に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident

2008-08-08

ケリー・H・ロビンソン「ジェンダーをクィアする:初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)」(2005)


以下は、

Kerry H. Robinson, “Queerying gender: Heteronormativity in early childhood education”, Australian Journal of Early Childhood, 30(2), (2005)

のノート。



レインボープライド愛媛が呼びかけている、

愛媛県主催人権フェスティバル「ふれあいフェスティバル2008」(9月7日)への性的少数者のメッセージ(8月27日締切)

に、僕も何か書いてみたいなと思考中。

自分のことというより、間接的にでも、小学生、中学生、高校生のゲイの暮らしやすさにつながるようなことを言いたいなと思う。

しかし、誰に対して、なにを、どう言えば、どんなふうに伝えることができるだろう、僕みたいに表現力の乏しい人間には、けっこう難しい。


そういえば先週末は、8月1日〜3日に開催された第15回AIDS文化フォーラムin横浜で、「セクシュアリティと教育」についての講演会(講師:砂川秀樹氏・クレア・マリィ氏)があったそうだ。

そのタイトルは「あなたはどう伝えますか〜「同性愛・多様なセクシュアリティと教育」」だ。


性的少数者の存在を伝える」とは、どういうことなんだろう。

いや、

「性的少数者の存在を伝えなければならない

というのは、いったいどういうことなんだろう。

そんな問いが、心に浮かんだ。



これまで、何度もこういう言葉を聞いた。


「同性愛者(や性的少数者)の人たちのこととか、あまり考えたことがなかった」

「同性愛者と言っても、テレビに出てくるような人たちしか想像できない」

「自分には遠いことに思われていた」

「よく理解できない」

「『性的指向』や『性自認』といったことを教えられることもなかったのだし」


だから、あなたのことは分からない、分からなくても仕方がない。


しかし、問題は、本当に「知らないせい」なんだろうか。

あまり知識のない遠い国や人びとのことではない。

これは性的少数者に限ったことではないかもしれないが、性的少数者のマイノリティ性の独特なところは、「本当にどこにでもいるのに、見えなくされている」ことだ。

ある人の子どもが、兄弟姉妹が、親戚が、友人が、学校の先生が、塾の先生が、生徒が、上司が、部下が、隣人が、トランスジェンダーだったりバイだったりレズビアンだったりゲイだったりするのだが、それが隠され、気づけないようになっている。

そして、なるべく遠く感じられるようなイメージに、彩られている。

「知らない」「知識がない」どころかどころか、むしろ同性愛やトランスジェンダーについて、世間様ははっきりした意見やイメージをお持ちだ。

ホモ」「レズ」「変態」「おかま」「おなべ」「おとこおんな」「そういう趣味」「あっー」

あるいは、私はそんな「偏見」はない、という人なら、

「よく知らない」「理解できない」「自分には遠い存在」

などなどと。


結局、問題は、「知識や情報がないこと」そのものではなく、トランスジェンダー、バイセクシュアル、同性愛者、アセクシュアルなどの存在を、極端なまでに他者化したり不可視化してしまうほど、この社会が徹底的に性別二元化/異性愛化されていることなのではないか。


異性愛(ヘテロセクシュアリティ)が規範(ノーム)になりすぎていて、その規範を逸脱するものは、既知の秩序や認識に位置づけようがなくなってしまう。

「知らない」せいではなく、逆に「特定のこと・ものを知りすぎている」ことが、甚大なネックになっている。


これは、トランスジェンダー、バイセクシュアル、同性愛者、アセクシュアルなどとカテゴライズされる「性的少数者」が社会から「少数者」として追い出されるというだけの問題ではない。なによりもまず、「異性愛者」の問題でもある。

単にネイティヴ/異性愛者であるということと、異性愛規範(または強制的異性愛)に適応する条件を満たしていることは違う。異性愛者であっても、「生身の一定年齢上の」異性と恋愛しない人や結婚しない人、子どもを持たない人などには、何らかのかたちでジワジワと圧力がかかり、なぜそうなのかと「説明責任」を要求される。モノガミー異性夫婦で家族ユニットを作ることが奨励され、「1人」でいる人間の生存は保障されないかのように恫喝されることさえある。

結婚しない異性愛者や子供を生まない女性がジワジワと抑圧されることと、同性愛者が息を潜めるように暮らさねばならないことは、もとをたどれば同じ原因から発している。


こうした全体の問題に目を向けることなく、

「この社会で生きづらさを抱える少数の人びとがいる、気を使わねば」

というかたちで「受け容れ」られても、あまり根本的な解決にはならないのではないか。

むしろ、その時点でマイノリティは他者的存在として外部化され、「気を使うべき厄介な対象」として囲い込まれてしまう気がする。


こんなことを考えている頭に、上掲の論文のタイトルは、魅力的である。

個人差は大きかろうけれど、このような異性愛規範=ヘテロノーマティヴィティを人間がきっちりと習得させられる場のひとつが、おそらく「学校」だろうから。

というか、少しでもその気になったときに読まないと絶対永遠にブクマのなかに朽ち埋もれるだけなので、どっこいしょとノートを取ってみる。


著者ケリー・ロビンソンDr. Kerry H. Robinsonは、西シドニー大学University of Western Sydney教育学部助教授

児童教育における多様性の尊重を専門にしているようで、そのなかで、教育と同性愛、教育と反ホモフォビアに関する研究を、いくつも出している。


モノグラフ

  • ROBINSON, K.H., IRWIN, J. & FERFOLJA, T. (Eds.). From Here to Diversity: The Social Impact of Lesbian and Gay Issues In Education in Australia and New Zealand. New York: Harrington Park Press, 2002.(isbn: 1560235500)

論文

  • ROBINSON, K.H. “Making the invisible visible. Gay and lesbian issues in early childhood education”. Contemporary Issues in Early Childhood, 3 (3) (2002), 415-434.(こちらでダウンロード可)
  • ROBINSON, K.H. & FERFOLJA, T. “What are we doing this for?” Dealing with lesbian and gay issues in teacher education”. British Journal of Sociology of Education, 22 (1) (2001), 121-133.(アブストラクト)
  • ROBINSON, K.H. & FERFOLJA, T. A reflection of resistance. Discourses of heterosexism and homophobia in teacher training classrooms. In K.H. ROBINSON, J. IRWIN, & T. FERFOLJA (Eds.), From Here to Diversity: The Social Impact of Lesbian and Gay Issues in Education in Australia and New Zealand, New York: Harrington Park Press, (2002), 55-64.
  • “Why anti-homophobia education in teacher education? perspectives from Australian teacher educators”, Teaching Education, Volume 15 issue 1 (2004). (アブストラクト)

“Queering Gender”(2005)は、オーストラリアの児童問題研究機関・Early Childhood Australiaのジャーナル

Australian Journal of Early Childhood, Vol. 30 No.2 (June 2005)

に掲載。全文がオンライン無料公開。


クィア理論を教育学に応用し、子どものジェンダー/セクシュアリティの形成において、異性愛規範がどのように浸透させられるか、そこで教育学の言説や教育の現場はどのような役割を果たしているか、ということを論じている。


  1. はじめに
  2. ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)とはなにか?
  3. ジェンダーとセクシュアリティの密接な関係:バトラーのパフォーマティヴィティ論と異性愛的マトリックス
  4. 子どもとセクシュアリティに関する支配的言説:ヘテロノーマティヴィティの不可視化にどう寄与するのか
  5. 初期児童教育におけるヘテロノーマティヴィティ
  6. クィア理論/教育学が初期児童教育者に提示すべきものはなにか?
  7. 結論

