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スマホアプリ「コインパズル」開発者の日記https://bit.ly/35gpWAB

アメリカ旅行紀〜5日目〜

今日の目的地は、そもそもの旅行の目的である、Google本社とアップル本社の聖地巡礼

これを敢行し、岡田斗司夫氏がYouTubeで面白いと言っていた、ウィンチェスターミステリーハウスに行けたら行くという強行軍である。
 
 
私はスマホを片手に、サンノゼを目指す。
サンノゼをご存知だろうか。
iPhoneの天気予報にはこの街がデフォルトで登録されている。
そう、シリコンバレーとはこの街の異名なのだ。
この、今や世界を席巻するGAFA四天王が、駅にして5駅分くらいのこの地区に全てある、と言われたらビックリするのではなかろうか。
写真で見る限り、のどかな所と言う印象しか無かったが、行ってみると想像以上に田舎だった。
日本のしなびた田舎の雰囲気ではない。街全体が広大な森の中にあり、その中に人間がいる感じ。
ハトくらいの頻度でリスを目撃する。仕方なく田舎になったのではなく、狙ってこうなっているのだ。
田舎と言うと怒られるだろう。
アップル本社から行ってみたが、驚くのはその大きさである。少なくとも私が見た建造物の中で1番大きい。形状は中庭を有するドーナツなのだが、直径2キロくらいあるんじゃなかろうか。
周囲を歩き、アップルビジターセンターにたどり着く頃には、気温3度の中汗ばんでいた。
 
アップルビジターセンター。
それは世界中のアップル教信者が集うアップルストアの本店である。
階段やトイレ、その他細部に至るまで、ナチュラルで、ロハスで、世の意識の高さを集中させて作られた代物であった。
私は村上春樹の本を読んだ時の様な不思議に安らぎつつも、意識が高まる?感覚を覚え、その場を後にした。
 
 
続いてグーグルへ向かう。
地球の歩き方を見ると、グーグルに行くにはレンタカーを使え、と書いてある。
グーグルを見るとタクシーを使えと書いてある。
国際免許など無いし、タクシーなど一台も走って無い。
タクシーを呼ぶにも電話番号も無いのだ。
残された方法はバスしか無い。
この作戦は地球の歩き方に、無謀なのでオススメできない、と書いていたが、私にはそれしか残されていない。
使い過ぎて熱くなるWiFiをポケットにしまい込み、iPhoneを片手にバスの番号を凝視する。
唯一の救いは、グーグルのお膝元だけあって、グーグルマップがいつも以上に正確に、現在のバスの位置までも教えてくれる事だ。
 
アップルからグーグルまで、1時間くらいで着いた。
グーグルプレックスと言う、訪問者向けの施設があると聞いていたが、ロビーに行くと、隣に訪問者向けの大きな建物が建設されており、6ヶ月後に完成だと言う。
つまり、現在は建物は入る事が出来ず、外観しか見る事は出来ないよ、と言われる。
そんな事、グーグルマップにちゃんと全部書いておいて欲しい。
仕方ないので、とりあえず中庭に存在する、ティラノサウルスを激写。
有名な話ではあるが、このティラノサウルス食物連鎖の頂点を象徴しているらしい。
つまり、我々は資本主義と言う食物繊維の頂点だ、と言う事を現しているらしい。
恐竜は絶滅した、と言う点まで織り込み済みだとしたら好感が持てる。
 
しかし、私の目の前を歩いているグーグル社員達はどうか。
肉食系ではなく、草食系そのものである。
そもそも、この街で肉食系のギラギラした奴なんかまだ見てない。
この街には多分娯楽が無い。
ラスベガスの様なカジノはもちろん、映画館も、行列ができるラーメン屋も、スナック一軒すらもない。
皆、研究者なのだ。
 
