡(あわ)」や「粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社」の「粟(あわ)」を連想した。「あわ」は「太陽」だったのか? 「粟嶋(あわしま)」は「太陽の島」だったのか?

(2016/5/29)


この白い輪、ニセの太陽を表すと言われているこの輪は「アワ」と呼ばれていました。しかも、ニセの太陽ならば、地面に落ちたあと皆が寄ってたかって破壊するだろうと思っていたのですが、実際には大切に回収されて八代神社という島の神社に納められていました。ということは、これはニセの太陽ではなく、本物の太陽を表したものではないのでしょうか? であるとすれば、私がワカヒルメのミコトを追いかけて出会った「淡郡(あわのこおり)」や「粟嶋(あわしま)」という地名の「あわ」とは「太陽」を意味していたのでしょうか? 今までお話したように、ワカヒルメとは「若い太陽の女」という意味です。私には、何か出来すぎのような気がしました。それと同時に、この海域における古代の太陽信仰が、ただならぬものであったように思えてきました。

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2016-05-26

日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(7) 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(7)を含むブックマーク 日本神話][伊勢神宮]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(7)のブックマークコメント

私は書いているうちに、この伊射波(いざわ)神社こそ自分の探していたワカヒルメのミコトのお社(やしろ)だと思えてくるようになってきたのですが、ここで、伊射波神社がそうであると思える理由と、そうでないと思える理由をまとめておきましょう。


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伊射波神社が、神功(じんぐう)皇后に憑依して託宣を述べたワカヒルメのミコトの本拠地だと思える理由は以下のとおりです。

  • 祭神がワカヒルメのミコトであること。
    • ただし、伊射波神社では、「稚日女尊」をワカヒルメのミコトではなくワカヒメのミコトと呼んでいるようです。
  • 延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座」と同じ名前であること。
  • 延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座」にある「粟嶋(あわしま)」と似た地名の「安楽島(あらしま)」に鎮座されていること。安楽島は半島であって島ではありませんが、陸路は行きづらく、感覚的には島に近いです。
  • 「加布良古(かぶらこ)崎」という岬の上に鎮座されていて、柿本人麻呂の歌にある「答志の崎」にふさわしい場所であること。
  • 稚日女尊(ワカヒルメのミコト)を海の道から加布良古崎へ祭祀したのがこの神社の起源」という伝承があり、これが答志島からの遷座を思わせること。



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それに対して、以上のような推定に反駁するような事実は以下のとおりです。

  • 伊射波神社は古くは加布良古(かぶらこ)明神と呼ばれていて、古代・中世史料に伊射波神社と呼ばれた形跡がないこと。
    • 「伊射波神社」という名乗りをしたのは1807年からだということらしいです。
  • 「伊射波神社」という名前と、ご祭神が「稚日女尊(ワカヒルメのミコト)」であるということが、出来過ぎていて、近世になってから(たとえば上に示す1807年になってから)、日本書紀の記述に合わせてこのように神社の名前とご祭神を決めた可能性があること。
  • 「粟嶋(あわしま)」と「安楽島(あらしま)」を同一視する根拠が弱いこと。



結局、私には、伊射波神社が、神功(じんぐう)皇后に憑依して託宣を述べたワカヒルメのミコトの本拠地だったのかどうかは分かりません。私の希望としては、答志島の中にそのような痕跡を見つけることがベストなのですが・・・。そして、今のところ次善なのが、この伊射波神社がかつては答志島にあり、それがここに遷ってきたと思うことです。

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2016-05-24

[][]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(6) 答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(6)を含むブックマーク 答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(6)のブックマークコメント

岩波文庫日本書紀の補注では、「田節(たふし=答志)の淡郡(あはのこほり)にをる神=ワカヒルメのミコト」の社(やしろ)を、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊雑宮(いざわのみや)と推定しているというお話をしました。実は、この伊雑宮(いざわのみや)には1つの未解決な問題があります。というのは、ここから15kmほど北北東にいったところに、もう一つ「いざわ」の名を持つ神社があるのです。これは「伊射波神社」といいます。そうです。「延喜式神名帳」に

粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座

と書かれていたのと同じ漢字を用いています。三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にある加布良古(かぶらこ)崎に鎮座していて、地元では「かぶらこさん」と呼ばれて親しまれています。場所を地図に示します。