アブストラクト

 この論文は、ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)とは何かを探り、初期の児童教育においてジェンダーを「クィア」することを提唱する。著者はバトラーのパフォーマティヴィティ論と異性愛的マトリックス(鋳型)論を用い、幼い子どもの生活におけるジェンダー構築においては、性自認を同時に異性愛化する正常化(normalizing practices)を分析する必要があると論じる。子ども期に関する支配的言説は、セクシュアリティを子ども達の生活に不適切なものと見なすため、いかにして子どもが性化された主体となるかということについては、過剰に口が噤まれ無視される。すなわちこれらの言説が、ヘテロノーマティヴィティがいかに子ども達の人生に作用するかという過程を、見えないものにするのである。初期の児童教育の文脈においても、それは然りである。性自認の構築を理解するにあたり、ジェンダーとセクシュアリティの密接な関係が考慮されなければ、私たちはこの過程に何が起こるのかということについて、部分的な視点を得るに留まるだろう。


アブストラクトから分かるように、どちらかというと理論的・問題提起的な内容で、これといった結論はない。だが理論的なぶん応用が利き、日本の社会の文脈に当てはめても、十分通用する考え方だと思った。

クィア理論の援用のしかたは、なんだかずいぶん単純な印象を受ける。この分野に詳しい人にとっては自明なことばかりなのかもしれないが、教育を通して子どもがどのように異性愛規範を身につけさせられてゆくのか、とくにそれがいかに隠されて行われるかという分析は、僕にはとても興味深かった。

だいたいの論旨は:


  • 子どものジェンダー化は初等教育のころから進んでいることは周知。
  • が、そのジェンダー化が同時に「異性愛化」であることには、十分な注意が払われていない。
  • 子ども期に関する発達心理学の支配的言説〜子どもは「無垢」である、セクシュアリティについての知識を持つには若すぎる〜によって、子どもの異性愛化のプロセスは不可視化されている
  • 子どもはあたかもアセクシュアルな存在として扱われながら、メディア教育現場で用いられるさまざまなテキストによって異性愛化される。それは「子どもらしさ」「自然な成長」の表れと見なされ、異性愛化とは認識されない。
    • このような異性愛正常化は、それが機能しない場、つまり子どものパフォーマンスがヘテロノーマティヴィティを逸脱したときにのみ、前景化する。子どもは、逸脱に対する罰を通し、許容される行動とそうでない行動を学んでゆく。

あともう少し、感想を書く。

(ということで、感想の続き)


クィア理論について又聞き・聞きかじり程度の知識しか持っていない僕は、「鋭いナイフだけど、オトナ向けじゃないか」という印象を、正直抱いていた。

難解な(に見える)概念や、逆にそれを極端に噛み砕いた「みんなヘンタイ(クィア)になろう!」といったアクロバティックなメッセージは、まさにいま規範的なジェンダー/セクシュアリティに包囲されて足をすくませている性的少数者の子どもに届くのか、という疑問があった。

子どもの教育現場のために、あくまで子どもという当事者によりそうかたちでクィア理論を援用したロビンソンの論文は、そういう基本的な疑問に応答してくれている。


ヘテロノーマティヴィティ論とJ・バトラーのパフォーマティヴィティ論/異性愛的マトリックス(鋳型)論を踏まえ、著者は、だいたい次のことを明らかにする。


子どもは小さな頃から「男」「女」という社会的・文化的なジェンダー規範を、積極的なエージェント(社会の規範を戦略的に利用してゆく主体)として身につけてゆく。


しかし看過しがちなのは、こうした子どものジェンダー化(ジェンダー構築)は、同時に「異性愛者化」でもある、ということだ。

社会で規範的とされている「女」「男」とは、「異性愛者の女」「異性愛者の男」なのである。

(レズビアン、ゲイがどれほどその「女性性」「男性性」に疑いの目を向けられているか、アセクシュアルがどれほど「欠陥人間」のように言われるかを、考えてみると分かるるだろう)。


親や教師が「『まとも』に育っている」と安心する子どもとは、「男」か「女」の規範をまとい、かつ異性愛者になる素質を持っている=ヘテロ・ジェンダーな子どもということになる。


そこで、異性愛的鋳型に順応できーカッチリはまらないまでも抵抗はなくーヘテロ・ジェンダーなアイデンティティや欲望を自分のものとして生き楽しむことができるようになる子どもは、いいだろう。


しかし、異性愛的鋳型によるヘテロ・ジェンダー構築のプロセスに乗ることのできない子どもは、いくらでもいる。


のちにトランスジェンダー、バイセクシュアル、レズビアン、ゲイなどと自己規定してゆくことになる子ども達は、ヘテロノーマティヴィティからの逸脱に与えられる罰ー世に溢れるステレオタイプスティグマを捺され、嘲笑、友人の敬遠、親の嘆き、孤立という危険に身をさらすことーを恐れ、身を隠すことを憶えなければならない。そして、自分のジェンダー/セクシュアリティを構築するために参照可能な規範は、ほぼないに等しい。


 人間の多様な性の可視化は,「正しいセクシュアリティ」の特権化と異性愛の規範化によって,学校教育という公的領域の「中立」性が,実は強制異性愛秩序の再生産の場であり,同時にセクシュアルマイノリティの抑圧・排除の権力の作動空間であることを可視化した。それは生身の人間を管理するミクロ・ポリティクスとしての,セクシュアリティとジェンダーが駆動する磁場であることを,明白な事実にしたともいえる。この事実は二項対立的な主体概念を終焉させずにおかない,多様な差異を承認していく変革知創造が求められていると言える。


吉田和子「人間の多様な性と変革知への課題:セクシュアルマイノリティの視点」

岐阜大学教育学部研究報告 教育実践研究』7(2005), pp. 215-23, p. 221.

岐阜大学教育学部HP紀要のページ)からPDFファイルで閲覧可)


ロビンソンが強調するのは、子どもの「セクシュアリティ」をタブー視し、子どもをアセクシュアル扱いする教育学の言説が、この異性愛化のプロセスを見えなくしているということだ。「子どもとセクシュアリティに関する教育学の支配的言説」について、著者がつぎつぎに挙げる批判は、かなり鋭い。


  • 「子どもにセクシュアリティは不適切」という主張は、セクシュアリティを生理的性行為に限定した認識でしか捉えていないから
  • だが、セクシュアリティは「もっと広く、関係性や人生の選択・・・意向、欲望、妄想など、日常生活のあらゆる側面に関わる」広範なもの
  • 子どもはアセクシュアルだと主張しつつ、大人は子どもの性に恐怖を抱いている
  • セクシュアリティの知識がある子どもに大人はモラル・パニックを起こし、「異常な子ども」と見なす
  • セクシュアリティがタブーとされているために、子どもはセクシュアリティについて語れなくなる
  • 「庇護」を称して子どもをセクシュアリティから切り離す行為が、子どもを性的に無知・無力にする

子どものセクシュアリティが大人によって隠蔽されているから、メディアや児童文学や子ども向け映画、遊び、学校教材などを通して進行する子どもの異性愛化も見えなくされ、ヘテロノーマティヴィティへの適応はただの「健全な成長」になる。そして、異性愛化に適応できない子ども達の苦痛は、隠蔽される。


大人による子どものセクシュアリティの抑圧・隠蔽を批判する著者が重視するのは、このジェンダー/セクシュアリティの構築、異性愛化のプロセスを「子ども自身がどう考えているのか」だ。

