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Les jardins suspendus de Babylone このページをアンテナに追加

2017-01-11

[][][]ストローブ=ユイレを考え(続け)る

ドゥルーズは、「ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ 」と言う。サイレント映画における見られるイメージと読まれるイメージの分裂を肥えて、現代映画では「視覚的イメージ全体が読まれなければならな*1」くなっているとドゥルーズは言う。そして、ストローブ=ユイレにおいてはとりわけ顕著に、書字的な諸要素が、つまり碑文や岩に刻まれた銘文が、視覚的イメージの中に陥入していると指摘する。


現代映画(ネオレアリスモヌーヴェル・ヴァーグ)による「感覚運動」の崩壊がもたらした影響について、ドゥルーズは声と言語の決定的な変化(「自由間接話法」)を挙げた後に、視覚的イメージにおいても、空虚で分断された地層的な空間を現出させたと説く。空隙を含む諸層へと送り返され、考古学的で構造地質学的なものと化した視覚的イメージ極北は、ドゥルーズによればストローブ的ショット(プラン・ストロビアン)である。

だがそれ[考古学的、層位学的、構造地質学的なものと化した視覚的イメージ]は、さらに本質的にはストローブ空虚で間隙をはらんだ層位学的風景であり、そこでは、カメラ運動は(それが生じるときは、ことにパンにおいて)かつて起きたことについて抽象的曲線を描いており、大地は埋蔵しているものによって価値をもっている。レジスタンス武器を隠した『オトン』の洞窟、『フォルティーニ/シナイの犬たち』の中の、民間人虐殺された大理石石切り場とイタリアの田園、生け贄となった犠牲者の血で肥えた『雲から抵抗へ』の麦畑(あるいは草とアカシアのショット)、『早すぎる、遅すぎる』のフランスエジプトの田園。ストローブ的ショットとは何か、という問いに対しては、層位学の概説書におけるように、それは消滅した諸層の破線と、まだ触れることができる層相にみちた線を含んだ断面であると答えることができる。ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ

ジル・ドゥルーズ『シネマ二 時間イメージ宇野邦一他訳、法政大学出版局2006年、337ページ。)

純粋言語行為本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレ作品第一様相である。この行為は、読まれる支持体、書物手紙、記録文書からもぎとられなければならない。もぎとることは、激怒情熱によってなされるのではない。それは、テクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうそテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為テクストから引き出す努力を前提とする。『アンナ・マグダレーナ・バッハ日記』では、バッハ自身手紙と息子の証言を、アンナ・マグダレーナのものと思われる声が述べるので、彼女バッハが書き、話したように話すことになり、一種自由間接話法に近づく。『フォルティーニ/シナイの犬たち』では、本が見え、そのページも見え、手がページをめくり、フォルティーニは彼自身が選んだわけではないパッセージを読むのだが、執筆の10年後なので、「自分が語るのを聴く立場に彼は還元されており、疲労に襲われ、その声は、驚きや混迷、または同意自分のものと認められない感じ、あるいはどこかで聞いた感じなどを次々移っていく。そして確かに『オトン』は、テクスト演劇の上演も見せないが、大部分の役者言葉を流暢に操っていない(イタリアイギリスアルゼンチンの訛り)のせいで、それらを内に含むことになる。彼らが上演からもぎとるのは映画行為であり、テクストからもぎとるのはリズムテンポであり、言語からもぎとるのは「失語症」である

(上掲書、348-349ページ。)

*1ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』337ページ

2017-01-07

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マネキン製造の七彩が開設したマネキンミュージアム大阪)のサイト国内マネキン製造の歴史をたどるためのオンラインアーカイヴズとしても充実している。

http://www.nanasai.co.jp/sai/index.html


京都服飾文化研究財団の「時代別のモード要請する理想的身体マネキン」を作っていたのも、この七彩だったのですね。

2017-01-05

[][]ストローブ=ユイレ言語問題

純粋言語行為本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレ作品第一様相である。この行為は、読まれる支持体、書物手紙、記録文書からもぎとられなければならない。もぎとることは、激怒情熱によってなされるのではない。それは、テクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうそテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為テクストから引き出す努力を前提とする。『アンナ・マグダレーナ・バッハ日記』では、バッハ自身手紙と息子の証言を、アンナ・マグダレーナのものと思われる声が述べるので、彼女バッハが書き、話したように話すことになり、一種自由間接話法に近づく。『フォルティーニ/シナイの犬たち』では、本が見え、そのページも見え、手がページをめくり、フォルティーニは彼自身が選んだわけではないパッセージを読むのだが、執筆の十年後なので、「自分が語るのを聴く立場に彼は還元されており、疲労に襲われ、その声は、驚きや混迷、または同意自分のものと認められない感じ、あるいはどこかで聞いた感じなどを次々移っていく。そして確かに『オトン』は、テクスト演劇の上演も見せないが、大部分の訳者言葉を流暢に操っていない(イタリアイギリスアルゼンチンの訛り)せいで、それらを内に含むことになる。彼らが上演からもぎとるのは映画行為であり、テクストからもぎとるのはリズムテンポであり、言語からもぎとるのは「失語症」である

