narkoさんのトラックバックに応え、岡田斗司夫さんについて

bakuhatugoro2004-08-06


http://d.hatena.ne.jp/narko/20040802
http://d.hatena.ne.jp/narko/20040803


まず、

正直、マイケルムーアの件に関してはアメリカに住んでない人が言うべきじゃないって気がするんですよね。もしマイケル・ムーアがルール違反してるなら。他のテレビ局はどうなの?ってことだし。その辺のリアリティが私にはないから、下手なこと言いたくないなぁって思う。そういう時どうやって歯止めかけるの?ってことに対するヒントを貰ってるくらいに考えた方が丁度いいと思う。

これ、ほぼ同感。
心は熱く、頭はクールに行きたいと思う。
そこを踏まえての、「報道の格付け会社」ってアイディアも、凄く面白かった。
自由競争の善用!


で、いよいよ本題の岡田さんについてですが、まずはっきり言いたいのは、マイノリティが、ルサンチマンを動機に動いて、何が悪いの?ってことだ。
人間、自分の持つ条件、資質や環境、育ちや資金力によって、動機や目標が違ってくるのは当たり前。
金持ちで、育ちも良くておおらか、ルックスにも恵まれモテるヤツと、貧乏でモテもせず、人の幸せ尻目に年中孤独をかこってるヤツで、生きる動機や目標が違うのは当たり前でしょ?
それで、「ルサンチマンはいけない」ってのは、ただの持てる者のゴーマンだよ。
それも、「そんな根性じゃ、幸せになれないよ」なんて、おためごかしで。
大きなお世話だ。
お前のマネすりゃお前になれるのかよ(なりたくもないけど by エンケンさん)。
人は好き好んで不幸を選ぶ自由だってある。
(ただ、ルサンチマンに発した一方向の正義ですべてを塗りこめようとするあまり、それにそぐわない別の欲求という人間性を「無いこと」にしようとすると、とんでもなく窮屈で脅迫的な状況が生まれたり、そのこと自体が欺瞞の温床に必ずなるだろうってことは確か)


おっと暴走(笑)
マクロに考えたって、例え戦争状態じゃなくったって、初期条件が違うところで経済競争やって、勝てるわけない国が、大国のマクドナルドやコンビニでシャブ漬け骨抜きにされる前に自爆テロだ! って考えても、それは仕方ない。
モロに戦ってると非合理だしキツくてしょうがないから、握手しながら足を踏みあうような、貿易と駆け引きが行われるだけで、基本には必ず力関係があるんだから。
それをしたり顔で裁断する資格なんて、俺たちにはないよ。
だいたい、俺たちによって間接的に搾取される彼らの不幸への関心なんかより、当たり前にメシや映画やマンガや音楽をずーっと大事に暮らしてる。
俺らは運がよかった、その分存分に楽しもう。
人間誰だって(彼らだって)、機会さえあればそう思うのは当然さ。
弱いヤツらだって、明日は強者になりたがってるし、強者になればやることは同じだ。
カッコつけても仕方がないよ。
それより、ここから落ちこぼれたくない。


だけど人間、本当にモロ手を汚してる自分を直視しながら、確信犯になれるほど強くはない。
遠くの異国の戦争や貧困はともかく、自分も当事者である、日々の生活や恋愛などにおいては。
だから、昔なら村のしきたり、今なら物流と消費、フォーマットに乗っかることで、相手との距離を取ることになる。
基本にある、潜在的な争いと力関係と、そこでの自分の責任の自覚と葛藤を、なるべくスルーしようとする。


そのことを、自覚せずにすんでるような、「魅力」や「色気」や「天然」を武器に、愛され世渡りしていく人もいるし、往々にして人はそこに自分を連ねたいから、こういう野暮な指摘は嫌がるものだけどね。
だけど、生存競争と力関係、そしてそれぞれの前提条件の不平等っていうのを自覚していない人っていうのは、基本的に無神経で酷薄なヤツだな、とは、俺は思う。