 子ども達は、彼らが自分のジェンダーのパフォーマンスのために取り入れたり拒んだりするシナリオの性質が、異性愛化されていると気づいているのだろうか?子ども達はどのようにセクシュアリティを解釈し、自身のセクシュアリティの世界を活発に作り上げているのだろうか?子どもがジェンダーとセクシュアリティをどのように理解し、認識しているかを探るために、子どもに働きかけることが大切だ。しかしそれは必然的に、セクシュアリティと子どもに大きく作用する、多くの社会的な障壁や文化的な恐怖との交渉を伴う。この問題が子どもにとって適切かという問いとは別に、研究者はまたその動機を疑われることになるだろう。しかし、子ども達のセクシュアリティについてどのような意識を持っているか、自分のセクシュアリティの世界をどのように作り上げているのかをより理解するためには、決定的に重要なことなのだ。


こうした難しい課題に、じゃあクィア理論を取り入れた「クィア教育学」(!)に何ができるの?という部分は、ジェンダー/セクシュアリティの批判的な脱構築という理念的な問題提起に留まっているように見えるのだけれど、僕にとって面白かったのは、(著者が言うところの)クィア教育学が学校教師に提案するのは「(異)性愛中心主義((ヘテロ)セクシズム)や人種主義や階級主義的なテキストを学校教材から追放しろ」的なことでは決してしないことだ。

そうではなくて、そうしたテキストがどんな文化的な筋書きを含んで受け手に働きかけているかを子ども達と一緒に考え、異なる読み、異なる問いが可能になる場を開くことーを訴える。


異性愛、同性愛、男ジェンダー、女ジェンダー、性愛主義、モノガミー、家族愛、親子愛…社会はそうした欲望の規範を再生産し続けるだろうし、それに深く浸り、楽しみ、そして真剣に生きるーそれは批判されることでも、非難されることでもないだろう。

だが、そうした規範的欲望が作り出している<権力関係>に、自分の欲望がどう加担しているのかー他にどのように抑圧的に働いているのかーは自覚的であるべきだろうし、そうした規範とのずれに出会ったとき、パニックやコンフリクトを起こすような束縛から自由であれたほうがいい。

そのために、ジェンダー/セクシュアリティという、おそろしく内面的でおそろしく社会的な自己形成要素の規範を「見切る」目を、どこかで手に入れることができたほうがいいのだ、と思う。

「学校」は、その「どこか」ではなかった。無自覚に異性愛規範を再生産する場だった。

だが、「学校」が、その「どこか」になってもいいはずだ、その可能性はないわけじゃないんじゃないか、と期待を込めて思う。



↓↓↓↓↓ノート↓↓↓↓↓

※まとめ力がないので結果ほとんど全訳に近くなっているが、正確な翻訳じゃありません。大量の誤訳も当然あるはずいつものことながら。あと、ノート取った本人にしか分からない(時々本人にも分からなくなる)ステキ日本語。

興味のある人は、これは下訳がわりにして、原文チェックして下さいね(ついでに誤訳を指摘してくれたりしたら、とてもうれしいかも)


ジェンダーをクィアする:初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)

Queerying gender: Heteronormativity in early childhood education


ケリー・H・ロビンソンKerry H. Robinson

西シドニー大学University of Western Sydney


[要旨上掲]


はじめにIntroduction


過去10年以上の研究で、幼児期にジェンダーが構築されてゆく過程は、さらに明らかになってきている。このような研究は、子ども達自身がこの[ジェンダー構築の]過程でいかに活発で狡猾なエージェントであり、男らしさ・女らしさの振る舞いとしてなにが広く「適切」と考えられているかという厳格な境界線のなかで、他の子ども達(および大人達)のジェンダーのパフォーマンスを取り締まっているかを強調している(Alloway, 1995; Davies, 1989; 1993; Grieshaber, 1998; MacNaughton, 2000)。これに加え、カリキュラムと教育者による教育実践が、子ども達のジェンダー化されたアイデンティティの構築と正常化(normalising)に大きな役割を果たしていることも、明らかにされ始めている (Robinson & Jones Diaz, 2000; Robinson & Jones Diaz, in press)。しかし、子どもの生活におけるジェンダー構築の研究のなかであまり焦点を当ててこられなかったと思われる決定的に重要な問題は、ジェンダーがどのように異性愛化の過程と不可分に構築され、かつそれを通して正常化されるのかということである(Butler, 1990)。女らしさ・男らしさに関する支配的言説が、教育を通して得られる経験を含む子ども達の日常生活においていかに異性愛化されているかということを認識せずに、子ども達のジェンダー化されたアイデンティティ構築を完全に理解することは出来ない。つまりそれは、ジェンダー化の過程を通し、子ども達は異性愛的な存在として構築されるということである。この論文は、初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティを探ることにより、ジェンダーとセクシュアリティの密接な関係を強調し、幼児期におけるジェンダー構築を「クィアする」ことを目的とする。子ども達を無垢でアセクシュアル(非性愛的)でセクシュアリティを理解するには若すぎるとし、セクシュアリティを子どもの生活に不適切なものとする子ども期についての支配的言説が広く行き渡っているにもかかわらず、幼児期における異性愛的欲望と異性愛アイデンティティの構築は、子ども達の日常的な教育経験の不可欠の一部となっているということを議論する。この異性愛化の過程は、そのような言説を通して働きかけ、ジェンダー構築において自然化されているヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)を通し、見えなくされているのである。


ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範性)とはなにか?What is heteronormativity?


ヘテロノーマティヴィティとはなにを意味するのか?これは、異性愛がいかにしてセクシュアリティの規範(norm)に定められているのかを明らかに示すために用いられる言葉である。異性愛は、正常化(normalisation)の過程を通して、「正常(normal)」で「自然(natural)」と認識されるステイタスを持つと見なされる。異性愛は、まず男女の生物学的2分法と生殖と結びつけられることで、「真実の」セクシュアリティであり事物の自然の秩序であるという疑いの余地のない地位を占める。しかし、EpsteinとJohnsonが指摘しているように (1994, p. 198) 、異性愛の正常化は、「日常生活における制度的な実践と経験のなかに、言語によってコード化されている」。たとえば、宗教的な言説と実践は、とくに親や家族の問題に関し、異性愛の正常化の過程に重要な構成要素として作用する。ゲイやレズビアンの子育てや家族は、しばしば家族と考えられているものの定義から強く排除されるのである。子ども達が異性愛家族の出身である場合、しばしば幼児期の環境で書き込まれた形式の上に成り立っているこのような決めつけは、この[異性愛の正常化の]過程に現れる別の事例である。ゆえに、異性愛の正常化とは、社会的に構築された文化的な異性愛=我々、同性愛=彼らの二分法のなかで元来作られたその支配的な言説やナラティヴ(語り)によって積極的に取り決められた社会的現象であり、異性愛が有すると見なされている権威によって、「それ以外」を定義し語る、強力なヒエラルキーである。制度化された異性愛は、ゆえに、「正統かつ規範的な社会的性の配列」 (Ingraham, 1994, p. 204)と、その他のすべてのセクシュアリティを異質で、非正統的で、アブノーマルと定義する規範の定義者となる。この枠組みの中で、異性愛は強制(compulsory)となる(Rich, 1980)。Letts IV (1999)が指摘したように、ヘテロノーマティヴィティは究極的に権力に関わるものであり、異性愛と結びついた「権力の文化」を補強するものだ。権力の文化のなかでは、異性愛の正常化は不可視化され、マクロ・ミクロな社会・経済・政治の広範囲の実践に対する関心・批判をそらす。そしてこのなかには、この性的アイデンティティ(sexual identities)の差異のヒエラルキーを構築し維持する教育機関に働きかける実践も含まれるのである。


