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Les jardins suspendus de Babylone このページをアンテナに追加

2017-04-20

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熊谷謙介編『破壊のあとの都市空間ポストカタストロフィー記憶青弓社2017年に、「瞬間と持続、暴力と審美化の間で:リスボン震災からフランス革命に至る時期の廃墟イメージ」を寄稿いたしました。

すでに書店でも発売となっているはずです。ご高覧いただければ幸いです。


青弓社サイト上のページ:http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3412-4

Amazonのページ:https://www.amazon.co.jp/dp/4787234129


このような学知と思考協働の場にお誘いいただいたことを、編者の熊谷さんをはじめ神奈川大学先生方、また青弓社の方々に感謝申し上げます。

2017-03-07

[]思考の屑篭

 言語を用いた時間芸術であるテクスト作品を「忠実に」映画化しようとするとき、どのような方法がありうるだろうか。

 例えばロベール・ブレッソンは、「語る声」と同時に、テクストの「書かれた文字」としての側面を重視した。この特徴がとりわけ顕著に現れた作例が、ジョルジュ・ベルナノスによる同名小説原作とした『田舎司祭の日記』(一九五一年)だろう。この作品では、語り手/主人公青年司祭によって書かれた日記という形式によって物語が展開する。映画ではこの日記の文面が、過剰なほどのナレーションとして映像に重ね合わされる。音声としての言語だけではない。ノートに書かれた日記の文面そのものが写し出される場面も数度ある。文字を書き綴るペン運動と、紙面に書き付けられ、次第に言語としての意味を生成させてゆくテクストとがクロースアップで写し出され、そこに文面を読み上げる(語り手の独白としての)ナレーションが重なり合う。読む声は書く手よりも速いので、ナレーションはまず既に書かれている文字を、次に今まさに書かれつつある文字を読み、さらには「書く手」を追い越して、未だ書かれていない(これから書かれるであろう)文字を読み上げてゆく。基本的にはリアリズムに基づく演技とナレーションとの共振によって構成されたこの映画にあって、この「書かれつつある日記」のシーンは、物語時間が緩慢になり、引き延ばされているような印象を観る者に与える。

 まずは冒頭から、タイトルバックノート(上部には手書き文字で「JOURNAL(日記)」とある)とペン、蓋の開いたインク瓶の置かれた机上が写し出される。オープニング・ロールのスーパーインポーズが消えると、左から現れた手がこのノートの表紙をめくり、挟まれた吸い取り紙を取りのけ、そして最初日記の文面が現れる。ナレーションがその一人称単数現在形の文章を読み上げる(je ne crois rien faire de mal, en notant ici, au jour le jour, avec une franchise absolue, les très humbles, les insignifiants secrets, d’une vie d’ailleurs sans mystère.)。この場面では、複数の時制が重ね合わされている。テクストはその生成時における「現在」として書かれているが、それが日記帳最初の一ページとして観者の前に提示されるときには、既に「過去に書かれたもの」と化している。ページをめくる手は誰のものともつかず、これから当日の日記をつけようとしている青年司祭の手かもしれないし、彼の死後にこのノートを見つけた別の誰かのものかもしれない。後者だとすれば、この部分は、これから映画内で展開する物語を、それが過去と化した時点から、現在形の語りとして提示するという複雑な形式となっている。

 後半に向かうにつれ、つまり青年司祭の体調が悪化し死が近づくにつれ、「書かれつつある日記」には黒く塗りつぶされた書き損じが増え、やがて鉛筆による震えた殴り書きとなり、最後には彼の死を知らせるべく同僚司祭がしたためた手紙の、タイプライター活字が並ぶ無機質な文面となる(このシーンでは、文面を読み上げるナレーションも、手紙を書いた同僚司祭デュフルティの声となっている)。

 物語が後半に向かうにつれ、つまり青年司祭の体調が悪化し死が近づくにつれ、「書かれつつある日記」には黒く塗りつぶされた書き損じが増え、やがて鉛筆による震えた殴り書きとなり、最後には彼の死を知らせるべく同僚司祭がしたためた手紙の、タイプライター活字が並ぶ無機質な文面となる(このシーンでは、文面を読み上げるナレーションも、手紙を書いた同僚司祭デュフルティの声となっている)。

2017-03-01

[]ルイス・カーンルイ・カーン)と「建築スピリット」の体現としての廃墟

ルイス・カーン建築論集 (SD選書)

ルイス・カーン建築論集 (SD選書)

 沈黙と光について一言。建設中の建物はいまだ苦役を知りません。存在への望みが非常に大きいので、その足もとには一本の草も生えることができません。存在せんとするスピリットはそれほど高揚しています。建物が完成して苦役なかにいるとき建物はつぎのように言おうとします。「さあ、私がどのようにつくられたかをあなたに告げましょう」と。誰もそれには耳を傾けません。部屋から部屋へと渡り歩くのに誰もがみんな忙しいのです。

 しかしその建物廃墟になって苦役から解放されるとき、そのスピリットが現れ、建物がつくられたときの驚異について告げようとします。

 先例をもたぬ過去の偉大な建物について考えるとき、われわれはいつもパルテノンを引き合いにだします。それは開口を穿たれた壁から生じた建物です。パルテノンにおいて、光は列柱の間の空間であるといえます。つまり、光−光なし、光−光なしというリズム。それは壁に穴を穿つことから生じた、建築における光の途方もない物語を告げます。

