再開の弁

 長らくお休みしていましたがとりあえず再開します、特に調子がよくなったわけではないのですが、「広報部」としてやらないといけないことが出て来たものでして。

 批評誌クアトロガトスは近日発売にむけ最終段階に入っています。

 また、劇団QUATORO GATOSの上演が10月23日にあります。批評誌もこれに間に合うように目指しています。

 http://www.cuatro-gatos.com/

 http://www.cuatro-gatos.com/theater/perform200510/index.html

 この上演は「Asia meets Asia」の一部として行われます。

 http://homepage3.nifty.com/aa/

 http://www.e-s.jp/syou/index.html#le

「そこに 灰がある」(18日追記)

 仙台で10月21・22日に、演劇ユニットLensの上演が行われます。私は昨年、同じデリダのテクスト『火ここになき灰』を使用した、同じ題名の上演を見ました。今回、今年亡くなられた翻訳者の梅木達郎さんのすんでいらした仙台での追悼の意味を込めての上演になるようです。テクストをめぐってのアフタートークもあるそうです。今回の上演が以前とどのように変わっているかわかりませんが、前回は非常にスリリングで優れた上演でした。仙台に住まれている方はぜひ(特定人物にかいてもいますw)。

http://www.k2.dion.ne.jp/~lens/oimrase.html

一つ目はまたファシズムの話

 第2号は(個人的に)「ファシズム」特集にしたいのでその関連のねたです。小泉についてちょっと書き込み*1をしたのですが、べつの書き込み*2と連携していることに気づいたのですが、ここでは少し合衆国のことに話をします。古矢旬さんのこういう記事*3を見つけたのですが、ごく普通にテロというタームが介入のための動員の手段して捉えられています。

 古矢氏の本では合衆国の歴史をさかのぼりながら、合衆国がいかに常にその内部の矛盾を消すためにある種の「理想」*4を必要とするか、それが人工国家である合衆国の創設と存続の条件であったことが語られています。さらに、合衆国の歴史を考える時にあらゆる面で南北戦争が断絶線になっていることは周知のとおりです、おそらくこのときにある種の疑似国民国家としての合衆国が誕生し現在はその末期ではないかと思うわけです*5、この戦争なしにはひとつの国家としてのアメリカ合衆国はありえなかったでしょう。南北戦争は身もふたもなく言えば北部=連邦政府が南部諸州の「権利」を踏みにじって疑似国民国家を作ったわけです、当然それは合衆国の分権的な側面を大きく傷つけ、その傷が逆に「自由の国、アメリカの基礎である個人の権利(誇り≒銃)」への偏執を加速したように思われます。その分権的(なぜ国を愛して政府を憎めるのか?byレイコフ)な側面を現在代表しているのがリンカーンの党、共和党であること、それが決定的になったのが「公民権運動」の成果であることは確認されるべきでしょう(ここ*6に書き込んだ山椒魚の事がもっと直接当てはまるのは奴隷であるということに気づいた)。リンカーンは、成功した革命(おそらく合衆国の真の革命は独立ではなくこちらでしょうその犠牲の多さ以上に合衆国を(本当に)存在させたという意味において)の指導者らしくすぐにこの世から退場したわけですが、そうであるがゆえに現在の合衆国の「ボナパルト」であり続けているわけです、合衆国の最近(80年代以降)の「ナポレオン3世」達が作る奇怪な政治的連合(ネオコンキリスト教根本主義・経済的自由主義)はリンカーンが依拠せざるを得なかった理想の「まがい物」を常に掲げざるをえないのです。そしてそれが「戦争」へいたるものであるのはベンヤミンの述べたとおりです。