ジェンダーとセクシュアリティの密接な関係:バトラーのパフォーマティヴィティ論と異性愛主義マトリックスThe intimate relationship between gender and sexuality: Butler's performativity and heterosexual matrix


近年の研究により、初期の児童教育におけるジェンダー構築についてさらに多くのことが分かってきている。こうした研究により、主体がいかにしてジェンダー化された存在になるか、子ども達がどのように、なぜ、男の子または女の子になる特定の道を積極的に進んでゆくのかということが、さらに理解できるようになった。バトラーのパフォーマティヴィティの概念は、ジェンダー構築の理解と、少女や少年がどのようにしてジェンダー化された主体を主張するのかを観察するために有効な概念である。バトラーが定義したように (1994, p. 33)、パフォーマティヴィティは「名付けるものを演出す力を持つ言説の側面であり・・・この演技は実際には常にある種の反復と再引用によって起こる」。この定義を明らかにするために、彼女はパフォーマティヴィティが「存在論的な効果が確立される媒体」であると指摘する (1994, p. 33). どのように、どこで男らしさや女らしさが演じられるのかということは、男らしさ女らしさのヘゲモニックな形式が文化的また歴史的にどのように作られ、制度化され、流通し、確証されるのかということである(Butler, 1994)。つまりそれは、男性的・女性的主体を構築しさらにまた構築する男らしさ・女らしさのパフォーマンスが繰り返されるということである。ゆえに、ジェンダー化されたアイデンティティとは、主体のパフォーマンスと、その他の主体の彼らに対するパフォーマンスによって構築される。子ども達は、仲間やその他の人達の前で、「正しく行動する(do it right)」ために、自身の女らしさや男らしさを繰り返し演じる (Butler, 1990)。女性的な・男性的な主体が定義され構築されるのは、この反復の過程を通してである。ジェンダーの「パフォーマンス」の概念が、常に厳密に定義された文化的な境界線の内部で演じられるものである、ということは指摘しておく必要がある。男らしさ・女らしさのパフォーマンスと見なされるものは、特定の時代の社会文化的な文脈に厳密に定義され管理されている。ある人間のジェンダーのパフォーマンスを正しいと見なすことは、決定的に重大なことである。もし男の子や女の子の適切な振る舞いとして一般的に支持されているものに従わなければ、除け者にされ虐められる危険を冒すのだから。男の子または女の子であるとはどういうことかという知識は、文化的・歴史的に獲得される、「人種」・民族・階級・セクシュアリティなど他のアイデンティティの位置と交わり合った、男らしさ・女らしさの多様な言説の上に成り立っている。しかし、ジェンダーに関する支配的・覇権的な言説は、さまざまな文化的文脈で、なにが「正常な(normal)」ジェンダーのパフォーマンスかを定義し、そのような振る舞いの「正しさ」を監視するために、社会のマクロとミクロの両方のレベルに強力に作用する。たとえば、男らしさ・女らしさの正常なパフォーマンスは、異性愛化されている。権力関係の中で構築されるジェンダーのパフォーマンスは、主体が到達したいと熱望する振る舞いの規範を具体化し、特定の集団の他に対する権力を補強する。異性愛者が非・異性愛者またはクィアのアイデンティティに対し権力を持つように。個人は合理的で、統合された、固定的な存在というより、不安定で、矛盾した、変化する流動的な主体であるというポスト構造主義の概念は、ジェンダー化されたアイデンティティの獲得の絶え間なく繰り返される複雑さを理解するために,必須の枠組みを与える。1人の少年や少女は、その主体性において積極的なエージェントであり、自身を特定の男らしさ・女らしさの言説の中に位置づけ、この効果と社会的関係を自身のものとして手に入れる。しかし、ある人間の主体的な位置づけは固定的なものではなく、個人は自分が達成したいものに従って言説を要請または反抗しつつ、その位置づけを権力関係の中に読み取ることで、広範囲にわたって移ろうことができる(Hollway, 1984)。ある幼い少年は、自分の男らしさを表すパフォーマンスとして、いじめ行為に熱中する。そのパフォーマンスは、仲間からの不確かな尊敬(しばしば恐怖に基づいた尊敬を稼ぐ)や、社会またはメディアが与える、しばしば攻撃性の表現と結びついた適切な男らしさのパフォーマンスの表象によって補強される(e.g. Rugby League sporting heroes)。このような少年は概して他の子どもの感情を傷付けているという理由でその振る舞いを変えよと諭されることはない。このような種類の男らしさのパフォーマンスを、とくに仲間の前で正しいと捉えることは、しばしば他に対する攻撃性をあからさまにすることと関係している。


バトラーの論でとくに重要なのは、ジェンダー構築がどのようにして生物学的な所与による自然な過程であるかのように見せかけられるか、ということだ。ジェンダー化されたパフォーマンスの幅ひろさは、2つの別個の自然、男と女があるということを表す効果を持つ。Alsop・ Fitzsimons・Lennon (2002, p. 99)により指摘されたように、「ゆえに、我々が『自然』と考えている物は、我々のジェンダー化された行為の動機であるというより、結果なのである」。社会的に構築された文化的な男女二分法の中に位置づけられた、正常化されたジェンダー・パフォーマンスの反復が、この行動を自然またはその人の生物学的性質に与えられたものとするのである。


ジェンダー構築と同様、セクシュアリティは、強力な社会的言説(たとえば、特定の宗教的・法的言説)と、制度・個人により社会のマクロ・ミクロなレベルで支えられた社会的実践を通して構築され管理された欲望によって、社会的・文化的に構築される。しかし、ジェンダーが自然と生物学に由来するものとして表現されるように、セクシュアリティも、対照的に見られている2つのものの間の関係とともに表現される。Wilton (1996, p. 127)が指摘するように、「この、補完的にジェンダー化された両極性(polarity)ー異性愛両極性(?heteropolarity)ーの深いイデオロギー的概念は、神秘化され自然化された組織原則となり、二分法・相補性(complementarity)・一方向性(unidirectionality)・両極性(polarity)の概念をめぐる西洋の文化や構築的な思考や社会的組織に浸み渡っている」。この正常化の過程を通して、異性愛は自然で、本能的なで、望ましい、適切なセクシュアリティとして支持され、この行動から逸脱するものは、すべて不自然で異常と見なされる。セクシュアリティは、ジェンダーのように、移ろい、変化し、柔軟で流動的なものと考えられる。それは社会によって、込み入った方法で、多様な社会的実践や、個人的・社会的定義づけを通して作り出される。それは権力関係に関わるものだ。Weeksが指摘するように、「セクシュアリティは所与のものではなく、交渉・格闘・人間のエージェンシーによって作り出されるものである」(1986, p. 25)。


バトラー(1990) は、このジェンダーの異性愛規範化(heteronormalisation)が自然化される過程を明らかするため、異性愛的マトリックス(heterosexual matrix)の概念を用いる。バトラーは、この異性愛的マトリックスを、「身体、ジェンダー、欲望がそれを通して自然化される、文化的な明瞭さの基盤(グリッド)」であるとする。それは「ジェンダーの明瞭性に関する言説・認識の覇権的なモデルであり、身体が首尾一貫性を持ち意味をなすためには、異性愛の強制的な実践を通して対抗的に、ヒエラルキー的に定義された確固たるジェンダーを通して表現される、確固たるセックスがなければならない(男らしさが男性を、女らしさが女性を表現する)ときめてかかるもの」(1990, p. 151)である。別の言い方をすれば、Alsop・Fitzsimmons・Lennon (2002, p.97)は、バトラーの理論を研究し、以下のように指摘している。「それは、私たちを男と女の分類に追いやり、それ自身で私たちの生物学的な理解を構築する、『推定に基づく異性愛の認識論的な体制』である」。ゆえに、バトラーの視点では、身体をジェンダー化されたものとするのは、それが異性愛的であるという推定であり、男女の身体の自然な区別は異性愛の正常さと自然さを意味するのだという考えを支持する伝統的な考えかたによるわけではないのである。


