(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年〜1225年)

 題:(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年〜1225年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1212年、鴨長明が「方丈記」を記したとされる。
  書き出しの以下の文は有名、
  「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に非ず。
 よどみに浮かぶうたかたは、且つ消え且つ結びて、久し
 くとどまりたるためしなし」。
  隠棲文学とか、無常観の文学と言われているが、卓見
 して見通しているとも言える。大きく歴史を見て、その
 中の人間を見れば、真実を言い当てているとも言えるだ
 ろう。
  この記述の中で、1177年の都の火災、1180年に都で発
 生した竜巻、そして、その直後の福原京遷都、そして、
 1181年から1182年の飢饉、1185年の都の大地震と、実
 に多くの天変地異が起きている。
  この年代は、以下にも多くの天変地異を記しているが、
 その様な事が多かった時代の様だ。
1221年5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると山田重忠(
 やまだしげただ、宮方の武将)は、水野郄康(みずのたか
 やす、尾張国の豪族)ら一族とともに、院宣に応じて朝廷
 方として起ち、参じた。
1221年5月15日、尼将軍と言われた北条政子御家人たち
 に対し檄(げき)と飛ばしている。
  「皆、心を一つにして奉るべし、これ、最後の詞なり。
 政大将軍(頼朝)の朝敵を征服し、関東(幕府)を草創
 して以降・・中略・・その恩すでに山岳よりも高く、溟
 渤(海)よりも深し」と。
  そして、宣旨は「ただ、相手を論じて非難していること
 に過ぎない」という事を話している。
1221年6月、朝廷方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張
 で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。
  しかし、朝廷側の武将の作戦・戦い方に齟齬(そご、物
 事がうまくかみ合わない事)が生まれる。
1221年6月15日、幕府軍が京に入り、承久の乱が集結する。
1221年7月13日、後鳥羽法皇隠岐へ配流する。
  金槐集に以下の歌がある・・
  世のなかは つねにもがもな 渚こぐ あまの小舟の
 綱手かなしも     
  歌意:この世は無常だが、やはり常の世であってほしい。
  今まで波風もない好天に恵まれて、気の向くがままに漕
 ぎ進んでいた天の小舟(後鳥羽)は、(鎌倉幕府によって)
 阿摩の渚に繋ぎ止められ、悲歎の日々を送っている。
1221年7月21日、順徳上皇佐渡国へ配流する。
1221年8月7日、幕府、京方公卿と武士の所領を没収し、勲
 功の将士にに付与する。
1222年2月16日、日蓮が生まれる(1222年〜1282年)
1222年4月26日、幕府、承久の乱以後の守護地頭の処務(
 しょむ、処理すべきこと)を定める。
1222年5月28日、幕府、六波羅に命じて代官を派遣し、諸
 国守護地頭の濫妨(らんぼう、暴力で奪い取ること)を
 糾明させる。
1222年7月、鎌倉、大地震
1222年、蒙古、アジア全域に勢力を広める。
1223年、運慶が没した(1151年頃〜1223年)
1223年、承久の変の2年後のこの年に、幕府に敵対した公
 卿方の荘園に朝廷の宣旨によって補任された「新補地頭」
 に対し、その収入の率が定められた。新補率法(しんぽり
 っぽう):早く言えば、新しく地頭になった人たちの給料
 を定めた事。
  鎌倉幕府は最初の武家政権であるが、幕府には、優秀
 な人材が居た様だ。色々な法律などを定められる事が行
 き届いている感がする。
1223年1月23日、北条政子が、承久の乱以後に新補された
 守護地頭らの処務非違(ひい、検非違使の略)の注進(
 ちゅうしん、上申すること)を命令する。尼将軍が何か
 あったらすぐ言えと言っている。
1223年2月、僧明全・道元、入宋。加藤景正、これに随行
 する。
1223年5月、幕府、土御門上皇を阿波に遠流。
1223年5月14日、後高倉法皇崩御する。
1223年5月22日、倭寇が、金州(かつてあった中国大連の
 近くの州)を侵略した。
1223年6月15日、新補地頭の得分の率法を制定する。
1224年、親鸞が、浄土真宗を開く(1225年?)。
1224年1月、親鸞が、「教行信証」を著す(草稿本)(完
 成は、1247年とされている)。
1224年6月13日、三上皇を配流させた北条義時が急死した。
  「吾妻鏡」には衝心脚気とある、衝心脚気は、脚気
 伴う心臓機能不全で、呼吸困難となり、苦悶して死に至
 ること多しとある。
  しかし、異説があり、近習に殺されたという事件が起
 きたのだという。
  その子の泰時が執権を継いだ(6月28日)。
1224年6月28日、北条政子が、北条泰時と時房を将軍の後
 見とした(宮将軍がいる)。幕府の実質的支配者は北条氏。
  第3代執権・北条泰時(1224・6・28〜1242・6・15
  1242没)
1225年5月22日、この頃、季節外れの大雪、洪水、隕石な
 どの天変地夭が続いた。
1224年6月10日、承久の乱の幕府方の軍師であった大江広
 元(おおえのひろもと)が死去した。
  初めは、朝廷につかえる下級貴族だったが、鎌倉に下っ
 て頼朝の側近となり活躍した。
1225年7月11日、源頼朝の妻(正室)の北条(平)政子が
 死去した(1157年〜1225年)。
  伊豆国の豪族の北条時政の長女。
  流人であった頼朝は時政が監視役であった(北条氏は
 平氏系であった)。政子は、その頼朝と恋仲になってし
 まう。
  義経静御前の件で頼朝が憤慨したとき、政子は、頼朝
 をなだめて、「(私は)闇夜をさ迷い、雨をしのいで貴方
 の所にまいりました」と言ったという。
  時政も、この二人を認めたのだろう。そして、すぐ長
 女・大姫が生まれたという。時政も頼朝の重要な後援者と
 なった。
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