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2011-11-02

科学的な批判と「欠如モデル」の話

先のエントリは、「市民の科学知識」に関する限り典型的な「欠如モデル」を採用している、と言える。

欠如モデルとは、まあ要するに「お前に知識が欠如しているのだ」という前提に立つ論、である。

コミュニケーションの観点からすると、あまり歓迎されない方式だ。誰だって「お前は知識が少ない」なんて言われて嬉しくはないだろう。大体に於いて、こういう物言いは反発を招くもので、対話の方法論としてはあまり宜しくないとされる。

しかし、問題が純然たる科学知識の上にあるものである時(たとえば放射線予防接種のリスクなどがその典型例だ)、そのことをきちんと認識するには知識が必要不可欠であり、相手の理解がその不足によって歪められている時、その指摘なしに話を進めることはできない。するとどうやっても「欠如モデル」にならざるを得ない。


内容が内容だけに、欠如モデルという物言いは主に批判的に用いられている。「そういう言い方をするから悪い」という話だ。しかし、それを言って良いのは実際に知識を持っている人だけなんじゃなかろうか。本当に欠如しているなら、「欠如してるって言うな」というのは単なる逆切れじゃないのか。


まあしかし、「総体としての」市民を相手にするのであれば、確かに「知識が欠如している」というのは些か不適切だ。少なくとも大学卒業程度の教育を受けた人は少なくないし、専門的な職に就いている人だっているだろう。それだけでなく学識者が参加していても何ら不思議はない。そういう前提に立てば、欠如モデルを使わない対話を考えるというのは確かに現実的な話と言える。

ただしそれは、確かに知識に基いた判断が下されていればこその話だ。知識のあることが示されればこそ、欠如していない前提に立った話ができる。しかし不確かな理解しか示されない状態であれば、嫌が応にも欠如モデルで接するしかあるまい。


海外での事例はよく知らないが、日本に限って言えば「市民運動」が纏まりを持って機能することはあまりないようだ。明確なリーダーを中心に纏まるのではなく、大目標(例えば「反原発」のような)を旗印に掲げこそすれ、それ以外の点ではあまり共通性がない。当然ながら、情報や理論も充分に共有されることはなく、情報の取捨選択は「旗印に合致するか」だけが基準となり、正確性は問題にされない傾向が強い。

そのような状態での対話に於いて、欠如モデル的な振舞い以外の方法をちょっと思い付かない。


ところで、あまり問題視されて来なかったことだが、実は「市民」の側もまた欠如モデルを用いている。「専門家は何もわかっちゃいない」という発言がそれである。

専門家側のそれに見下した部分や抑圧的な面がないとは言わないが、少なくとも「何が欠如しているのか」「実際にはどうなのか」という指摘は含まれているから、(感情的な反発さえなければ)欠如した知識を埋めることは可能な筈だ。

しかし「市民」のそれは実に「わかってない」以上の情報がほとんどない。「何が欠如している(と市民が考えている)のか」、「正しい情報はどう(だと市民が認識しているの)か」、がすっぽり抜け落ちているのだ。それでは、専門家の側は動きようがない。

対話とは相互理解のためにあるものだ。理解を拒絶すれば「対等な話」ではなくなる。しかもその中に揶揄や侮蔑を含むとなれば、それはもう純然たる「差別」だ。

放置系オンラインTCG「サイバーワン」

10月にサービスインした新たなゲームに手を出してみた。

「ネットカードダス」と呼ばれる一連のシリーズで、

  1. 基本プレイは無料
  2. プレイに応じて仮想通貨を得てレンタルカードを購入できる
    • レンタルカード及び仮想通貨は1ヶ月ごとにリセット
  3. リアルカードに記されたコードを入力することでリセットされないカードを保有できる

という構造。


グランナイツ・ヒストリーなんかでもそうだったが、オンライン対戦系のゲームはリアルタイム同期前提に設計してしまうとプレイ時間帯が合わない人に辛い。とりわけ基本無料のブラウザゲームではプレイ時間やリソースに制限を付けて「制限解除したければ有料で」というモデルだから、集中的にプレイするスタイルで設計するわけには行かない。しかしみっちり遊びたい層にも応える必要がある。