前置きが長くなった。岡田さんの話に戻ろう。

岡田「両方あるんですよ。自分の中にボーダーがあることの劣等感があってこんな風に純粋に生きないといけないんじゃないか?っていう罪悪感があるんですよ」

こう聞くと、一見自分の揺れを公平に直視しているかに見えるけれど、では他ならぬ彼自身が、その二局の揺れの中で、どちらにどの程度傾いているのか。
それが彼の「立場」であるはずだ。
それを引き受けず、どこでもない場所からモノ言われてもねぇ。
岡田さんには「立場」を引き受け、その立場(とそれを選ぶ彼の内面)がどういう背景の中でいかに生成されたかを、相対化し、公正に直視する作業が全般に欠けているように見える。
ヒューマニズムや民主主義の妄信、あるいは建前によって生まれる、弱者という「権力」のカラクリは相対化できても、それに固執するご自分の相対化が、まったく手付かずになっているように思う。
だから、僭越ながら、そこにメスを入れさせていただく。


彼の若かりし頃、70年代っていうのは、若者の間にカウンターカルチャーというのが流行っていた。ちょっと気の利いた若者はみんな、ロックを聴いて、ニューシネマとか「傷だらけの天使」とか観て、番場蛮みたいに「でっかいものが大キライ」な反体制気分で、ハードボイルドに肩で風切って歩いていたわけだ。
世の中、全体に今より貧乏だったから、自分を弱者だと認識しやすかったし、それがちっとも恥ずかしくなかった。それに実は、彼らは若者の中ではカッコイイ強者だった。
それ相応の体形や風体じゃないと、自分をショーケンや優作に仮託したりできないもんね。


そして、あの時代「オタク」って言葉はなかった。
オタク的な人、そういう資質を持った人というのはたくさんいたけれど、それは単におとなしい、冴えないヤツ(下手すりゃいじめられっこ)ってことで、名前をつけられたり、塊として自己主張しようと彼ら自身が思えるほど、世の中に肯定的に注目されるような存在じゃなかった。
「弱者や反体制を気取ってるくせに、奴ら実は平気で世間の多数派に内心安住し幅利かせていて、正義の人情家ぶりながら平気で自分のような人間には優越感を持ち、蔑んでいる...」
岡田さんには、幅利かせてる連中がそんなふうに見えてたんじゃないか。


優作の『探偵物語』ってあるでしょう?工藤ちゃん。
あのドラマが70年代的なもののラストランナーで、俺なんかはそこにギリギリ原体験が引っかかってる世代って気がするんだけど、最終回で工藤ちゃんを殺したヤツって、実はオタクだって思うんだよね。
ダラダラふてくされた感じでレジ打ちしててミスったところを、たまたま工藤ちゃんにドヤされて、逆恨みして刺しちゃったヤツ。
そして80年代とオタクがやってきた。


工藤ちゃんの街って、脛に傷あるボンクラ共が集まって、だから乱暴でうらぶれてるけど凄く優しくて、誰でもいられる感じで俺なんか凄く憧れたけど、あそこに実はオタクっていない。
いわゆる「オタク」って形では(骨董屋なんかそうだって気もするけど、やっぱりその後のオタクとどこか違う)。
いたとしたら、それはあの世界では、ただ屈折した冴えないヤツって見え方で、工藤ちゃんに


「君の場合被害者意識が強すぎる。もっと謙虚になりなさい」


なんて、頭はたかれたりしてるだろう。
あ、あれは鳴海サ〜ン(阿藤海の声で・笑)か。
その軽さや悪意の無さに、彼、顔ではニヤニヤしながら内心本気で恨んでたりしてね。


そういう反体制気分な若者への反発と怒り。
岡田さんたちは、彼らの在り方やルサンチマンを相対化していても、実は彼らに隠し持った自分のそういうルサンチマンを、まったく相対化できていないと思う。


そして、もうひとつ大切なところは、オタクって実は「金持ち」しかなれないってこと。
センスや教養を磨くにも、潤沢な資金がいる。
金持ち野郎であることを責められながら、同時に冴えないデブとして当たり前に蔑まれてもいる。
社会、時代に通念としてまかり通ってる「善意」や「正義」に、切り捨てられ、見捨てられた状態になる。
「弱者」だと認められることがない、立つ瀬の無い「弱者」という状態になってしまう。
だけど、彼らは金持ちだ。
頭もいいし、ある種の趣味、知識やセンスの積み重ねもある。
そのプライドがまた彼らを可愛げなくさせてるんだが、オタクには籠っていられる部屋がある。


