日本の歴史は日本人が創る

ヤマト民族日本人に“我れ蘇り”を希う

☆菅(カン)より、菅(スガ)の方が正統か?

 齢六十も過ぎると、何かに付けては昔に一っ飛び、夏の暑さ真っ盛りともなれば、五、六十年前の夏の或る休日を思い出す。座布団無しの畳に座っては片手に団扇、鼻っ先にずらした眼鏡を掛けてはインクの付く新聞に見入っていた、当時四十代前半の父の姿を思い出す。其れは、昭和二十年代の後半から三十年代の初期に掛けてのもので、会津若松の門田村(母方の実家)に生まれて四、五年、其の北に在る三本松と云う十戸程度の、田島街道沿いの集落(部落)にお世話になってから二年後に、家族揃って東京に再移動、一戸建て平屋で過ごしたどこの家庭にも在ったであろう夏の休日風景の一コマではある。

 何の変哲も無い、暑い最中の板橋区板橋町二丁目の日常の其れは一コマで、左隣はパン屋さん、右隣は酒屋さんに青木理容店、道を挟んだ真向かいには、土建会社の関口工業、其の隣は日本蕎麦屋の東家さん、角を曲がれば肉屋さんに江口青果店、其れに、同級生(区立板橋第二小学校)で、我が友太田均君が憧れていた美人で賢女の糸井せつ子さんの家が在ったろうか。また、其の斜向かいの角には、同じ同級生である鉄工所の息子、高橋君も居た。大学の学部を同じくした大田均君を除いては、残念ながら小学校卒業以来一度として、彼等旧友達には会った事がない。

 此の様な何の変哲も無い、それこそが何処にでも在る過ぎ去りし夏の一コマ、だが、胡坐を搔いて新聞に目を遣る父親の、ステテコを捲り挙げた大腿部に生々しく残る銃弾貫通の痕が、五、六十年を経過した今も尚、暑さ真っ盛りともなると、何故か不思議にも鮮明に蘇って来るのである。

 一度、其の痕跡の経緯を父に聞いた事がある。それは満州事変に於ける被弾で在ったとの事だが、寡黙な父は多くを語らず、耳に残っている父の言葉が何かと云えば、「戦争は駄目、、」の一言、それ以外の事も話して呉れたのであろうが、残念ながら、”戦争はだめ”の言葉以外に記憶の中には遺されていない。

 六十五回目を向かえた此の夏、NHKを中心とする多くのマスメディアが、大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦等)の実体的悲惨さや原子爆弾の残酷さを訴えるべくの、所謂、八月用特別番組を編成、再放送等も含めれば多くの番組を提供して呉れており、結果として過半に近い視聴者が何かしらの当該番組を選択、視聴したのではないかと想像もするのだが、中には、”喉もと過ぎれば熱さ忘れる”の喩え通り、戦争を美化し、あまつさえ、アメリカ合衆国の為した仕儀を有り難く拝み、其れこそ斜めから見ずとも、被占領支配下に置かれ続けている国家社会の現状と実態を賞賛、アメリカ合衆国に替わる正義の使者は他には無いとまで断じ、被占領政策の継続を是認する自民党元首相の安倍晋三や、与党民主党長島昭久等の、所謂、シオニストユダヤ系大財閥資本家群を<主>と仰ぐ異端者に在るかの如き宣教師群と、自主自決を錯覚する恥知らずの為政者が何と多い事か、其れも正々堂々と、マスメディアの公器を介在させて、視聴者に「隷属態様」を賞賛するとは考え難き不条理への誘導であり洗脳、身の毛もよだつ、議員バッヂを付けた彼等ではあるのだろう。