サイバーワンはこれを「デッキ構築」に特化するスタイルとした。10枚のカードを組み合わせて1デッキとする。引き順はランダム、対戦は全自動。

面白いのはカード毎のキャスティング・コストで、ここに時間概念を導入している。つまり、「強いカードほど出が遅い」。


基本はクリーチャー戦である。最大10枚分の「戦場」があり、ここに出た順に1枚づつクリーチャーが並んでゆく。各々が攻撃力と耐久力を持ち、目の前に相手のカードがいればそれを攻撃、いなければプレイヤーのライフを攻撃する。デッキすべてが撃破されるか、ライフが0になったら負け。

シンプルだが中々に奥深い。軽いクリーチャーで手数を稼ぐのか、直接攻撃以外の火力で連続撃破を狙うか。回復多用で粘り勝ちか、増強多用で瞬殺するか。タイムコスト圧縮で大火力速攻か、タイムコスト遅延でロックするか。 カード数は百数十種程度ながら、勝ち筋は意外なほど多い。

2011-10-31

「エア御用」問題に見る認識のズレ

エア御用、という言葉がある。なかなかややこしい定義で、まず「お上に雇われ、学識をねじ曲げる学者」を意味する「御用学者」が先にあり、次いで「雇われてはいないのにお上に与する見識を述べる者」として「エア御用」がある、という構成だ。

はっきり言えば極めて恣意的な定義である。「正しい見識」がどのようなもので、それに対して「どのように間違っている」のか、ということを見定めるのは、少なくともその道の専門家でもない限りはほとんど不可能なことだが、実際に「エア御用」と呼ぶ側は何ら専門知識を持たぬ市民である。実質的にこれは「自分の信じることを否定するものをエア御用と呼ぶ」に等しい。

あらゆる問題について適用可能なレッテルではあるが、現状これは原発事故に絡む諸問題について「自分たちが信じる危険性よりも安全な認識を示す者」に対して用いられている。


この恣意的な呼称に対する、「市民」の側からの正当性主張は概ね次のようなものであるらしい:

  1. エア御用というレッテルは悪意から生じたものではなく、学者の側にそう呼ばれるに相応しい実態があり、それに名付けが行なわれたに過ぎない
  2. 少なくともそう呼ばれる学者らが当初主張していた状況よりも現在は明らかに悪化しており、安全を騙った罪は重い

しかし1については「実態があった」という認定はレッテルを貼る者によるもので、そこが広く認められない限りは一方的なレッテル貼りとの謗りを免れるものではないし、2についても当時の情報量を前提とした現在との認識相違や、その後「御用学者」の人たちが認識を変えたかどうかを考慮していない点については指摘しておくべきだろう。


まあ批判はこれぐらいにしておこう。私が着目するのは、双方の認識のズレである。

少なくとも、学者の側は「その時々の最新情報に基づき適切な判断を下している」という自負がある。それが学者の本分であるからには当然のことだろう。それに対し、「市民」の側はあくまで「不適切な判断であり恣意的に歪めている」と見ているわけだ。

……いちいち「市民」とカッコ付きで書いているのは、彼らが実際に市民を代表しているわけではないという認識によるものだが、今のところ適切な括りがない。ここではひとまず、エア御用呼ばわりをする人たちを仮に「エア市民」と呼んでおくことにしよう。単に「自称『市民代表』」で良いのではないかという話もあるのだが、単に代表を自称しているだけではなくエア御用というレッテルを好んで用いる人たちという意味を込めての造語である。


単純な話、エア市民の方が科学的に正しい判断が下せると考える理由はない。彼らは科学の専門家ではないからだ。必ずしもエア市民の求めるものが科学的判断であるとは限らないが、こと原発事故問題に関する限り、必要な判断の大半は科学的な事柄だし、主に科学者の判断を相手取ってエア御用呼ばわりしている以上は科学的見解こそが主眼であるのは間違いない。