(上掲書、87-88ページ)

2017-02-10

[]メモカタストロフィー表象の(遠くから、安全場所から眺められるという「距離」の確保)「崇高の美学」への回収

ビキニ島の原子爆弾爆発の写真を見ていて、ギリシャ神話以来、どんな想像力も達しなかった水量が、空に舞っているのを見たと思わずにはいられない。「目に見えているものが、いっとう神秘である」という言葉は、機械時代には二重の意味をもって、私たちに真実なのである。」

中井正一美学入門」(1951年)、久野収編『中井正一全集』第3巻(新装版)、美術出版社、一九八一年、一三一ページ。

谷川渥は、中井言及する「原子爆弾爆発の写真」が映像であること(あらゆる事象が見せものとなる)、またカントによる「数学的崇高」と「力学的崇高」の概念関係しうることを説いた上で、次のように述べている。

「いずれにせよ、テクノロジーの発達が可能にした「崇高」な光景――それは神話想像力けがかろうじて拮抗しうるような、そして映像化されているかぎり「二重の意味」において「安全場所」(カント)から眺められた光景にほかならぬが――に、私たちの想像力が追いつかない、あるいはあとからついていくといった事態が生じているのである。知覚が想像力凌駕し始めているという事態こそ、現代というものを指し示すひとつメルクマールだといったらいいだろうか。」谷川はさらに九.一一のテレビ映像を、「動態としての廃墟画」と捉え、「私たちは、あの日、テレビ映像を通して、確かに「崇高」体験をもったのだ」と言う。

谷川渥『廃墟美学集英社新書、二〇〇三年、一七一ページ。

2017-01-11

[][][]ストローブ=ユイレを考え(続け)る

ドゥルーズは、「ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ 」と言う。サイレント映画における見られるイメージと読まれるイメージの分裂を肥えて、現代映画では「視覚的イメージ全体が読まれなければならな*1」くなっているとドゥルーズは言う。そして、ストローブ=ユイレにおいてはとりわけ顕著に、書字的な諸要素が、つまり碑文や岩に刻まれた銘文が、視覚的イメージの中に陥入していると指摘する。


現代映画(ネオレアリスモヌーヴェル・ヴァーグ)による「感覚運動」の崩壊がもたらした影響について、ドゥルーズは声と言語の決定的な変化(「自由間接話法」)を挙げた後に、視覚的イメージにおいても、空虚で分断された地層的な空間を現出させたと説く。空隙を含む諸層へと送り返され、考古学的で構造地質学的なものと化した視覚的イメージ極北は、ドゥルーズによればストローブ的ショット(プラン・ストロビアン)である。

だがそれ[考古学的、層位学的、構造地質学的なものと化した視覚的イメージ]は、さらに本質的にはストローブ空虚で間隙をはらんだ層位学的風景であり、そこでは、カメラ運動は(それが生じるときは、ことにパンにおいて)かつて起きたことについて抽象的曲線を描いており、大地は埋蔵しているものによって価値をもっている。レジスタンス武器を隠した『オトン』の洞窟、『フォルティーニ/シナイの犬たち』の中の、民間人虐殺された大理石石切り場とイタリアの田園、生け贄となった犠牲者の血で肥えた『雲から抵抗へ』の麦畑(あるいは草とアカシアのショット)、『早すぎる、遅すぎる』のフランスエジプトの田園。ストローブ的ショットとは何か、という問いに対しては、層位学の概説書におけるように、それは消滅した諸層の破線と、まだ触れることができる層相にみちた線を含んだ断面であると答えることができる。ストローブにおいて、視覚的イメージとは岩なのだ

ジル・ドゥルーズ『シネマ二 時間イメージ宇野邦一他訳、法政大学出版局2006年、337ページ。)

純粋言語行為本来的に映画的な言表や音声的イメージを引き出すことは、ジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレ作品第一様相である。この行為は、読まれる支持体、書物手紙、記録文書からもぎとられなければならない。もぎとることは、激怒情熱によってなされるのではない。それは、テクストのある種の抵抗を前提とし、それだけにいっそうそテクストに対する敬意を、しかしまたそのつど言語行為テクストから引き出す努力を前提とする。『アンナ・マグダレーナ・バッハ日記』では、バッハ自身手紙と息子の証言を、アンナ・マグダレーナのものと思われる声が述べるので、彼女バッハが書き、話したように話すことになり、一種自由間接話法に近づく。『フォルティーニ/シナイの犬たち』では、本が見え、そのページも見え、手がページをめくり、フォルティーニは彼自身が選んだわけではないパッセージを読むのだが、執筆の10年後なので、「自分が語るのを聴く立場に彼は還元されており、疲労に襲われ、その声は、驚きや混迷、または同意自分のものと認められない感じ、あるいはどこかで聞いた感じなどを次々移っていく。そして確かに『オトン』は、テクスト演劇の上演も見せないが、大部分の役者言葉を流暢に操っていない(イタリアイギリスアルゼンチンの訛り)のせいで、それらを内に含むことになる。彼らが上演からもぎとるのは映画行為であり、テクストからもぎとるのはリズムテンポであり、言語からもぎとるのは「失語症」である

(上掲書、348-349ページ。)

*1ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』337ページ