新小児科医のつぶやき

2017-06-08 富士川の合戦頼朝不在説・吾妻鏡から検証する

以前にこの仮説のムックをやった事があるのですが、吾妻鏡の原文が入手可能になりましたから見直してみます。


吾妻鏡

治承四年(1180)十月小一日庚辰。甲斐國源氏等相具精兵。競來之由。風聞于駿河國。仍當國目代橘遠茂催遠江駿河兩國之軍士。儲于興津之邊云々〕於石橋合戰之時令分散之輩。今日多以參向于武衛鷺沼御旅舘。

大変読みにくいのですが欲しい情報は10/1時点で

  1. 甲斐源氏が挙兵したとの風聞が駿河に届いた
  2. 駿河の目代橘遠茂が駿河・遠江の兵を興津(清水市興津町)に集結させた
  3. 頼朝は鷺沼(千葉県習志野市)にいる

治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛相乘于常胤廣常等之舟楫。濟大井隅田兩河。

10/2に大井川・隅田川を渡河。

治承四年(1180)十月小六日乙酉。着御于相摸國。

10/6に頼朝は相模到着。この間に武蔵の豪族が頼朝の傘下に入りますが省略します。

治承四年(1180)十月小十三日壬辰・・・(中略)・・・又甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國。今日暮兮止宿大石驛云々。戌尅。駿河目代〔遠茂〕以長田入道之計。廻富士野。襲來之由有其告。仍相逢途中。可遂合戰之旨群議。武田太郎信義。次郎忠頼。三郎兼頼。兵衛尉有義。安田三郎義定。逸見冠者光長。河内五郎義長。伊澤五郎信光等。越富士北麓若彦路。爰加藤太光員。同藤次景廉。石橋合戰以後。逃去于甲斐國方。而今相具此人々。到駿州云々

この記載はなかなか興味深いのですが、まず地図で示します。、

20170605195651

まずなんですが「甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國」はどういう意味だろうってところです。ここは

  • 治承四年(1180)九月大八日丁巳。北條殿爲使節。進發甲斐國給。相伴彼國源氏等。到信濃國。於歸伏之輩者。早相具之。至驕奢之族者。可加誅戮之旨。依含嚴命也。
  • 治承四年(1180)九月大十五日甲子。武田太郎信義。一条次郎忠頼已下。討得信濃國中凶徒。去夜歸甲斐國。宿于逸見山。而今日北條殿到着其所給。被示仰趣於客等云々。
  • 治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠爲御使向甲斐國。安房。上総。下総。以上三箇國軍士悉以參向。仍又相具上野。下野。武藏等國々精兵。至駿河國。可相待平氏之發向。早以北條殿爲先達。可被來向黄瀬河邊之旨。可相觸武田太郎信義以下源氏等之由云々。

ここに関連すると見て良さそうです。9/8に時政は甲斐に向けて出発しているのですが、この時期は上総からさらに安房に動いて上総氏や千葉氏などへの協力工作を行っている時期にあたります。こんな時期に北条時政父子をわざわざ甲斐に派遣するというか、ルート的に派遣できたかどうかにチト疑問を抱きますが、吾妻鏡ではそうなっています。そうなっているだけでなく、9/20には武田氏に黄瀬川に来いとまでしています。もっとも9/19には上総介広常が大軍を率いて頼朝に加わっていますから、将来的に駿河進出を考慮したかもしれませんが、当然ですが時政にその情報が伝わるのはもっと後になります。

もっともそうやって時政が甲斐に行っていないと「甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國」にならないのですが、情勢からして時政は黄瀬川を目指していたと取るのが自然かと思います。時政は大石駅に泊まったとしていますが、ここは現在の大石寺の近くになり中道往還になります。甲斐から黄瀬川に向かうのに中道往還を使っても不思議はないのですが、駿河の興津に平家軍が集まっている情報ぐらいは手にしていたはずです。そんな時に中道往還を使えば鉢合わせしかねません。もし黄瀬川に向かうのであれば鎌倉往還を使うべきかと思います。鎌倉往還は古くは官道の甲斐路に始まりますから、この時でも使えたはずです。