 北は北海道から南は沖縄に至るまで日本列島隈なくに異国軍隊を駐留させ、有り難く拝み続けてさえいる日本国家、植民地、乃至、委任統治下に在る日本国であればいざ知らず、少なくとも半世紀前には国家独立が国際社会に拠って承認され、君主立憲制国体を国民そのものが確認している我が日本国家、何処でどう軌道を踏み外したかは言いたくもないが、独立国家を確立してからも延々とアメリカ合衆国の実体的統治国に置かれ、基より、政治行政のみならず民族文化もまた、米国化への全面移動をすら強いられようとしているのが此の日本国、民主党政権を得て、日本民族として進むべき条理の顕現は遅々としてでも湧出して来るであろうとの期待は、菅直人政権を以って二歩も三歩も後退したかにも見えるのだが、其れは小生一人だけの邪推などではあるまい。現実主義に舵を切った菅直人、と云う事は、成り行き任せと云う、最も最悪の政治選択を菅直人は決断したと云う事になり、行財政の大改革どころか、あの日本を駄目にした藤原一族末裔の率いる、所謂、第三帝国官僚政府に付き従うことを意味するもの、終焉に至る民主党の始まりではあるのだろう。

 侃諤二千六年八月二十二日の「米中の同一性」と題する<1458>条を覗いてみよう。

 <組織のトップ層に位置する者は別として、ロシア軍並びにロシア国境警備隊、或いは国家治安機関等で現場任務に就く者達の多くは未だまだ未教育下にも在る存在、将来のロシアがどの様な形に推移し、またどの様な形に自国ロシアを持っていかなければならないか等の思考余力などは鼻から持ち合わせてもいない存在、特に、シベリア以東に散らばる彼等は、一般のロシア市民同様に、徐々に押し寄せる漢民族中国の影に潜在的畏怖心すら抱く彼等でもある。

 また、中国人も、朝鮮人も、はたまた、日本人もモンゴル人も、総じて見分けの付かない彼等ロシア人であれば、根室沖事件に見られた機関銃の乱射に拠る殺人劇は、心理的脅威に対する裏返しである事もまた否定出来るものではない。要するに、ロシアに古くから根ざす排他性と黄禍論は強く残り、未だまだ払拭されていない事の現われとも云えよう。

 日本民族を見方に付けず敵に追い遣る事が、ロシア国家国民にとってどれ程不利益となるかは、それこそ賢明なるプーチン大統領を擁するロシア政府そのものが現況を把握し認識理解しておかねばならずのもの、ペリー率いる黒船艦隊と同時期に日本との間に準国家交流を見ながら、一世紀近くにも喃々とする間、未だに和平条約すら締結せずツアーリー状態その侭の、或いは、スターリン共産党時代その侭の、対日姿勢を崩さずに、新生ロシア政策として引き継ぐ何ぞは時代錯誤以外の何ものでもなく、新生ロシアを立ち上げた賢明なるプーチン大統領の為すべき不作為ではあるまい。

 二十世紀初頭から始まるシオニストユダヤ系大財閥資本家群の国際政治経済への深い関与は、米国に於ける公文書の解禁で、新たなる理解が史実として炙り出されているのだが、イスラエル建国以前に於ける彼等の動きは、一つにはレーニンを押し立てて帝政ロシアを崩壊させ、ソビエト社会主義連邦誕生に間接的に助力、或いはまた、大東亜戦争に於いては、中国の民主政権でもあった保守本流とでも云うべき蒋介石国民党政府を台湾に追い遣り、匪賊毛沢東率いる瓦解間近の共産主義者テロリストグループを軍事的に篤く支援したのもまた彼等シオニストユダヤ系大財閥資本家群、その彼等の手に落ちたのがアメリカ合衆国ではあった。

 ロシアに共産主義社会政権を樹立させ、或いはまた、中国に共産党一党独裁政権を誕生せしめ、露中を新たな主従関係に置いたのが誰在ろう、米国を率いたシオニストユダヤ系大財閥資本家群と云う事にはなる。基より、それは、イスラエル建国前の暫定措置とでも云うべき世界統一構想に向けた謀、共産主義を忌み嫌ったアメリカ合衆国の表向きの政治理念とは全く関わり合いのない進み方で在る事が、後日に於ける公文書の解析から明確に証左されるのである。

