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Les jardins suspendus de Babylone このページをアンテナに追加

2016-08-14

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資生堂ギャラリーまで、「Frida is 石内都展」(http://www.shiseidogroup.jp/gallery/exhibition/)へ。フリーダ・カーロの自邸に遺言により仕舞われていた、彼女衣服や靴や化粧品日記といった日用の遺品を、石内都氏が写したもの。2013年パリ・フォトでの展示を耳にしてから、ずっと観たいと思っていた展示である。


「残された痕跡から出来する、不在の身体の亡霊的な回帰」と言ってしまえばありきたりになるが、かつて現実の肉体が使用していて、その後も固有の時間を経てきた、その個別性の刻印のようなものが、一つ一つの物の細部に捺されているのが見える。左右で大きさやヒールの高さが異なり、摩耗や形崩れも対称ではない靴や、ひび割れや剥落の入った手鏡、爪先を手縫いでつくろったストッキング最期まで記していたという絵日記の、一枚一枚の頁が膨れ捲れ上がっているのが分かるノートの地の部分、使い残されその後の時間で固まってしまった、小壜の中のマニキュアなど。


かつて一人の女性が身近に使用し、経過した時間とともに古びて摩耗した物の数々。50年の時を経てそれを前にしたカメラが、さりげない、しかし決定的であろうその一部分を写して、その映像が今眼の前にあるということの、時間的な隔たりと物質的な固有性の近さとに、目眩に似た感覚を覚えた。

2016-08-09

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立秋を過ぎたとは思えない、陽射しが熱した油のような日、神奈川県立近代美術館葉山館で開催中の「クエイ兄弟:ファントムミュージアム展」(http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2016/quaybrothers/index.html)へ。点数では静止画のパネル展示と映像プロジェクションが多いが、やはり「ストリート・オブ・クロコダイル」をはじめとするパペット・アニメーションのデコール(ドールハウス式の舞台背景)がひときわ眼を惹いた。

実際のスケール映像を見たとき感覚微妙に異なっていることに気づかされたし(「ストリート…」も「ギルガメッシュ/小さなほうき」も、予想よりも大きな人形を用いていた)、例えば「ストリート…」のデコールには、経年を示す紙の変色やガラスの曇りが、それと分かるように意図的に加えられていることも分かった。覗き口に凸レンズの付いたデコールが数点展示されていたが、これは視線を少しでもずらすと極端に歪型された像しか得られず、アナモルフォーズ(クエイ兄弟にはこの視覚遊戯テーマにした短篇もある)の逆ヴァージョンのようでもある。


MTVミュージッククリップや企業CMでも活躍しているというクエイ兄弟のキャリアが、美術学校の学生だった頃のデッサンから2016年のものまで辿れる展示構成となっているが、私がいちばん心惹かれたのは相変わらず、彼らにとって出世作ともなった「ストリート・オブ・クロコダイル」だった。過去にも現在にも未来にも属さないような場所に、秘密裏に造られた無機物たちの縮小世界といった風情が、覗き込むうちに、現在の喧噪に疲れた精神の鎮静剤になってくれる。


今回初めて知った作品だが、「仮面」のデコールもよかった。壊れ汚れた人形の不完全さ、無機物としての素性が剥き出しになった姿には、逆説的にも、なにか魂が宿っているかのような凄みがある。

2016-07-30

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無事にソウルでの国際美学会から無事に帰国。成績登録期限が1週間後と気忙しいスケジュールだが、なにか「一息ついた」感じが欲しくて、国立新美術館ルノワール展(http://renoir.exhn.jp)へ。


複製されたイメージでよく知られている画家だが(むしろだからこそ?)、展示室の中で作品現物を眼の前にするという経験の中に、さまざまな発見があった。絵具(物質)と彩色と「絵画の膚」ということについて、久しぶりに考える。