他に気になるのは「戌尅。駿河目代〔遠茂〕以長田入道之計。廻富士野」で、戌の刻とは日没後に夜空に星が見えかける時間帯を指します。つまりは北条親子が大石駅に止宿した後に飛び込んだ情報と解釈できそうです。ごく単純には興津に集結していた平家軍が中道往還を北上することであり、北条親子から見れば駿河軍は相模に進まず甲斐に進む情報を得たともいえます。

平家軍の「廻富士野」の解釈も微妙なんですが、これは武田軍の解釈だった気がなんとなくします。中道往還を使えば甲府を直接狙えますが、平家軍はそうは動かず富士山北麓の富士五湖周辺にまず展開すると読んだんじゃないかと見ています。ここも微妙で武田軍は甲府近辺での決戦を望まず、武田軍主力が富士五湖に進出することによって平家軍の甲府侵攻を牽制し、決戦場を富士五湖周辺に誘導する意図であったかもしれません。とにかく武田軍は若彦路を南下したとなっています。

治承四年(1180)十月小十四日癸巳。午尅。武田安田人々。經神野并春田路。到鉢田邊。駿河目代率多勢。赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯。道峙磐石之間。不得進於前。不得退於後。然而信光主相具景廉等。進先登。兵法勵力攻戰。遠茂暫時雖廻防禦之搆。遂長田入道子息二人梟首。遠茂爲囚人。從軍舎(捨)壽被疵者。不知其員。列後之輩不能發矢。悉以逃亡。酉尅。梟彼頚於富士野傍伊堤之邊云々。

10/14の鉢田合戦の描写なんですが、武田軍は「經神野并春田路」で鉢田に午の刻すなわち12時頃に鉢田に到着したとなっています。読み下しになるのですが神野を経て春田路を通りと読みたいところです。神野は浅間神社の野原の解釈があるようですが、一方で富士宮市白糸の解釈もあるようです。白糸とは白糸の滝があるところですが、白糸は鉢田合戦で勝利した武田軍が討ち取った平家軍の首をさらした伊堤(井出)よりさらに南にあるので、河口湖周辺からから春田路(= 中道往還)に移動するのに神野を横切ったぐらいに私は取ります。地図で示すと

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甲府から若彦路で河口湖北岸に出た武田軍は、西湖北岸を通り本栖湖あたりで春田路(中道往還)に入ったぐらいの見方です。西湖から本栖湖の南側には青木ヶ原樹海が広がっていますが、明治期の地図には西湖から本栖湖に至る道が記されているので、それを通ったぐらいの推測です。ここで鉢田の地名は後世に失われてしまい不明となっているのですが「赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯」の記述から甲駿国境ぐらいと見るのが自然の気がします。少し付け加えると、武田軍は甲斐国内の鉢田に一旦集結し、そこから国境に向かって南下したぐらいでしょうか。

もうちょっと推測を加えると源平両軍が遭遇したのは国境の峠としても、少し駿河に下ったところの可能性が高いと思っています。どう見たって峠道での合戦ですから、高いところに陣取って戦うのが有利です。峠に武田軍は先着し、登ってくる平家軍を迎え撃ったぐらいの状況を想像します。そうそう鉢田合戦は10/14で、武田軍が若彦路を越えたのが10/13です。若彦路を越えた武田軍は河口湖北岸辺りに宿営したと仮定すれば、甲駿国境までおおよそ22〜23kmぐらいです。この距離なら寅の三刻ぐらいに出発すれば午の刻に到着は可能と考えます。

鉢田合戦は武田軍の快勝だったのですが、勝った後にどこまで武田軍が進んだかは「酉尅。梟彼頚於富士野傍伊堤」とあります。伊堤は井出であり、現在の上井出(明治期の上井出村)で良いと思うのですが、宿営するなら村があるところを選んだと思います。伊堤に着いたのが酉の刻すなわち日没時間あたりになりますから、移動時間は3時間ほど推測され、10kmからせいぜい15kmぐらいが限界と考えられます。甲駿国境から一番近い村は明治期の地図でも人穴でこれが10kmぐらい、白糸の滝があるあたりが上井出の中心地みたいですが、これが18kmになります。距離と時間からして人穴ぐらいが有力そうですがどんなものかというところです。

余談ついでなんですが10/13夕に大石駅に北条時政親子が泊まっているのですが、どうしたんだろうってところです。あえて推理すれば

  1. 大石駅で平家軍をやり過ごし、鉢田で平家軍が敗走した後に伊堤ぐらいで武田軍に合流した
  2. 平家軍北上の情報に反応して中道往還を夜道でも突破して武田軍に合流した