ジェンダーと異性愛が、いかに親密に強力に絡まりあってお互いを正常化しているかということは、子どもを含む個人がいかにしてジェンダー化・セクシュアリティ化された主体として構築されるのかを理解する上で、決定的に重要な要素である。ジェンダー構築が子ども達の生活にどのように作用するかについての理解は深まっているが、強制的異性愛を通しどのようにジェンダー、セックス、欲望の確固とした概念が構築され、表現され、正常化されるのか(すなわち、どのようにジェンダーが異性愛化され、同時にセクシュアリティが異性愛として正常化されるのか)ということについては、初期の児童教育の分野においてはさらなる認識が必要だ。初期の児童教育におけるジェンダーの平等の政策が、完全な効果を持ちうるためには、とくにそうである。


子どもとセクシュアリティに関する支配的言説:ヘテロノーマティヴィティの不可視化にどう寄与するのかHegemonic discourses of children and sexuality: Contributions to the invisibilisation of heteronormativity


幼児期におけるヘテロノーマティヴィティを完全に理解するためには、子ども期とセクシュアリティに関する支配的言説が、どのようにしてその[ヘテロノーマティヴィティの]実践を不可視化する原因となっているかを明らかにすることが重要だ。セクシュアリティが子どもの生活に不適切であり、また教育において「タブー」の主題であると見なされているのは、主としてこれらの言説と、それを補強する子どもの発達心理学的言説の強力な交差によって、なのである。ゆえに、この状況で、ヘテロノーマティヴィティは、初期の児童教育のなかで意識されず目に見えない日常的実践として、衰えることなく存続し続ける。セクシュアリティが子どもの主体性にとって不適切なものと理解され捉えられているために、子どもの生活のジェンダー的な構築から、セクシュアリティは漠然と、あるいは実質的に、極端なまでに引き離されている。つまり、理論・研究・教育政策の発展において、幼少期のジェンダー構築を理解するうえでの異性愛の役割は、語られず不可視化される傾向にある。この状況は、幼少期においてジェンダーとセクシュアリティがいかに構築されるかという現今の理解に、決定的な係わり合いを持っている。すでに論じたように、ジェンダーがどのようにして異性愛の枠内で構築されるのかを理解することなく、ジェンダー構築の過程を完全に描くことは決してできない。それは、『シンデレラ』の物語を異性愛的欲望の構築が物語の主要部分であると理解することなしに読むようなものだろう。あるいは、女らしさの構築に対するバービー人形の影響について論じるとき、バービーが異性愛者とされケンと関係があると想像されていることがそのジェンダー化の過程で決定的な構成要素となっていることを見落とすようなものだ。


子どもとセクシュアリティの関係は、異論に覆いつくされ、社会的タブーの中に埋没させられて、否定されている。子どもとセクシュアリティの関係については、他で徹底的に論じられているので (see Gittins, 1998; Robinson, 2002; 2005)、ここではその要旨のみを紹介しよう。子ども期とセクシュアリティの関係は、まず、子ども期とセクシュアリティ関する西洋の支配的言説、そしてこれらの言説を支える大人/子どもの二分法の中で捉えられる。この二元的な関係は、大人の子どもに対する権力(とその権利)を定め永続させると同時に、大人と子どもの生活を両極化された世界に差異化し分離する。その結果、大人と子どもの間には、無数の不平等が生じることになる。子どもは生存と安寧のために完全に大人に依存する存在と見なされ、そのように作られ、その関係において、無力で声なき「他者」となる。ポストコロニアルな観点から、CannellaとViruruは、子どもは大人によって植民地化されていると論じる(2004)。子ども期とセクシュアリティに関する近代主義的な支配的言説は、まず子どもを無垢で純粋なものとして作りあげる。アセクシュアルで、未熟で、その身体を制御できない発達途上の存在として。彼らはつまるところ心理学的、認知科学的そして情緒的に、セクシュアリティを理解するには「あまりに若い」と考えられる。セクシュアリティの理解は、子どもの身体が大人の成熟へと生理学的な変化をはじめる思春期に始められるべきだと見なされるのである。セクシュアリティは「大人向け」の問題であり、子どもがとくに傷つけられやすく、守られねばならない大人の人生の一側面と見なされる。それゆえ、子どもに関してセクシュアリティを論じることは、一般に発達心理学的に不適切だと見なされる(Robinson, 2002)。Robinson・Jones Diazにより行われた研究 (2000)は、一般に初期児童教育の教育者が、子どもたちが自身の性的な成長を含めセクシュアリティについて理解することを、彼らの教育において重要であり適切なこととは見なしていないということを、明らかにしている。次のことはぜひ指摘せねばならない。こうしたセクシュアリティ解釈では、セクシュアリティは常に、子どもや大人の主体性とアイデンティティの不可欠の部分であるというより、生理学的な性行為の観点から限定的にしか定義され理解されていないように思われる。このようなセクシュアリティの限定的な解釈のために、人びとは、生理学的、性的に活動し始めていないと見なされている子どもや若者の生活にも、セクシュアリティが関連があるという考えを退ける。彼らは確かにそうであることを望んでいる。しかし、セクシュアリティはより広く、関係性や人生の選択、実践、意向、喜び、欲望、妄想??子どもも大人も活発に営んでいる、日常生活のあらゆる側面に関わっている。例えば、セクシュアリティは、レズビアンまたはゲイの両親によって育てられた子、またはゲイ、レズビアンの家族や身近な友人を持つ多くの幼い子どもにとって、生活の不可欠の部分をなしている。彼らは毎日のように、これら異なったセクシュアリティを生きる人びとに与えられる影響と関わってゆかねばならないのである。さらに、子どもたち、若者たちの性的な欲望や妄想は、彼らの友人、服装、音楽の選択を通して表現され、演じられるのである。


子どもはアセクシュアルな存在であるという言説は広く行き渡り支配的であるが、しかし、大人は皮肉にも、子ども(そして若者)の性行動を「コントロール」し管理するためなら、どんなことでもやってのける。事実、子どもが活発な性的存在であることや、性的な事柄に知識があるということが分かると、しばしばモラル・パニックが巻き起こる(これに関するより詳しい議論は、Gittins, 1998; Jenkins, 1998; Sedgwick, 1998; Wolfenstein, 1998を見よ)。たとえば、20世紀初頭、幼児は自己愛、自慰、指しゃぶりを含む「激しい危険な衝動」を持っていると考えられていた(Wolfenstein, 1998, p. 200)。こうした行動は、容易に統御不可能になり、その結果子どもは「人生に挫折する」と見なされていた(Wolfenstein, 1998, p. 200)。子どもの自慰は、子どもは性的な存在であるという、逆の言説を反映していた。母親は、自分の子どものそうしたタブーや「汚い」行動をチェックするために、極度に警戒せよと勧められていた。フーコー(1978)が『性の歴史』で指摘したように、性的なタブーのために、個人が身体的な行動様式を改めるという目的で、間近に監視されることとなったのである。

