拓海広志「日本丸航海記(4)」
これは僕が商船大学の学生だった頃、9ヶ月に及ぶ卒業航海の中で綴っていたメモのような日記です。今から20年も前の学生時代に書いた青臭い日記を公開するというのはかなり気恥ずかしく、また「そんな文章を読んでくれる人がいるのかな?」と考えると少々心許ないのですが、当時の練習船の雰囲気を知っていただく上では多少意味があると思いますので、思い切って当時の文章をそのまま活かした日記をここに転載しようと思います(ただし、友人たちのプライバシーに関する記述については削除しました)。
ただ、今回この古い日記を読み直して気がついたのですが、当時の日常そのものだった航海のことや訓練のこと、仲間たちとの交流についてはあまり克明に記されておらず、むしろ自分の心象風景が中心に記されているようです。プライバシーの保ちにくい練習船の船内生活でもあり、当時前者の方はあまりにも日常のことになっていて、かえって書きにくかったのかも知れません。そんな半端な日記の連載ですが、当時船の中で読んでいた本、観ていた映画、聴いていた音楽などの紹介と共にご笑覧ください。
* * * * *
★5月29日
いよいよ出航のときが迫る。随分たくさんの友人たちが見送りにやって来てくれた。ありがとう!
13時からの出航式を終えると慌しく各部署配置につき、見送りの人たちは下船する。消防音楽隊の演奏の中で出港作業は始まり、やがてホーサー(係留索)が全て岸壁のボラードから外されて本船内に取り込まれると、練習生は出港作業を一時中断してマストに登る。これが日本で最後の答艢礼となり、目指すはサンフランシスコである。
岸壁からポートターミナルまでを埋め尽くした見送りの人たちに向かって僕らは3度叫ぶ。「ごきげんよーっ!」。
「さよなら」でもなければ、「行ってきます」でもなく、この言葉が別れの言葉として使われているところに僕は船乗り特有の「イキ」を感じる。勿論、「イキ」とは「意気」であると同時に「粋」でもあるんだなと、僕は思ってみた。
英米人の連中との会話の中で、誰かが何かに挑戦しようとするときや、何らかの問題に直面しているとき、日本人なら「頑張れよ!」と無闇に励ますところを、彼らは「グッド・ラック!」と言って軽く肩を叩く。日本人の中にはこう言われると突き放されたように感じる人もいるかも知れないが、僕はこういうちょっと距離を置いた優しさが好きだ。船乗りの「ごきげんよう!」も「グッド・ラック!」の類だろうな。
★5月30日
本船はまだ機走のまま南下を続けている。これは帆走に向けて小笠原付近にある低気圧の風をつかむためである。普通の船ならばできるだけ低気圧には近づきたくないものだが、帆船はまるで反対で、低気圧に接近してその風をつかまねば前に進むことができないのだ。だからと言ってあまりにひどい暴風雨圏内に入ると危険なのは言うまでもなく、低気圧に「つかず離れず」といった器用な操船が要求されることになる。
北米西岸からハワイ、日本へ向けての航海は北東貿易風に乗ってさえいればよいのでセーリングは容易であるが、日本から西岸へ向けての航海は非常に難しい。今回我々が向かうサンフランシスコは、かつて勝海舟たちが咸臨丸で、また堀江謙一さんがマーメイドで日本から渡ったところであり、そう思うと余計思い入れが強くなってくる。何とか全行程を帆走で走り抜けてみたい。
★5月31日
天気図上では小笠原付近にあるはずの低気圧が、いざ来てみると全く勢力がない。こういうことは意外によくあることなのだ。それでも船長からは航海士、甲板部員、練習生に対し「総員オンデッキ」の号令が出され、ついに帆走が開始された。
ところで船が大洋航海を行う際には様々なコースの取り方があるのだが、一番基本になるものとして大圏コースというものがある。これは実際上の最短コースのことで、単純化して言えば地球儀の上で出発地点と目的地点を糸で結んだものに近い。勿論、完全に大圏上を走り続けるように舵を取ることは不可能なので、実際にはそれに近いコースとなるように時折変針しなければならない。
