自分のコンピューターを信用できますか?

akirashibata2005-12-24

メリークリスマス。イギリスにいても外に出ないでテレビを消しておけばクリスマスから逃れられます。昨日に引き続いてまた翻訳しました。
今日は二つ。

自分のコンピューターを信用できますか?
By Richard Stallman(http://www.stallman.org/)


あなたのコンピューターは、誰のいうことを聞くべきでしょうか?ほとんどの人はコンピューターは他の誰かではなくて、所有者に従うべきだと思うでしょう。「信頼コンピューティング」という考えがが今巨大なメディア会社(映画やレコード会社を含む)や、マイクロソフトインテルといったコンピューター関連会社を中心に計画されて、あなたのコンピューターをあなたではなく彼らの言いなりにならせようとしているのです(マイクロソフトのバージョンは「パラジウム」と呼ばれている)。占有的なプログラムは以前にも悪意ある機能を付けたことがありますが、この計画はそれをもっと大きな問題にします。

占有的なソフトウェアというのは基本的に、あなたがその動作をコントロールすることが出来なくて、またソースコードを見て中身を替えることも出来ないものです。頭のいいビジネスマンが力を使って他人を陥れるのは日々行われていることです。マイクロソフトはそういうことを数回に渡ってやってきました。あるバージョンのウィンドウズはハードディスクの中にある全てのプログラムをマイクロソフトに通知する機能をもっていました。最近の「セキュリティ」更新では、ウィンドウズメディアプレーヤーはユーザーにさらに新しい制限書に同意させました。マイクロソフトだけではありません。あのKaZaa音楽共有ソフトは彼らのビジネスパートナーがソフトがインストールされているコンピューターの利用権を貸し出せるような仕組みになっているのです。こういう悪意のある機能は大概秘密にされていますが、例えそのことを知っていたとしても、ソースコードなしには、取り除くのがとても難しいのです。

昔は、こういう出来事はたまに起こるだけでした。「信頼的コンピューティング」は、これを全面的に広げることが出来るのです。「背信的コンピューティング」というのがもっと適当な名前です。この計画はあなたのコンピューターがあなたの命令にしたがわないするようにするための一歩なのです。もっと正確にいえば、これはあなたのコンピューターが一般的目的のためのコンピューターではなくなることを意味するのです。一つ一つの動作にしっかり許可が与えられる必要がでてくるので
す。

背信的コンピューティングの裏側にある技術にデジタル暗号技術と暗号鍵の仕掛けが挙げられます。そしてこの暗号鍵はユーザーから隠されたところに置かれています。占有的プログラムは、この仕組みを使ってたとえば、そのコンピューター上のほかのプログラムの利用を制限したり、どの文書やデータにアクセスできるかを勝手に決めたり、またそれらのデータをどういうプログラムで読み出せるか、ということをコントロールしたりします。こういうプログラムは定期的に新しいルールをインターネットからダウンロードしてきて、それをあなたのデータに自動的に適応します。もしコンピューターがこれをダウンロードできない場合、一部の機能が自動的につかえなくなったりするのです。

もちろんハリウッドとやレコード会社はこの背信的コンピューティングを利用したDRM(Digital Restrictions Management, デジタル許可管理)を計画していて、これが出来るとダウンロードされたビデオや音楽が決められたコンピューターでしか再生できなくなります。だから正規に許可されたコンピューターを使えば、それらのファイルを共有することは完全に不可能になるのです。私たち一般人はこういうものを共有する自由を持っているんです。(もちろん誰かがこういったシステムの秘密を暴くことになって、それを他の人に配ったりすることになるはずなので、DRMは必ずしも成功するとは思えませんが、それだからといってそんなシステムを使うことのいいわけにはなりません。)

ファイルの共有が出来なくなるだけでもひどいですが、更に悪いことがあるのです。これと同じ機能を使って、メールやその他の文章を管理しようというのです。結果的に二週間で消えるメールとか、会社の中のたった一台のコンピューターでしか読めない文章が出来たりします。

たとえばあなたの上司が、ちょっとリスクが高いと思われる仕事をやらせる場合を考えてみてください。一ヵ月後にそれがうまくいかなくてもそのメールを使って上司を責めることは出来なくなります。「書いて証拠に」しておいても、インクが消えてしまうのでは役に立たないのです。

たとえばあなたが上司から受け取ったメールに常識では考えられないような違法な計画がかかれてていて、たとえば会社の会計検査書を抹消しろと書いてあったとします。もしくはあなたの国に危険なものをチェックなしで輸入する、ということでもいいですが、いずれにしてもそれをマスコミに知らせることは簡単です。ところが背信的コンピューティングの世界では、そうして送られたメールが他の誰にも読めないようにするようなことが可能なのです。

ワープロソフトのマイクロソフトワードなどは、こういう機能を利用して文書をセーブすることが出来るのです。そうすると他のライバルのワープロソフトはこれを読めなくなります。今現在、ワードの保存形式を解析するのは骨の折れる仕事で、それでもフリーのワープロソフトでワードの文章を読むためにはどうしても必要な作業なのです。もしワードがこの文書を背信的コンピューティングを使って暗号化していたら、フリーソフトウェアのコミュニティーで今あるようなワープロを開発することは出来なくなるのです。例え出来るようになったとしても、それはデジタルミレニアム著作権法で禁止されている可能性が高いのです。

背信的コンピューティングを使ったプログラムは、定期的に新しいルールをインターネットからダウンロードしてきて、それをあなたのデータに自動的に適応します。もしマイクロソフトか、アメリカ政府かが、あなたの書いた文章が気に入らなければ、新しいルールを作って、他のコンピューターでその文章が読めなくするようにしてしまうのです。コンピューターはそのルールをダウンロードするとすぐにそれに従うようになって、あなたの文章は1984年式の方法で抹消されてしまうかもしれません。自分でも読めなくなってしまうのです。

このように背信的コンピューティングにいやな機能があるのなら、自分でやってみて痛い思いをしたら誰も使わないだろう、と思う人もいます。認めるのは難しいかもしれませんが、大切なのは、あなたの判断の結果が思いもよらないところに行ってしまうことになるということです。一度こういうプログラムに依存し始めると、それしかつかえなくなるのです。そして皆がこれを使い始めたころにこれが変更されていくのです。自らアップグレードをダウンロードするアプリケーションもあって、これがどんどん勝手な行動をし始めると、もうあなた自身ではこれをとめることが出来なくなります。

今現在はまだこういう占有ソフトウェアを使わないでやっていくことが出来るのです。GNU/Linuxもしくは他のフリーなOSを使って、占有的なプログラムを使わなければ、あなたのコンピューターはあなたのものになります。もしフリーのプログラムで悪意のある機能をもったものがあれば、コミュニティーのほかの開発者がそれを取り除いて、新しいバージョンを配ることが出来ます。フリーなアプリケーションはフリーでないOSでもつかえるので、そういう使い方をしているユーザーもいるのですが、それでは完全な自由は与えられません。

背信的コンピューティングのせいで、フリーのOSやフリーのアップリケーションは今危機にあります。フリーのソフトは今後全くつかえなくなってしまうかもしれないのです。なぜなら将来的にフリーなソフトは全く使えないということにもなりかねないからです。あるバージョンの背信的コンピューティングが、ある一定の会社の許可したOSしかつかえなくするとフリーなOSはインストールできなくなります。他のバージョンではすべてのプログラムがOS開発者からの許可を必要とするかもしれません。フリーのアプリケーションはそんなシステムでは全然使えなくなる。もし使える方法を見つけても、他の人にそれ教えたらそれは犯罪になるのです。

すでにアメリカでは、全てのコンピューターに背信的機能をつけるための法案が検討されています。そうなると古いコンピューターはインターネットにつなげることが出来なくなるのです。CBDTPA(私たちの間では、Consume But Don't Try Programming Act,使ってもプログラミングはするな法案)がそのひとつに挙げられます。例えそうしたものが完全に背信的コンピューティングに乗り換えることを迫らなくても、そうしなくてはいけない、という強いプレッシャーをかけてくるでしょう。今日ワードフォーマットで情報をやり取りすることがあるますが、これはいくつもの問題をはらんでいます(興味があれば「ワードアタッチメント撲滅のために」http://www.gnu.org/philosophy/no-word-attachments.html)。もし新しい、背信的コンピューティングでしかワードの文書が読めなくなったら、そちらに乗り換える人は沢山いるでしょう。私たちに出来ることは、一丸になってこの選択に反対することなのです。

背信的コンピューティングについてもっと知りたければ、http://www.cl.cam.ac.uk/users/rja14/tcpa-faq.html

背信的コンピューターを阻止するためには多くの人々が協力する必要があります。私たちは協力者を探しています。Electronic Frontier Foundation(http://www.eff.org/)とPublic Knowledge(http://www.publicknowledge.org/)が、反対のキャンペーンをはじめました。Free Software Foundationは、Digital Speech Project(http://www.digitalspeech.org/)もサポートしています。ぜひ彼らのサイトに行って、活動のを支援してあげてください。


