文芸時評という感想


近代文学』1946年2月号に掲載された小林秀雄を囲む座談『コメディ・リテレール』は、荒正人小田切秀雄佐々木基一埴谷雄高平野謙本多秋五が、小林秀雄に聴くという形の座談会だが、『小林秀雄全集第八巻』(新潮社、2001)に収められているのを今回初めて読んだ。よく引用される箇所は、本多秋五の質問に答えた次の発言である。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。・・・(中略)・・・僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(p.31−32)


今読むと近代文学派の人達と、小林秀雄には思惟の根底に大きなズレがあったことが読み取れるけれど、批評家としてのスタンスの変化にふれた平野謙の質問に答えて、小林秀雄は次のように述べている。上の発言より、実際この発言が今となっては重要であるように思える。

小説というものは、どうも十九世紀で終わったらしいね。・・・(中略)・・・これからの小説は、一般に、各国でそういう傾向が既に見えているように、だんだん社会的な大衆的な読物というものになるだろう。第一流の表現というものは、もう小説という形式では現れまい。そんな気がしている。批評も亦そうではないのかね。(p.12)


小林秀雄のこの予言は当たっている。小説の衰退。読み物としての大衆化現象。小林秀雄が確立した文芸批評という形式は、小説の大衆化とともに、その後、機能不全に陥っていることは周知のとおりだ。ある種のポピュリズムに支配された世界。それが、21世紀の現実ではないだろうか。


小林秀雄全集〈第8巻〉モオツァルト

小林秀雄全集〈第8巻〉モオツァルト


さて、前置きが長くなった。
荒川洋治の新刊『文芸時評という感想』(四月社、2005.12)が本題だ。12年間『産経新聞』に連載した149編。年間のタイトルが良いし、毎月の見出しも「批評」ではない「感想」を表わす的確なことばになっている。


文芸時評という感想

文芸時評という感想


何といっても「文学は実学である」だろう。

文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっとも「実」の面を強調しなければならない。
・・・(中略)・・・
科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われていたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。(p.292−293)


荒川洋治は、この間何度か村上春樹に言及しており、「村上春樹だけが書いている」では、「『神のこどもたちはみな踊る』はどれも見事」と絶賛している。その後の『海辺のカフカ』の評価は否定的になる。「この作者の文学はひとまず終結したと思う。」(p.307)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)


「卓上の母性」では、埴谷雄高の『死霊第九章』に触れ、「本を読む小説」として久世光彦卑弥呼』や、『蕭々館日録』を連載初回から紹介し、単行本として刊行されると再度評価する。坪内祐三『文学を探せ』、庄野潤三の日常生活を描く連作*1や、若手では、島本理生ナラタージュ』以前の作品への言及などが目につく。

蕭々館日録

蕭々館日録

貝がらと海の音 (新潮文庫)

貝がらと海の音 (新潮文庫)


一方では、誰も批判しない「相田みつお」現象への辛口批評など、見るべき点が多く、この12年間の文学のありようが、荒川流に捉えられている。「全集がほしい人たち」では、中上健次への過剰とも思える文壇の評価に疑義を呈する。『中上健次全集』の編集委員柄谷行人浅田彰四方田犬彦渡部直巳)をみれば、その困難さは予測がつく。宮沢賢治への過褒にたいして、荒川氏はことあるごとに問題提起として指摘している。国民的に認められている詩人への否定的発言は、勇気のいる行為だ。太宰治の文章の上手さへの言及は、当然であり、「ことば」や文章にこだわる荒川氏の面目躍如たる批評=感想になっている。


文芸時評という感想』は、年末になってめぐり合った幸運の一冊の本だった。

*1:庄野潤三が『貝殻と海の音』で書き始めた、子どもたちが成長し、孫ができた老夫婦の日常生活を綴る連作は、以後『ピアノの音』から最新作『けい子ちゃんのゆかた』まで、家族のよろこびの喜遊曲になっている。