どちらにしても10/14時点で武田軍に合流したんじゃないかぐらいが想像されます。

治承四年(1180)十月小十六日乙未。爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行。所謂法華。仁王。最勝王等鎭護國家三部妙典。其外大般若經。觀世音經。藥師經。壽命經等也。供僧奉仕之。以相摸國桑原郷爲御供料所〕又今日令進發駿河國給。平氏大將軍小松少將惟盛朝臣率數万騎。去十三日到着于駿河國手越驛之由。依有其告也。今夜。到于相摸國府六所宮給。於此處。被奉寄當國早河庄於箱根權現。其御下文。相副御自筆御消息。差雜色鶴太郎。被遣別當行實之許。御書之趣。存忠節之由。前々知食之間。敢無疎簡之儀。殊以可凝丹祈之由也。御下文云。

10/16の記録も興味深いのですが、この日の頼朝の朝からの行動は、

    爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行

鶴岡八幡宮で祈祷をやっていたとなっています。まあこの祈祷に頼朝が参加していたか、参加していたにしても最後まで付き合っていたかは疑問ですが、この日に駿河への出発令を下したとなっています。ほいでもって発見したのが、

    今夜。到于相摸國府六所宮給

六所宮とは現在の六所神社であり大磯にあります。調べると相模国一の宮だそうで、宿泊場所としては悪くありません。鎌倉からの距離も30km弱なんですが、、

治承四年(1180)十月小十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。

10/17は対波多野戦が行われたようです。「戦」といっても実質的な戦闘は乏しかったと推測され、波多野義常は松田郷で自殺となっています。ここで問題は頼朝が六所神社からどれだけ進んだのだろうです。まず六所神社から黄瀬川まで65kmぐらいです。頼朝は足柄道を越えたともなっていますから、とりあえず松田郷までで18kmぐらいです。ここも地図で示すと、

20170606131501

10/17朝時点で頼朝は六所宮にいるのですが、下河内行平率いる討伐隊が仮に六所宮から出発したとすれば、六所宮から北上して秦野に向かったと考えるのが妥当です。下河内隊の接近を聞いた波多野義常は足柄道を西に逃げて松田郷で自殺となっていますが、頼朝は下河内隊の後に続いたのか、それとも海岸線を酒匂川まで進んでから国府津あたりから北上し松田郷を目指したかのどちらかが考えられます。波多野義常が松田郷で自殺している点を考慮すると、頼朝本隊が南回りで松田に接近したためとも考えられますが、これ以上は不明です。

どちらにしても頼朝も松田に到着して足柄道を西に進んだと見て良いと思いますが、ここからが少々問題です。ここからの宿場的な町は平安期なら次が関本でその次が足柄関所になるはずです。頼朝が関本に泊まったか、さらに進んだかですが、

治承四年(1180)十月小十八日丁酉。大庭三郎景親爲加平家之陣。伴一千騎欲發向之處。前武衛引率二十万騎精兵。越足柄給之間。景親失前途・・・(中略)・・・及晩着御黄瀬河。

まず「越足柄給之間」とあるところから10/18に足柄峠を越えたとまず見たいところです。それと「晩着御黄瀬河」とは黄瀬川の到着時間がかなり遅かった事を示唆します。関本から黄瀬川まで約50kmあり、途中で足柄峠を越える点を考えると、昔の人の足をもってしても相当な遠距離と見て良いかと思います。そのため「晩着」とは戌の刻さえこえて亥の刻になっていたかもしれないと想像されるので、私は関本に頼朝は宿泊した可能性が高いと考えます。またそれだけの距離をこなすためには万騎なんて大軍は到底無理で、後発隊があるとしても1000人ぐらいがせいぜいじゃなかろうかと思う次第です。

治承四年(1180)十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師。爲属小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭。而祐親法師聟三浦次郎義澄參上御前。申預之。罪名落居之程。被仰召預于義澄之由。先年之比。祐親法師欲奉度武衛之時。祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功可有勸賞之由。召行之處。祐泰申云。父已爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛云々。世以美談之。