自分を「弱者」と規定することなんかプライドが許せない。認められない。
自分の中にある「弱点」を「弱点」と認めず、別の有利でほっかむりして戦う。
そこでは必ず、人間の中の「二つの側面」の片方を無視し、抑圧するっていう、排他的な人間観が生ずる。
自分の中に禁じたものを、人間一般に対しても認めなくなる。


敢えて梯子はずしをさせていただく。
だから、こういう「弱者が(無自覚の)ルサンチマン(あるいはその反動としての思想)に依存すること」は、マズいのだ。


だから、みんな豊かになっちゃって、弱者や正義が流行らなくなった今っていうのは、岡田さんたちにとって実はまんざらじゃない。
これなら、自分達が有利だから。
だから彼らは、今度は「社会」[現代」そのものって顔をして、「自然の成り行き」としての「客観公正」を装って、正義を叩き、曖昧な人情を叩き、目に見える数や技術にひたすら固執する。


だけど、岡田さんたちは大事なことを見落としちゃってる。
いまだにカウンターカルチャーの額面にすがって、自分を硬直させちゃってるのは、そこに思い切り依存しなきゃ生きられないような行きがかりや動機を持ってる可哀想な人で、調子いい恵まれた条件の連中は、平気でフラットな趣味人の方に乗り換えてるんだよ。
あなたたちみたいに躍起になってフラットに固執し、主張することなく。
(これは町山さんhttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/に対してもちょっと言いたい。今「ボンクラ」を自称するヤツの何と多いことか。ボンクラっていまや、金持ち消費者が責任や嫉妬を回避するために語る、便利な免罪符みたいになっちゃってるよ!)
いや、そんなことは本当は当然彼らにも見えてるけど、そういうフラットでわざわざ意識さえしない無責任で利己的な浮動層には、そもそも勝負が成立しないから、そこは見ずに商売相手として媚びたりしながら、旗色悪い正義を叩く。


まあ、たいてい「社会的目標」を喪失した今の世の中で起こる戦いは、悲惨な同族嫌悪のウチゲバだ。


そして、岡田さんたちのように、過去の「不遇からようやく獲得した現在」というふうに、現在を肯定的に捉えることのできない新しい世代のオタクたちはどうなっているか。
社会的な抑圧から解放されても、結局最後にはどうしても個々の間の、埋められない落差は残る。
現在にももちろん強弱、力関係も、差別もあるが、それはそれぞれに個々人間の、個別具体なものであり、だから外からは「それはあなたの(主観的な)問題でしょう」という片付けられ方になってしまう。
しかし、もう岡田さんたちのような、分かりやすい敵や、未来への達成目標はない。
動機と「出口」が無い。
そこから形を成さず行き場の無い、「引きこもれる」ことによって強制的に相対化されることのなくなってしまったオタクたちのルサンチマンは、果てしないナルシズムの無間地獄に自家中毒するしかない。
岡田さんたちの、あのエヴァンゲリオン騒ぎへの違和感と苛立ちは、そういうことだったんじゃないか?
(この苛立ちは、俺にも非常によくわかる)


「洒落ですよ」と余裕を装いながら、彼らは終始受身で、外(にいるつもりで)から世界のボロにツッコミを入れる。
(ま、あらゆる人が能動的に世界に関われ、なんてのもまた乱暴な話しだし、そういう人もいたっていいんだが)
だけど、自分のしたいこと、外からの強制的な理不尽のない世界観っていうのは、どうしても狭苦しい自我のサイズを出られないものになる。
下で、関東地獄地震でもなんでも起こって、貧富の差が思い切りはっきりするような自体に一度なったた方がいい、なんて乱暴なことを書いた。http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040619
俺だって本音のところでは、そんな目に好んで遭いたいわけがないけど、ただ、人間、自分の意思や都合を超えた強制力によってじゃないと、なかなか不都合、理不尽な世界の広がりに対して謙虚になれるもんじゃないと思う。
そこについての想像力は、本当に意識して持とうとする必要があると思う。
岡田さんにしても、町山さんにしても、消費の中でセンスを洗練させてきたオタクを、リテラシーを持った一つの階層に育てようという意志があるという点では、方向は違え、実は同じだと俺は見ている。
しかし、そのリテラシーが、こうした「自我」に閉じたせせこましいものである限り、大きく公平な世界観、フェアネスを指向するリテラシーなんて、本当に育つのだろうか?
人間、弱いものだから、自分に都合の悪い、厄介なものには、自己合理化しながらなびいちゃうものなんじゃないか?それもプライドと体裁と後ろめたさゆえに、それを自覚することを避けながら。
そこをどうやって超えるかってことが、僕達が本当に考えなきゃならないことなんじゃないだろうか。
少なくとも、競争の当事者である自分が、弱者から刃をつきたてられることもある事実の「当然さ」を、きちんと引き受けることは、今いちばん大切なことなんじゃないか。自分の安楽を守るために、反撃しそれを封じるというエゴを常に行使している我々だからこそ。