いずれにせよ、自分たちが何を求め、何を批判しているのかは明確にせねばならないし、その道の専門家を相手にするのであれば対等に会話できる程度の知識が要求される。また「集団としての統一見解」を示せないのであれば個々人が各々の責任に於いて矢面に立つ覚悟をせねばならない。はっきり言えば現状、エア市民の側にそれだけの構えがあるとは思えない。


ただ、多少の擁護もしておくなら、エア市民の判断の一部は確かに「学者側が原発事故の発生当初に於いて半年後の状況を正しく見通せなかった」ことから生じているとは言える。確かに、いくつかの点について誤りはあったのだ。


当時、たとえば「第二のチェルノブイリ事故になるのではないか」という危惧に対し、「チェルノブイリのようにはならない」という発言があった(私もその認識に立った一人である)。

これはある面で正しいし、ある面で間違っている。

チェルノブイリ原発はその構造上、ひとたび暴走するとそれにより生じる反応が更に暴走を加速させる構造であった。また水蒸気爆発により炉心及び建物外壁が大きく損傷し、反応中の剥き出しの核燃料が空気中に露出したことで広範囲に極めて重大な放射能汚染を引き起こした。

対して福島原発では圧力容器内の蒸気放出による部分的な漏洩と冷却水の漏洩などが中心で、核燃料そのものの露出は生じていない。「構造的にチェルノブイリのようにはならない」というのは正しい。しかし放射能汚染レベルはチェルノブイリと同じレベル7ということになってしまった。これとて区切られた段階こそ同じながら拡散した放射性物質の総量では1/10程度であるが、これを「チェルノブイリと同じ」と見るか「チェルノブイリとは違う」と見るかは、そもそも「チェルノブイリのように」の定義が曖昧である以上は解釈に幅があり、見る者によって違う。


また、当初「メルトダウンはない」とされたものの、後に炉心溶融が生じていることが明らかになってもいる。これは当初、原子炉の状況が正確に伝えられていなかったことも原因のひとつであるが、他に「メルトダウン」という言葉に明確な定義がなく、「炉心全体が溶け落ちて周囲の隔壁まで突き抜けるような状態」と取るか、「燃料棒の融解」と取るかで随分と話が違ってくるという点も考慮せねばならない。後者の意味でのメルトダウンが生じたことはその後明らかになったが、前者の意味でのメルトダウンは起こっていない。


何にせよ、このように互いが「同じ語を使ってはいるが想定状況が全く異なっていた」ことによる齟齬を認識解消できずにいたことが不信を拡げたのは明らかだろう。

「科学的に正しく判断できない」人を相手にするからこそ、この問題については科学の側から歩み寄るべきものであろう。当時の状況で、科学者という立場にある者が見通しを述べることには少なからぬ「責任」が生じる。語の定義も曖昧なまま、一定の留保抜きに(あるいはそう受け取られる状態で)判断を下してしまったことについては迂闊であったと言わざるを得ない。


無論、一方的にエア市民側を擁護するものではない。彼らは自分が科学を知らぬということを率直に認める必要があるし、その上でまともな放射線の知識を身に付けねばなるまい。少なくとも、現在のエア市民らにそれがあるとは到底言えない。なにしろ「科学的であること」そのものを御用に与するものとして退ける傾向にあるのだから、まともな判断の下せよう筈もない。


一部では「安全バイアス」などという言葉で以て「危険と考えぬ奴はすべて御用」のような乱暴な分類をする事例もあるようだ。リスク評価は過少でも過大でも悪影響を及ぼす。「人命を尊重し最大限の対策を」などと言っても、「じゃあ福島原発に近寄らないように日本列島を無人にしよう」などというわけにも行かない。リソースは有限であり、対策とは常に費用対効果を見てバランスを決めるものだ。敢えて言うなら、「一人の被害も出さぬように」する態勢にはなっていないし、実際それは無理というものなのだが。


いずれにせよ、事故発生当時に現在の状況を見通せず誤った見識を述べた者については、そのことをきちんと反省せねばならないし、また定義不明瞭なままに話を進めてしまったことについても見直さねばならない。