 王朝制を執っていた中国が帝政ロシア崩壊前に脆くも崩れ、ソビエト共産主義社会政権の樹立後、暫らくは内部での主導権争いを繰り広げていた中国だが、その三十年後には、民主主義理念を掲げた親米政権蒋介石を台湾に追い遣り、また、朝鮮王朝を崩壊せしめて南北に二分割、更に、日本の天皇制を実質的に崩壊させ、国民統合の象徴へと誘った、その須らくに関与したものが誰かと云えば、即ち、アメリカ合衆国を主導し牽引していた、あのシオニストユダヤ系大財閥資本家群でも在ったと云う事実が、共通分母としての史実として今明かされている事を知らねばならない。

 共産主義とその膨張を忌み嫌い、且つ、阻止すべく、条理在る覇権外交に動いたアメリカ合衆国、とされる国際社会の歴史認識にはあるが、その本質はまるで逆、アジアに於ける王朝をことごとくに倒し、君主制を全否定する中で動いた、それは世界統一に向けたシオニストユダヤ系大財閥資本家群の深謀遠慮に拠る、世界支配化戦略の一環で在った事が如実に浮かび上がるのである。

 旧ロシア帝国にはユダヤ系ロシア人は少なくとも二百万人近くが存在し、彼等の一部は宮廷深くに根を張り、数多の要職に就いてもいれば、何れロシア帝国を崩壊に至らしめ、現米国がそうなった如くに彼等の影響下に置けば、広大なロシアもまたユダヤ帝国のものに何れ変化を見るとの確信は秘めていた筈である。

 1917年にツアーリーを崩壊させたレーニン率いるボリシェビキへの支援、或いはまた、四半世紀後に於けるヤルタでのスターリン支援と、スターリンへの恭順を示す匪賊毛沢東共産主義一派への篤き軍事支援は、結果として、大アジア構想を掲げる日本帝国を崩壊させ、親米政権を任じていた蒋介石民主中国を台湾へと追い遣り、その後に於ける朝鮮戦争を勃発させて南北朝鮮に二分化等々、当該様々な現象は、後日に於ける公文書の開示に照らして見れば明確に理解されるのだが、それらは個々の歴史事象ではなく一貫した中での史実とでも云うべきもの、畢竟、それはシオニストユダヤ系大財閥資本家群に拠る世界支配化に向けた一連の戦略で在った事が、明確に読み取れるものである。

 1948年に独立宣言したイスラエル国、主たる世界支配化戦略の本質こそ変わらぬが、大幅に改められたのがシオニストユダヤ系大財閥資本家群に拠る支配化の為の諸戦術、自主自決に向かい独立自尊に目覚めたその他有色人種群の、民族独立への目覚めが引き鉄にもなっていればのものだが、中でも特に、農奴と戦士を番度に繰り返して来たスラブ系ロシアの民族覚醒と反ユダヤ主義への傾斜は、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の戦略転換を余儀なくさせたと云っても過言ではあるまい。

 イスラエル建国以前にはロシアを共産主義化させる事で、或いは、中国をロシアの属国とさせる事で共産主義化を推し進めたシオニストユダヤ系大財閥資本家群、それは取りも直さずに云えば、アメリカ合衆国ダブルスタンダードの動きそのもので在ったと云う事にも繋がるのである。その様に理解しないと、王朝制、或いは君主制が悉くに崩れ去り、インターナショナルを掲げて浸透を見た共産主義思想のアジアへの蔓延、此の不思議のパズルは何時迄経っても埋まる事はないのである。

 イスラエル建国と同時に、欧州、或いはソビエト連邦から大量の移住を見たそのユダヤ民族だが、アメリカ合衆国にではなくイスラエル国に大半を移動させた事実をこそ着目すべきで、また当然視すべきものでもないのである。