サンノゼにあるスタンフォード大学から天才を選び抜き、遊ばせず、研究に集中できる街、シリコンバレー
研究に集中できない人にとっては地獄だろう。
 
 
私は前々からシリコンバレーに行きたいと思っていたが、サンフランシスコの近くだと知ったのは岡田斗司夫氏のYouTubeがきっかけだった。
また、岡田氏はサンフランシスコを旅行したらしく、動画でチラッとウィンチェスターミステリーハウス、の話をしていた。
ココもいけるなら行ってみたい。
 
ウィンチェスターミステリーハウスは、現存する呪われた家、と言われている。
なんでも、ライフル製造業社の社長夫人が、インチキ占い師から、家を増築し続けないと、あなたの身に不幸が起こる、と言われ、その言葉に従って延々と増改築し続けられた家だそうだ。
恐ろしいのは、旦那や子供達が死んでは再婚し、と言うのを何度も繰り返した事だ。
 
アメリカの乏しい案内のせいで、私は駅を電車を逆走したり、バスを乗り間違えたりしながら、なんとかウィンチェスターミステリーハウスの最後の案内会に間に合った。
東京の100分の1くらいしか案内板が無い。
ラストの回は16時だ。
ギリギリ間に合った事で、私の今回の旅は全面的にうまく行った様に思えた。
 
 
案内はいかにもな婆ちゃんで、一回で30人くらいの旅行客を率いて屋敷を回る。
全部英語で、全く聞き取れない。
 
家の中は、かくれんぼに最適な超巨大屋敷である。
キッチン、風呂、トイレがそれぞれ13個もあるらしい。
美しいサンルームや、ステンドグラス、家具、その他装飾品の数々。。
趣味は悪くないのだが、居間、キッチン、リビングと一定周期で同じ様な部屋が延々と繰り返されると白昼夢を見ている様な不思議な感覚に捉われる。
出口で案内役のばあちゃんにチップを渡さなければいけない場面が訪れたが、払わずにそそくさと退散した。
他のメンバーも退散しているのを見て、アメリカ人だって、チップを払いたくないのだと思った。
 
その後、フィッシャーマンズワーフで飯を食ってホテルに着いた。
その時のフィッシャーマンズワーフの様子。

 

アメリカ旅行紀〜4日目〜

この日も現代アートを追いかける予定だったが、まずはTwitter社を見る。

 
と言っても看板だけ。日曜日なので閉まっている。
 
向かいのスタバからも撮影。
 
 

スタバもチップを取って来る。クレカで払おうとすると、チップボタンが存在する。
 
1ドル、2ドル、3ドルがボタンで指定でき、押さないと支払いが完了しない。0ドルは存在せず、アンドアザー(and other)となっている。
 
つまり、アンドアザーを指定して、自分で0と指定せねばならぬと言う恐ろしい手間がある。
私は面倒なので、1ドルだけ払った。
 
バスを乗り継いで、ゴールデンゲートブリッジパーク内のデヤング美術館に行く。
 
バスを降りる時、小銭が詰まっていて、支払いが出来ないで困っていると、いいから降りろと言われて、サンキューと言っておりた。
 
色々なモノが壊れている率が高い。
 
 
 
 
デヤング美術館は閑散としていた。
 
閑散としていてこそ現代美術館である。
 
ココはネイティブアメリカンのアートと言うか、民芸品の様なアートと、現代アートが主だ。
民芸品で言えば日本の方がクオリティは高いと感じる。
 
どこかにアフリカ原住民の様なアニミズムを感じる、木彫り人形や、カヌーなんかが展示されている。
 
現代アートは陶器に奇抜な塗装をしたモノが心に残った。
 
しかし、ココの1番は裏庭の彫刻だと思った。
 
彫刻こそ、美術館に来て見るべきモノだ。
 
写真は2次元であり、3次元の彫刻は本で見ても本質は見えない。
 
ダンテやヘンリームーア、野口勇など有名どころをしっかり揃えており、知らない作家もかなりあった。
 

 
1番奥に空を円形に切り取るアートがあったが、そこから空を見ていると心が安らいだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、美術館の向かいの科学館に行ったが、子供だらけだったので、40ドル払ったのに、速攻出た。
 
 
 