 とはいえ、合衆国の現在の行動は、イギリスが保持しきれなくなり、20世紀にライバルのドイツを打倒して手に入れた覇権とそれと切りはなすことができない社会構造(石油と自動車ということです)に由来しているのは確かです(ちなみにモンロー宣言にもかかわらず、ラテンアメリカ(カリブ海)の支配権がイギリスから合衆国に移るのは南北戦争以後、綿花産業が英国と結びついていたこともありこの戦争の重大な意義がわかる)。そこから、イギリス(これも疑似国民国家なわけで)の問題が出てくるわけです、最終的には清教徒革命という近代イギリス(イギリス帝国)の起源に行き着くわけですがそれを書くのはおいおい。で、調べてみてリルバーン(水平派の指導者)という人はとても面白いことに気づきました。

アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム

アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム

アメリカ 過去と現在の間 (岩波新書)

アメリカ 過去と現在の間 (岩波新書)

 後者のほうを主に使ってます(笑)。

予防戦争という論理―アメリカはなぜテロとの戦いで苦戦するのか

予防戦争という論理―アメリカはなぜテロとの戦いで苦戦するのか

 上の本とセットで読むといいかと。

十字軍の思想 (ちくま新書)

十字軍の思想 (ちくま新書)

 イスラエルと合衆国の近親性はここにあるわけです。

アリステア・クックのアメリカ史〈上〉 (NHKブックス)

アリステア・クックのアメリカ史〈下〉 (NHKブックス)

 実はとても便利で面白い。

 デリダの独立宣言批判くらいおさえてから書評は書きましょう。というか、イギリス王が野蛮なインディアンをけしかけたと非難している同じ文章で天賦人権について謳うときインディアンって人間なの?

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/amerikadokuritukakumei.htm

南北戦争の遺産 (アメリカ文学ライブラリー)

南北戦争の遺産 (アメリカ文学ライブラリー)

 これは半世紀近く前の本だけど面白い。書かれた時期も興味深い。

アメリカの奴隷制と自由主義

アメリカの奴隷制と自由主義

 とりあえず南北戦争後の奴隷の運命。

デモクラシーと世界秩序―地球市民の政治学 (叢書「世界認識の最前線」)

デモクラシーと世界秩序―地球市民の政治学 (叢書「世界認識の最前線」)

 ブクオフに売っていたので買おうかと迷っていたこれが買われてしまって悲しいのですが、さらに調べてみると近代国家の生成についての歴史的考察なども面白そうです、アマゾンの書評では、国際政治学上のネオ・リベラリズムに属するように書かれていたけど、ネオ・リアリズムと両者とも合衆国の覇権を前提にしているのだから、ヘルドとははっきり違うというこちらの方が正解だと思います*7。こういう話を続けるなら読まないといけないのですが。

コロンブスからカストロまで―カリブ海域史、1492‐1969〈1〉 (岩波モダンクラシックス)

コロンブスからカストロまで―カリブ海域史、1492‐1969〈1〉 (岩波モダンクラシックス)

コロンブスからカストロまで―カリブ海域史、1492‐1969〈2〉 (岩波モダンクラシックス)
 カリブ海の歴史です。とりあえず有名なのを。

戦争はなぜ起こるか―目で見る歴史

戦争はなぜ起こるか―目で見る歴史

 イギリスに対する皮肉が強烈に効いています。「イギリスが自分のためと他国人のためとの二つの基準を使い分けることからきている」ナポレオン戦争のときのイギリスについ手の発言です続き書くとき使います。

*1:http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E480978984/index.html

*2:http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1240585619/E1421950696/index.html

*3:http://www.aa.tufs.ac.jp/humsecr/report/040110furuya1.html

*4:「十字軍の思想」によれば十字軍の流れにあり、プロイセンの起源がドイツ騎士団であったことを考えると第2次大戦というのは二つの十字軍起源の国家の覇権闘争でもあったわけです

*5:南北戦争リンカーンの意義については巽孝之氏の「リンカーンの世紀」が非常に面白いです

*6:http://d.hatena.ne.jp/E-chiko/20051001

*7:グローバル化と反グローバル化

べろべろばー(にゃんこさんよりUさんへ、以下私が・ウィルジニー・ルコラン「忘れられた壁」)(16日追記)