其後。加々美次郎長芿參着。去八月上旬出京。於路次發病之間。一兩月休息美濃國神地邊。去月相扶。先下着甲斐國之處。一族皆參之由承之。則揚鞭。兄秋山太郎者。猶在京之旨申之。此間兄弟共属知盛卿。在京都。而八月以後。頻有關東下向之志。仍寄事於老母病痾。雖申身暇。不許。爰高橋判官盛綱爲鷹装束。招請之次。談話世上雜事。得其便。愁不被許下向事。盛綱聞之。向持佛堂之方合手。殆慚愧云。當家之運因斯時者歟。於源氏人々者。家礼猶可被怖畏。矧亦如抑留下國事。頗似服仕家人。則稱可送短札。献状於彼知盛卿云。加々美下向事。早可被仰左右歟云々。卿翻盛綱状裏有返報。其詞云。加々美甲州下向事。被聞食候訖。但兵革連續之時遠向。尤背御本懷。忩可歸洛之由。可令相觸給之趣所候也云々。

さて10/19なんですが、あえてフル引用にしています。この日のトピックとして伊東祐親の捕縛が挙げられています。祐親は鯉名から海路で平家軍との合流を目指していたようですが、天野遠景に見つかり捕縛されたようです。この捕縛された祐親が黄瀬川に連行されたとなっていますが、果たして何時ごろだったのだろうかです。吾妻鏡を読んだ印象では祐親の捕縛は10/18以前に行われた見れそうで、頼朝が10/18に黄瀬川に着いたので連行したと見るのが妥当かと思われます。天野から黄瀬川まで11kmぐらいなのですが、これを3時間と見、出発が6時頃であっても9時頃になります。もうちょっと遅い可能性も十分にあり、詮議の時間も含めると午前中いっぱいは祐親詮議に費やされたとしても不自然とは言えません。

また10/19の記事は祐親詮議以外にもあれこれと書かれていますが、どう読んでもこの日に黄瀬川から動いたとする記録はありません。つまりは

    10/19は頼朝は黄瀬川にいた

と見るしかできません。この点について吾妻鏡も整合性を配慮しているところはあり、10/18の記事に

    以來廿四日。被定箭合之期。爰甲斐信濃源氏并北條殿相率二万騎。任兼日芳約。被參會于此所。武衛謁給。

10/24に矢合わせとし、武田とも約束していると記録しています。10/24に矢合わせなら10/19に黄瀬川で祐親詮議をやっていても日程的には無問題ってところです。でもって

治承四年(1180)十月小廿日己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又左少將惟盛。薩摩守忠度。參河守知度等。陣于富士河西岸。而及半更。武田太郎信義。廻兵畧。潜襲件陣後面之處。所集于富士沼之水鳥等群立。其羽音偏成軍勢之粧。依之平氏等驚騒。爰次將上總介忠芿等相談云。東國之士卒悉属前武衛。吾等憖出洛陽。於途中已難遁圍。速令歸洛。可搆謀於外云々。羽林已下任其詞。不待天曙。俄以歸洛畢。于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被討取。家義又討伊藤云々。印東次郎常義者。於鮫嶋被誅云々。

10/20は賀島に着いたとしています。黄瀬川からの出発になるのですが、黄瀬川から平家越までおおよそ25kmぐらいになります。関本から黄瀬川の50kmを一日で踏破している頼朝ですから移動可能の距離ですが、それでも半日以上はかかる距離とはいえます。もし頼朝が富士川に来ていたら10/20の午後ぐらいに着陣し、その夜に水鳥の羽音で逃げた平家軍を見ることは距離と時間的には可能です。

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士卒等。而常胤。義澄。廣常等諌申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未歸伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西云々。依之令遷宿黄瀬河給。以安田三郎義定爲守護。遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。

今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

秉燭之程御湯殿。令詣三嶋社給。御祈願已成就。偏依明神冥助之由。御信仰之餘。點當國内。奉寄神領給。則於寳前。令書御寄進状給。其詞云。

ここも長いのですが、前半部は富士川戦後の処理が書かれています。

    依之令遷宿黄瀬河給

つまり黄瀬川に陣を早く戻すようにの記載もあります。だからまた半日かけて黄瀬川に戻り、そこで義経との対面があってもエエことなりますし、その夜に三島大社に参詣しても時間的には可能です。ただなんですが、