女性は純粋で、純潔で、アセクシュアルで、自身の性的欲望を欠き、つまるところ男性の快楽の容器であるとするジェンダー化されたセクシュアリティの言説の普及のために、女児の自慰はさらに道徳的にみだらなものと見なされた(Gittins, 1998; Robinson, 2005)。幼児に対するそのような監視の必要は、子どもの腿が擦れ合わないように子どもの足を幼児用寝台の反対側に縛りつけたり、子どもがそれに触れられないように夜着の袖をピンで留め合わせたりするといった、子どもの自己愛的行動を禁じるさまざまな慣習を生み出した(Wolfenstein, 1998, p. 200)。


指摘したように、子どもとセクシュアリティに関する主流の否定的見解は存続しつづけ、いまなお存続している。こうした否定は、しばしば大人の恐怖心から生み出されている。

たとえば、Patton (1995)は、大人は性的な知識が子どもの早すぎる性行為を「引き起こす」結果になると信じ、しばしば子どもや若者に性的な知識を与えるのを恐れると指摘する。同様の恐怖は、ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアのセクシュアリティについて語ることの周辺にも存在する。そうした議論が、子どもや若者がそういう性的アイデンティティを持つようになる「原因となる」にちがいないというのである。ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアのセクシュアリティを扱うことに伴うこうした恐怖やアンビバレンスは、次の初期児童教育者の不安に、一貫して反映されている。


[教師は][ゲイやレズビアンの問題について]どのように情報を与えるか、非常に注意深くなければならない。なぜなら子どもの心はとても順応性があるからで、あなたがそれについて心が広く理解のある人を育てるかどうか分からない。あなたはなぜ人が同性愛者になり、ある人はならないのか完全に説明できないだろうと思う。(Robinson & Ferfolja, in press)


特に重要なのは、もっともなことだが、子ども達が大人、時に年長の子どもから性的虐待を受けやすいということについて、多くの大人が抱いている恐怖である。家庭や、そのほか子ども達がよく行く場所で、概して子どもたちがよく知っている、信用している人間によって行われることが多い性的虐待の蔓延は、子どもを守ろうとする政府やコミュニティの介入にもかかわらず、はびこり続ける社会的病の主たるものである。このような子どもの性的虐待には権力が関係しており、その権力は元来、大人と子どものあいだの権力関係を支える大人/子どもの二分法のなかで定められる。しかし、私が他所で論じたように(Robinson, 2005)、子どもや若者にセクシュアリティを語ることについての話が避けられ、不適切、タブーと見なされていることが、皮肉にも、子どもや若者が虐待その他の危険に遭いやすいことの一因となっているのである。大人は概して、子どもたちにこの点で申し分のない能力を持つ個人たるための、知識と理解と信用を与えそこねてきた。皮肉にも、セックスやセクシュアリティについて何がしかを理解している子どもたちは、しばしば「不自然な知識のある」「不自然な子ども」として「他者化」され、一般にこのような知識を持っている子ども達は、性的虐待[経験]があるとか、家族が非慣習的であるのだろうと考えられる。ゆえに、このような論証的な文脈では、決定的な身体的影響があったに違いないのである(?)。子どもたちは、セックスやセクシュアリティについて、たとえあるとしても極めてわずかな情報とともに成長する。セクシュアリティの秘められた、タブーとしての性質のために、子どもたちはセクシュアリティの問題を大人たちと語ることをしばしば恐れるようになる。彼らが持つ情報は、しばしば仲間との議論から得た誤った情報だ。それゆえに、子どもたちは、彼らを搾取する大人や年長の子どもに傷つけられやすくなる。皮肉なことに、Kitzinger (1990)に指摘されるように、子どもの性的虐待において大人の男の性的な刺激を助長するのは、第一に子どもの「無垢」と、彼らに想定されている無力さなのである。ようやく近年になって、幼児期を新たに概念づけようとする運動と、子ども期に関する新たな社会学により、大人/子どもの二分法と、子ども期に関する子どもの声を阻む支配的言説に対して、真剣な挑戦が行われるようになった。Gittins (1998, p.107)により指摘されているように、「概してよく見守られ、庇護されている子どもでも、その子が依存的で、孤立し、語ることができず、力を剥奪されていれば、極めて傷つきやすいのである」。


「子どもたちを守る」ことに伴う逆上やモラル・パニックが、とくに初期児童教育の教育者についてもたらしたさらなる影響として、[教師の生徒に対する]あらゆる接触が細かく調べられ、潜在的な危険と見なされるようになっている。結果、教育者は幼い子どもと触れ合うことを恐れるようになり、子どもの健康や学習に決定的に重要な、大人と子ども(または教師と子ども)のあいだの思いやりある関係の積極的な生育やその表現に影響を及ぼしている。


初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティHeteronormativity in early childhood education


本稿では、初期の児童教育におけるヘテロノーマティヴィティの実践が、子ども期とセクシュアリティについての理解を作り出す支配的言説を通し、非常に見えにくくなっていると論じた。子ども達はアセクシュアルであり、セクシュアリティを理解するには「若すぎ」「無垢」である、という推論は、異性愛と異性愛的欲望の構築が初等教育を含む子どもの日常的経験の不可欠の一部をなしているという事実によって、却下される。たとえば、初期の児童教育で広く用いられている児童文学は、絶えず異性愛的な語りを強化している(Cahill & Theilheimer, 1999; Theilheimer & Cahill, 2001)。この異性愛化の過程は、ほとんど弱まることなく持続せられ、それが効果的に働いていないと気づかれるとき、つまり強制的異性愛の境界が冒されてるように思われたとき、ヘテロ・ジェンダー化された子ども達の構造が容認しがたく不適切に規範を逸脱しているように見えたときのみ、意識される。このような恐れは、男の子どもが家の隅で女物の服を着ていたからゲイになるのではないかと心配している両親から、子ども達の同性愛関係に対する欲望を、正常なヘテロ・ジェンダー化された行動と見なされているものから逸脱しているのではないかとさかんに問題化し思いとどまらせようとする教師から、伝えられる。たとえば、幼児期の幼い少年が、一番愛している人と「結婚」したいという望みをはっきり示そうと、しばしば男の親友を挙げるといった行動である(Wallis & Van Every, 2000)。子ども達が、なにが受け入れられ、なにが許されないかを学ぶのは、そのような逸脱行為を通してであるように思われる。


近年の研究は、遊びがジェンダー構築に決定的に重要な場であると証明している(Alloway, 1995; MacNaughton, 2000)。しかし、そのような研究において、遊びが同じように異性愛構築の重要な場でもあるという事実は、あまり焦点を当てられていない。結婚式のまねごと、お母さん、お父さんごっこ、追いかけてキスするゲームや、ガールフレンド/ボーイフレンド、これらはすべて、初期の教育のなかで、幼い子ども達の語りに出てくる。このような遊びは、しばしば子どもの日常生活の自然な一部と見なされ、教育者達によって疑問視されることは稀である。それらの遊びが、子ども達の異性愛の欲望の構築と、ヘテロ・ジェンダー化された主体の刻印を「正常化」する要素であると考えられることは、ほとんどない。そのような異性愛化された遊びは、セクシュアリティの理解と関連づけられることはなく、「子どもらしさ」、しばしば子どもの発達の生物学的な認識と関連づけられる成長の自然な要素と見なされる。Epstein (1995)は、ジェンダーとセクシュアリティの関係は、教育における性愛主義(sexism)と異性愛主義(heterosexism)を理解する上で決定的な重要性を持つと論じ、その異性愛との関係を分析することなしに、性愛主義を理解することはできないと指摘している。