 ウィルジニー・ルコラン「忘れられた壁」を素材にして

 宣伝しまくっていたのに、実は上演自体のことはなに一つ知らずに見にいった、ウィルジニー・ルコランの上演についてようやく書きます*1。その理由は(私の知り合いでは)東京から見に行った人がほとんどおらず、それなのにちゃんと見に行こうとしていた人がSNS上にいたのでそもそもこれが上演された意味がどうにもよく分からなくなったからです。

 偽バッチ計画に夢中になっていたため、実は上演自体に一切の期待を持たず(悪い意味ではないのですが)名古屋に見にいったわけですが、肝心のバッチの方はもろくも主催者に利用される結果に終わったのですがそのことは書きません(とほほ)。

 さて問題の上演ですが客はすっごく少ない、それなのに舞台が見づらい、正直言ってまったくいい劇場じゃない。舞台は極めて簡素で後ろに申し訳程度の壁の残骸のようなものがり、上手にマフムード・ダルウィーシュ(「パレスチナの国民詩人」)のアラビア語の詩(「ベイルートのカシダ」の一部分)とその仏語訳の写った幕があり、下手にはその翻訳が写っています。、照明は薄暗くフラットで、はっきり言って見づらさに輪をかけてしまっています。詩はアラブ語の朗読と仏語の朗読が途中に何度か入り、いかにもアラブ風の音楽が入ります、ですが、この音楽は少なくとも前半は実はスペインのものだったそうです。ルコランははじめ中央に横たわっていたダンスもいかにもアラブ風(私の知識でだはですが)のものです。しかし踊りながらも顔と上半身はほとんど垂直に固定され、動きもかなり定型化されてうまいんだけどまるでおもしろくないわけです。
 ところがしばらくして、彼女が詩の写った幕に隠れながら踊り始めると驚くほど印象が変わっていきます。それまでの平板さと違い、幕の背後に何かがあることが伝わるようになる。幕を巻きつげなら踊るとそれが幕の下に何かがあるということを伝えてしまうわけです。次のシーンでは棒を使って踊り、その次はショールをまとっておどります、棒と「身体」の接点にあってしまう「ずれ」を、ショールをまとうときはそれに微妙に「ずれて」存在する「身体」を感じさせるものです、それでいてダンスの基本が変わっていないのは見事なものでした。

 続いて、鏡の破片を持って踊り、それはときに観客席に光を発する。最初の衣装の上にさらに服を着て踊る。そして仮面を被るというプロセスの果てにはじめは何の存在感もない(もちろん徹底して無表情(アルカイックスマイル)を作ってきたせいですが)顔を初めて仮面の下に存在させ、最後に仮面を取った時には手に持った仮面と顔(ここで「人間」の顔になるのですが)の間の「何か」を容赦なく意識させる。私はダンス経験値がとても低いのですから(自分でも)あんまり信用できないけど、これはとても面白かった。それにしてもダルウィッシュのテクストに負けず、「忘れられた壁」という題がきちんと納得できるのはすごい。


 さてこの上演は2001年にアビニョンの野外でやったやったようです、会場で配られたパンフレットには背景が写っていました。 ルコランはスペイン系のフランス人だそうです、スペインはイスラム世界に最も近い場所ですし、歴史的に見ると南仏という地域自体が地中海世界の一部として独自性を持っており、古くはアルビジョワ十字軍から近代の標準フランス語化まで北部との間でかなり確執が存在してきました。どこで読んだか忘れましたが、フランスというのはパリ伯爵(カペー家)の領土拡大運動で自然の障壁(海やピレネー山脈)か敵(ドイツ)に突き当たるまでそれを続けていたということも思い出しました(ちなみに、パリ公爵はいまだに大統領選に出ており、西ローマ帝国皇帝までいるそうで)。
 これに現代の問題、スペイン内戦(モロッコから南仏(最後の大亡命の時ですが…)までがその舞台になったわけです)とミュンヘン会議、その帰結としてのヴィシー政権まで含みます(これまたここで宣伝したラ・ボルト病院のジャン・ウリ氏の師匠に当たる人物は共和派の亡命者だそうです*2)。アビニョンでの上演はそのような歴史の残骸とおぼろげな記憶の上で行われており、野外という選択が確信犯でありえたのだと思います。