月日 吾妻鏡
10/20 于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被討取。家義又討伊藤云々。
10/22 飯田五郎家義持參平氏家人伊藤武者次郎首。申合戰次第并子息太郎討死之由。昨日依御神拝事。故不參之由云々。

飯田家義は石橋山の合戦にも参加していますが、敗戦後に武田家に身を寄せていたとされます。どうも家義は退却する平家軍を渡河追撃したようですが、引き返してきた平家の伊藤次郎に息子の太郎を討ち取られてしまったようです。それに対し家義は伊藤次郎を討ち果たして頼朝に見参しようとしたらしいのはわかります。吾妻鏡と整合性をもって解釈すれば、

  1. 10/20の夜に水鳥の羽音で平家軍退却
  2. 10/21朝になり飯田家義、平家軍を渡河追撃
  3. 伊藤次郎の首を見せようと思ったら頼朝は黄瀬川にトットと帰還
  4. 10/21夜は頼朝が三島大社参籠のために不在
  5. 10/22になり手柄を賞せられる

問題は飯田家義がどこで伊藤次郎の首を頼朝に見せたかです。

治承四年(1180)十月小廿三日壬寅。着于相摸國府給。始被行勳功賞。

なんと10/23に頼朝は相模国府まで帰っています。これは10/22朝に出発しても相当な強行軍になります。来た時に逆廻しで、

  1. 黄瀬川を相当早く(寅の刻)から出発し、10/22夜に関本到着
  2. 関本から相模国府までも50kmぐらい

10/23はまだしも余裕があるかもしれませんが、10/22は相当な強行軍が必要になります。そうなると頼朝は三島大社に参籠せずに夜のうちに黄瀬川に引き返し、10/22の出陣前に飯田家義を謁見した事になります。そうじゃないと会う間がありません。まあ関本に向かう道すがらの可能性も残りますが、頼朝の相模帰還も相当な無理を押しているのがわかります。


仮説

ここまでが吾妻鏡の記録の再検証なのですが、頼朝は10/22に黄瀬川を出発したのではなく10/21に出発したんじゃないかと考えています。

10月 吾妻鏡 私の仮説
頼朝宿泊地 出来事 移動 頼朝宿泊地 出来事 移動
1 鷺沼 * * 鷺沼 *
6 相模 武蔵から移動 相模 武蔵から移動
14 鎌倉 鉢田合戦 鎌倉 鉢田合戦
16 六所宮 駿河出陣 鎌倉から黄瀬川へ 六所宮 駿河出陣 鎌倉から黄瀬川へ
17 関本? 波多野氏・大庭氏追討 関本? 波多野氏・大庭氏追討
18 黄瀬川 夜到着 黄瀬川 夜到着
19 黄瀬川 伊東祐親詮議 * 黄瀬川 伊東祐親詮議 *
20 賀島 富士川合戦 黄瀬川 義経引見、三島神社参詣
21 黄瀬川 義経引見、三島神社参詣 竹之下? 相模帰国へ 黄瀬川から相模国府へ
22 関本? 相模帰国へ 黄瀬川から相模国府へ 松田?
23 相模国府 論功褒章 相模国府 論功褒章

さらに地図もみてもらいます。

20170607122414

まず鎌倉から黄瀬川の往路ですが、距離を見ると3日で到着するのは可能ですがかなり無理をしています。とにかく無理があるのは関本〜黄瀬川で距離こそ42kmぐらいですが、途中に16kmの足柄峠越があります。黄瀬川到着は夜となっていますが、夜でもかなり遅い時間帯であったと推測され、竹之下から黄瀬川の途中で夜道になったと考えられます。これだけの移動をこなすには大勢では無理で少人数での行動であったとするのが妥当です。

復路も同じ道を通ったと考えれば距離は同じですから黄瀬川〜関本は移動可能に見えますが、往路と復路では条件が変わります。黄瀬川〜竹之下で26kmあり半日はかかる距離ですが、そこから足柄峠にかかると山道で夜になってしまいます。つまり往路の竹之下〜黄瀬川は夜道であっても平地の東海道であったので移動できましたが、足柄峠の山道を夜間突破するのはかなり無理があるだろうってところです。そうなると復路は足柄峠の麓あたりで宿営したと考える方が妥当です。