ゆえに、(異)性愛の構築は、初等教育の経験によって習得されることも含め、子どもの日常生活の一部であるのだが、それは滅多に気づかれることはなく、それについて考えられることはほとんどない。私たちが批判的なレンズの焦点を、改めて幼児期のジェンダー構築に当てることは、ジェンダーがヘテロノーマティヴな日常的実践や、学校その他の子どもに関わる機関での仲間・家族とのふれあいを通し、いかに異性愛化されるかということを理解するうえで重要だ。メディア、ポピュラー・カルチャー、児童文学は、子ども達の日常生活におけるヘテロノーマティヴィティの持続に、主だった役割を果たしている。子ども達は、広告を通して異性愛化される。広告は、ヘテロ・ジェンダー的な適切な行動について、子どもや大人に強力なメッセージを送ってくる。たとえば、あるオーストラリアの都市の外食に関する雑誌では、ある地方のカフェの広告が、幼い少年少女(おそらく7-8歳)が一緒にコーヒーを飲みフルーツとアイスクリームを分け合う写真を使っていた。男らしさ・女らしさの構築という観点からこのテキストを解読してみよう。少年は黒い服を着て、少女より背が高く、きちんとして、元気のよいポーズでコーヒーカップを持ち、微笑しながらすぐそばに座っている「デート相手」を見下ろしている。少女は明るい、袖無しの、ピンク色とモーヴ色の花のようなドレスを着て、ピンクと深紅のバラで取り巻かれた麦わら帽子を被っている。彼女は顎の下で手を組み、微笑んでいる。このジェンダー的な読みは、このシナリオが非常に異性愛化されているということに気づかなければ、完全ではない。控えめに微笑み、しかし少年の魅力的な眼差しを避けながら身を乗り出した少女の顔に見えるのは、恥じらい、誘惑、欲望のどれかである。彼らは目の前にある、人をじらすようなアイスクリームとフルーツの皿にはまるで関心を示しておらず、完全に互いの連れに心を奪われている。この写真からは、食べ物は性的な予感に満ちたシーンの背景でしかないという印象を受ける。写真の下のキャプションはこう読める。「うーん、これがコーヒーだね」。ヘテロ・ジェンダー的に構築された幼い子どもたちは「かわいらしさ」という観点から眼差され、子ども期の無垢についての言説によって、このテキストに作用しているヘテロノーマティヴィティは語られることはなく、不可視化される。この広告は、そのような多くの場の1つである。児童文学や映画も、子ども文化や子どものジェンダー化された生活がどのように異性愛化されるかという、数多くの事例を提供する。Girouxは、「子ども文化という領域では、娯楽、アドボカシー、喜びが一緒になることで、子どもであるということ、ジェンダー・人種・階級が結びついたさまざまなポジションを社会のなかに持ち、それを通して無数の他者との関係のなかに自己を定義する1人の子どもであるとはどういうことかという概念が構築される」(?)と、適切に指摘している(1995, p. 1)。ディズニー映画化されて非常な成功を収めた児童文学の古典を5つ無作為に選び−『美女と野獣』『バグズ・ライフ』『アナスタシア』『人魚姫』『ピーターパン』−その最後のページを調べてみると、異性愛的なハッピーエンドのファンタジーが行き渡っていることが分かる。ピーターパンはあからさまにこのようなメッセージで終わっていない唯一の本だが、そのテキスト自体に全体的に確かに見て取れる言説となっている。Giroux (1995, p. 2)は、「ディズニー映画は、子どもたちに自分は何者なのか、社会はどういう場所か、遊びとファンタジーの世界を大人の環境のなかに作り上げることがなにを意味するのかを理解させる物語の語りのなかで、魔力のイデオロギーと無垢のオーラを結びつける」とコメントしている。


子ども達の日常生活や、すでに見てきたような事例のなかに作用しているヘテロ・ジェンダー化されたパフォーマンスを認め、名づけることは、決定的に重要である。しかし、これらの問題について、私たちが聞くことができる声や解釈は、(それを私たちが聞くならば、)ほぼ大人たちによるもののみである。これはジェンダー構築をめぐって働きかけるヘテロノーマティヴィティを反映しているが、しかしそれはまた、私が他所で論じたように(Robinson, 2005)、子ども期とセクシュアリティに関する(そして子どもの庇護に関する言説に伴う)支配的言説により付加的に生み出されたものである。そこで我々は、子どもたちがそれをどう感じているかということを、ほとんど知ることができない。これらの問題についての彼らの声は、ほとんど聞こえることがない。このような問いを問うことが大切だ。子ども達は、彼らが自分のジェンダーのパフォーマンスのために取り入れたり拒んだりするシナリオの性質が、異性愛化されていると気づいているのだろうか?子ども達はどのようにセクシュアリティを解釈し、自身のセクシュアリティの世界を活発に作り上げているのだろうか?子どもがジェンダーとセクシュアリティをどのように理解し、認識しているかを探るために、子どもとともに行動することが大切だ。しかしそれは必然的に、セクシュアリティと子どもにおもに働きかける、多くの社会的な障壁や文化的な恐怖とのやり取りを伴う。この問題が子どもにとって適切かという問いとは別に、研究者はまたその動機を疑われることになるだろう。しかし、子ども達のセクシュアリティについてどのような意識を持っているか、自分のセクシュアリティの世界をどのように作り上げているのかをより理解するためには、決定的に重要なことなのだ。「庇護」は、この問題について子どもがエージェンシーを持ち発言する機会をほとんど与えない、諸刃の剣ではないだろうか。


クィア理論/教育学が初期児童教育者に提示するべきものはなにか?What does queer theory/pedagogy have to offer early childhood educators?


ポスト構造主義の理論的視点から発生したクィア理論は、アイデンティティは固定的で確固としたものではなく、むしろ流動的で、矛盾をはらみ、動的で構築的なものであるという概念を強化している。この視点は、すべてのアイデンティティはパフォーマンスであるということを確認し、この論文で焦点を当ててきたように、とくにセクシュアリティとヘテロノーマティヴなジェンダー構築に関して、正常化を批判する。クィア理論は、異性愛を優越的なセクシュアリティとして、疑問の余地のない、自然で正常な地位に位置づけ、非・異性愛的アイデンティティを「その他」とすることを批判する。それは異性愛者=われわれ、同性愛者=彼らという文化的な二分法の中で作り上げられるものだ(Jagose, 1996を見よ)。「クィア」とは、「主流のセクシュアリティから周縁化されている」(Morris, 2000, p. 20)と感じる人びとを包括する言葉である。そこには、自分を異性愛者だと見なしているが、異性愛についての覇権的言説において定められ強化されている順応を批判する人々も含まれる。つまるところ、クィア理論は、人間のジェンダーとセクシュアリティはその人の生物学的に性別化された身体に生得的に固定されているという概念を混乱させ、セクシュアリティの複数性とジェンダーの多数性を肯定するのである。このような視点は、これらの状況に働きかける日常的なヘテロノーマティヴィティのプロセスを見つめる、批判的・理論的な目を与えてくれる。


