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Les jardins suspendus de Babylone このページをアンテナに追加

2016-11-25

[]カタストロフィによって破壊される都市と「崇高」の美学

すでに18世紀初頭、イギリスの文筆家ジョゼフ・アディソンは、地震と津波により倒壊したナポリ古代ローマ遺跡の情景に、「古代栄光廃墟と、混沌の中にある偉大な壮麗さ*1」を――つまり持続的な時間経過によって出来した遺跡と同様の価値を――見出していた。エドマンド・バークもまた『崇高と美の起原』(1757年、つまりリスボン大地震の2年後の刊行)で、「もし地震によってロンドンが全壊したなら」という仮定を持ち出している。

崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)

崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)

例えばイギリスの、否、ヨーロッパ全体の誇りであるこの気高いロンドンが大火か地震で破壊される姿を見たいと思うほどに奇妙な奸悪な気持ちの持ち主は(彼自身はこの危難から考えうる限り遠く離れているという条件のもとでも)恐らくあるまいと私は信ずる。しかしもしも一旦このような致命的な災害現実に起ってしまったと仮定しよう。その場合にどれほど多くの人間四方八方からこの廃墟を見ようと集ってくるであろうか! そしてその中には今までのロンドンの晴れ姿をついぞ見なかったことを内心で満足に思う者がどれだけ多いことか! (上掲書、53ページ)


そうではなくて我々が非常に鋭い苦を感じたり自分生命危険が切迫したりしていない限りにおいて、我々は自分で苦を嘗める間にも他人の身の上を感じやることができるのであって、自分が苦悩に押しひしがれている時こそむしろ強く他人を思いやる結果、我々は災難を見て憐愍をさえ感じそれを自分の身に引受けようと思うのである。(上掲書、54ページ)

*1Joseph Addison, Remarks on Several Parts of Italy, 1705, in The Works of Joseph Addison : Complete in Three Volumes, Embracing the Whole of the “Spectator,” &c, Vol.,3, New York: Harper and Brothers, 1837, p. 344.

2016-10-28

[]オブジェ思考瀧口修造、夢の漂流物

私の部屋にあるものは蒐集品ではない。

その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃りをも含めて。石ころとサージンの空罐とインドテラコッタ、朽ちた葉、ミショーの水彩、あるいは「月の伝説」と命名されたデュシャンからの小包の抜け殻、サイン入りのブルトン肖像、ムナーリの灰皿、マッチの棒、宏明という商標のある錐……etc., etc. そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。

それらはオブジェであり、言葉でもある。永遠に綴じられず、丁づけされない本。

瀧口修造白紙の周辺」、『コレクション瀧口修造4』みすず書房1993年、137ページ。初出:『みづゑ』のフォトインタビューに寄せた記事1963年。)

私は世の蒐集家ではない。ガラクタに近いものから、「芸術作品」にいたるまで、すべてが私のところでは一種記念品のような様相を呈していて、一見雑然として足許まで押しよせようとしている。

それらは市場価値の有無にかかわらず、それには無関心な独自価値体系を、頑なにまもりつづけているように見える。

[…]

しかし近づいてよく見ると、そこには世間公認カテゴリーから外れたような物たちの一群のあることに気づく。

玩具定義は? それはともかく、「芸術」であるにしろ、「商品」であるにしろ常識や習慣の決めた品物以外の変なものがしばしば「おとなの玩具」と呼ばれているのだ。

[…]

流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え、あるいはライプニッツ流に、これも「変な考え」のひとつであろうか?

瀧口修造「物々控」、『コレクション瀧口修造4』みすず書房1993年、197-203ページ。)

さらに海岸におりて私は貝殻を拾う。それらがまた急に変貌して、オブジェダリの顔が二重うつしになる。――しかしはるばる持ち帰ってみれば、ただの破片にすぎない。すくなくとも魔法の破片だ。半分は現実で、半分は非現実の……。

瀧口修造魔法の破片」、『コレクション瀧口修造9』みすず書房1992年、316-317ページ。初出:『いけばな草月』1959年。)

2016-10-24

[]

ユートピア主義哲学者が善というとしを建設するときと同じ純真で労をいとわない一貫した精神で、サドは、廃墟と焔の建物を建てる。彼の作品は、批評であるというよりもむしろユートピアである。裏返しのユートピア