やはり美術館だと思い、色々探すと、電車で1時間のシリコンバレーに、サンノゼ美術館なるものが存在する事が分かり、行くことにした。
 
 
 
バートと呼ばれる鉄道で、サンフランシスコの中心地から、シリコンバレーへと向かう。
 
地球の歩き方は3年前のもので、バートではシリコンバレーに行けない事になっていたが、現在は行ける様だ。
 
電車で1時間。最寄り駅に着いてからが大変であった。さらにバスを乗り継ぎ、サンタクララと言うところで降りる。
 
サンノゼ美術館は学生無料らしく、私は通信制の教育大に通っていたので、学生証を見せるとタダで入れた。
 
ココは、大した事なかった。
 
展示も凄く頑張った美大生と言う感じだった。
 
美術館、博物館、美術館と3軒もハシゴしたが、この日はハズレだった。
 
唯一の収穫は、サンノゼはバスしか移動手段がなく、明日のシリコンバレー巡りはかなり苦戦が強いられると言う事が分かった事だ。

アメリカ旅行紀〜3日目〜

夜中の3時くらいに起きて、夜の喧騒を引き継いだカジノで遊ぶ。
遊ぶとは言ったものの、せっかくラスベガスに来たのだから、と言う責務に近い。
1時間くらいで100ドルくらいを消化し、責務を果たした。
 
ラスベガス、そこは狂った田舎町だった。
たった2日いただけで田舎町と断じてしまうのは気が引けるが、東京の様に街が延々と続く感じが無い。
ちょっと行くと、街外れなのである。
何より遠くには山が見える。
山が見える事は私の中で田舎の定義に近い。
もちろん中心部は安定した地盤の上に金ピカの高層ビルが立ち並ぶ。
私の大好きなキラーズと言うバンドを産んだ街でもある。
しかし、規模は違えど、温泉街にあるパチンコ屋みたいに、どこかにしなびた感じを備えているのだ。
早朝のバカ高いタクシーから降り、ラスベガス空港からサンフランシスコへ向かった。
 
 

 
 
サンフランシスコの空港から出ると、カモメの鳴き声がした。
鉄道で街まで行っても、やはりカモメが鳴いている。都会にカラス以外が飛んでいるのを見た事が無いので新鮮な感じがする。
街並みはどこか渋谷と似ていて、ブランドショップがズラリと並んでいるが、人は渋谷ほど多くない。
 
 

街のシンボルのユニオンスクエア近くのホテルに着いた時、フロントは不在だった。
しばらく途方に暮れていると、ホテルの外でタバコを吸っていたチャラい兄ちゃんが入って来て、フロントの中に収まった。
お前がフロントかい!と突っ込みたくなった。
 
荷物を預けて街のレストランに入り、昼食を取ることにする。
店員が私がホールを回しているのよ、と言わんばかりに日本の高圧的なラーメン屋の様な態度をとって来る。
パスタを頼むと、山盛りの麺に具材はほぼナシ。
味は悪くないが、流石に飽きる。
25ドルくらいだったので、30ドル渡すと釣りはいるかと言われ、チップにして下さい、と答えると、急に店員の態度が良くなる。
店を出る時にだけ態度が良くなっても、チップを払う意味がない。
 
それからサンフランシスコ現代美術館に向かう。

 
 
9階建ての建物にびっしりと体系的に現代アートを並べていた。
こう言う流れで現代アートは進化してきました、と言うのがなんとなく分かる。
ピカソモンドリアン、ロスコ、ダリ、ブラックなど、美術館ならありますよね、と言うところも当然の様に一通り揃えていた。
昔、美術の教科書で見た、ウォーホルのプレスリーの版画もあった。

 
 
個人的に1番良かったのは、ダンフレイヴィンの蛍光灯アートだ。

 
 
カラフルな蛍光灯を格子状に並べただけの作品であるが、涼しさと暖かさを同時に感じる様な不思議な感覚に包まれる。
蛍光灯が点灯した時のチカチカと言う冷たい音と、光が本来持つ暖かさを連想するからだろうか。
優れた現代アートは、その前に立つと、ずっと前からその作品を知っていた様な気がする。
 