逆にそれらを批判する側も、当時の状況下に於ける判断というものをきちんと見直さねばならないし、また誤りが訂正されたものについてはその再評価を、そして何より、一方的な非難ではなく対話による相互理解を求めねばならない。

その上でなお、「エア御用」という言葉を使うことになるのかどうか、よく考えられたい。

2011-10-14

世田谷 放射性物質陰謀論

世田谷で検出されたホットスポットは、民家の床下から古いラジウム夜光塗料らしき壜が発見されたことで決着した。

が、これを「実は福島原発由来の放射性降下物であったことを隠すための陰謀ではないか」などと唱える一派がいる。

検証する。


まず、経緯を確認しよう。

世田谷の路上で2〜3μSv程度の放射線を検出。すわ原発事故由来の降下物かと騒ぎに。

しかし降下物なら(落ちて溜まるので)下の方が高くなりがちだが何故かそうなっていない。しかも除染しても線量さして変わらず。ということは

  1. 降下物由来の放射線ではない可能性が高い
  2. 線源が別にある可能性が高い

ということが判る。

また、γ線スペクトルを測定したところCs-137のものとは異なる結果が出た。この時点でBi-214のものであることがほぼ特定され、親核種はRa-226であろうと比定された*1

いずれにせよ最初に放射線が確認された垣根/板塀そのものではなく周辺のどこかが線源であることは明らかであり、測定器を持ってより高い線量の場所を探る形で大元を特定、床下から高い線量を持つ壜が発見された。その後の報によれば壜には夜光塗料の旨表示があり、Ra-226を含んだ放射性夜光塗料の壜と考えられる。


さて。

これはつまり、「原発由来の降下物よりもっと強い線源が(恐らくは数十年)床下に存在し続けた」という事件であり、放射線の被害面を考えればむしろ事態は深刻なのだが、その点はひとまず措く。また「原発事故があったからこそ線量が測定され、結果として発見された」という怪我の功名的な話でもあるのだが、それも措く。

今考えたいのは、これが「原発由来ではなかったことにするためのカムフラージュ」であるという論が成立するかどうか、だ。


そもそも、放射性物質の種類はスペクトル分析で確認されるので、別種の放射性物質でカムフラージュするのは難しい。赤い光が確認された場所に緑の光を当てて赤をなかったことにしよう、みたいな話だ。カムフラージュ側の線量がよほど強ければ埋もれて見えなくなる可能性もあるが、今回はまず外側で僅かな線量が確認されたところから始まっているので、それを完全に覆い隠すほど強い線量で糊塗されたらむしろ不自然であり、かといって不自然でない程度の線量では隠すことができなくなる。つまり、無理だ。


まあ「放射線が検出されて騒ぎになる前から仕込んであった」ならCs-137が確認できないぐらいの線量に調節することも可能かも知れない。しかしそもそも今回の騒ぎの元となった検出量そのものが決して強いものではなかったわけだから、その程度で隠せる量ならさらに微量ということになり、隠す理由そのものがなくなる。


また、(これが原発由来降下物によるホットスポットであると仮定するなら)「今回は偶々『放置された放射性物質があっても不思議ではない』場所が近くにあったからカムフラージュできた」だけで、どこに降るかわからない以上はそうやって隠そうという計画そのものに無理がありすぎることになる。

ついでに言えば「管理されていない放射性物質」をそう都合良く適度な分量だけ入手して仕込む、なんてことが短期間でできる筈がない。可能だとすれば「こういう時に備えて大量に隠し持っている」ことになるが、そういう大掛かりな陰謀は実行前に確実に露見する。秘密は大掛かりであればあるほど関与する人間が増え、不自然な点が増えて露見のリスクが高まるものだし、コストばかりかかってメリットがないものだ。


まあ、つまり「他の様々な陰謀論と同様に」この陰謀論もまったくもって無理筋、という結論になる。

*1:Bi-214の半減期は20分弱であるため、継続的に検出されるということは継続的にBi-214が生成される状況であるということになり、大元に別の放射性物質があることは明らかである。また放射性物質は放射崩壊による核種変化のパターンが一定しているため孫核種から親核種を突き止められる