あとがき

1. GNUプロジェクトではGNU Privacy Guardというプログラムを配布していて、パブリックキーを使った暗号と、デジタル鍵の技術を使って、安全なメールの送信などに使うことが出来ます.このGPGが、背信的コンピューティングの仕組みとどのように違うのか考ておきたいと思います。なぜ片方は便利で、もう片方はそんなに危険なのでしょうか。

GPGを使って暗号化された文書を送る場合、GPGを使って読み出すことになります。そうすると文書は再び読める形式なって、それを転送したり、コピーしたり、もしくは再び暗号化して安全に送ることも出来ます。背信的コンピューティングを使ったアプリケーションでは、ワード文書などをスクリーンに映すことは出来るかもしれませんが、暗号化をはずして使うことは許されません。GPGはフリーソフトウェアにしてこういった安全な機能をユーザーに提供しています、そしてユーザーがそれを使うのです。背信的コンピューティングは、ユーザーに制限を課すことを考えて作られています、ユーザーが使われる様になるのです。

2. マイクロソフトパラジウムのセキュリティーがウイルスからユーザーを守るといっていますが、これは明らかに間違っています。マイクロソフトリサーチによる2002年のプレゼンテーションによれば、パラジウムを使っても現在使われているOSやアプリケーションはそのまま使われる、ということなので、ウイルスに対する免疫に変化はないのです。

マイクロソフトパラジウムを使った「セキュリティー」の話をするときは、セキュリティーという言葉が通常意味するのとは別の意味で使われています。普通ならあなたのコンピューターを、あなたの欲しくない物から守るということになりますが、マイクロソフトが意味しているのはあなたのコンピューターの中のデータを彼らがして欲しくない方法でアクセスできないようにする、ということです。プレゼンテーションの中ではパラジウムがどのような秘密を守るために使えるかリストされていて、そこにはサードパーティーの会社の情報と、ユーザーの秘密も含まれているのですが、「ユーザーの秘密」というのは鍵括弧でくくられていて、それはパラジウム的な考え方ではうまく説明できないもののようでした。

プレゼンテーションでたびたび使われていた言葉は主にセキュリティーに関係した単語で、「アタック」、「悪意のあるコード」、「スプーリング」そして「信頼された」などですが、そのどれもが少し曲げられた意味で使われています。「アタック」というのは誰かがあなたを傷つけようとしてるのではなく、あなたが音楽をコピーしようとしているということ。「悪意のあるコード」は、あなたがインストールしたプログラムで、彼らが好まないもの。「スプーリング」は誰かがあなたを出し抜こうとしてるという意味ではなく、あなたがパラジウムを出し抜こうとしている、という意味です。

3. 過去に出てきたパラジウム開発者の発言の中には、情報を開発した、もしくは集めた人が、その使い道を決められる、という原理が述べられていました。これは過去に考えられていた法制度内の倫理観を一転させる出来事を象徴しています。それは過去に例を見ない支配システムの誕生を意味します。このシステムからでてくるひとつずつの問題というのは偶然同時に出てきているのではないのです、それはひとつの大きな目標から産まれたものなのです。それを私たちは拒否しなくてはいけません。

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そしてこっちは昨日訳したインタビューからリンクされていた記事

英ガーディアン誌掲載のコラムより
http://technology.guardian.co.uk/online/comment/story/0,12449,1510566,00.html

不合理な特許(Patent absurdity)


もし特許が1880年代の小説に適応できたら、いくつものすばらしい本が書かれていなかったかもしれない。もしEU特許法をソフトウェアに適応するようになると、全てのコンピューターユーザーが制限されるようになる、とRichard Stallmanは言う。

2005年六月二十日 月曜日

来月EU議会はソフトウェア特許に関する重要な法案に投票する。この法案が可決すれば、全てのコンピューターユーザーが制限を受け、ソフトウェア開発者にとっては非常に難しい事態が訪れる。

ほとんどの人は何も知らないまま投票することになる。彼らはプログラマーでもなければ、ソフトウェア特許がどういう影響をもっているのかもよくわからないだろう。特許は著作権に似たようなものだ(もちろん細かいところは違っても)と考えている人がいるようだが、これは大きな間違いだ。

たとえば当時業界を代表していたPatrick Devedjianにこの問題について公式に質問したとき、彼はビクターユゴー著作権の話を持ち出して、情熱的に著作権の重要性を語ってくれた。

しかし著作権がもっている力だけを考えていてもソフトウェア特許がどういう変化をもたらすのか正しく考えることは出来ない。ユゴーを例にとってその二つの違いを考えてみたいと思う。

小説と、最新の複雑なコンピュータープログラムにはいくつかの共通点がある。どちらも沢山のアイディアから出来ている点。1800年代のフランスに文学的アイディアに対する特許法があったとしよう。これはユゴーの文学にどの様な影響があって、それは著作権とどう違うのだろうか。

彼の小説Les Misérablesについて考えてみたい。もちろん彼が書いたものであるから、その著作権は彼にのみある。彼は他の誰かに著作権の侵害で訴えられたりする心配もなかった。誰も彼を訴えることは出来なかった。著作権というのは原作者の仕事の細かいところには関係していなくて、作品を複製することを制限するためにある。ユゴーはLes Miserableをどこかから複製したわけではないから、そこに問題はない。

特許はこれとは違う。特許はアイディアに対して与えられるもので、それぞれの特許がそのアイディアを独占するために存在してる。

たとえば架空の文学的特許について考えてみる。

主張1: 長期間投獄されたことで他人や社会にを信用できなくなった登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

主張2: 主張1で述べられたような伝達手段で、登場人物が他人の心に触れることで救われるような場合。

主張3: 主張1と2で述べられたような伝達手段で、登場人物がそのストーリーの中で名前を変えるような場合。

もしこんな特許がLes Misérablesが出版された1862年に存在していたら、この小説はこの三項目全部を侵害してたことになる。これは全て物語の中のJean Valjeanに起こった事で、このことでユゴーは訴えられたかもしれない。それで裁判に負けていたら小説は発行禁止になって、結果的に特許保持者の検閲を受けたことになるのだ。

では今度はこの架空の文学的特許について考えてみて欲しい。

主張1: 長期間投獄された後に名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

Les Misérablesはこの特許も侵害したことになる。これもJean Valjeanの人生に当てはまるからだ。

この二つの特許は全てこの一人の登場人物に当てはまる。二つとも部分的に重なってるが、どれも完全に同一ではない。だから二つとも同時に有効という可能性もあり、この二つの特許の保持者全員がユゴーを訴えることができる。そしてその各々がLes Misérablesの出版を禁止できたことになる。

もしかしたらこういうアイディアというのは極めてシンプルなものであるから、特許庁はこれを認めないだろう、と思うかもしれない。私たちプログラマーは日々実際に認可されているソフトウェア特許のシンプルさに驚かされているのだ。たとえば、ヨーロッパ特許庁が発行したとプログレスバーに関する特許。他にもインターネット上でのクレジットカードを使った支払いに対する特許。もしこれをとった人たちが実際にはそんなに危険な集団でなければ、笑って終わりにすることも出来る。

Les Misérablesのほかの側面もこういう特許とぶつかってた可能性がある。例えば、ワーテルローの戦いの小説的描写に特許があったかもしれないし、パリのスラングを使った小説に対して特許があったかもしれない。更に二つの裁判になる。

事実、Les Misérablesのような本を訴えるのに使える特許の数は数えきれない。どの特許保持者も自分達の特許が持っている文学的革新性に対する報酬を求めることになるが、結局こういう障害は文学の進歩にはつながるどころか、その反対の効果しかない。

しかしもっと広範囲に及ぶ特許はこういう問題を全く無にしていた可能性もある。もっと一般的な特許権の主張を考えてみて欲しい。

多数のページに及んだ物語の構造を含むコミュニケーションの手段。

物語はフーガであったかもしれないし、もしくは全くの即興でもいい。

誰がこのような特許を申請するのかというと、例えばデュマとかバルザックとかといった似たような小説を書いてきた小説家、ということが考えられる。

ソフトウェアの場合も、特許を取るのに実際にそのプログラムを書く必要は特にないから、この架空の文学的特許のようなことが実際に起こる事になる。特許を申請するときに実際にそういう物語を書く必要はなくて、申請書を書くだけでよかったように。

特許はあらゆる会社の中に存在し、そういう会社というのは相手を訴えて脅すようなことばかりする上に増える一方である。

先ほどの例のように一般的な特許が存在していたら、ユゴーは登場人物のJean Valjeanがどういうことをしたら特許侵害にあたるかを考える以前に、そんな小説を書くこと自体をあきらめていた可能性が高い。