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ宇野邦一他訳、法政大学出版局2006年、348-349ページ。)

2017-01-01

[] Meilleurs vœux 2017

f:id:baby-alone:20170104003955p:image:w360

明けましておめでとうございます。

旧年中に、私を信頼して共同作業へと引き入れてくださった方々、相談事や愚痴に耳を傾けてくださった方々、その他もろもろの支えを頂いた方々、ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年の7月末までには、博士論文を基にした単著ユートピア都市書法クロード=ニコラ・ルドゥの建築思想』を法政大学出版局より上梓する予定です。(助成金の都合上、それ以上の猶予がありません……)


境界無き(border free)」や「周縁的(marginal)」などと称される種類の高等教育機関に身を置いていると、現在の日本社会で急激に顕在化しつつある種々の機能不全が、より凝縮した形で押し寄せてくるのを目の当たりにします。それは同時に、自らの非力さを思い知らされる日々でもあります。だからこそ、自分に出来る範囲のことは、守り抜くし戦い抜く。単著はそのひとつです。勤務先が、学知の砂漠どころかアカデミズムのクレマトリウムと化しつつある中で、精緻で誠実なテクストを世に出すことは、「知的亡命のためのパスポート」にもなるはずだと信じています。

2016-12-31

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映画というものにとって、サド作品ほど示唆に富んだものもないと思います。その理由として、サドの描く場面にはいつもサド特有の綿密さ、儀礼、厳格な儀式形式といったものがあって、これが余計なカメラワークを一切受け付けないということがあります。ほんの僅かな補足や省略も、ごく些細な装飾も許さない。自由幻想存在せず、あるのは予め周到に編まれた規則のみ。一つでも足りないとか、余計に重複するとかしたが最後、全部が駄目になってしまう。空白部は欲望身体でしか満たされ得ないんです。

ミシェル・フーコーサド、性の法務官」(G. デュポンとの対話、初出1976年)、『ミシェル・フーコー思考集成V』465ページ。)

この部分の前提にあるのは、パゾリーニ監督の『ソドムの市(原題サロ、あるいはソドムの百二十日)』(1975年)である。フーコーはこの映画作品を、とりわけナチズムとサディズムの結合を批判的に捉えている。一般化は決してできない特殊な事例だが、テクストから映画への翻案関係の一例として考えることもできるだろう。あるいは映像化を拒むテクストの?


最近映画での身体の扱い方は従来とは全く違った新しいものです。ウェルナー・シュレーターの「マリア・マリブランの死」〔1972年〕に出てくるキスシーンとか、顔、唇、頬、瞼、歯なんかを見てみて下さい。あれをサディズムと呼ぶのは、私に言わせれば全くの見当違いです。もっと最近ブームになっている、部位的対象だの分断された身体だの歯牙状のワギナだのを問題にする精神分析の目を通してみるというんであれば話は違いますがね。[…]それは身体可能性の拡大、芽生えであって、身体のほんの僅かな部分、その細部の持つごく僅かな可能性を自由に開花させることなんです。そこでは身体の言わばアナーキー化が見られ、上下関係位置関係名称など、要するに有機性と呼べるようなものが徐々に崩れ去っていく。ところがサディズムでは、器官があくまで器官として執拗攻撃対象になる。お前の持つその物を見る眼を俺がえぐり取ってやる。俺が噛んでくわえているお前の舌を噛みちぎってやる。そうなればもう何も見えず、もう食うことも喋ることもできまい、という具合にね。サドの描く身体はまだまだ非常に有機的で、そういう階級制にどっぷりと漬かっています。もちろん、昔の寓話のように階級が頭部から始まるんじゃなく、性器から始まる違いはありますがね。

(同上、466ページ。)

ここでフーコーラカンによる有名な一節「寸断された身体」を、サド理解としては不適切なものとして斥けている。もっとも、フーコーサドにおける「身体の切断」として想定しているのは、作中で起こる文字通りの身体への攻撃のなされ方であり、例えば秋吉良人(『サド:切断と衝突の哲学』)が指摘するような(そしてサド祖先ペトラルカソネットとも共通するような)テクストによる身体描写がもつ「断片性」とは、異なる次元の話であるように思われる。

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