ただ竹之下で宿営とすると竹之下から六所神社(相模国府)まで1日で移動する必要が出てきます。これが約40kmぐらいになり関本〜黄瀬川より少し短くなりますが、時間にして1時間程度の短縮しか期待しにくく、相模国府到着はやはり夜になります。その時間帯から論功褒賞をやるだろうかの疑問があります。武士にとって論考褒章は忠誠心の源泉ですから、夜であってもやるでしょうが、頼朝にとって重要な政治的パフォーマンスの場ですからもう少し余裕をもってやりたいと考えます。

そのためには竹之下から相模国府まで強行軍をやるのではなく、松田辺りで宿営したんじゃないかと推測します。状況的にも駿河の平家勢力は壊滅し、相模の反頼朝勢力も駆逐され、足柄峠を越えれば日は浅いとはいえ地盤の相模ですから、それぐらいのゆとりを持っても怠慢とは言えないと思います。松田からなら早立ちすれば午前中には相模国府に到着可能と考えられ、10/23午後に論功褒賞を行う時間が作れます。

ただなんですが復路に松田宿営を入れると、黄瀬川から相模国府まで3日かかります。つまり10/21昼には黄瀬川を出発する必要が生じます。しかし吾妻鏡では10/21朝は賀島におり、その日は黄瀬川に引き返し、義経と会い、三島神社の参詣しています。つまりは吾妻鏡では10/21中に黄瀬川を出発することは不可能となっています。これを義経に会ったのも、三島神社参拝も1日繰り上げて10/20だったとすればどうかと思います。そうすれば10/21中に黄瀬川は出発可能であり、竹之下、松田と宿泊を重ねて相模国府で10/23午後に論功褒賞が可能になります。

もちろんそうなると吾妻鏡の10/20の賀島での富士川合戦の記録は創作になり、頼朝は黄瀬川から動かなかった事になりますが、玉葉でも富士川合戦で頼朝の事を一言たりとも触れていない点を考慮すると、

    頼朝は黄瀬川から動かず、富士川の合戦にまったく参加していなかった

富士川の合戦は敗者の平家側の記録を残す玉葉によると平家軍は10/18に富士川の東流の西岸まで進み10/19に総攻撃の予定でしたが、10/19夜に逃亡者が多数出現。10/19の決戦は無理になり、10/20の夜に撤退で宜しそうです。10/20夜の撤退を水鳥の音として平家物語が歴史に残しています。吾妻鏡も編集時に玉葉や平家物語を参考文献にしたとされますが、頼朝を富士川合戦に参加させるには10/20から10/21に富士川にいれば良いことになります。なにせ決戦は起こらず平家が勝手に逃げた形の合戦ですから存在さえすれば参加したことになります。

黄瀬川から富士川まで25kmぐらいですから、おおよそ半日ぐらいの道のりになります。10/20に黄瀬川を立てば10/20の午後には富士川に着き、10/21に富士川を立てばその日の午後には黄瀬川に戻れます。この点に注目して吾妻鏡の編集者は10/20〜10/21の記事を創作したんじゃないかと考えています。ただそのために黄瀬川から2日で相模国府に戻る日程を組まざるを得なくなったぐらいです。これも10/23の相模国府での論功褒賞は変えられない事情があったと見ざるを得ません。

他も不自然な点はあり、本当に頼朝が富士川で平家軍を迎え撃つつもりなら10/19に富士川に向かうべきかと思います。伊東祐親の詮議も重要でしょうが、平家軍の来襲は源氏の命運にかかる問題のはずだからです。吾妻鏡では武田軍との連携を随所に書き込んでいますが、10/18つまり頼朝が黄瀬川に到着した日に10/24を矢合わせにしたとするのも怪しげなところです。10/18時点で平家軍は翌日の決戦のために富士川東流の武田軍陣地の前に進んでいます。そこから6日先に矢合わせを決めたなんてのは無理がありありです。

平家軍陣地は富士川の中州にあったわけで、平家軍がそこで漫然と6日も待つはずがないってところです。中州陣地は雨が降れば危険なのは誰の目にも明らかですから、そこまで平家軍が進んできたというのは即決戦以外の選択枝はありません。変形ですが平家軍は背水の陣を敷いたとも見れるからです。ただ吾妻鏡の編集上はそうしないと頼朝の動きが不自然になるとして書き加えた気がします。頼朝が黄瀬川を動かせる日は10/19が伊東祐親詮議で絶対でしたから10/20になります。つまり頼朝は10/24が矢合わせだったので予定通りに富士川に進んだとする必要があったと見ます。

こういう編集になって一番怒るのは武田になりますが、武田はこの後に勢力を落とし頼朝の下風に入らざるを得なくなっただけではなく、頼朝から続く鎌倉幕府に脅かされる関係になってしまいます。歴史とは勝者の歴史であるとはよく言ったものだと感じています。


黄瀬川の目的は?