今回の航海においても基本となるコースは大圏コースなのだが、帆船の場合は風を意識しなければならないので、必ずしもその通りにはいかない。しかし、何はともあれ大圏コースを基本に取るため、本船は北緯49度あたりまで北上することになる。
アリューシャン列島の南海域は常に濃い霧に包まれており、時には流氷もある危険なところでもあるが、それに加えて夏でも非常に寒いところだ。それでも、機走の場合だと航海当直はブリッジでやるのだが、帆走中はずっとデッキ上にいなければならないので、この航海は結構冷える。
★6月1日
小笠原諸島付近まで南下して風をつかもうという当初のもくろみは失敗に終り、船長は反転して北上することを決めた。いきなりのウェアリング敢行である。
帆船がコースを反転させる場合には、ウェアリング、タッキングという二通りの方法があるのだが、前者は風下側に回頭し、後者は風上側に回頭するというやり方だ。
ウェアリングは風に乗って自然に回ればよいので比較的簡単であるが、反転後のコースはかなり風下側に落とされていることになる。
他方、タッキングで反転しながらうまく風をつかみ直すためには素早い操作が必要となるが、上手にやれば原針路と全く同じコースを逆向きに走ることが可能となる。
小型のヨットの場合だとタッキングはそんなに難しいものではないのだが、大型帆船の場合だと効果的なタッキングを行うことは極めて困難である。
今回の航海においてもハワイを出てからタッキングにトライするという予定が組まれているのだが、通常はウェアリングを用いる。
勿論、ウェアリングがタッキングより簡単だとは言っても、全ての帆を張った状態でヤードの開く方向を逆に変えてしまうのは大変な作業である。この時、ワッチに入っていたのは僕らの班だったので、次直班の力も借りてウェアリングを行った。
「こんなことなら最初から南下する必要なんてなかったのに」という呟き声も聞こえてきたが、大型帆船の操船は汽船の操船よりも数倍難しい上に、ごまかしの効かない自然が相手だけに、船長や士官の判断ミスが誰の目にも明らかになってしまうという性格を持っている。
だから、無闇にその揚げ足を取るのではなく、海の大ベテランが指揮していてもそう簡単にはいかないという事実からこそ僕らは学んでいく必要があるように思う。
★6月2日
北斗丸での遠洋航海ではドッグワッチという変則的な当直体制を取っていたが、本船においては通常の3交代制を取っている。総員45名の練習生を6つの班に分け、常に2つの班が1グループとなりワッチに入るのだ。従ってワッチは常に15名でこなすことになるのだが、ウェアリングなどのような大掛かりな作業をこれだけの人数で行うのは不可能なので、しばしば前直班が当直時間を延長させられたり、次直班が早めに呼び出されたりして手伝わねばならない。
ところで、帆船というのは汽船に比べてしなければならない作業がかなり多い。特に4時から8時にかけてワッチに入るヨンパー直というのは日出没の時間帯にあたるため、休む間もなく働かねばならない。大雑把に説明すると、まず午前3時30分頃にはデッキに上がって来て、45分より前直からの引継ぎを受ける。そして4時にワッチを交替して月明や日出前の薄明で水平線が見えればすぐに六分儀で星測を行って本船位置を求めるのである。
天測、計算、作図によって本船の位置を出したら、今度はフォア、メイン、ミズンの3本のマストの一番上のヤードまで登っていかねばならない。これらのマストにはそれぞれ6枚の帆を張ることができるのだが、一番上のロイヤルヤードについている帆は毎夕畳帆することになっている。これは夜間急に風が強くなった際に一番上のヤードまで登って作業を行うのが危険だからだが、このためにヨンパー直は朝夕には必ずマスト登りをせねばならぬのである。
さらにロイヤルの展帆作業と並行して、前夜デッキ上にスネークダウン(蛇がとぐろを巻くような形にロープをコイルダウンすること)させたロープを再びコイルアップするのだが、こうした一連の作業が終わる頃にはちょうど6時半頃になっており、当直制に縛られずに生活する人々(事務員や司厨員、ドクターなど)を起こして回らねばならない。