余談。
たまたまこちらで、アメリカの「セックスについての合理主義」みたいなものの進行具合についての報告を読んでhttp://d.hatena.ne.jp/chimadc/20040803、俺にはどのくらい本当なのか見当つかないんだけど、ちょっとぞっとしないなって思った。で、岡田さんの人間観、望む世界観って、結構こういうのに近いんじゃないのかな?
俺は「これがやむを得ない状況の帰趨だから適応すべき」なんて、人間ってものが合理によってまっ平らにならされちゃうようなことは絶対嫌だな。

予告です

俺の大雑把な印象でしかないんだけど、岡田さんに限らず、オタク第一世代の人たちっていうのは、なんだか「曖昧な弱さ」「グレーゾーン」を嫌って、自分の思想をはっきり押し通すために、すごく観念的で極端なことになってんなあ...と感じることがどうも多い気がする。
(それ以前の世代に比べ、穏当な諦念を受け入れるには周りが豊かで明るすぎ、彼ら自身も学校的なものの中でプライドを暖めすぎた。そして、それを穏当に相対化する気になれるほど、まだ世の中も緩くなかったから)
下で取り上げた浅羽さんの「流行神」で犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』が取り上げられていて、これを「部落差別」を裏のモチーフとする映画だと捕らえて、「最低の生活をそれ以下にしないための、弱者のシビアな諦念」が語られ激賞されていた文章自体には非常に共感し、すぐDVDで観てみたんだが、結論から言うと、俺は「あのド外道映画は絶対許さん!」という感想だった。
(ほんとにどいつもこいつも、『キャシャーン』のナイーブな破綻の揚げ足取りイジメとかやってるヒマがあったらに、この映画見て「静かに現実を直視」なんてうっとりしてる、てめえの無神経を自覚しやがれっての!)
浅羽さん、世間論で民主的平等感の欺瞞を叩くことに固執するあまり、「場合により人により」の現実によりそって、しっかり見ることをしなくなっちゃってるというか。
結果、弱者の諦念を称えることによって、実はこちら側の引き受けるべきものを処理してしまっている、あの映画の欺瞞を見過ごしている。
その辺もからめつつ、次回は「ジョゼ」の感想を書いてみようと思ってます。


http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20040817
へ続く。

追加 8月4日分へのトラックバックに応えて

http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20040807

まず、挑発的な書き方をしたにも関わらず、冷静な対応いただき感謝。
ちょっとあなたを誤解してたみたいですね。


ただ、「愛国者」クン、に、侮蔑の意図は、はっきりありました。
確かに、俺のナショナリズムを求める人の定義は粗雑で一方的です。
本当は、個人は中空に独立したものとして形成されるものであるわけがないし、己の来し方、伝統的文化風土や、時代状況の中で作られ、それに縛られ、また守られ依存している自分に対しての無自覚が蔓延しているのは問題だと思う。
けれど、出来合い、額面の主義にすがって、己を省みず居丈高になってるって意味では、右も左も五十歩百歩だと思う。
自分の限界を直視して受け入れることと、それを超えようとする緊張感の中で逡巡しつつ編まれる言葉じゃなきゃ、俺は信用できない。


あと、「三人への世間の批判=戦時中の非国民糾弾の空気=ウヨク」という理解は、はっきり違う。
俺もそうだし、浅羽氏も、そういう意味で「非国民」っていう比喩をしてるんじゃないよ。
世間への依存心を持ちながら、かつての土着共同体のような器を失った現在の大衆のはけ口になったと俺は捕らえてる。
浅羽氏も、3人の「自作自演」疑惑そのものの灰色加減や、その甘えについての指摘も前提として踏まえていて、その上で彼の興味がそっちにあったということだと思う。
俺も、メジャーメディアの戦後民主主義ヒューマニズムを盾に取った、責任を受け手に押し付けつつ媚びる、ポピュリズムを利用した世渡りは当然嫌だけれど、それを右対左っていう枠組みでやることに、もう意味は無いんじゃないかと思う。