この対比はプログラマーでない人たちにソフトウェア特許の影響を説明するのに便利だ。ソフトウェアの特許はたとえばワープロソフトの中で使われる略語とか、表計算での自動計算機能とかに与えられる。

プログラムが必要とするアルゴリズムに特許があり、マイクロソフトのワードのフォーマット等にも適応される。MPEG2のビデオのフォーマットはアメリカで39個の特許に守られている。

ひとつの小説がたくさんの文学的特許を侵害出来たように、ひとつのプログラムがたくさんの特許を同時に侵害することになる。大きなプログラムがどの特許を侵害しているのかを調べるのはとても大変な作業で、実際にそういうことが行われたのはまだ一度しかない。

2004年に行われたLinuxに関する調査で、GNU/LinuxのOSカーネルアメリカで283個の特許の侵害にあたることがわかった。つまりこの283個の特許が何千ページに及ぶLinuxソースコードの部分部分をカバーしているということだ。

正式に認可された文書が、ソフトウェア技術の特許を守っている。

こういうことを支持している人たちが口を揃えて言うのはソフトウェアの「技術的な特徴」が、特許の適応を正当化するということだが、これは間違っている。というのもソフトウェアを「技術的な」方法で説明するのは簡単なことで、これはヨーロッパ特許庁も認めていることだ(http://legal.european-patent-office.org/dg3/pdf/t030258ex1.pdf

Article 52 (1) EPCにある「発明」という言葉が、大幅に日常化してその技術的側面を考えることもなくなったようなもの(ペンを紙を使って行う書く、という動作等)も含むということは特許庁の審議会では良く知られていることである。

特許命令書 article 5 (2)(http://swpat.ffii.org/papers/europarl0309/cons0401/tab/index.en.html)によれば、ソフトウェアとは「コンピューター、プログラム可能なコンピューターネットワークもしくは他のプログラム可能な機器に読み込まれて実行」されるもので、これによって特許が適応されたプログラムに関する研究を出版することも出来なくなる。

ソフトウェア特許にソフトウェアの開発を妨害させないようにするためには、単純に特許の存在を許可しなければいいのである。2003年の初見でヨーロッパ議会はソフトウェア特許の可能性を除外したのだが、省庁がこれを覆す結論を出している。

EUの住民は早急にEU加盟国に連絡し、最初の決断が続行されるように訴えなくてはならない。

© 2005 Richard Stallman (rms@gnu.org).この文書の複製はこの注意書きを付すことで無料で行うことが出来る。

Richard Stallmanha1984年にGNUオペレーティングシステムほはじめ、1985年にはフリーソフトウェアファンデーション(fsf.org)を発足させた。この記事で使われている実例は、Gérald Sédrati-Dinetの発案に基づいている。

Richard Stallman インタビュー

akirashibata2005-12-23

ZNetのサイトで、一週間くらい前にストールマンのインタビューが掲載されたので、早速訳してみた。

http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=13&ItemID=9350
Richard Stallman interviewed by
Justin Podur

リチャードストールマンは、フリーソフトウェアームーヴメントの創始者の一人であり、そしてGNUオペレーティングシステムの開発リーダーでもある。著作に、「Free Software, Free Society」がある。十二月五日、電話で彼と対談した。

――まずはじめに「フリーソフトウェアムーヴメント」について説明してもらえるかな?

 基本は、ソフトウェアーのユーザーは特定の自由を持っているべきだということなんだ。僕達はその中でも四つの本質的な自由をfreedom 0 から 3と呼んでいる。

Freedom 0 は、自分の好きなようにソフトウェアを使う自由。Freedom 1 は、そのソースコードを読んで、自分の好きなように変更する自由。 Freedom 2 は、好きなようにそのソフトをコピーして配布する自由。そしてFreedom 3は、自分の変更したバージョンを配布することが出来る自由。この四つの自由によって、ユーザーは自分のコンピューターの完全なコントロールを手に入れることができてそれをコミュニティーに協力する形で使うことが出来る。Freedom 0 から 2 は、ユーザーの直接の利益になる、なぜならこれはすべてのユーザーが行うことが出来るから。Freedom 1 から3は直接的にはプログラマーの利益でしかないけれど、結果として皆がそこから得るものがある。というのは、誰もがそのプログラマーのしたことを受け入れるか、もしくは受け入れない、ということによって、ユーザーもフリーソフトウェアの開発にかかわっているといえるからなんだ。

それに対して、フリーでないソフトウェアというのは、ユーザーを隔離してお互い協力できないようにしている。これらのソフトは分離して征服するための社会的方法にもとづいて配布されている。フリーでないソフトの開発者は、ユーザーに対する力をもっていて、その力をユーザーの不利につながる形で使っている。こういう意地悪っていうのはフリーでないソフトウェアに共通してある問題で、それはユーザーが欲したからではなくて、開発者側が一方的にユーザーに押し付ける形で行われている。フリーソフトウェアムーヴメントは、そういったフリーでないソフトから逃げるのが目的なんだ。

――あなたのFree Software Movement の活動の歴史を教えてください。

 僕がはじめたのが1983年で、完全にフリーなソフトウェアの世界を作ると決意してやったことなんだ。フリーで便利なソフトをチョコチョコ作っていこうっていうんじゃなくって、もっと計画的にフリーソフトを作っていって、完全にフリーでないソフトが必要なくなるような環境を作るのがそもそものアイディアだったんだ。フリーでないソフトウェアは、基本的に反社会的なもので、そんな風に一方的にユーザーとかかわっていくようなものは存在するべきでない。だから私が作りたかったのはそういうものが実際に存在しないコミュニティーだったんだ。フリーでないソフトから逃げるためのコミュニティー

そのためにまず最初に必要になるプログラムがOSになる。OSさえあれば、コンピューターをつかっていろんなことが出来るようになる。もしOSがなければ、例えアプリケーションを沢山もっていても何も出来ない、それを実際に使うことが出来ないんだよ。1983年にあったOSはすべて専有的なものだったんだ。だからコンピューターを使う前にまずしないといけなかったのは、自分の自由を放棄することだった。ユーザーはまず契約書に同意させられて、ソフトウェアの共有をしないって約束したうえで、ソースコードなしで中がどうなってるのかわからないエクセキュータブルだけを渡された。コンピューターを使うっていうことが自分のコミュニティーを裏切ります、ってことに同意してからじゃないとかなわなかったんだ。

だから僕にはフリーのOSを作る必要があった。そしてたまたま僕の得意分野はそこにあったんだ、だから自分にもこの仕事はあっていたんだ。それにこれはまず最初にしないといけない仕事でもあった。

僕達の作ったOSはUnix互換のもので、GNUという名前だった。GNUっていうのは、”GNU is Not Unix”っていうところからきていて、GNUの一番大切なことは、それがUnixでは無いっていうことだったんだ。僕達が作ったのはUnixに似たシステムだったけど、Unixではなかった。僕達は全く一から自分達で作ったんだ。

1983年には、Unixには何百個ものパーツがあった。僕達は長い時間をかけてひとつずつそれらを自分達で書き直していった。いくつかは数日で終わったし、一年どころか数年かかったパーツもある。

1992年には、僕達は肝心なひとつのパーツを除いてすべてを作り終えていた、その重要なパーツがカーネルだった。カーネルはシステムの最重要部品のひとつで、GNUでは1990年から作り始めていた。最初のデザインは、それが早く完成できるっていう理由で決めたものだったけれど、その決断は裏目に出て、僕の思ったよりもずっと長い時間がかかった。1992年にLinuxカーネルが開放された。1991年にリリースされたものだったけど、最初はフリーでは無いライセンスだったんだ。1992年に、Linuxの開発者がライセンスを変更してフリーにした。というわけで僕達の手元にはフリーのOSがやってきた、それが僕が「GNU/Linux」もしくは「GNU plus Linux」と呼んでる物なんだ。

けれどもこのコンビネーションはユーザーには少し分かりにくかったみたいで、結局全体がLinuxと呼ばれるようになったんだけど、僕はあんまり感心しない。

まず第一に、GNU側のプロジェクトにかかわっている何千人もの人たちはその開発者として認められるに値するし、そもそも僕達がプロジェクトをはじめて、その大半の仕事をしたわけで、そこのところは公平にして欲しいと思う。(カーネルこそがOSのほかのどの部分よりも重要だって信じている人がいるみたいだけど、これは「Linux」っていう間違った名前を正当化しようとしたところから来てる。)

でも問題は僕達が十分に評価されてないってことだけじゃないんだ。GNUプロジェクトは自由に向かうための活動で、Linuxの方はそもそもそうじゃなかった。Linuxの開発者には他の動機があったんだ、むしろもっと個人的な目的が。もちろんそれだからって彼の貢献が無になるってわけじゃない。彼の動機だって悪い物ではなかった。彼がシステムを作ったのはそれを楽しんで、そこから学ぶことが出来たからで、楽しいって事はいいことだよ、プログラミングって本当に楽しいものだから。同時に何かを学びたいっていうのもいいことだ。でもLinuxが向かっていた先はサイバースペースを開放するっていう事とは違ったもので、それだけでは今のGNU/Linuxシステムは産まれなかったはずなんだ。

今現在何百万人もの人が自由のために開発されたOSを使っているけれど、誰もそのことを知らないでいるのは、皆が使ってるシステムがLinuxであって、それはそもそも「楽しいから」っていう理由だけで作られたものだと思ってるからなんだ。

――じゃぁGNU+Linuxっていう組み合わせは偶然ではなかったと?