そして彼らが全員デッキ上に揃って人員確認を終えたら、操舵当番、見張当番などの手を放せない者以外は一緒に体操を行い、タンツー(デッキ磨き)も行う。タンツーが終わったら、今度は太陽を使っての天測、次直起こし、そして次直への引継ぎである。
夕方のヨンパー直ではこれと全く逆の作業を行うわけで、まず太陽を使った天測、ロイヤルの畳帆、必要なロープのスネークダウン、星測などといった具合だ。
ところで、ドッグワッチの場合は各班がほぼ公平に様々な時間帯のワッチを経験できるのだが、本船では1週間交替で変則的に当直時間帯をずらすという方法をとったため、運良く(?)僕らの班はヨンパー直に入る日が圧倒的に多くなってしまった。
陸上の生活とほぼ似たような感覚で生活できるパーゼロ直や比較的作業量の少ないゼロヨン直に比べるとヨンパー直の負担は大きいのだが、朝夕の神聖な時間にマストのてっぺんに登って広々とした大海原を丸く囲む水平線を見渡し、その真ん中に自分たちがいることを確認したときの清々しさは何物にも替え難い至福の一時だ。
しかし、初めてマストに登った時には足が震えていた高所恐怖症の僕は一体どこへ行ってしまったのだろう? 不思議なものである。
★6月7日
なかなか低気圧の勢力が増してこないため、前に進むことができない。風力は2〜4程度で、速力の方は平均して3〜4ノットといったところだ。本船の帆走性能は非常に優れており、少しいい風が吹いてくれば12〜13ノットくらいは楽に出すことができるのだが、この風ではどうにもならない。
しかし、日本時間の毎20時に行われる僚船連絡によると、今ハワイに向かっている海王丸は同程度の風に対して速力は1〜2ノットしか出ていないので、これはやはり「さすが日本丸」と言うべきなのだろう。
一般公開にセールドリル、歓迎レセプションやマスコミ取材、はたまた講義やレポート作成などに追われた上に、週に1日は上陸休暇を取れた内航中とは異なり、遠洋航海中は忙しい中にも何かをやろうというゆとりが時間的にも精神的にも生じてくる。
運動部はまだ目立った活動を開始していなかったが、映画班は実習風景をビデオカメラで撮り始めていたし、美術班の中にもボトルシップを作り始める者やスケッチを始める者があらわれていた。また、漁労班は船尾から釣り糸を垂らしてトローリングを開始し、シイラやマグロ、イカ、マンボウなどを釣り上げて、夕食のおかずを豪華にしてくれるようになった。
こうなると、僕が部長を務める新聞部も黙っているわけにはいかず、ついに船内新聞を発刊することにした。新聞部は僕とS君、T君、女子学生のCさんの4人で構成されており、顧問はKサードオフィサーにお願いした。
僕らは神戸出港間もない頃に編集会議を行い、毎日曜日に定期新聞「風まかせ」を発行することとし、それとは別にサンフランシスコ到着までに私家版のガイドブックを製作することに決めた。前者の方は船内で起こった事件についての記事が中心で、それにCさんと僕のエッセイを添えると共に、編集部員による書評「ブックジャック」というコーナーも設けた。
さて、今日は「風まかせ」創刊号の発行日である。トップ記事は「帆走開始と初ウェアリング」で、僕は祖父母の家があった神戸長田の路地で幼い頃に感じたことを綴った「路地考」というエッセイを載せた。また、Cさんは自分の連載エッセイを「東京メモリーズ」と名付け、東京のちょっといい店を紹介することにした。その内容はカタカナ言葉満載の超ミーハーギャル路線で、日本丸の雰囲気からはおよそかけ離れたものだったが、普段は荒っぽい男たちに混じって頑張っている彼女の「女の子の主張」に僕は嬉しくなってしまった。
娯楽の制限される船内では何でもないようなことが大きな話題になったり、輪投げのような単純な遊びに異様なまでの執念を燃やしたりする者が多くなるのだが、僕らの「風まかせ」もなかなか好評で、船内の話題作りには欠かせぬ存在となりそうだ。
(無断での転載・引用はご遠慮ください)
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