オクタビオ・パスエロスの彼方の世界――サド侯爵』西村英一郎訳、土曜美術出版販売1997年、30ページ)

人間は動物のなかに自分を見るが、動物は人間なかに自分を見ない。動物の性の鏡に自らを映して眺めるとき人間は、自分を変え、性を変える。エロティシズムは、性そのものではなくて、想像によって変形された性、すなわち、儀式劇場である。それゆえに、エロティシズムは、逸脱や背徳から分かつことはできない。自然エロティシズムという言い方は、不可能であるばかりか、動物的性への逆行であろう。

(同上、106ページ)

エロティック儀式は、構成であり、その構成は同時に演戯である。それゆえ、その儀式においては、裸になることも変装仮面である。

(同上、114ページ)

[]

悪しき夢想

 ぼくの夢はまず第一に一杯のリキュール酒だ。一種嘔吐の水だ。そこにぼくは潜りその水は血の色をした雲母を流す。ぼくの夢のいのちのなかでも、ぼくのいのちのそのいのちのなかでも、ぼくは何かのイマージュの深みにふれることがない。ぼくの夢という夢には出口がない、城砦がない、市街図がない。まったく黴くさいばらばらの手足だけだ。

 ぼくはその上、自分の考えていることがわかりすぎて、そこで起ることに興味がもてない。ぼくは一つのことしか求めない、それは自分を決定的に自分思考なかに閉じこめることだ。

 してぼくの夢の物理的な外見はどうかというなら、ぼくはそれをすでにあなたに告げた。すなわち一杯のリキュール酒だ。

(アントナン・アルトージャック・リヴィエール思考の腐触について 附・アルトー詩集飯島耕一訳、思潮社1975年、82-83ページ)

2016-10-21

[]オブジェとの邂逅、石の夢

私は次のことを特に強調しておきたいのだが、特異な石で、おまけに手に入れたくなるほど美しいが、発見するにしても全く見たことがないような石に対して、好奇心を露わにし、その探索の虜となり、有体に言って最初発見ほどではないにせよ、時たまそうした思いがけない掘出物に恵まれることは、まったく格別のことなのである。そんなとき、そこに少しは私たちの運命作用しているように思われるのだ。私たちはこうした恵みへの欲望と誘惑に完全に捕らわれ、もっぱら、獲得されたオブジェを目の当たりにして、昂揚し得るのだ。オブジェと私たちとの間で、互いに浸透し合うかのように、アナロジーを通じて、一連の神秘な交感が即座に行なわれるのである。

(上掲書、43ページ。)

2016-10-11

[]眼と視覚、あるいは盲目

恵比寿La librairie 6(シス書店)で開催中の「アンドレ・ブルトン 没後50年記念」展(http://librairie6.exblog.jp/23304674/)で買い求めた書籍のうちの一つ、塚原史ダダシュルレアリスム時代』から、バタイユと眼(盲目の眼)についての抜き書き。

 もっと正確にいえば、この物語は「眼の変奏としての」(バルト)白くて丸いobjetsの物語になっているわけだが、それらは、眼球でない場合には、眼球を想起させるモノ、たとえば、猫のミルク皿、玉子、闘牛の睾丸などで、いずれも「白くて丸い」という点では眼球に似ているが、「見る」ための器官としての眼球をかたどっているとはいえない。なぜなら、そこには「瞳」がないのだ。こうした白い球体は、むしろ剔出されて、もはや見ることから切り離された眼球を思わせる。それらが眼球そのものである場合でも、「白くて丸い」モノは「見る」機能をすでに失っている。それらは――

●首をつって死んだマルセルの大きく見開かれた眼球

●闘牛に右目を突かれて死んだグラネロの、眼窩からとびだした眼球

●首をしめられて死んだドン・アミナドのくりぬかれた眼球

●「私」の盲目の父の放尿中の白い眼球

 などであり、最後のそれをのぞけば、すべて死体の眼球で、「父」のそれも、もはや何も見てはいない。

(上掲書、275-276ページ)

眼球譚』における「見ること」のテーマは、あきらかに光の源泉である「太陽」問題に結びついている[…]

(上掲書、277ページ)