 偶然にばかり頼って自由を求めることは出来ないよ。もちろんそういう偶然が助けになることはあるけれど、そこには意志をもってそれを成し遂げようとする人がいないとだめなんだ。そもそもLinuxは自由のために作られたものではなかったから、最初のライセンスはフリーじゃなかった。実のところなんで彼がフリーに変更したのか知らないんだ。

――GNUプロジェクトとLinuxのちがいっていうのはフリーソフトウェアと、オープンソースの違いに似てるかな?

 GNU+Linuxが何千人、何万人もの人に使われるようになって、ユーザーがお互いに話すようになった。でも皆が口にするのはいかにシステムがパワフルで、信用できて、便利で安くて楽しいかっていうことばかりで、一番大切な自由のことには誰も触れないんだ。皆そういう風に考えたことがないし、結局僕達の哲学は僕達の作ったものほどは広がらなかった。

リナックスを作ったLinus Torvaldsが僕達のアイディアに賛成したことはないんだ。僕達の倫理的な部分を弁護することはなかったし、フリーでないソフトが反社会的であるって非難することもなかった。彼がいうことはいかに自分のソフトウェアが技術的に他の競争相手よりも進んでいるかっていうことだけなんだ。

彼のいってることはまぁ正しいんだよ、1990年代に誰かが、ソフトウェアの信頼性を計る実験をしたことがあって、いろんなプログラム(いろんなUnixシステムとGNUシステム)にランダムな入力をして、GNUが一番信頼できるって言う結論を出したんだ。彼は数年後にも同じ実験をしていて、そのときもGNUが一番だった。

Torvaldsの考え方は1996年ころになるとコミュニティーのゴールを二分することになった。つまり、ひとつのグループは自由のために、もうひとつはパワーと信頼のあるソフトウェアのために。頻繁に公開討論も行われて、1998年に向こうのグループは自分達の活動を「オープンソース」というくくりに入れたんだ。「オープンソース」なんてムーヴメントじゃないよ、僕に言わせれば。多分、アイディアと運動の寄せ集めってところだと思う。

――そのことについてもうちょっと突っ込みたいんだけど、その前に「ムーヴメント」っていう言葉を定義してもえるとちょうどいいんだけど。

 定義っていうのは用意してないな、ちょっと考えてみないと。とりあえず、理想を推進するために活動している人たちの集まり、ってことにしたいと思う。もしくは、その理想そのものと、それを実現するための活動。

――では「オープンソース」というのはその理想の部分が欠けている、と?

 彼らがやっているのは開発のための方法論を推奨してそれがソフトウェアを作るためにいかに優れてるかっていうことをいってるんだよ。そうだとしたら、それってボーナスだよね。自由はしばしば便利さにつながることになる。僕だってもっとパワーのあるソフトが出来て嬉しいし、自由がその助けになるならそれに越したことはない。でもフリーソフトウェアムーヴメントからすればそれは二の次になるけれど。

――そして実際のところ自由のためであればソフトウェアのパワーとか便利さ犠牲にする心構えも必要だ、と。

 その通り。


フリーソフトウェアと政治

――ZNetのリーダーにはなんだかのムーヴメントにかかわっている人が沢山います、貧困に戦う、戦争反対、とかもしくは他の社会的変化に対する活動です。そういう人たちが何故あなたの活動に注目して、フリーソフトウェアムーヴメントにかかわることが大切なのか説明してもらえますか?

 もしビジネスにおけるグローバライゼーションに反対するならば、フリーソフトには賛成だということが出来るよ。

――でもビジネスのグローバライゼーションが問題なんですか?それならば地域的なビジネスは問題にならないということ?

 グローバライゼーションに反対だといっている人は本当はビジネスのグローバライゼーションに反対なんだ。彼らもグローバライゼーションそのものに反対というわけではなくて、他の種類のグローバライゼーションだってあるんだ。たとえば協力することのグローバル化、知識のグローバル化、こういうことには彼らも反対しない。フリーソフトウェアはビジネスの力を協力と知識の共有で置き換えるんだ。

悪いものがグローバルになるっていうのはもっと悪い。ビジネスの力は悪いものだから、それがグローバルになるのはもっと悪い。でもいいものをグローバル化することは大概においていいことだよ。協力と知識の共有はいいことだし、それがグローバルになれば更にいい。

だから彼らが反対してるグローバライゼーションって言うのはビジネスのグローバライゼーションだと思うんだ。そしてフリーソフトウェアはそういうムーヴメントとともにある。これは、ソフトウェア開発者が一方的にユーザーを支配している状況に反対する意思を表すことなんだ。

――フリーソフトウェアの活動が、分相応ではないという意見に対してどう反論しますか?戦争の悲惨とか、侵略とか、占領とか、貧困とか、そういうことに比べればコンピューターにおける自由というのは重要さにかけるのでは?

 多分僕達の考え方っていうのは間違った形で提示されてるんだと思う。一人の人間がすべての問題にかかわっていくことは出来ないよ。プログラマーが自分の技術と才能が一番活かせることにかかわるのは自然なことだと思う。

もし僕が、フリーソフトだけが重要な問題だって言ってるんだとしたら、皆がそういう風に考えるのも無理はないと思う。でもそうじゃないんだ、これは単に僕が一番うまくやれる活動だ、ということなんだ。

問題は、僕達の倫理的立場には共感してくれるけれど、ソフトウェアとは別のことに興味がある人たちが、わざとではなくても他の人にフリーでないソフトウェアを使わせるように仕向けていることがあるってことなんだ。そうしたら僕はこういわないといけない、彼らの行動自体が、大きな会社に更に大きな力を与えている、って。たとえば誰かに”.doc”のファイルを送ったとする「ワード」の。もしくは音楽とか映像をRealPlayerとかQuickTimeとかのフォーマットで送ったとする、そうするとそれは他の人に自由を捨てろ、って言ってるのと同じことなんだ。多分僕がいつもこんなことばかりいってるから、そういうことをいわれるようになったんだと思う。

時々人々は、僕が彼らの活動に協力してくれるのは当然だって思ってることがあるみたいで、だから僕の講演がストリームされるようなときは、それがどういうフォーマットなのか聞かないといけないことになる。僕は自分が自由に関する講演をしながら、それを聞く人たちが自由を放棄しないといけないような状況は許せない。ストリームがRealPlayerだと聞いて、カメラにコートをかぶせたこともあるよ。

――ガンディーが、「Hind Swaraj」っていうもともと新聞記事だった著作のかで、彼自身にそれと似たような質問をして答えてたことがありました。彼が言っていたのは、インドがイギリスだけじゃなくて、すべての「西洋文明」を排除しないといけない、ということで、こういう質問を自分にしたんです、「英語で、活版印刷した文章で西洋文明に反対することは出来るんだろうか?」彼の答えは、時には毒をもって毒を制することが必要だ、ということでした。

 でも英語を知ってるっていうことは征服にはつながらない、インドで英語を学ぶのに失われた自由はないよ。けれども僕が想像するには、インドにはあんまりにもいろんな言語があるから、英語よりも適当な言語はなかったんじゃないかな。

――英語より適当な言語がなかったということは、以前にはなかった選択肢があるという事が倫理的な問題につながるということですか?

 倫理的な問題になるのはそこに制約がある場合だよ。英語を使うことはインドにとっていいことにも悪いことにもなると思うけれど、それ自体は自由を取り上げるものではない。インドは独立を手に入れたけど、英語はなくならなかった。実は最近聞いたところでは、いまやインドには英語を第一言語として学んで他の言語を学ばない人もいるらしい。

それに対してRealPlayerを自分のコンピューターで使うことは、実際に自由を放棄することになるんだ。

――ZNetもフリーなソフトウェアを使うべきでしょうか?