クィア理論に特徴づけられたクィア教育学(Queer pedagogy)は、ゆえに、ジェンダーとセクシュアリティについて自然な秩序と見なされているものの批判的な検証を引き受ける。たとえば、異性愛は自然で、疑問の余地のない、唯一の正しいセクシュアリティであり、その他すべてのセクシュアリティが異性愛の観点から裁かれると考えられていること。あるいは、子どもは自然に正常に少年または少女になるのだということ。フェミニズムのポスト構造主義教育学(e.g. Davies, 1994; MacNaughton, 2000; Robinson & Jones Diaz, 1999)と同じように、クィア教育学は、異性愛化された覇権的な男らしさ・女らしさの狭い境界のなかで、ジェンダー/セクシュアリティのアイデンティティを定義し、制限し、管理する常識的な認識を作り上げる正常化の言説を明らかにしようとする。たとえば、少年が少女を追いかけてキスしようとすることは自然なように思われる。クィア教育学は、男/女、セックス/ジェンダー、異性愛/同性愛など、分極化させられた対抗物のあいだに人工的なヒエラルキーの力関係を作り、それを維持しようと働きかけるこのような正常化の言説のなかに、はっきりとまたは暗黙的に示される文化的な二分法を、まず混乱させ動揺させる。たとえば、少年と少女についての、少年はタフで騒がしく身体的に活発であり、少女は静的で穏やかに喋り、座って本を読んだり友達とおしゃべりすることを好むといった、両極化された認識に本来備わっている権力関係を探ることである。このような視点は、教育者に、幼い子ども達の生活においてジェンダーが構築される過程を完全に理解するためには、同じプロセスが同時に彼らのセクシュアリティのアイデンティティをどのように構築するかを認識することが決定的に重要であると思い出させる。たとえば、バービー人形は、女らしく行動するにはどうするかという社会的に認められた特定の方法を、ただ強く分かりやすく表現しているというだけではない。異性愛の正常化をも表現しているのであるが、それは語られていないのである。ゆえに、クィア教育学は、脱構築と関係している(MacNaughton, 1998を見よ)。すなわち、ジェンダーとセクシュアリティの認識を構築する正常化の言説を批判的に暴くのである。そしてそれには、教育環境の日常に働きかけるものも含まれる。これらの言説の内部にある価値観と前提を探る。その言説の目的はなにか。特定の主体はこれらの言説のなかでどのように位置づけられるのか。これらの言説から誰が利益を得、誰が得ないのか。そして、このような言説は、より広い社会的、経済的、政治的構造の政策と実践にどのように影響を与えているのか。たとえば、本稿ですでに明らかにしたように、人気の高い子どもの本(や映画)を子ども達とともに利用することで、テキストの中にはどのような文化的なスクリプトが示され、また隠されているか、それらの作品が読者(視聴者)をどのように位置づけようとしているかを探ることができる。


クィア教育学は、教育者が(はじめはいかに異端的に思われようとも!)特定のジェンダー/セクシュアリティのありようが、どのようにして疑問の余地もないほどに正常化されるのかということを強調し、批判する問いを発することを奨める。たとえば、バービーがレズビアンまたはクィアだとされたら、なにが起きるだろうか?子ども達や大人たちのバービーに対する考えを、どのように批判するだろうか?ケンについてはどうだろうか?バービーが幼い少女の生活におけるジェンダー構築に果たしてきた役割は、批判の対象となってきた。しかし、バービーのヘテロ・ジェンダー化されたアイデンティティが幼い少女の異性愛アイデンティティと欲望の構築にどのような影響を与えたかは、あまり議論されてこなかった。バービーがジェンダーのパフォーマンスをよりクィアなアイデンティティを表すものに変化させたら、すなわち、誇張された女らしさを混乱させ、当然の如く決めつけられている彼女の異性愛性を否定するようなパフォーマンスをしたら、子ども達、大人達はどのような反応を示すだろうか?どの程度彼らはバービーのジェンダーをズレさせるだろうか?興味深いことだが、ある身近な友人が、6歳の姪に1体のバービーを与えた。彼女はすでに膨大なバービーのコレクションを持っていたのだが、このバービーは違っていた。このバービーは長い時間をかけてクィアにされており、用意に異性愛者であるとは見て取れない、異質なジェンダーのパフォーマンスを表現していた。短く切られた髪、いくつものタトゥー、鼻と唇のリング、黒いレザーの服、などなどである。

このパフォーマンスにかけられたあらゆる努力にもかかわらず、この「クィア・バービー」は1週間もたたないうちに服を剥がされバラバラにされて(四肢がなくなっていた)食器棚の下に隠されていた。「クィア・バービー」は、ジェンダーの「ずらし」のために大変よく正確に懲罰され、より尊敬されるべき異性愛的・女性的な従姉妹達のあいだから追放されたのである。

結局、大人達をこのような問いに巻き込むことが重要だ。多くの幼い少女の親たちがバービーのヘテロ・ジェンダー化されたアイデンティティとその実践に莫大な投資をしており、バービーのジェンダー・パフォーマンスのクィア化を見て混乱するかもしれないことを、議論することができるだろうから。


結論Conclusion


本稿で私は、初期の児童教育においてジェンダーを「クィアする」ことを論じてきた。ジェンダーの異性愛化についての正しい認識を、子どもの人生において男らしさ・女らしさがいかに構築されるかという理解に取り入れない限り、ジェンダーの概念は不完全で部分的に留まるだろう。ジェンダーとセクシュアリティのあいだの密接なつながりがあり、そしてジェンダー構築の過程で子どもたちは同時に異性愛的な存在として構築されていると認識することは、決定的に重要である。ゆえに、幼い子どもの人生におけるジェンダー構築の調査は、ジェンダーが教育を含む毎日の実践を通して働きかける異性愛化の過程の中でいかにして構築され、それを通して正常化されるのかということに、焦点を当てる必要がある。しかし、異性愛化のプロセスは、2つの主要な経路によって大きく不可視化されるということも、強調せねばならない。 [第一に]子ども期とセクシュアリティに関する支配的言説に作用するヘテロノーマティヴィティによって。このような言説は、本質的にセクシュアリティを子どもには不適切なものとして描写する。[第二に]そのヘテロノーマティヴィティがジェンダー構築のなかで「自然化」されることによって。これら2つの問題が主として、子どもの生におけるジェンダーの異性愛化の調査が徹底的に妨げられる一因となってきた。従って、子どもが異性愛的な主体として構築されることは、子どもの主体にセクシュアリティが不適切だと考えられているにもかかわらず、初期の児童教育における日常的な出来事であり、授業カリキュラムや子どもの遊戯、教育者の実践、児童文学などを通して作用しながら、教育者たちからほとんど意識されていないのである。興味深いことに、このプロセスは、ただ子ども達のジェンダーのパフォーマンスが異性愛化されたものから逸脱し、ゆえに問題視されるときにのみ、前景化するように思われる。そのような逸脱によって受ける報いの経験が、子どもたちにとって、自分たちのジェンダーのパフォーマンスについてなにが受け入れられ、なにが許されないかを学ぶ強力な授業となる。これは、子どもたち自身の従属的な立場を子どもとセクシュアリティという観点から吟味する教育者の重要性と、このことが子どもたちの選択に及ぼすインパクトを、批判的に見つめることを促す。


クィア教育学とフェミニズムのポスト構造主義的な実践に基づいた教育戦略を強調することによって、本稿は、初等教育者が提起された問題に取り組むための、ありうる方法を提示している。たとえば、この議論のなかで異性愛主義と性愛主義(または階級主義や人種主義)を強く持っていることがはっきりと示された本の撤廃を要求するのでは決してない。現在教育者によって用いられている多くのそのような子供向けテキストは、テキストの中にどんな文化的なスクリプトが示され、あるいは隠されているか、それらが読者/視聴者をどのように位置づけているかを子ども達と一緒に再検討する、決定的に重要な資料なのである。

クィア教育学は、テキストに固有の「正常さ」を脱構築するために、通常の問いとは異なる問いを問うことを求める。さまざまなテキストを子ども達がどう読むかを探り、さまざまに異なる読みと異なる問いのための場を与えることが、ジェンダーとセクシュアリティ、両者の密接な関係に対する子ども達の気づきを導きうるのである。



[参考文献は原文ページ末尾を参照]

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