さきに、1つの未解決な問題といったのは、「延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐伊射波神社」は、どちらの神社を指しているのか、という問題です。以下のような説があるようです。

  • 1.「延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐伊射波神社」とは、この鳥羽の「伊射波神社」であるという説。
  • 2.そうではなくて、内宮の別宮である「伊雑宮」であるという説。
  • 3.「延喜式神名帳」には「二座」と記されていることに注目して、その片方が「伊雑宮」を指し、もう片方が「伊射波神社」を指しているという説。

どの説が正しいのかは分かりませんが、それはともかくとして、伊射波神社がどんな神社なのか、ご紹介したいと思います。

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というのは、私はこの伊射波神社には2013年に行きましたが(「かぶらこさん(伊射波(いざわ)神社))、その時、あたりの景色に魅了されたからです。社殿は山の中にあるのですが、印象に残ったのは海岸にある石の鳥居です。


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この神社も答志島にあるわけではないのですが、私の好みとしては、こちらの神社のほうを支持したいです。そして、何と、この神社の主要なご祭神ワカヒルメのミコトなのです。

さて、今回、Wikipediaの「伊射波神社」の項を読んで、おもしろい箇所を見つけましたので引用します。

創建の時期は不詳だが、1500年以上の歴史を持つといわれる。『諸国一の宮』によれば、当社は稚日女尊*1海の道*2から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されたと言う。


Wikipediaの「伊射波神社」の項

上の記事には「海の道」とは何のことなのか説明がありません。しかし、私はこれを航路と考えました。そして、その航路は答志島を経由する航路ではなかったか、と想像しました。私の想像を支えてくれる文章を引用します。これは、溝口睦子著の「アマテラスの誕生」に書かれてある文章です。


東方経略の基地としての伊勢

(中略)詳しい考証は直木氏*3の論考にもあり、また最近では川添登氏の『伊勢神宮』にもあるのでそれらに譲るが、古くからこの地域*4は、海路で東国地方へ渡る際の交通の要衝だった。「百船(ももふね)の度会(わたらい)の県(あがた)」という、「度会」(伊勢神宮のある地域の地名)についた「百船」という枕詞は、多くの船が絶え間なく行き交うこの地の状況を彷彿とさせる。川添氏によれば、大和から東国へ行くのに、陸路で鈴鹿を越えて尾張へ出るコースと、南大和から櫛田川を河口まで下って、伊勢湾の海浜から、現在の愛知県渥美半島の先端である三河に渡る海路のコースがあるが、海路のコースが最短で早かったという。

(中略)『万葉集』の麻続王(おみのおおきみ)をうたった歌(巻一、二十三)の題詞に「伊勢国の伊良湖嶋」といった表現がみられるなど、伊勢と対岸の三河伊良湖とは海路による交流が密接で、都の人にとっては両地域が、心理的にきわめて近かったことを語っている。

(中略)いずれにしても、ヤマト王権にとっての東国の重要性を考えれば、伊勢のこの地域が、東方への交通の要衝として、戦略上きわめて重要な地域であったことは確かである。


溝口睦子著「アマテラスの誕生」より


どうでしょう、ワカヒルメのミコトがここ(=加布良古(かぶらこ)崎)に鎮座する前にいた「海の道」というのは答志島であるように思えてきませんか?

*1:ワカヒルメのミコト

*2:強調したのは私

*3直木孝次郎氏

*4伊勢神宮周辺の地域

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2016-05-23

[][]答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(5) 答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(5)を含むブックマーク 答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(5)のブックマークコメント

私は今まで答志島にワカヒルメのミコトの聖地があったように推測を進めてきましたが、岩波文庫日本書紀の補注ではそのような推定がなされていません。

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

どういうふうに推定しているかといいますと、日本書紀の神功(じんぐう)皇后の巻のところに書かれた神の託宣の言葉

  • 「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)に所居(を)る神有り」

を、927年に出来た「延喜式神名帳」という文献と比較して、以下の文章に注目しています。

答志郡 三座 大二座 小一座

粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座 並大

同嶋坐(同じきしまにいます)神乎多乃(かむおたの)御子(みこ)神社


まず、

答志郡 三座 大二座 小一座

について説明しますと、志摩国(しまのくに)答志郡には朝廷が認めて祭祀を行う神社が3つあり、その2つは重要な神社大社)であり、残りの1つはそれほど重要な神社ではない(小社)という意味です。次の

粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座

というのは、これは粟島(あわしま)というところに鎮座する伊射波(いざは)神社が2つ、ということです。そのあとに

並大

と書かれているのは、2つの神社の両方とも大社(重要な神社)である、という意味です。

岩波文庫日本書紀の補注では、託宣にあった「淡郡(あわのこおり)」とこの延喜式神名帳にある「粟島(あわしま)」が、おそらく同じ地名のことを指しているのだと推論しています。さらに次に

同嶋坐(同じきしまにいます)神乎多乃(かむおたの)御子(みこ)神社

の「乎多(おた)」と託宣にある「尾田(おだ)」が関係があるとして、上の推論を補強しています。

そして、であるからには、ワカヒルメのミコトの祭祀が行われている場所はこの「伊射波(いざは)神社」であるとしています。そして、これは、現在の伊雑宮(いざわのみや)であるとしています。

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伊雑宮(いざわのみや 左写真)というのは、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社で、伊勢神宮内宮の別宮という格式の高い神社で、「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれています。伊勢神宮の別宮、摂社末社のなかで「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれているのは、この伊雑宮ともうひとつ、度会郡大紀町に鎮座する瀧原宮(たきはらのみや)しかありません。でも、この神社は答志島にあるわけではありません。これはいったいどうしたことでしょうか?


実は、答志郡というのは答志島だけでなく本土も含む地域の名前で、この志摩市磯部町も答志郡に含まれる、というのです。私は、「田節(たふし=答志)の淡郡(あはのこほり)にをる神」というところから、素直にこれは答志島である、と考えたのですが、どうもそれは間違いらしい、ということになってしまいます。



でも、そうすると私の答志島に対するロマンが消えてしまうことになり、私は困ってしまいます。学者ならばロマンの有無で学説を立てるのはもってのほかで、きっと証拠が全てなのでしょうが、しかし、私は学者ではありません、歴史に関してはただの物好きのシロウトです。であるならばシロウトであると居直って、この、「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)に所居(を)る神」が伊雑宮の神であるという説に反論を試みてみましょう。


私がひっかかるのは、「粟嶋坐(あはしまにいます)」というところです。伊雑宮のある場所はどう見ても島には見えません。リアス海岸の海が奥まったところの先にある場所で、古代にはもっと海岸線が近づいていたと考えても島であると見るのは難しそうです。(下に地図を示します。)

これとは別に「あわしま」という名前の島がこの地方にあれば、これでスッキリ解決になるのですが、残念ながらこのような名前の島はありません。私は、ひょっとしたら答志島は昔は「あわしま」という名前だったのではないか、とも考えました。だとすれば、私の答志島ロマンは復活するのですが、しかし、これには証拠がありません。


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もうひとつ、伊雑宮(いざわのみや)説に対する疑問を述べれば、先にもご紹介した柿本人麻呂の歌

  • 釧(くしろ)着(つ)く 答志の崎に 今日もかも 大宮人(おおみやびと)の 玉藻(たまも)刈るらむ

が心に浮かびます。ここには「答志の崎」と書かれています。伊雑宮はどう見ても岬に鎮座しているようには見えません。ここで人は、「この柿本人麻呂の歌の歌っている場所と『尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)』とが同じ場所を歌っているという証拠はない」と言うかもしれません。しかし、私には持統天皇が遊ぶために答志島(かどうかは分からないが答志郡のどこかの海辺)に行ったとは思えないのです。この時の行幸は西暦692年に行われており、これは伊勢外宮の第1回式年遷宮の行われた年です。日本書紀にはそのことは書かれていませんが、これはおそらく伊勢神宮の権威を高め、天武天皇が始めた、皇祖神のイデオロギーを確固としたものにするために行った極めて政治的かつ宗教的行幸だと思います。そして、720年に完成した日本書紀には、この近くの答志郡に強力な女神がいたことを物語る神話が収録されているのです。持統天皇がこの神話を知っていた可能性は大でしょう。そうだとすると、持統天皇はそのゆかりの地を訪れたにちがいない、と私には思えるのです。そして柿本人麻呂の歌には、公的な儀式のための歌も多いことを思うと、これは単に宮廷の人々の海辺での遊びを想像して歌った歌ではなく、ある重要な儀式の一場面を寿ぐために歌った歌のように思えるのです。


ですから、私には柿本人麻呂の「答志の崎」こそ、「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)」にあるのではないか、と考えるのでした。


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