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から

 で、問題はこれを誰も見に来なかった(ある意味で私も)ことです。後で散々喋ったことではありますが、実はチラシに全く魅力がない、写真から背景が抜けていることが決定的ですが、それだけでなく言葉もいかにもなものが並んでいてほとんど判定の材料にならない、正直いってこれを見に行きたいという人はどうやってそれを決めたのだろうか不思議です。ただ、単純に「芸術」的な問題だけを扱えばことは簡単で、賢い人は運がよければ見に行ったし、(機会があっても)イケテナイ人は行かなかっただけです。芸術の価値を信じるならばただそれだけです、価格的にもお手ごろですから。しかし、問題はこれが名古屋で行われたことです(例えばチェルフィッチュがドイツのどこで上演しても一定以上の騒動と評価を見込めるでしょうそれが先進国と未開の国の本当の差なわけです)、この上演は派手にイベント化されたものでもなかったのでずいぶん人集めにも苦労したようですが、同時にあけすけに言えばそれがなくてもいいものであることを意味しています。

 私がこれに見に行った理由は端的に人的つながりによるものです、私は本当に上演芸術を「愛している」とはとてもいえないわけです(そのことはいささか居心地が悪い)、某所でぶつぶつ言っていることは実は上演芸術でなくても言えることです*3*4。たまたまそこにいてしまった、(音楽のように)まったくわからなわけではない、でそこでうろうろしている。基本はそういうことになります。もちろん、クアトロガトスのページに多少書いたように観客に対する関係による自己完結性の否定などに何ほどかの意味を付けてはいますが、それはまさに「芸術」であることの否認なわけです、ここからはルコランを見に行く理由は出てきません。それと並べて良いのかはわかりませんが、ユリイカ7月号の「小劇場特集」はそのような理由を維持することを捨て去った(あるいはそれがなくなったという前提で作られている)という意味で画期的だったのかもしれません。そこにあるものになんだか最近のマンガ(よりはむしろアニメか)に対して感じるような違和感を感じてもです。これは「忘れられた壁」が野外という可能にする構造によりあらゆるところで上演をできるという「可能性」を模索しているのに劇場によってそれを封じることになったことと一対をなしているでしょう。もし「上演芸術」が存在することをなおも取り繕う必要があるならばルコランは見られるべきであったでしょう。でもそうではなかったわけです。私がここのところでなお両者をつなごう(というより両者をつないでしまっているものを問題にしよう)とはしているのですが。しかし、私はもし個人的事情がなくてもルコランを(知っていれば)見に行ったと言い切ることができないことがひどく情けなくはあります、第一にはそれにより私の本質(東京演劇性)がばれるということがありますが、「上演芸術」であれなんであれがあるということを知っている人に対する恥ずかしさでもあります。

 そういうわけでこれまたイベント(上演)についての[宣伝]でした。申し訳ありません。

ノーベル賞(16、17日追記)


 どうもハロルド・ピンターが受賞したようです*1。というわけで2年連続で劇作家の受賞です。一週間遅れた理由ですが。こういうことが起こっていました*2。ピンターは最近はむしろ辛らつで活動的な反戦運動家としておなじみです、しかし、かつては自分の(戯曲の)原稿をベケットに見せていた(勇気あるのかそれとも…)剛の者ですからアジ文を書かせても本当に辛らつで面白い人です。去年の受賞者イェリネクは現役の劇作家・政治運動家なわけで、辞任騒動は図らずもこの賞がまだま生きていることを示したという意味でいいのではないでしょうか。しかし、日本ではイェリネクは全く上演されないわけで上演するバカがいないのかー!とはいいたいですね。と、思ったらアマゾンにピンターの邦訳の本はない(絶句)。

トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野

トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野

 戯曲はこれしか出ていません。

なお、ピンターのガーディアンのインタビューです*3