 
美術館を出ると、日が暮れていた。
夜になると、街中にホームレスが何故か立って寝ている。
立ったまま寝ると、重量で首が曲がり、首なし人間に見えて、それなりに不気味だ。
立ったまま寝ないと、襲われるのだろうか。
それも閉まったブランドショップの目の前で寝ていて、日本だったら絶対に取り締まられる。
その点、ホームレスに優しい時言って良いのではないか。
 
ネオンの色が日本より、赤とかピンクとかの割合が多い。
間違った寿司屋も多く、サイバーパンク感がある。
コンビニで夕食を買おうとしたが、品揃えに乏しく、仕方なくサンドイッチを買い、早目に寝た。

アメリカ旅行紀〜2日目〜

ラスベガスはカジノのために来たのではない。
アンテロープキャニオンが見たいのだ。
アンテロープキャニオンと言うと、Windowsにも macにもデスクトップの画像として採用されており、自分としては、死ぬ前に見たいと思っていた。
今回の旅は、自分の中でコンピュータの聖地巡礼の旅なのである。
アンテロープキャニオンはアリゾナ砂漠のど真ん中にあり、流石にツアーに参加するしかなく、そのツアーがラスベガス出発と言う訳だ。
 
次の日は夜中2時半からアンテロープキャニオンツアーに参加した。
途中で寄ったホースシューベントと言う所が、あまり観光地感が無くて、この日で1番良かった。
ホースシューベントは馬(ホース)の足跡(シュー)のに様に曲がったところ(ベント)と言う意味だが、言ってしまえば、コロラド川の単なる蛇行である。
ただこの蛇行がめちゃくちゃ深いのだ。

100メートルは優に超える、蛇行によって出来た崖。
その下を見ると、川をクルーズ船が優雅に通過している。
随分と深いため、船の音など届く筈もなく、おもちゃの小舟が通過している様に見えた。
 
その後、旅の目的の一つである、アンテロープキャニオンに向かった。
アンテロープキャニオンはナバホ族の私有地で、ナバホ族が管理し、ナバホ族がツアーガイドも務める。
日本人のツアーガイドは外で待ちぼうけ。
ナバホ族のガイドは若く、iPhoneで私たちを撮影してくれる。
その撮影技術が凄い。iPhoneの中のフィルターを使いこなし、アンテロープキャニオンが映えまくる。
実物よりガイドの撮る写真に夢中になってしまっていたが、肝心のアンテロープキャニオンは、期待を越えてこない。

ここは、実際に来るより、写真で見た方が絶対に美しい。
実物は随分狭い谷で、小さい。
確かに砂漠の真ん中で偶然この谷を見つけたら、凄いものを見つけた、と感動するだろう。
しかし、階段が設置され、ここで写真を撮るとキレイですよ、と紹介されると魅力は半減してしまう。
ココはいわゆる映えスポットであり、様々ならパソコンのデスクトップを飾る事で話題になったが、実はナバホ族のプロデュース力の賜物であった。
ナバホ族は先祖から受け継いだ大いなる遺産を、ITの力で最大化する事に成功していたのだ。
 
その日は他にもグランドキャニオンや恐竜の足跡なんかも見た。
グランドキャニオンは確かに素晴らしかったけれど、観光地化し過ぎている様に思えた。

グランドキャニオンはお土産屋を通過しなければ見ることが出来ない点が萎えポイントだった。
お土産ショップと言うのはどこの国も同じだ。
アクリルキーホルダーがあり、人を殺せないナイフがあり、本当に私をうんざりさせる。
唯一の救いはトイレが海外にしてはキレイだった事だ。
アメリカはヨーロッパに比べて治安も良く、衛生面も良い。
郊外はどこか日本の田舎町を彷彿とさせる瞬間がある。
日本の風景は戦勝国アメリカから輸入されたものなのかも知れない。
 