吾妻鏡では黄瀬川進出の目的を頼朝・武田連合軍による駿河の平家勢力排除として組み立てています。小道具として時政父子が甲斐に行った事になっていますが、時政父子の出発時期は石橋山で敗れ、房総半島に逃げ込んだ後にようやく安房の安西氏の支援を得た段階で、この時期は上総介広常の動向もまだ不明なだけでなく、千葉氏さえまだ協力が判明していない時期に当たります。いかに頼朝とてチイと飛躍しすぎだろうってところで、せいぜい相模になんとか舞い戻りたいが精一杯の構想の時期だと考えるのが妥当です。

頼朝の運命が大きく開けたのは上総介広常の支持で異論が少ないと思いますが、広常の支持により上総から相模へのルートが可能になった見れる気がします。上総から相模に陸路で行くには武蔵を通らなければなりませんが、武蔵の豪族を力で威服できるだけの軍勢を広常が連れて来てくれたぐらいでしょうか。頼朝が相模に舞い戻れたのは10/6ですが、相模に入った頼朝の次の目的は相模国内の親平家勢力、反頼朝勢力の排除になります。具体的には大庭氏・波多野氏ですが、これに動いたのは10/16になってからです。

この10/16ですが10/14の鉢田合戦の影響は排除して良さそうな気がします。鉢田合戦は10/14の昼を過ぎてから行われています。戦闘時間は不明ですが、10/14午後の合戦の結果を10/15の夜までに鎌倉の頼朝に知らせるのは距離と時間からまず不可能です。当時の情報伝達は人の移動速度に縛られますから、早馬みたいなものでも利用しないと10/15夜段階で頼朝が知る事は出来ないからです。たとえば勝利した武田軍が頼朝のために、わざわざそこまでしたとは思えないってところです。

ここで頼朝が黄瀬川でやった事を列挙してみたいのですが、

  1. 捕縛された伊東祐親の詮議
  2. 義経との再会
  3. 三島大社参詣
  4. 飯田義常の褒賞

このうち義経と飯田義常のエピソードはアクシデントと見なせます。ひょっとしたら主目的は伊東祐親の詮議が目的ではなかったかと思い出しています。吾妻鏡には天野遠景による捕縛は書かれていても「いつ」捕縛されたのかは不明です。なにが言いたいかですが、祐親を捕縛した天野遠景の報告を鎌倉で受け取ったのが10/15ぐらいじゃなかろうかってことです。伊豆は頼朝にとって因縁浅からぬ土地ですし、伊東祐親も因縁深い人物です。それだけでなく伊東氏を排除できれば伊豆が手に入る計算もできます。

そこで波多野氏・大庭氏排除と連動させて伊豆も手に入れる作戦が頼朝の黄瀬川進出じゃなかろうかってところです。関本から黄瀬川まで頼朝が異様に急いだのは、捕縛された祐親の状況の変化(伊東氏による奪還とか)が起こらないうちにってところで、とにかく頼朝が黄瀬川まで進み、捕虜の祐親を詮議してしまう事が政治的に求められたぐらいです。10/18夜に黄瀬川に到着した頼朝一行は100人にも満たない少人数であったと思っています。そうでなければ関本〜黄瀬川の移動はまず不可能です。

ただ後続部隊はあったはずです。たいした仮説ではないのですが、頼朝隊は少人数で関本から黄瀬川に急行する一方で、千人程度の後続部隊はまず関本から足柄峠を越え竹之下で宿営し、それから10/19になって黄瀬川を目指していたぐらいでしょうか。祐親を詮議するのは伊豆支配のためのパフォーマンスの意味もありますから、軍事力の誇示も必要だからです。そうしておけば天野遠景が黄瀬川に祐親を連行した時に目にする光景は、続々と相模の源氏軍が黄瀬川に集まってくるものになるからです。