ネット論壇の保守化は、そうしたメジャーメディアの偽善に封殺されたものの反動で、当然の帰趨と思うけれど、それも結局、自己を相対化する強さを持たない便乗(だからこそ、無反省で居丈高)には見えちゃうよね。
例えば、2ちゃんねらが、小林よしのりネット世論批判(に象徴させたポピュリズム批判)なんかにすぐムキになるけれど、自己をさらしたながら作られる立場を試されない無責任性や弱さと(その帰結としての煽りの自動化というどんづまり)いう、ツールとしての弱点を自覚しながら、世間的利害から自由なところで吐ける本音のミもフタもなさとか、その広がりや容赦の無い相対化から生まれるある種の公平性なんかの長所は認めて、距離とって使いまわして行けばいいだけであって。
「2ちゃんねら」とかいうアイデンティティの持ち方が、そもそも場に依存してて、世間的な尻尾を自白してる感があり情けない。
彼らにはもっとクールに強くあって欲しいね。


あと、

岡田氏と町山氏の立場は違う。岡田氏はアメリカに住んでいる町山氏の焦燥を知らない。アメリカに住んでいないものがムーアに文句を言うべきではない」という意見が聞こえる。でも、立場が違うのなら、当然取るスタンスが違うのは当たり前の事じゃん?

というのは、確かにそうだ。
立場を引き受けてやりあうんなら全然OKだし、自分の立場を保留にしたまま(保留自体がいけないってことじゃないよ)偽善的なポーズや他者なき安易なヒロイズムに酔い、自閉してる向きが多いことも確か。
けれど、詳述してきたように、消費相対主義になしくずしになってるうちに、現実に向き合う強さと謙虚さを失っている自分達に対する無自覚は、やはり俺は問題だと思う。
ムーアプロパガンタそのものはともかく、町山さんにはそういう現在への苛立ちや批判は確実にあって、そこを揺さぶろうって意思を持ってる。
そこには俺は強く共感します。
だからこそ、それを絵に描いた餅にしたくなくて、敢えて厳しい指摘もしました。


kikori氏にも、町山さんのアンチと化しちゃうんじゃなく、そこへの前向きな考察に向かって欲しいと思う。
(ちなみに、山形浩生さんの人質問題への固執にも、そういう意味で不毛さを感じてることは確か)

この「愛国」イデオロギー(に限らず、ほんとは「自由」でも「平等」でも何でも)と民主的大衆の話に関連して

面白い!
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20040807

日比谷公園から重慶サッカー場へ」と前回仮題につけた「日比谷公園」とは・・・・そう、日露戦争講和の内容が屈辱的だとして戦争継続を叫ぶ群衆が、警察や新聞社を焼き討ちした事件の現場という意味だ。


関川夏央が「大衆が、このとき日本に初めて生まれた」と書き、司馬遼太郎が「『明治』を、ひとつの国家とみなすなら、この日比谷焼き討ちをもって明治国家は終焉した」と記したこの事件(・・・註:関川、司馬の発言はうろ覚えです。)は、たしかにリアリズムを消失し夜郎自大に陥った日本の大衆の暗部だが、同時に怒れる民衆が、政府の便利な道具ではなく彼らに時として立ち向かう存在になった記念日でもある。


で、さらに前回、フーリガンと水戸浪士を対比させたのは何か。
結局水戸の尊王論は、多くの紆余曲折やらはあるにせよ、(天皇から宣下を受けた)将軍職の権威を守るための公認思想がもともとであったという点を愛国教育と比べたという話。
愛国も尊王も、はじめは支配者が支配を正当化するためのものであった。
しかし、公認の思想は、公認であるがゆえに大声で唱えることができ、さらに本気、演技に関係なくその思想に寄りかかって他者・・・とくに現実と妥協し純粋性を欠く現支配者に向けて放たれる矢ともなる。

しかし、公認の思想は、公認であるがゆえに大声で唱えることができ、さらに本気、演技に関係なくその思想に寄りかかって他者・・・とくに現実と妥協し純粋性を欠く現支配者に向けて放たれる矢ともなる。