などと考えながらツアーバスに揺られていると、ラスベガスに着いた。この日、3000キロを走破したらしい。
ネバダ州からアリゾナ州までの弾丸ツアー。
車とは1日でそんな距離を走れる乗り物だったのか。
 
その日はやたらと大きいステーキと大量のトルティーヤと言うトウモロコシチップスみたいなのを食べたが、当然食べきれなかった。

 
次の日は早起きしてサンフランシスコに向かうので、早目に寝た。

アメリカ旅行紀〜1日目〜

16時45分に離陸する筈の飛行機は定刻になっても飛ばなかった。
理由は天候だそうだが、警備員が言うには成田はワインが一本足りなくても離陸できないから、そう言う理由で遅れているのではないか、と言う事だった。
 
結局離陸できたのは5時半で、それでも定刻に着く予定らしい。
枕や小さい財布など成田で買う予定だったが、とにかく色々な国の人で成田はごった返していたので諦めた。
唯一エアサイドに存在するセブンイレブンは店の外まで長蛇の列が出来て、帰国前最後の寿司屋と銘打っている寿司屋にはテイクアウトの外国人がいっぱいだった。
 
世界の魅力的な国ランキング1位やら円安やらも手伝って、コロナ明けの今、世界的に行くなら日本、となっているらしい。
 
そんな中、逆にアメリカに行く私は変わりものだろう。
 
 
なんとか9時間後にサンフランシスコに着いたが、現地時間の9時。私の頭は17時半に9時間を足して深夜2時半だ。私はぼんやりした頭で90分で乗り継ぎをしなければならない。
しかもその間には入国審査があるのだ。
入稿審査には長蛇の列が出来て、時間が無いので出してくれ、と交渉したりして、なんとか入国審査に漕ぎ着けた。
私の英語が下手くそな事に、入国審査官は明らかに態度が悪くなった。
アメリカはLGBTには優しいが、英語が出来ない奴には厳しいらしい。
どこに行くんだとか、何をするんだとか、煙草は何箱持ち込んでいるかとか、仕事は何だとか、教師なら何を教えているんだとか、色々聞かれた。
もし英語も教えている、と言ったらどんなリアクションをされただろう。
入国審査を抜けたら成田で預けた荷物を自分でラスベガス便に預け替え、搭乗前審査を受ける。
何とか間に合ってラスベガスへ。
 
ラスベガスは突如砂漠の中に現れた金ピカの街である。文字通り金ピカのビルがあるのだ。
道路は片道五車線あり、とにかく皆飛ばしている。
運転手はいかにもいかにもアメリカ人が聞きそうな古いロックを聞き、一緒に歌っていた。
 
私はシャトルバスのメンバーの中で1番最後に降ろされた。
着いたホテルはサーカスサーカスと言うラスベガスの外れにあるホテルだ。
1番安い1番場所が悪いホテルなのだろう。
表に超巨大なピエロの看板があり、なんだか不気味な感じがする。
 
めちゃくちゃデカく、40階建ての建物と20階建ての建物が内部で一つなぎになっていた。
中も外もややボロいが、汚いと言う程ではない。
スタバなどの飲食店も中にある。
ストリップと言う表通りからフロントに行くには、カジノを通らなければならないところとか、商売っ気が凄い。
 
中は迷路みたいで、エレベーターも途中で乗り換えないと自分の部屋にたどり着かない。
 
部屋は27階で無駄に広かった。
部屋からはラスベガスの街が一望出来る。
気が狂ったような巨大ビルが多いが、遠くに山が見えるので、大都会と言う感じはせず、どこか日本の萎びた田舎を思わせる。
 

その日は疲れて昼から寝てしまった。

〜回顧録17〜広告バン

自主制作アニメなど締切がある訳でも無い。
完成したってやる事はYouTubeに上げるだけ。
完成したアニメをmpeg4と言う映像形式に書き出してUploadのクリック1つ。
それで世界が変わる筈だった。
 