 そうでなければ人々に自由を放棄することに荷担することになるし、それってZの目的や精神からはかけ離れたものになるよ。

ほとんどの人たちが、どのソフトウェアを使うかを選ぶということに倫理的な問題があると思っていないんだ、ほとんどの人たちが専有的なソフトウェアしか使ってきていないし、他に選択肢があるなんて考えもしないことなんだ。Z誌では社会的習慣に対する正当さに焦点を当てることが良くあるし、それによってソフトウェアにおける社会的習慣を人々に考えさせる助けになることが出来る。

――でももしも別の選択肢がなかったとしてもそれは倫理的な問題になるでしょうか?たとえばフリーのソフトウェアでZNetに必要なものが見つからなかったら?

 そういうものがなくてもやっていけるよ。

――どういう意味で?どうしてそういえるのですか?

 もしあなたがどうしてもその仕事をしないといけないのならば、そのときはフリーの代用品を作るのに貢献すればいい。もしあなたがプログラマーでないのないとしても、それでもあなたが貢献できないわけじゃない。たとえばそういう活動をしている人たちにお金を寄付したりすることによって。

――あなたの目にはフリーではないソフトを使うことの方がいいという状況は全くないということですか?

 もちろん特別な場合はある。GNUの開発に僕はUnixを使った。でも僕はそうする前にそれが道徳的なことかを考えたよ。

結局GNUの開発のためにUnixを使ってもいいだろうという結論に達した、なぜならGNUの目的は他の皆がUnix使うことをやめさせることだったから。僕達がUnixを使ってやっていたのはやっつけ仕事ではなくて、それによってある特定の悪に打ち勝つためだったんだ。

――では、ZNetに関していえば、私たちの読者が減って、活動の範囲が狭まるようなことには賛成しないといっていいですか?

 そうだね。その必要はないと思う。

ブラジルにある大学で、完全にフリーのソフトに乗り換えたところがあるけれど、彼らはフリーソフトでどうしても出来ない問題を抱えていた、だから彼らのしたことは、プログラマーを雇ってフリーのソフトを作ったんだ。(これはフリーじゃないソフトに払っていたライセンスの一部でしかなかった。)ZNetだって同じことが出来るんだよ。フリーの代用品の開発にかかわるのならば一時的にフリーでないものを使うことも出来る。

ZNetの場合については、今あるフリーのソフト以外のものが必要だとは思えない。ウェブマガジンをフリーソフトだけで作っているところはすでに存在しているよ。多分あなた達がそうするのも簡単だと思う。

資本主義と戦略

――ほかのインタビューで、あなたは資本主義に反対ではないと読んだのですが、資本主義をまず定義してもらえますか?

 資本主義は主にビジネスを中心として一定のルールの中で人々が自由を持っている社会的構造だよ。

――ビジネスっていうのは?

 ビジネスの定義は持ち合わせてないけど、それは皆知ってることじゃないかな。

――でも「反資本主義者」は別の定義いを使いますよ。彼らにとって資本主義は市場であって、個人資産であって、根本的には階級性と階級化でもあります。あなたは階級というのが資本主義の根源的なところにあるものだと思いますか?

 思わないな。アメリカには階級間の流動性というのはずっとあるものだよ。すごく貧しい人にも5パーセント金持ちになる可能性があるのならば、彼らに衣食住、医療、それに教育がないっていうことは出来ないと思う。僕は福祉的社会を信じてる。

――でも報酬が平等であるべきだとは信じませんか?

 うん、それは僕の考えとは違うな。もちろん全く報われないというのはさけたいけれど、人々が極端に摂取されるのを除けば、多少の不平等は避けられないと思う。

――どれくらいの努力に対する不平等のことですか?

 うーん、でも時の運っていうのもある。

――でも社会に時の運の報いを期待することは出来ないですよ。

 運ていうのは偶然、っていう意味でもある。偶然が人の人生に影響をもつことは避けられないけれど、貧困はさけられる。人々が飢えに苦しんだり、医療不足で死んだり、最低限の生活のために12時間働いたりすることはひどいことだよ。(でも僕は一日12時間働く、まぁこれは過剰な行動主義から来るもので、仕事ではないからいいんだ。)

――あなたには才能があってそれに対する報酬もあります。社会はそういう才能そのものに報いるべきだと思いますか?

 直接的にはそうある必要はないと思うけれど、でも誰だって自分の才能をつかっていろんなことを出来る。誰だって自分の才能を活かして成功するものだし、頂点に立つことだけが成功というわけでもない。自由とか、知識の拡張とかっていう問題は成功の先にあるもので、個人的な問題ではないんだ。個人的な成功だって間違っているわけでは無いけれど、その重要性は限られているし、一度それを手にしたらそれを保つためだけに生きていくのはむなしいもので、それは真実とか美とか、公正さとは違ったものだよ。

アメリカの言葉でいうと(カナダの言葉だと違う)、僕はリベラルだよ。独裁主義には反対だ。

――独裁主義を定義してもらえますか?

 独裁主義はビジネスが有利な政府のシステムで、人々の権利は尊重されない。ブッシュ政権がいい例えだけれど、他にもいっぱいある。僕にはグローバルなレベルでもっと独裁化が進んでるように見える。

――インタビューの最初の方で、「逃げる」という言葉を使ったのが印象的でした。「ムーヴメント」にかかわる人たちは大概反対勢力を作ることを考えます、大衆の意見を変えることとか力のある人に譲歩させたり。

 僕達のやってることは直接的な活動なんだ。僕が政治的な活動をしていたら、どの会社にもフリーソフトウェアを作らせるようなことは出来ないと思うし、そもそも僕にはそういう才能はない。だから僕はとにかくソフトウェアを書くことからはじめたんだ。そういう会社が僕達の自由を尊重しないのなら、自分で自由を尊重したソフトウェアを作ろう、っていうことなんだ。

――でも政府とか独裁主義とかの話に戻れば、もしそういう権力があなたのソフトウェアを違法にしてしまったら?

 そしたらやられた、ってことになるね。そういうことは以前にもあったし、違法な種類のフリーソフトもある。

――たとえば?

 DVDを再生するプログラムだね。DECSSっていうプログラムがあって、まだ裏では出回ってるよ。でもそれが違法になったのはアメリカだけじゃなくって、アメリカが他の国にも同じ事をするように圧力をかけてるんだ。カナダもそうしようとしていたし、結局どうなったのかはよくわからないけど。EUはその命令に従って今アメリカよりも厳しい取り決めを作ってるところだよ。

――そういう状況にどう対応しますか?

 それがまだ違法になっていない国にいって反対している。そういう国で法案が通らないようにして、最終的にはもう違法にしてしまった国も解放したい。直接的な行動ではそれは難しいけど、ソフトウェアの開発は裏でも出来る。アメリカでは開発しても配らなければいいって言うことになってるんだ。

フリーソフトウェアムーヴメントについて

――フリーソフトウェアムーヴメントがかかわっているほかの活動を見てから終わりにしたいと思うのですが。

 特に重要なのは、隠された仕様を持ったハードウェアの問題、ソフトウェアの特許の問題、それと背信的コンピューティング。

ハードウェアの隠された仕様について: 仕様がよくわかっていないハードウェアのためにソフトウェアを書くのは難しい。1970年代にはコンピューターを作ってる会社があらゆるレベルのインターフェイスについてかかれたマニュアルをくれた。電気信号のことから、ソフトウェアのことまで、だから彼らのコンピューターをとてもうまく使うことが出来たんだ。でもここ十年から十五年くらい、ハードウェアの仕様が秘密にされてるものが出回ってきてる。独占的なソフトウェアを作ってる開発者は仕様書をもらうことが出来るんだ、その内容を同じように秘密にするって言う契約にサインした上でね。一般の人にはその情報は手に入らない。

だから僕達は逆エンジニアリングをしないといけない、これは時間がかかる。もしくは製造してる会社に圧禄をかけることもある、これはたまにうまくいくことがある。最悪の例が、3-Dグラフィックで、ほとんどのチップの仕様が明かされていない。ある会社がスペックを公開して、ドライバーも開発されたんだけど、この「NVidious」(と僕は呼ぶことにしてる)って会社が協力的じゃなくって、誰も彼らのチップが乗ったコンピューターは買うべきじゃないと思うよ。

ソフトウェア特許の幻想についてはこの前イギリスのガーディアンに書いた記事にちょっと書いた。(http://technology.guardian.co.uk/online/comment/story/0,12449,1510566,00.html

最近のモダンで複雑なプログラムには共通点があるんだ。それぞれが巨大で、いろんなアイディアを使ってる。たとえば1800年代に小説に特許法が適応されたらどうなるだろう。たとえばフランスかどっかの国が文学的アイディアで特許をとることを許したらどうなるだろう。これはユゴーの文学にどういう影響をもたらしただろう。文学的特許と、文学の著作権はどういう風に違うんだろう?

