これからどうすればいんだろうというとき、これまでどうしてきたんだろうと振り返ってみるのは基本かと。その点、この本は勉強になる*1。ただし、関西淡路大震災だけは記述のスタイルが異なり、著者の当時の提言と具体的な復興事業に対する評価がなされている。
まずは、やはり「大風呂敷」後藤新平のご登場ということに相成るわけだが*2、あらためてその豪快さに驚くと同時に、これくらいのことは考えなければならないのだろうなと。いまはなき同潤会アパートはこのときにできたのですね。戦争の問題とも絡んでくるのでしょうけれど、全般に戦前の方が都市計画が考え抜かれているように思える。新宿や梅田をはじめ駅前広場も1930年代に整備されていて、それを逸したところとの落差が今も残っていることになる(なんか、町田あたりが念頭に浮かんでしまうのだが)。昭和の三陸津波も、復興都市計画事業として、集落の移転や敷地のかさ上げ、防波堤の整備が行われ、それがこれまで被害を軽減させてきた。
戦後はGHQの無関心やドッジ・ラインの影響で、復興都市計画が縮小していくのだが、それに抵抗して大胆な計画を実行できた都市もあったし、それでも高度経済成長を支えるインフラを作りあげることはできた。しかし、1950年代に都市計画の基本発想と財源が大きく変化し、「都市計画の独自性、総合性は弱まり、道路整備の一環としての都市計画が開始され」る(194頁)。たとえば、戦前は自動車交通だけを意識した「道路」と都市空間を意識した「街路」が区別されており、「街路構造令は歩車道の分離、広い歩道、植樹帯、樹苑、橋詰広場などを規定して」いたが(95頁)、それが1958年に廃止されて「自動車交通容量を重視した現行の道路構造令に一本化」されてしまったそうな。
名古屋も戦災復興の都市計画をうまくやりとげた一つなわけだが、住んでいて思うに、いまや都市部が拡大したため中心部から離れれば離れるほど概して道路事情が悪いし、大型車両が頻繁にとおることもあって大きな道路の周辺はかなりほこりっぽい。都市高速もずいぶん作ってるし、事実上、車がないと生活が不便になるような都市設計になってしまっている*3。最近は、自転車用の道路整備なんかも一部で進み始めていたりして、いろんな試みもしてるみたいだけど、道路整備はどのように考えの下に進められているのだろうかと思ったら、こういうことになってるらしい*4。でも、いまのように車が市内を走りまくることが前提は変わってないといってよさそう。乱暴な運転をする車が多いから怖いのに。さっきも、右折してからウィンカー出した車がいたよ*5。
また、市内には昔ながらの木造家屋がマンション等の間に散乱するかたちで数多く残っており、災害時に火災が広がる危険は大きい(最初は、長屋が残っているのを見つけて「おお」とか思ったが、歩き回るうちにいくらも残っていることが分かってしまった)。一方、世代交代が進んでいるせいで、ここ数年はこうした木造家屋の建て替えもすすんでおり、多くの場合、無計画にマンション等が建てられている(多分、十数年もすれば名古屋市街の感じががらっと変わってしまうのではないかと思う)*6(追記)。しかし、大きな緑地はあるけれど、町内に手頃な公園がなかったり、住宅地に必要なインフラが整っているとは言いがたい。といった感じで、わたしには、事実上の再開発が進行しつつある現在、きちんとした都市計画が必要じゃないのかと思われるわけだが、そういう議論をしている人っているのだろうか*7。
「二一世紀は都市化が終了した時代であり、大都市に安全で快適に、スマートに、多数の人が住めるよう整備し、一方で国土の七割を森林として保全とするよう政策転換することが、賢い国土経営である」(240頁)というのだが。
著者の今回の震災に対する見解の一端はここで分かる。
http://blog.goo.ne.jp/cityplanning2005/e/5008dbd154b3020747c6fda73ab5a440
しかし、この人、面白い。こんな本も出してる。ちなみに、ハルピンはロシア人が作った街で、おそらく中国唯一のヨーロッパ風の都市。建築物も一風変わっているし、ロータリーなんかがある。
満州の首都は
長春(新京)で、こっちは日本人が都市計画をしたはず。日本の国会議事堂を模した旧国会議事堂などがいまでも残っていると思う。