 
が、特に話題にもならず、淡々と日々が続いた。
アニメが1000再生に到達したくらいの事だった。
 
突然、YouTubeの管理画面の聖アニマル学園の欄に、広告停止の赤マークが付いた。
私は訳も分からずGoogleさまに異議申し立てをして、それでも赤マークが消えないので、何度も異議申し立てをしてしまった。
そのせいで、私の虎の子であったYouTube広告はバンを喰らった。
もっと丁寧にYouTube規約を読み、何がまずいのか把握すべきだった。
 
私は結局、それなりの再生数があった聖アニマル学園を消して、上げ直したりしたが、一切広告は付かなくなった。
色々調べた結果、一度広告がバンされると、二度と付かない事が分かった。
私は絶望し、どうやってこれから稼いでいくか、途方に暮れた。
 
 
何がまずかったのだろう。
震災で揺れた脳は、少しまともな方向に働いた。
 
そもそも、好きな事で稼いでやろう、と言うのが誤っているのではいか。
好きな事では稼がず、好きならばただやれば良いのではないか。
YouTubeの広告は無くなってしまったが、アカバンされてしまった訳ではない。
アニメを作りたいなら作って、ただYouTubeに上げれば良い。
YouTubeの広告が付くかなど、他人に生殺与奪の権限を委ねている時点で、自分は終わっているのだ。
 
では、何をして稼ぐか。
塾講師である。
何となく始めた塾講師だったが、気付けば当時6年くらい続いていて、漫画やアプリで稼ぐ10倍くらいの収入をそちらで得ていた。
大学を卒業してからの仕事は、漫画家ではなく塾講師だった。
しかも、やっていて楽しかったのだ。
いる場所も東京である必要はない。
実家のある九州で塾の講師をやってアニメを作って生きようと思ったのだった。

〜回顧録16〜震災

その頃、東日本大震災が起きた。
私が富士見台のドラックストアーから出た瞬間だった。
今まで体感した事の無い大きな揺れだった。
普段塾で理科を教えていた私は、自分がマントルと言うマグマの海の上に浮かぶプレートと言う小船の上にいる事を体感した。
本当に船に乗っている様だったのだ。
駅前でたむろしていた女子高生たちがギャーギャー騒いでいて、電線がブランブランと揺れていた。
私は突如ミーハー心が湧いて、ボロい建物から外壁が崩れ落ちていくのをiPhoneで撮影した。
私はその時地震に対して妙に冷静で、まぁ死ぬ事は無いだろうとタカを括っていた。
 
 
本当に焦ったのはその後だ。
トキワ荘(プロジェクト)に帰って、まだブラウン管だったテレビを付けると、黒い波が東北の街を覆っていく映像が流れた。
余震が続き、ボロいトキワ荘(プロジェクト)は今にも潰れそうだった。
本当に家が潰れる気がして、同居人5人で練馬区役所に避難する、と言う大袈裟な行動を取った。
帰宅難民以外は区役所で寝泊まりする人はいなかった。
 
その日、脳が揺れたせいか、色々な思いが頭をよぎった。
自分はなぜ漫画家と住んでいるのだろう、なぜ東京にいるのだろう。
漫画を描いているでもない。
自分1人でアニメを作るだけなら東京にいる必要は無いのではないか。
当時トキワ荘(プロジェクト)の居住期限は3年と定められており、自分はもう4年目に差し掛かっていた。
当初住んでいたTさんを含む初期メンバーは皆引っ越した。
私だけがトキワ荘(プロジェクト)に残り続け、新しいメンバーに先輩風を吹かしていた。
 
 
 
しかし、乗り掛かった船である。
とにかく、「聖アニマル学園」だけは東京で作ろう。
作ってYoutubeに上げよう。
震災でぶっ壊れていく東京で、自分は淡々とアニメを作ろう。
考えるのは、それからだ。
マントルの海に漂う北米プレートの上で、私は相変わらず自分に酔っていた。
 
 
 
それから1年という長い期間をかけ、たった10分のアニメ、聖アニマル学園は完成した。