ユゴーのLes Miserableについて考えてみよう。彼が書いたから、その著作権は彼にのみある。彼は他の誰かに著作権の侵害で訴えられたりする心配はしないですんだ。誰も彼を訴えたりすることは出来なかったんだよ、著作権っていうのは原作者の仕事の細かいところにしか関係していなくて、コピーを制限することしか出来ないんだ。ユゴーはLes Miserableをコピーしたわけじゃないから、問題なかったんだ。

でも特許は違う。特許はアイディアに対して与えられるもので、それぞれの特許があるアイディアを独占するために存在してる。

たとえば架空の文学的特許について:

主張1: 長期間投獄されたことで他人や社会に辛くあたるようになった登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

主張2: 主張1で述べられたような伝達手段で、登場人物が他人の親切に触れることで救われるような場合。

主張3: 主張1と2で述べられたような伝達手段で、登場人物がそのストーリーの中で名前を変えるような場合。

もしこんな特許がLes Miserable が出版された1862年に存在していたら、この小説はこの三項目全部を侵害してたことになる、これは全て物語の中でJean Valjeanに起こった事だから。ユゴーは訴えられたかもしれないし、それで裁判に負けたかもしれない。小説は発行禁止になって、結果的に特許保持者の検閲を受けたことになる。

では今度はこの架空の文学的特許について考えてみて欲しい:

主張1: 長期間投獄された後に名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

Les Misérablesはこの特許も侵害したことになる。これもJean Valjeanの人生っていうことが出来るから。そしてもう一個架空の特許:

主張1: 精神的救いを得て名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

Jean Valjeanはこれも侵害したことになる。

この三つの特許は皆この一人の登場人物に当てはまる。三つとも部分的に重なってるけれど、どれも完全に同一ではない。だから三つとも同時に有効っていうことも考えられるし、この三つの特許の保持者全員がユゴーを訴えることだって出来たわけだ。その全員それぞれがLes Misérablesの出版を禁止できたことになる。

Les Misérablesのほかの側面もこういう特許とぶつかってた可能性がある。たとえば、ワーテルローの戦いの小説的描写に特許があったかもしれないし、パリのスラングを使った小説に対して特許があったかもしれない。更に二つの裁判になる。実際、Les Misérables見たいな本を訴えるのに使える特許の数は数えきれない。どの特許保持者も自分達の特許が持っている文学的革新性に対する報酬を求めることになるけど、結局こういう障害は文学の進歩にはつながらなくて、その反対の効果しかない。

この対比はプログラマーでない人たちにソフトウェア特許の影響を説明するのに使える。ソフトウェアの特許はたとえばワープロソフトの中で使われる略語とか、表計算での自動計算機能とかに与えられる。プログラムが必要とするアルゴリズムに特許があるんだ。他にもマイクロソフトのワードのフォーマットとか。MPEG2のビデオのフォーマットはアメリカで39個の特許が適応されている。

ひとつの小説がたくさんの文学的特許を侵害したように、ひとつのプログラムがたくさんの特許を同時に侵害することになる。大きなプログラムがどの特許を侵害しているのかを調べるのはとても大変な作業だけど、実際にそういうことが必要になってくる。2004年に行われたLinuxに関する調査では、GNU/Linuxカーネルアメリカで283個の特許の侵害にあたることがわかった。つまりこの283個の特許が何千ページに及ぶLinuxソースコードの部分部分をカバーしているってことなんだ。

だからソフトウェアの特許っては開発者の落とし穴になっているんだ。そしてそれはユーザーにとっても同じことで、ユーザーも同じように裁判にかけられる可能性があるんだ。

背信的コンピューティングというのは、将来的にコンピューターに開発者側の意図したとおりの動作をさせる計画のこと。それを推奨している方からすれば、これは「信頼されてる」から、彼らは「信用コンピューティング」と呼んでいる。でもユーザーの側からすればこれは裏切りなんだ。どの名前でこれを呼ぶかで、その人がどちらの側についているのかがわかる。たとえば新しいXboxなんかいい例で、ユーザーはマイクロソフトの許可が与えられていないソフトウェアはインストールできない仕組みになってる。ここにある「あなたはコンピューターを信用できるか」というエッセイで、このことについて詳しく説明してある。(http://www.gnu.org/philosophy/can-you-trust.html)

技術的なことをいうと、背信的コンピューティングは、デジタル暗号とデジタル鍵を使っている。そしてその鍵は隠されてるんだ。専有的なプログラムがこれを使って、他のどのプログラムがその機械で使えるかをコントロールする。どんなファイルやデータにアクセスすることが出来るか、とか、どんなプログラムをのせるか、とか。許可されたプログラムは常に新しいルールをインターネット経由でダウンロードして、これをその機械にあるプログラムに適応する。もし新しいルールをダウンロードしないようなことがあれば、そのコンピューターの機能が自動的に止まるようになっている。

背信的コンピューティングを使っているプログラムは継続して新しい許可ルールをダウンロードしてきて、あなた自身のデータにそれを適用するから、もしマイクロソフトか、アメリカ政府があなたの書いたことが気に食わなければ、それを誰も他の人が読めなくなるようなルールを作って適応することが出来る。すべてのコンピュータが、その新しい指示に従うことになるんだ。あなたの書いたものが1984年式にさかのぼって消去され、自分でも読めなくなってしまうかもしれない。

背信的コンピューターのせいで、フリーなソフトウェアは今危機にさらされている。なぜなら将来的にフリーなソフトは全く使えないということにもなりかねないからだ。あるバージョンの背信的コンピューティングは、ある一定の会社の許可したOSしかつかえなくするかもしれない。そうするとフリーなOSはインストールできなくなる。他のバージョンではすべてのプログラムがOS開発者からの許可を必要とするかもしれない。フリーのアプリケーションはそんなシステムでは全然使えなくなる。もし使える方法を見つけても、他の人にそれ教えたらそれは犯罪になるんだ。

ZNetはフリーソフトに乗り換える可能性を模索し始めたところです。もしあなたがこの活動に加わりたければ、Free ZNet Project forum (http://znet.2y.net/zbb/index.php)に参加して自己紹介してください。

Beale Cipher - 宝探ししませんか?

akirashibata2005-12-14

本業の物理がちょっと忙しくて、なかなかGNUな生活が出来ないでいるけれども、ちょっと方向転換して今日は今読んでいる本のお話。GNUは、ソフトウェアがいかにシェアされるべきか、という活動だけれども、世界には必死に情報を隠している人たちがいる。どんな国にもスパイ組織っていうのがあって、国家の最高機密を扱ってるわけで、まぁこういうものが自由にシェアされる日は来ない。それどころかこういう情報は世界有数の頭が作り出した暗号を使って厳重に暗号化されて伝達されている。そんなことについて書いた本が、Simon Singhのthe Code Book。最近日本語にも翻訳されたらしい。とりあえず三分の一くらい読んだんだけど、なかなか面白い。暗号の技術的なところはもちろん、それにまつわるいろんなお話、人の生死にかかわるお話、もちろん暗号はそれだけ隠していかないといけない情報だから、その裏には驚くべき話が隠れているのはうなずける。

ところでBeale Cipher。Cypherというのは暗号のこと。Bealeは人の名前。ではこのひとが何をした人か、というのは話すとちょっと長くなる。時は1820年アメリバージニア州のLynchburgというところでワシントンホテルというよくありそうな名前のホテルを営んでいたのはロバートモリスという人だった。1820年の一月、トマスビールさんははじめてこのホテルを訪れ、そこで冬が空ける三月までを過ごす。彼は誰もが好印象を抱く男で、女性には特に人気があったが、自分の過去の話は進んでしなかったらしい。彼が去った二年後の一月、彼は再びワシントンホテルを訪れ、また以前と同じようにそこで冬を過ごす。今回はそこを離れるときに、ホテルのオーナーのモリス氏に鍵のかかった鉄の箱を手渡した。そのときは、大切な書類だから保管して欲しい、とだけしか言わなかったが、後五月九日付けでモリス氏に手紙が届いた。

「この箱の中には私と私の仲間の財産にかかわる大切な書類が入っています。もしも私にもしものことがあって、この箱がなくなるようなことがあれば、その損失は計り知れません。中略。もしもわれわれの一人が今後十年の間に訪れることがなければ、そのときはあなたにその箱を開けていただきたい。それをしていただくのに必要なものは十年後の1832年にあなたのところに届くように手はずをつけてあります」

ということだった。残念なことにその後十年間、誰もモリス氏を訪れることはなかったが、十年経っても手紙は届かなかった。モリス氏は箱をあけることなくその後も大切に保管しつづけたが、更に十数年後の1945年に好奇心にかられて箱を開けることになる。そこには三枚の暗号化された紙と一枚の暗号化されてない手紙が書いてあって、そこにはこう書いてあった。