ルノワールと言えば、世紀末型のファム・ファタルとは対極的な、陽光の下に輝く、健康的で一点の翳りもその翳りゆえの淫靡さも無い、素朴な農婦型の女性の裸体を描いたという印象が強いだろう。作品の実物を観ると、この「ルノワール的」な裸体の特徴は、体型や造作(線描の領域に属する)というより、膚の色合いと質感を表現するための彩色や筆触に由来するように思える。

なかでも、説明パネルにあった、ルノワール女性の膚を描くための習作として、薔薇の花をよく描いたというエピソードに興味を惹かれた。薔薇の花びらと若い女の皮膚に共通する、透ける血色のようなピンク不透明でマットな質感、光を柔らかく受け止め、凸部では反射するような表面。


作品自分との距離をいろいろと変えては眺めてみるという遊戯が、ルノワール場合はことのほか楽しい。特に今回の目玉展示でもある《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》は、近寄ると分厚い絵具の斑の集合、少し顔を離すと水玉状の光のコントラストが強すぎて「はたけ」に罹ったよう、しかし遠くからは、初夏の陽光木漏れ日となって踊る美しい午後の光景となる。

油絵の表面、絵具の盛り上がった部分が展示会場のライトを反射するために、真正面から見ようとすると一部が白く光って見えず、やや斜めにずれた位置から眺めると全体が見える、という展示品がいくつかあるのも、美術館経験として面白かった。展示環境が生み出す、偶発的なアナモルフォーズと言えるだろうか。


印象派以前のティツィアーノベラスケスなどもそうだが、近寄って見るとこんなに筆致が粗いのに、ヴェルヴェットや絹や木綿のそれぞれ固有の質感を再現し、描き分けられていることに、いつも素朴に感動してしまう。

2016-07-16

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パリの廃墟

パリの廃墟

図書館の地下書庫で、偶然背表紙文字が目に飛び込んできて借りた一冊。1970年代パリという都市の内外に、「廃墟」的な空間一種のテラン・ヴァーグ?)を見出す、明確な目的地を持たないような散歩者の眼差しが描き出される。訳者堀江敏幸氏も指摘している通り、この『パリ廃墟』ではときどきの空の相貌が、独特のうつくしい形容描写されるのだが、レダにとっては「空」もまた、「廃墟」同様に都市の中に開けたヴォイドなのかもしれない。

現在構想中の、1980年代日本の「遺棄された場所(abandoned places)」のイメージとも通ずるモティーフである。

メモ:p. 50空き地(これらの空間の半分は放置されるべき) p. 85工事現場(「死海」が眠る巨大な穴、瓦礫の積みあげられた途方もなく大きな山) p. 190廃線(レールの枕木は消えたが、カーヴだけが残っている。「もちろん私にはどんな物音も聞こえないし、もちろんなにも起こらないし、これからもなにひとつ起こらないだろう」)

p. 208訳者あとがきパリ再開発という時代背景、レオン=ポール・ファルグ『パリ歩行者』(1939年)やボードレールパリの憂鬱』との共通性レダの特異性など。

ただし、レダは歴史と時間の堆積した空間を葬り去るこうした仕業真正面から批判するわけではなく、かといって避けがたい事態だと容認するわけでもなく、じつに微妙な仕方で、その崩れかけた空間なかに、あたらしいなにかを見出そうとする。大手企業の向上が取り壊されたあとの瓦礫の山、かつてパリをぐるりと取り巻いていた小環状線廃線切り通しの土手に生える雑草、空き地にできた油の浮かぶ水たまり、日曜日のがらんとした住宅街。こうした「廃墟」をさまよう詩人は、いつも眼の前に「青い扉」を探し求め[…](208ページ)

堀江氏の訳文もまた淡々と静かにうつくしく、慌ただしい日々のなか、束の間の「愉楽読書」の時間となった。

2016-06-01 このエントリーを含むブックマーク

表象文化論学会誌最新号、『表象10:爆発の表象』が刊行されました。 岡田温司田中純両氏による巻頭対談「新たなるイメージ研究へ」を、私も少しだけお手伝いいたしました。すでに書店での販売も始まっているとのこと、ぜひご高覧ください。

表象10:爆発の表象

表象10:爆発の表象

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