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Les jardins suspendus de Babylone このページをアンテナに追加

2016-09-25

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長い眠りの後に、ぼんやりと頭の中に入ってきた言葉を書き留める。詩作というより自動記述解説を求められても、「向うからやって来た」言葉の列なので、作者の意図というものは無い。

このブログ研究のためのメモとしてやってきたけれど、他に残しておける場所もないので(この種の取るに足らない文章を保存する場合PCローカルよりブログの方が恒久性がある)、まあたまにはよいだろう。


重く引き延ばされた眠りを眠る

部屋の四隅には薄暮が降り積もっている

長い雨に季節が腐ってゆくのを聴く

葉陰で静かに腐敗する最後果実のように


どこかで犠牲獣が屠られる

畸形の天使たちはすべての過去を夢みている

空には灰色の石版が打ち付けられて

やがて一条の罅が走る

2016-09-07

[]サドリベルタンたちの避難所

さて、サド強者弱者たちを、それがなくては彼らが生きてはいきない相互援助の連関から引き離し、多くの場合、人里離れた山奥、孤立した城(「そのすばらしい城は孤立していた isole」)、地下などに幽閉し、自分たち情欲の満足のための道具と化す。サド文学の出発点となった『ソドムの120日』の舞台であるシリング城は、「isole」なる語こそ使われていないが、やはり四方を山に囲まれた地の果てに位置する孤域である。そこでリベルタンはさらってきた犠牲者たちに言う。「友人からも親からも引き離されて、この世で、おまえたちはすでに死んでいるのだ。もはやおまえたちは、我々の快楽のためにのみ呼吸をしているのだ」。

(秋吉良人『サドにおける言葉と物』風間書房2001年、48ページ。)

2016-08-27

[]鏡について

書くことは、読者を予想し、先取りすることなしには不可能である。作家がこうして先取りしようとする読者は、しかし、決して真の他者ではありえない。それはまさしく鏡のなかの自分、このイマージュでしかないだろう。それゆえに彼は真の他者(《きみたち》)をそこに現前させようとして、百面相を試みる。すきをみせ、いらだたせ、かくれ、保留をつけ、証明し、居直り、反駁し、虚をつき……だが空しい。他者とはわたしわたし傍点]として語りかけうる存在だが、しかし、この他者他者でありうるのもまた、彼がわたし傍点]として答えうることによってである。わたし傍点]のこの確かさ、いわばこのコギトの明証性、それのみが真に語ることを可能にし、対話を成立させるだろう。だが鏡のなかの自分を前にして、われわれはこの明証性、この可能性を失わずにはいないのだ。

宮川淳『鏡・空間イマージュ』第2版、美術出版社1968年初版1967年)、42ページ。)

2016-08-14

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資生堂ギャラリーまで、「Frida is 石内都展」(http://www.shiseidogroup.jp/gallery/exhibition/)へ。フリーダ・カーロの自邸に遺言により仕舞われていた、彼女衣服や靴や化粧品日記といった日用の遺品を、石内都氏が写したもの。2013年パリ・フォトでの展示を耳にしてから、ずっと観たいと思っていた展示である。


「残された痕跡から出来する、不在の身体の亡霊的な回帰」と言ってしまえばありきたりになるが、かつて現実の肉体が使用していて、その後も固有の時間を経てきた、その個別性の刻印のようなものが、一つ一つの物の細部に捺されているのが見える。左右で大きさやヒールの高さが異なり、摩耗や形崩れも対称ではない靴や、ひび割れや剥落の入った手鏡、爪先を手縫いでつくろったストッキング最期まで記していたという絵日記の、一枚一枚の頁が膨れ捲れ上がっているのが分かるノートの地の部分、使い残されその後の時間で固まってしまった、小壜の中のマニキュアなど。


かつて一人の女性が身近に使用し、経過した時間とともに古びて摩耗した物の数々。50年の時を経てそれを前にしたカメラが、さりげない、しかし決定的であろうその一部分を写して、その映像が今眼の前にあるということの、時間的な隔たりと物質的な固有性の近さとに、目眩に似た感覚を覚えた。

2016-08-09

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立秋を過ぎたとは思えない、陽射しが熱した油のような日、神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の「クエイ兄弟:ファントムミュージアム展」(http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2016/quaybrothers/index.html)へ。点数では静止画のパネル展示と映像プロジェクションが多いが、やはり「ストリート・オブ・クロコダイル」をはじめとするパペット・アニメーションのデコール(ドールハウス式の舞台背景)がひときわ眼を惹いた。

実際のスケール映像を見たとき感覚微妙に異なっていることに気づかされたし(「ストリート…」も「ギルガメッシュ/小さなほうき」も、予想よりも大きな人形を用いていた)、例えば「ストリート…」のデコールには、経年を示す紙の変色やガラスの曇りが、それと分かるように意図的に加えられていることも分かった。覗き口に凸レンズの付いたデコールが数点展示されていたが、これは視線を少しでもずらすと極端に歪型された像しか得られず、アナモルフォーズ(クエイ兄弟にはこの視覚遊戯テーマにした短篇もある)の逆ヴァージョンのようでもある。


MTVミュージッククリップや企業CMでも活躍しているというクエイ兄弟のキャリアが、美術学校の学生だった頃のデッサンから2016年のものまで辿れる展示構成となっているが、私がいちばん心惹かれたのは相変わらず、彼らにとって出世作ともなった「ストリート・オブ・クロコダイル」だった。過去にも現在にも未来にも属さないような場所に、秘密裏に造られた無機物たちの縮小世界といった風情が、覗き込むうちに、現在の喧噪に疲れた精神の鎮静剤になってくれる。


今回初めて知った作品だが、「仮面」のデコールもよかった。壊れ汚れた人形の不完全さ、無機物としての素性が剥き出しになった姿には、逆説的にも、なにか魂が宿っているかのような凄みがある。