「モリス氏を訪れる三年前の1817年、ビールと二十九人の仲間はアメリカ大陸横断の旅の真っ只中にいた。西部の広大な平原を狩をしながら進みSanta Feに到達、その近くの小さなメキシコ人の町でその冬を越した。三月には北に向けて出発し、多くのバッファローを追いかけては捕まえた。そしてある日バッファローを追いかけるうちにSanta Feから三百マイルほど北のとあるところでその日の夕食を用意してるときに、仲間の一人が金の入った岩を見つけたのだ。それは間違いなく金で、仲間の間に興奮が走ったのはいうまでもない。」

その手紙にはその後の顛末が更に続いており、つまるところビールはとりあえずしこたま掘り返した金と銀それに途中で交換した宝石をどこかに隠す役を与えられた。(大昔のことだし大量の金だから、なかなかそれ以外にどうしようもない)そしてLynchburg近くに適当と思われる洞穴を見つけてそこにそれを隠し、そうしてその冬にモリス氏の経営するワシントンホテルを初めておとずれた、ということだった。二度目にワシントンホテルを訪れた理由もそこには書いてあった。つまりもしも彼らに何かのことがあって、これらの財宝が永遠に彼ら、もしくは彼らの親戚の手の届かない状況になってしまっては困る。もしも信頼できる人物が見つかればその人にそのときの処理をお願いしておいた方がいいのではないだろうか、ということで、1822年にビールは再び訪れたワシントンホテルで、経営者を信頼して箱をたくした、というわけだ。

で、その三枚の暗号、というのが、たとえばここで見られる。実はこの話は随分と有名な話しらしい。というのも、いってしまうけど、この暗号はまだとかれていないんだって!!その後この話がどうやって明るみにでたのか、その他のことはこのサイト、もしくはこの本を読めば分かるけれど、三枚の紙のうち、二枚目だけが運良く解読された。それもアメリカの独立宣言書が暗号鍵として使われている、ということがわかったのはひとえに幸運としかいいようがない。何しろその後百年以上にわたってこの暗号を解こうとした人は数知れず。アマチュアの探検家から本物の暗号技術者まで、実に多くの人が試しては敗れたらしい。グーグルで検索しても山ほどでてくる。

さて、問題は、宝探しに出かけますか?ということになるけれど(笑)。宝探しの前に暗号を解かなくてはいけない。この暗号が出版されたときにそれを手伝った人物はもちろん自分でも随分頑張って、このひとこそが二枚目の暗号を解いた人物なんだけど、その人が最後に寄せた文章がなかなか素敵だ。

Before giving the papers to the public, I would say a word to those who may take an interest in them, and give them a little advice, acquired by bitter experience. It is, to devote only such time as can be spared from your legitimate business to the task, and if you can spare no time, let the matter alone. ... Again, never, as I have done, sacrifice your own and your family's interests to what may prove an illusion; but, as I have already said, when your day's work is done, and you are comfortably seated by your good fire, a short time devoted to the subject can injure no one, and may bring its reward.

訳すと、こんな感じ

この書類を一般に公開するにあたり、私はこれに関心を寄せるであろう多くの人に言っておきたいことがある。それは私の多少の経験から産まれたアドバイスでもあるから。それは、あなたの普段の生活の中に自然にある余暇以上のものをこれに費やすべきではない、ということだ。もしそういう時間がないのであれば、この問題には触れるべきではないのだ。略。私がそうしてしまったように、あなたが自分とあなたの家族の貴重な時間をこの幻想に費やすようなことをしてはいけない。しかしながら、先ほども述べたように、一日の仕事が終わったあとに暖かい暖炉の前で心休める短いひと時をこれに費やすのであれば、それは誰を傷つけるものでもなく、そして報われるものであるかもしれない。

ところで暗号の解読は、そのほとんどが一枚目に費やされている。というのも解読された二枚目の文章によると一枚目が金銀の正確な隠し場所、三枚目が、親戚その他への振り分けの内訳になっているからで、お宝ハンターの注目は必然的に一枚目に行くということ。で、多分面白いと思うのは三枚目の解読じゃないだろうか。もちろん金銀はいいけれど、お金なんて使っちゃったら終わりだ。それよりも三枚目に記されている内容はビール氏本人とその周りの人たちの関係を示しているに違いない。とすればきっと本当に価値のあるのは三枚目の方じゃないか、と思うのが素敵な考え方。そして何よりも、三枚目には一枚目ほどの努力がつぎ込まれてない分、やってみたら案外出来た、なんてことにもなりかねない。でも一枚目はともかくとしてなんで三枚目が暗号化されてるんだろう?そこのところがよくわからない。ちなみに二枚目の内容というのはたいしたことがなくて、一枚目と三枚目の目的、隠された財宝の金額、そしてどんな箱に入っているのか、とかそういうこと。もちろんこの話がすべて作り物だ、って主張する人もいる…。

一人歩きGNU かと思いきや

akirashibata2005-12-11

RMS(Richard M. Stallman)の活動に加わりたいので、GNUのページからGNU Volunteer Coordinatorsというのを見つけてメールしてみた。その前日にGNU Japanのサイトを管理してる人にもメールしたけど変事がなかったので本家にいってみることにした。

Dear GVC

Hi. I read RMS's speach yesterday on the Internet and I
was deeply impressed by the GNU activities and I am willing
to contribute to your activities.

I am a PhD student studying Elementary Particle Physics,
which involves much programming. However, as it is on the
top of your list, I am firstly more interested in doing translation
work. I am Japanese and since I have been in London for several years
now, I think I can do translations to a satisfactory (hopefully)
level. I found the RMS's speach via YAMAGATA Hiroo's website,
who seems to be involved much in translating GNU activities and
if there's still more need for such works, I am happy to do that.
If you think that side of work is less urgent for Japanese audience,
I am also willing to do them too.

Yesterday, I checked http://www.gnu.org/japan/ and it says it's not been
updated for 6 years!! So I sent an e-mail to Mieko Hikichi, who
seems to be in charge of this page but haven't received any responce
as yet. I am happy to do this work to start with, if you think
it is a necessary issue.

So could you please direct me for the best way you think I should
contribute to your projects from your organizational point
of view? I am looking foward to hearing from you.

Regards
Akira

そして何日かたつけれど返事はまだない。
ところでGNU Japan は http://www.gnu.org/japan/ がメインかと思いきや、もっと最近まで管理されてる http://www.gnu.org/home.ja.html というのもある。

更に他にも情報がいろいろあるけれど、返事をくれないのが何故なのかはよくわからない。。
http://www.cs.pdx.edu/~trent/gnu/bull/16/gnu_bulletin_16.html
http://www.opensource.jp/fdl/fdl.ja.html


と思ったら、今日返事がきた。上のを書いたのは昨日の夜中、今日の夕方に返事が。日曜日に返事が来るところがなんとも。

Akira,

On Wed, Dec 07, 2005 at 11:03:14PM -0000, akira.shibata wrote:
> I am a PhD student studying Elementary Particle Physics,
> which involves much programming. However, as it is on the
> top of your list, I am firstly more interested in doing translation
> work. I am Japanese and since I have been in London for several years
> now, I think I can do translations to a satisfactory (hopefully)
> level. I found the RMS's speach via YAMAGATA Hiroo's website,
> who seems to be involved much in translating GNU activities and
> if there's still more need for such works, I am happy to do that.
> If you think that side of work is less urgent for Japanese audience,
> I am also willing to do them too.
>
There's a lot of translation to be done, and we'd appreciate your
help. Please understand that it's more helpful to write new
documentation than translate existing docs, but again we would
appreciate any help that you can offer.

There are many different things to translate, but two of the more
obvious catgories are program text, and web pages. The home page of
the effort to translate program text is the Translation Project at
http://www.iro.umontreal.ca/contrib/po/HTML/. If you click on the
"Language Teams" link you can find out how to connect with your team.

If you'd like to help translate the GNU project web pages then The GNU
Translation Coordinators can help you get started. Their project page
is http://savannah.gnu.org/projects/trans-coord/. According to the
web translation readme file the JA translation team is headed by
Masayuki Hatta (mhatta@gnu.org) so you might want to send him an email
and indicate that you'd like to help. He'll be more up-to-date on
what pages need to be translated into Japanese.

> Yesterday, I checked http://www.gnu.org/japan/ and it says it's not been
> updated for 6 years!! So I sent an e-mail to Mieko Hikichi, who
> seems to be in charge of this page but haven't received any responce
> as yet. I am happy to do this work to start with, if you think
> it is a necessary issue.

Hmmm, that page seems to be out of date, I believe that the correct
page is http://www.gnu.org/home.ja.html , which was updated in July of
this year. I'll let the webmasters know about the old page so they
can decide what to do with it.

Please let us (gvc@gnu.org) know if we can be of further help.

Regards,
The GNU Project Volunteer Coordinators

PS. If you'd like to stay in touch with the GNU project, please
subscribe to the info-gnu mailing list at
http://mail.gnu.org/mailman/listinfo/info-gnu. It's a low-traffic
list with news and announcements about the GNU project.