 勿論、迫害と差別の環境下に置かれ悲惨史を有するユダヤ民族だが、国家再建を果たした、つまり、英米オスマントルコから武力で奪還し預かった祖国の地に戻り、千八百年の民族願望を叶えたそれは悲願の帰国であるとの理解は一面的に過ぎるもの、欧米諸国を中心とする異国の地で花開き、富を蓄え地位も名誉も獲得、アメリカ合衆国に見られるが如くに、政治経済の実体を同民族が掌握下に置いていれば、一面の事実を以って須らくとする理解は的を射ずのもの、祖国再興を右輪とし、要塞と前線基地の建設を左輪とする国家建設にこそ、イスラエル国家再建の目論見が在れば、欧米に根付いたシオニストユダヤ系大財閥資本家群が莫大な資金供与を以って、ロシアや欧州に散らばるユダヤ民族を大量にイスラエル国に移住させる事はそれこそ不可欠なものであり、現在に見られる世界支配化戦略の見直しを前提とした、それはイスラエルにとっての不可避的条件でも在ったと云えよう。

 ソ連邦を利し、或いは欧米を平定して、世界統一支配を目論んだシオニストユダヤ系大財閥資本家群だが、自主自決、或いは、独立自尊と云う有色人種群に芽生えた新たな民族の条理は、特に、極論を吐けばだが、賢明なるプーチン大統領の登場に拠って顕著となり、それ故に、世界支配化戦略の見直しと立て直しを彼等に余儀なくさせた可能性は極めて高い。中国を組み入れたソ連邦を利する事の失敗は、プーチン政権の誕生に拠って確定的となるもの、基より、シオニストユダヤ系大財閥資本家群にとってみれば、前衛に立ってその役割を担う者の組み替えをも必然とさせたと云う事に繋がり、それが現在の漢民族中国そのものに白羽の矢が当てられるのだが、現代社会に於いて、シオニストユダヤ系大財閥資本家群に拠る当該世界支配化戦略の変更を、理解出来る者は未だそう多くはいない。

 漢民族中国を実質的に支配し動かすのは上海グループ、所謂、江沢民を総帥とする特権階級集団の掌握下に在るとも云われているが、彼等の政治経済的動きが最早共産主義社会体制とは云い難きもの、勿論、国体的には共産党一党独裁政権で在る事は疑い様もないが、資本主義経済重視を強めた中国は「共産主義社会体制」の蓑を被る、実体は重商主義軍事国家、所謂、シオニストユダヤ系大財閥資本家群の右腕として動く、アジアに於ける「EU」の具現化を託された、中国は国家と云う位置付けにはなるのだろう。
 共産主義社会思想に拠る国家建設は、既に錯覚に因る幻想でしかなかった事が証左されて久しいが、未だにその名称を冠すると云う事は取りも直さず、当該共産主義思想下に在る国民を錯覚と幻想に置き続ける事で、国家権力の体制維持を図ろうとする本質が在るが故のもの、独裁政権の名称を変えたものでしかないのである。

 第二次世界大戦以前には、つまり、イスラエル建国以前には、欧州とソ連邦を利して石油ガスエネルギー資源地帯にも在る中東包囲網を画策、イスラエル建国後の戦後に於いては、石油ガスエネルギー資源の膨大な埋蔵量が確認されたシベリア大陸を中国を利して狙うと云う、新たな世界戦略に踏み切ったシオニストユダヤ系大財閥資本家群、その証左は、最近富みに活発となった中国の資源開発外交、所謂、アフリカ、南アジア、中央アジア、南米、或いは中東からシベリアへと展開する、資源外交の成功はまさしくそれを物語っているのである。

 シオニストユダヤ系大財閥資本家群に拠る大々的な中国大陸への資本移動は、彼等の標榜するグローバリゼーションにまさしく適うものだが、地下水脈で繋がる主従関係の篤き確認が成されている事を見逃せば、米中の画策する将来の動きもまた見通せないのは当然で在る。>とある。

 同じ「菅」でも、「カン」より、「スガ」読みの方が、正統なる蘇我系に在るのかも知れない。