祐親の詮議を10/19に終えた翌日に飛び込んできたビッグニュースが平家軍の敗戦であった気がします。この状況にへの対応についてはそれこそ

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士卒等。而常胤。義澄。廣常等諌申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未歸伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西云々。依之令遷宿黄瀬河給。

吾妻鏡では富士川でこの軍議が行われた前提なので「依之令遷宿黄瀬河給」としていますが、富士川に行かず黄瀬川に留まったままであるのなら「相模に早急に戻るべし」だったと推測します。私の仮説日程の方になりますが、この軍議は10/21朝に行われ、10/21午前中に相模帰還の路についたと見れば流れは自然です。


ただこの仮説にも問題点はあり、

    ほんじゃ、頼朝は平家の追討軍をどうするつもりだったんだ?

この辺は頼朝も腹を括っていたというか、リスクを冒さざるを得ない時期であったとしか言いようがありません。そもそも論になりますが、この時期の頼朝は南関東の有力豪族の支持を得て勢力を広げていますが、とにもかくにも日が浅く、結束力の点で不安がテンコモリだったと考えています。つまりはまともに戦えるかどうかの不安です。黄瀬川に着くころには鉢田合戦の結果も、維盛の追討軍の動きもある程度把握していたと思いますから頼朝の前提は、

    武田が勝つ!

そりゃ富士川で武田が惨敗を喫して黄瀬川、さらに相模に押し寄せる事態になれば頼朝に味方している南関東豪族の動向も怪しくなります。すべては武田が勝つ、たとえドローであっても、とにもかくにも平家の追討軍が一旦は都に引き返す前提で事を進めていたんじゃないかと考えています。見様によっては武田が駿河の平家勢力、さらには維盛率いる追討軍相手に大汗をかいている間に相模の反頼朝勢力を叩き潰し、伊豆も掠め取ったぐらいにも感じますが、旗揚げの時期にはこの程度の博打や要領のよさは欠かせないと思います。

JSJJSJ 2017/06/13 09:36 おはようございます。
頼朝が黄瀬川に留まっていたという説への賛否は保留します。
可能性はあるとは思います。

頼朝が富士川には参陣していなかった、という前提で頼朝の思惑を想像すると、
1.これは以前のエントリでもYosyanさんが指摘していたのではないかと思いますが、
頼朝が富士川合戦に参戦しても「武田と共に戦う」どころか「武田の下で戦う」形になる恐れがあり、それは避けたい。
2.Yosyanさんの仮説でも黄瀬川までの往路は急行しているようです。
これは武田が負けた場合に備えてのことではないでしょうか。
祐親を処断したあとも追討軍の撤退を確認するまでは黄瀬川に留まっていたのは、そのためだと思います。
追討軍が自分のほうに向かってくればそこで応戦するし、武田を追って甲斐へ向かえばその背後を脅かす、
そういう位置取りではないでしょうか。

YosyanYosyan 2017/06/15 21:04 JSJ様

やはり詰めが甘いですよね。吾妻鏡のお陰で頼朝の1日単位の動きが石橋山から辿れる訳で、そこから頼朝の戦略が見えそうな気がしています。最初はレスにするつもりで書き始めて挫折。エントリーに書いているのですが、手を付けたら選択肢が多くて難渋してます。

これは難しいから書けないのではなく、想像の翼を広げる範囲が多過ぎて「楽しい」状態とご理解下さい。とにもかくにもまとまった考察時間を取るのが目下の課題です。

miino阿弥miino阿弥 2017/08/25 09:30 ごぶさたしております。
関係なくて申し訳ありませんが、インターネット上で河田容英氏の「美味求眞 進士流」を発見しました。
小林正信氏の明智光秀進士説を料理作法の面から補完するユニークな小論ではないかと思います。
一色氏を称した斎藤義龍、斎藤龍興老臣連署状などでは重臣に一色氏家臣団の延永氏などを名乗らせていますから、中世に於いては姓氏を冒すことが時折見られるようです。そう考えれば、進士氏が明智姓を冒すこともあり得たのではないかと思われます。
恐ろしいことに段々と「明智光秀の乱」小林正信教の信者になりそうです。ご参考まで。

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