というわけで、メーリングリストに登録。Translation Top Pageも読んでみた。翻訳で、いいのかな?まぁとりあえず翻訳してみよう。そこからいろいろ先が見えてくるかもしれない。。

情報の値段

ひじき

最近のトレンドは、情報自体でお金を稼ぐのではなく(情報を自分のものとして独占することによって)、情報をどういう風に使うかというところでお金を取る。結構大きなパラダイムの変化があるらしい。というか多分実際にあるのだろう。はてなにしてもそんなモデルを基に作っている。人に質問をするためにお金を払わせて、その人が物を調べる場を作ることでお金を稼ぐ、と。

背景はいろいろあるのだと思うけれど、一つには情報っていうものがあまりにも増えすぎて、金銭的価値がどんどん減っているという見方も出来るのかもしれない。第一次世界大戦は科学者の戦争だった(化学爆弾、他の化学兵器)。二次大戦は物理学者の戦争だった(原子爆弾)。そして三次大戦は数学者の戦争になるだろう(情報戦争)。という文章を、この前読み始めた暗号の本(the code book)で読んだ。情報をもっていることは今後ますますその価値を高くする、だから数学者は必死に暗号を書いてそれを隠す。

この二つの見方は対立しているように見える。情報は、高くなったのか、安くなったのか。たとえば音楽ではどうだろう。CDの値段はここ数年そんなに変わってないと思う。他の多くのものに比べれば、変わっていない。高校のころに買っていたのと、今かったのとで、べつにそんなに安くなったな、っていう感覚はない。それに対して高校のころはありえなかったCDがコピーできるようになって、CDRというものが出たけれど、これはここ数年で値段的には地に落ちた。この二つから情報の値段がどのように変わったのか、ということを探り出すのは難しい。CDRのブランクCDと音楽CDに使われている記録技術は大きく異なるものだし。でもこういうことも考えられる。CDRを作る技術には、もちろん登場したてのころはものすごく価値があった。皆が知りたがったし、皆が改良したがった。そういう立場にあるものだから、CDRはすごく高かったけれど、今となっては周知の事実となって、それに対する情報代、というのはほとんどない。プラスチックと電気代の値段に近くなっているわけだ。

それに対して音楽は毎年新しいものがでてくる。聞いていると、こんなの五年前もあったよな、と思うものもあるけれど、やっぱり過去に存在しなかったという意味では新しいといえば新しい。だから値段の変化は「新しい音楽」というものに対する一般的な価値を反映することになる。そういう意味では音楽の価値はそんなに変わっていないということも出来るのかもしれない。

けれどもその背景にはCDRでのコピー、mp3でのコピー、p2pでの交換などなどの登場でどんどん音楽がただで手に入るようになっている。また一方では音楽のネット販売が進み、一曲いくら、見たいな信じられないやり方で音楽が売れれていたりもする。バナナじゃあるまいし、一曲いくら、なんてあんまりだとも思うけれど、そういうのがうけているらしい。音楽は安くなったのだろうか?ただなのだろうか?それとも情報自体の価値は変わってないのだろうか。もちろんそんな質問に簡単に答えは出ないけれど。

でも確実にいえるのは、昔よりも今のほうが情報が圧倒的に多い、っていうことだろう。自分が子供から大人に成長したから、というのもあるのかもしれないけれど、それだけでは説明のつかない急激な変化が起こっているのは明らかだ。8年前はインターネットなんてほとんどなかった。14.4kbsのモデムでニフティーサーブに接続するようなことがまだ当然のようにあった。それが今は月3000円払えば情報があほみたいに出てくる線がやってきて、はじめたら文字通り情報に溺れるしかない。最近RSSリーダーでニュースを読み始めたけれど、二日も見ないと500件くらいたまってる。もうほとんど読む気がしなくてランダムに目にとまったものを片っ端から読んで気がつくと二時間三時間に渡って膨大な情報摂取をしている。情報の摂取のし過ぎでせわしなく常にいろんなことを考えている。落ち着かなくなってブログを書く、また情報が増える。誰が読むのかわからないし、誰も読まないのかもしれない。けれどもいずれにしてもお金はかからない。というのは少し嘘だ。インターネットをやっていればいたるところに広告だらけだ、これをクリックして買い物をはじめなくても、こっちが見てるだけで向こうには利益が行くのと同じことだ。だからブログを書くにしても、読むにしても、気がつかないうちに結構お金を払っているのだろう。

ここで戻ってきた。書くほうも、読むほうも、同じだけお金を払っている。それも今までとは違うやり方で。お金を払ってニュースを読むのではなく、ニュースを読んでお金を払ってるようなもの。変化は大きいけど帳尻は合ってるみたいだ。グーグルなんてそれで大繁盛してるし。たとえばヤフーがあれだけ頑張ってブロードバンド会員を増やした背景にもこういう考え方があるんだろう。情報を提供することでお金を得るのではなくて、情報を扱うシステムでお金を取る、と。

ところで音楽の値段の話しには個人的に興味がある。実際相対的にどれくらいの変化が起こってるんだろう。卵いっこと比べてどれくらい変わってるんだろう。牛丼何杯分なんだろう。その前のレコードの時代はどうだったんだろう。今のネットミュージックは?ちょっと調べてみる価値がありそうだ。はてなのポイントでも買ってみようか。

free as in freedom

GNU

今日からはてなをはじめる。なにやら前々から気になっていたのだけど、自分で作ったブログもあったのでなかなか気乗りがしなかったけれど、今日ふと思いついてはじめることにした。

今日はいいものを読んだ。
RichardStallman講演
山形浩生という人のサイトから)
とても面白かったし、すごく尊敬する。

Richard Stallman は超一流のプログラマーにして、GNUというフリーソフトウェアオーガナイゼーションの中心人物。free as in freedom: ただ、という意味のfreeではなくて、自由。

彼曰く: ソフトウェアというのは食べてもなくならないサンドイッチのようなものだ。何度食べても同じだけの栄養が取れる。これをどうすればいいか。お金を取って他人に売るのか?それとももっとまともなのは困ってる人にそれを挙げて皆が食べられるようにすることだろう。ソフトウェアは誰でも簡単にコピーできるものだ、食べてもなくならないサンドイッチのように扱うのが一番素敵なことだ。

彼曰く: ソフトウェアというのは料理のレシピのようなものだ。誰かが作り方を考えるけれど、皆好みがあって好きなように加えたり変更したりする。もちろんレシピを売ることは出来るけれど、そのレシピを使って自分の好きにアレンジした料理を造る権利を奪うようなことをしてはいけない。それは全く楽しみを奪うことだ.

彼曰く: ソフトウェア(特にソースコード)は、公開されないといけない。もし公開しなければ、同じようなものを作りたくても今あるものから学ぶことは出来ない。もし出来ないのならば皆が一から作らなくてはいけない。それは時間の無駄であって、例えそれが多くの職を生むことになってもこれは進歩ではない。進歩は「人が他人の成果の上に積み上げられるときにいちばんはやい」。

これがストールマンの協調するソフトウェアーがフリーであるべき精神を三つの視点から説明したもの。僕はすごく共感した。共感というのは正しくないかもしれない。自分の私益だけではなくコミュニティーのために貢献できるように、そういう姿勢をストールマンのように貫き通すのはすごく難しい。けれども「彼だったらどうするか」ということを考えるのは自分にとってすごく勉強になるところがいろいろある。

ということで今日ブログを書こうと思ったのは、自分のその共感を少し大きなコミュニティーの中で考えていきたいと思ったから。はてなをやってる人は個人的にはまだ誰も知らないけれど、これからいろいろなインタラクションがあって、この考え方を自分なりに消化できればいいと思う。そこでとりあえず、たまにひらめく自分のアイディアを少しずつここに書いていきたいと思う。アイディアは隠すのではなく公開することではじめて利益が得られる。そう考えたい。

ということでこのブログに書いてある内容はすべてGPLライセンスにしたいと思う。とはいっても著作権の知識はまったくないので、ここでそんなことをいって筋が通るのかはよく分からない。ためしにはてな著作権について調べてみたら、こう書いてある。

第8条(当社の財産権)
当社は本サービスに含まれる情報、サービス及びソフトウェアに関する財産権を保有しています。
本サービスに使用されている全てのソフトウェアは、知的財産権に関する法令等により保護されている財産権及び営業秘密を含んでいます。
ユーザーは、はてなダイアリーおよびはてなグループにおいて自己が作成した日記の内容と、有料オプションを利用しているはてなグループのキーワードの内容、および、はてなフォトライフにおいて自己が送信した画像について、著作権を有するものとします。
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他にも調べてみたら こんなサイト があった。いろいろとブログによって違うらしい。とりあえずここでGPLの権利を主張するのがどういうことなのかよくわからないけれど、とりあえずはてなでやってみよう。問題があればそのときはそのときで。